おおみち礼治のてくてく日記
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2007年04月12日(木) 代理出産

 裁判所の判断は、現在の法律に照らし合わせての結果であるから、当然といえば当然かもしれない。法律が現状にそぐわなくなっているのであれば、それは国会(立法府)の話になる。裁判所の判断が気に入らないのを、裁判所に文句を言っても始まらない。良い悪いは別にして、働きかけるのなら国会。

 それはともかく…。

 子どもは、授かるものなのか、作るものなのか、という意識の違いがある。
 作る、というのは、たとえば日曜大工で椅子を作ろうと思ったら、自分の気に入るように作る。自分でコントロールできるから「作る」というのであって、椅子を「授かる」とはいわない。

 授かるとは、たまわりもの、いただきものであって、そのものは基本的に自分のコントロール外にある。子どもを作る、と思っている人は、子どもを自分の思ったように「作り」たいわけだ。

 だが、欲しくないときにでもできてしまうことがあるし、欲しくてもなかなかできないことがある。また、思ったような子どもが産まれてくるわけでもない。

 だから、授かりものというのだ。
 もともと思うようにいかないことなのに、思ったように「作ろう」とすると、「こうなって欲しい、こういうものが欲しい」という気持ちが必ずあるから、それと違った場合、こんなはずでは…と落胆することになる。物なら、こんなもの、と簡単に捨てることができるが、子どもではそうはいかない。

 子どもは授かりもの、たまわりものと理解すれば、大事にする。だって、授かりものなんだもの。
 子どもが欲しいのにできないとき、まずは、本来、思うようにいかないもの、授かりものなのだと理解して、では、なぜ自分には授からないのか、自分自身を見返るのが先決でありましょう。それが分かれば、むやみやたらに作ろうというのではなく、行く道も見えてこようというものです。


おおみち礼治 |MAIL

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