おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
考えるとムカムカするので、思いたくもないのだけれど、同じ時間帯の透析患者で、とにかく勝手なことばかりぬかすおっさんがいるのだ。血糖値300を超えるというのに、気ままに飲み食いし、検査を拒否し、インスリンなんて絶対しない。するなら死んだ方がマシ、などとのたまい、看護師の話を聞こうともせず、大丈夫だらあ、などと「そうなった自分の原因」から目をそらし、根拠もなく決めつけて無理矢理安心しようとする。
逃げる逃げる。 こいつは、全速力で自分から逃げている。 透析ではないが、痛風持ちの友人は、目がかすむので病院に行ったら血糖300を超えていて、医者には即入院を言い渡されたが断り、自分で110キロあった体重を、薬と食事制限とトレーニングで3ヶ月で75キロまで減らし、正常な血糖値まで下げたオトコがいる。 ヤツはすごい。 それに比べ、おっさんの情けなさといったら…。 しかし、気になって仕方がないというのは、自分の中にもそれがあるからなのだ。 オレは自分から逃げているのだろうか? 糖尿になったのは、そうなる生き方をしてきたからで、冷たいようだが別におっさんがどうなろうが関知するところではない。その人の人生はその人のものであって、全責任はその人にあるからだ。 そうなる生き方、という点で、糖尿はないが、透析をしているのは同じだ。なぜ、そうなったのか、自分自身と対面し、原因を突き止めなくてはならない。いったい自分はどのように生きているのか。そうなるように生きてきた自分の原因を直視するのは、なかなかつらい。 死ぬまで逃げ続けるまでに人生どうでもよくはなっていない。 自分のカラダは自分のものだが、自分の都合では出来ていない。こうすればこうなるという、抗することのできない法則というべきものがある。 法則からずれれば、ずれたという現象があるし、沿っていれば沿った現象がある。病気になったのは、法則に依らず勝手をしているからだ。 そういう、いわば、病んだ生き方が自分にもある。 あるから、病気をしているのだから、そこは認めざるを得ない。認めた上で、では、生き方、生活のどこが病んでいるのか、法則に逆らっているのか、無理をしているのか、そうなって当たり前、という生き方なのか理解しなくてはいけない。 いや、誰しもだいたい分かっているんだよ。 本当はやめた方が良いんだけどなあ、と思いつつ続けていることとか、まあいいか、なんてちょっとしたことをないがしろにしているとか…。急に病気になるわけじゃない。何十年と続けてきたことを、方向転換するには、なかなかのエネルギーと覚悟がいる。 それができた友人は尊敬する。 自分ではどうすることも出来ず、よくない、イヤだと思いつつ継続せざるを得なかった事情もあるわけだが、命に関わるとあらば、なにを置いても転換すべきである。 しかし、なんてことだろう。 血糖値600(!)を超え、それでも会社の接待に追われて追われて、急死した人を知っている。 いまのままを続けて、どうなるのか思考停止してはいけない。なるものはなるのだから、まずそこを覚悟して識り、気に入らなければ、自分を変えるほかない。追い込まれてなお、分かろうとしないのであれば、さらなる現象が訪れるのは必然である。 …何の話でしたっけ?(^^; あ、そうそう。 自分自身と真摯に対面するのが最初、ってことですね。
おおみち礼治
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