おおみち礼治のてくてく日記
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2004年12月29日(水) ■それでよい

■それでよい
 地位、財産、名誉など……そこではないのだがそれはそれでよい。
 自分が興味のあること、それがいかに即物的で薄っぺらい流行に過ぎないものであっても、それはそれでいいのだ。
 たとえば、どんなに金が手に入ったとしても、肉体人間の都合どおりに事が運ぶわけではない。獲得した財産を、どんなに守り通したい、もしくはもっと増やしたいと思い、どんなに手を尽くしたとしても、突然の不幸としかいいようのない運命により、一夜にして失ってしまうこともありうる。
 だが、それでいいのだ。いや、人間としては冗談じゃないけどね。本質的にはそうなったからこそいいといえることがある。肉体的に肥え太る――というのは、デブになるという意味ではなく、この世界で自分が社会的、経済的、肉体的に力を持つということで、人間として誰しも願う当たり前のことであり、それはそれでいいのだけれども、そこに人生の本質があるわけではない。
 本質的に何が最も重要なのかといえば、「理解」に他ならない。思うようにならない人生を、何とか自分の都合のいいようにならないかと動き回るのではなく、まず、その運命、そうなったことを受け入れることで、見えてくるものがある。
 都合を優先し、抗すること。それもまたそれはそれでいい。やるだけやってみなくては分からないこともあるからだ。その人にとってはそうすることが理解に到るために必要なのである。そうやって業を解消しているのだからそれでいいのだ。

 だから、他人の成功・失敗に優越感を持ったり、逆にうらやんだり卑屈になったりすることはない。なぜ、そんなことを思ってしまうのかといえば、それこそ理解不足による。
 どんなに幸せに思えても、もしくは不幸せに思えても、それは理解に到る一時的な状態に過ぎない。誰しも輪廻を繰り返して、それぞれ違う人生を送ってきて、その間に様々な理解を積み重ね、それぞれ違う理解があるのだから、あなたと私とは違っていて当然である。どのような状態であったとしても、自分にとっては、それが現時点においてベストなのだ。

 理解を中心におき、あとは目の前のことを坦々と行っていれば、それだけで充分意味がある。人生において、自分自身の理解のため、つまりは霊的進歩のために必要であれば、向こうから「それ」はやってくるものだからだ。自ら人生を作り出そうとする必要はない。それはすでに決まっている。なぜそうなったのかといえば、そうなることで理解できることがあるからであるのだから、その状態をよく感じて、理解に努めるのがいい。
 ただ、そういう本質的なこととは別の次元で、肉体的な満足を得ようとする自分があるけれども、何度もいうが、それはそれでいいのだ。そうしていくことで、訪れる運命というものがある。

 人間には、想像する力というものがある。そうしていたらどうなるのか、しなかったらどうなるのか、体験せずとも分かってしまう力がある。決まっているからといって、ただボンヤリと訪れるのを待つのではなく、その状況をシミュレーションし、先んじて理解してしまえば、もうその状況はその人にとって必要ではないのだから、訪れることはなくなる。
 それで人生が変わるのではなく、そうやって変わることも決まっているのだ。

 地位、財産、名誉など、欲しければ、求め努力すればよい。それを得て分かることもあるし、失って分かることもある。分かる、ということが重要なのであって、得ること・失うことそのものにとらわれるべきではない。
 健康を損ない、寝たきりになったとして、そのこと自体をとらえて、変えてやろうとしなくてもいい。いや、してもいい。どちらにせよ、決まっている。では、どうすればいいのかといえば、したいようにすればいい。頭で考えてこうすべきというのではなく、一人の人間として、こうしたいという感覚に従うことだ。意味があるのは、寝たきりとなれば、外側のことは何一つ出来なくなるのであるから、出来ないことをわざわざ求めずとも、その状態で出来ること、そうならなくては知ろうともしなかったこと、そうなって、始めて出来ること、分かること――すなわち己を知ることができる。そこが大切なのですね。
 物事を解決しようとしない。エネルギーを注ぐべきはそこではない。その理解のためにその現象があったのだから、必要な理解が得られれば、その現象は消えていく。だって、もう必要ないのだから。
 理解や進歩なんてどうでもいい、とにかく自分の都合のみを優先したいというなら、それはもう犬か猫かそういうものに成り下がるしかない。しかし、犬猫ですら進歩しようとしているのだし、宇宙というのはそうやって進歩進化していくように出来ているのだから、それを拒否したら生きていけない。

 現世的な価値観にとらわれている人――まだ、理解の浅い人にはそれが分からないから、一見、恵まれていないように見える人を貶めて考えてしまう。オレの方が上だ、と鼻息荒く考えてしまう。本当はそれは逆なのである。だからといって、上下を中心にすべきではない。昔は自分もそうだったのであり、その時、ちゃんと理解が上の人には許され、導いてもらってきているからである。

 肉体を持って生まれてきている以上、それを活かしていくことも大切なことであるのだから、精神的な事に昏倒し、肉体的・現世的に何もなくてそれで善しとすべきではない。だって、肉体があるのだからね。現世的すぎるのも、ずれているといえるかもしれないが。
 必要なだけ自分で稼いで自分でキチンと生活できればそれでよい。現世的なものを放っておいて、もしくはバカにして、精神的なもの、目に見えないものばかり重要視していたら、極端な話し、それでは肉体的に生きていけない。自立した人間とはみなされず、相手にもされない。肉体を生かすのは、生きている以上基本である。そこができた上で、精神的に深みを増していけばいいのだ。

 才能の豊かな人、見かけが優れた人、生まれや育ちといったもの。
 よりよい方がいいのは、もちろんそうだけれども、あればいいというものではない。いまの自分の状態が、またその出来事が、自分(の理解・進歩)にとって、ベストだからそうなっているのだから、とりたてて求めることはない。もちろん、欲しいものは求めればよい。どちらか、ではなく、自然体で、といえばいいかも知れない。

 その人にとってベストなのだから、人をうらやむことも自分を卑下することも何もないということが分かる。だって、みんなベストなんだもの。
 そう考えれば楽、なのではなく、単なる事実なのですね。


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