おおみち礼治のてくてく日記
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2007年06月20日(水) 温泉爆発

 「温泉が爆発した事件で…」なんて、キャスターが言っていたけど変だよねえ。
 「温泉施設が爆発」なら分かるんだけど(笑)。

 それはともかく、事件の子細は警察に任すとして(事件そのものに詳しくなる必要はない。大事なのは、そのことから自分のなにが分かるか、だ)、ガスが溜まって何かの切っ掛けで爆発したということから、人間も「想いをため込んでいると、何かの切っ掛けで大爆発」、大変なことになる、ということが分かる。

 …この前もねえ、普段、やさしくてそんなことをいったことなんてない人が、目に涙をためて「ばかやろうっ」と、周りに聞こえないように、ほんの小さな声で吐き捨てるように言っていたのをたまたま聞いてしまい、すごいショックを受けたのですけどね。

 現象そのものをとらえて、どうにかしなくては、変えなくては、良くしなくては、とすると、ますます現象にとらわれて身動きがとれなくなってしまう。

 ばかやろうこのやろあのやろう、誰でも毎日そうやって、頭の中で想っているでしょ。いや、想ったことがない、という人は、すごく幸福な人だと思うけれど、そういう人でも、不愉快な人や場面にあえば、外面はどうとでもつくろったところで、やはり想いは出る。

 あのやろうと想えば不愉快になる。波紋が広がるように、その不愉快な気持ちが近くにいる人に影響を与え、その人と関わる別の人にも影響を与え続ける。

 外縁にいけばいくほど、その影響は薄まるのだけれど、その過程で、別の人があのやろう、と想えば、想いを発した人と人の間でその不愉快バイブレーションとでもいうべきものが増幅され、多くの人を――言ってみれば全世界の人を不愉快にしていく。

 少なくとも、自分がその基点となってはいけない。
 簡単に言えば、人の振り見て我が振り直せ、ってことなんだけど、実際に自分が当事者になると、他人を非難したり、良くしなくては、とその現象そのものを相手にしてますます絡まり不自由してしまうのは、感情が先に立つからであろう。

 良くしようとするのではなく、理解を持って進めば、自然と、結果的に良くなっていく。良くするために理解するのではなく、理解するために理解するのだ。


おおみち礼治 |MAIL

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