おおみち礼治のてくてく日記
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2004年09月01日(水) ■平和の祭典?■完全完璧

■平和の祭典?
 戦いに、勝負をしに行っているのに平和?
 水泳の北島選手は、予選前から「ケンカは始まっている」と発言した。これは分かりやすい話だ。まさに、競技を通じてケンカをしに行っているのである。

 当たり前になっているベースのところが、本質的なレベルからみると、オカシイ。一般的な次元とは違う話なので戸惑われるかも知れないのですけども。
 たとえば、柔道。
 これは道としてやるものではなかったのか。勝負云々ではない。それが、道も何も関係ない大衆レベルに合わせてしまったから、堕落する。
 勝ってバンザイすること自体がオカシイ。
 剣道では、試合中にガッツボーズをしただけで、「相手に失礼だから」という理由でポイントがなくなる場合がある。本来、柔道でも同じ事で、勝ったからといって無闇にバンザイして声を上げるなんて、まったく武道家とはいえない、恥ずかしい行為なのだ。
 心技体というが、技体ばかりで心がなくなってしまった。勝敗に関係なく、すーっと礼をして何事もなかったかのように分かれるのが本当。競技を通して、人間の、法則の何を体感・体得できたかがなくなり、パチンコ辺り同じ、単なる勝負事になってしまった。
 そんなものは見ていられないのである。

 練習中、罵倒しまくる指導法で金メダルがとれるはずもない。指導者は、罵倒してストレス発散するためにスポーツの指導者になったのかと思ってしまう。
 罵倒されれば、緊張から体も心もこわばり、まともな競技・演技などできない。ときどき、「楽しんできます」というアスリートもいるが、それが本当にできるのは、楽しんで練習ができた人だけだ。金メダルを期待されるプレッシャーの中で、罵倒されまくって来た――なんてお前はダメな奴なんだ、と言われ続けてきた人が真の実力など発揮しようがない。


 それまで知りもしなかった日本人選手に感情移入し、勝てばよろこび、負ければ悔しがる。なにごとにつけ、そうやって生きて死んで、それで満足ならいいけどさ。
 ただ、テレビの向こう側で苦しそうな顔をして走ったり泳いだりしているあの人は、私ではない、ということを考えたい。彼が勝とうが負けようが、本来、自分には何の関係もない。そんなことより自分のこと。自分はキチンと生きているのか、仕事をしているのかどうか?

 なぜ、自分がこの世に生まれてきたのか、人間とは何か、何一つ分かろうとせず、勝った負けたで大騒ぎして人生が終わって、本当に良いのでしょうか……。
 楽しければいい? 幸せになりたい? 人生は、人間はそんなに薄っぺらいものじゃないはずだ。

■完全・完璧
 完全・完璧なものが自分の中に収まっている。信ずるなら、これを信ずる。外に頼ったり、外のせいにしている限り、永遠に状況は改善されない。
 単に、自分が原因。

 内からわき上がる自然な感じる力を信ずる。全託する。感じたことに善悪の判断はしない。外側に影響されない自分を確立していく。そうして、ひとりで生きていくのだ。
 もちろん、仲間はいるけどね。


おおみち礼治 |MAIL

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