おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
■新入り看護婦さん
多分、20代の後半か30代前半くらいだろう。新入りといっても、もうキャリアは積んで中堅といっていい人だと思う。 透析の終わりくらいに回路からエポジンやら鉄剤やらを入れるのだけれども、直接肌に注射をするわけではないから、他の人は別に何も言わずに時間になったら、その作業をする。しかし、新入りさんは「は〜い、では、おちゅーしゃしますねぇ〜」といいながらやるので、笑ってしまった。 おちゅーしゃしますねー、なんて言われたのは初めてだな。 それはともかく、仕事はそうやってキチンとするし、物言いもやさしいのだけれども、本当はこの人はどんな気持ちで、何を考えていて、どういう人なのかが、まったく分からないのだ。 完全に、看護婦としての仮面を付けていて、その奥に隠れているその人自身、その人らしさというものが現れてこないので、恐い感じがする。 この間、その人に針を抜いてもらったのが、2時20分くらいで、「10分くらいで(出血が)止まりますから」といっておいたのに、30分になったら、「さようなら〜」といって、どんどん帰っていってしまった。パートさんのようで、2時半までと決まっているらしい。自分の担当なんだから、もう少し待って、ちゃんと終わるのを確かめてからでもいいんじゃないか……と思ったのだけどねぇ。 仕事に対する気持ちがあるわけでもなんでもないんだな。 彼女にとって、仕事(看護婦)というのは、完璧な仮面を付けて最低限の自分の責任は果たすけれども、それ以上のことは絶対にしない、という、給料をもらうだけの責務に過ぎないのかもしれない。 それがいけないとは言わないけど、愉快ではありませんねぇ。 ■悪夢 おっそろしい夢を見た。 目が覚めてからも、心臓がばっくんばっくんなって、しばらくまともに息ができなかったほどだ。こんなに現実感のともなった夢は初めてかも知れない。 それは―― アメリカの住宅街(?)のような場所にいる。道の脇に、町中を案内するモニターと操作盤があり、それを何となくいじっている。モニターに左矢印が出たので、操作すると、画面が乱れてキチンと動作しない。そのソフトは自分が作ったらしく、これはいかんなぁ、と思っている。 金髪のでっぷりしたおばさんが、うろんそうに私を見ながら歩いている。この辺りで、怪しい人がうろついている、ということを最近耳にしたことを思い出す。それが、私のことではないかと勘ぐられたらイヤだな、と思い、その場を後にする。 左に曲がる緩やかな下り坂を歩いて、自分の家に向かう。曲がり角のすぐ内側に立っている家は、1階が庭で車を家の下に置けるようになっており、玄関へは階段を上って入るようになっている。家は小さく、団地のように密集して家が立っている。 家を見上げると、2階の出窓のところで女性が男に襲われている。 驚いて、持っていた荷物を外から出窓に投げつけ、さっきのおばさんが目に入ったので「ヘイヘイ!」などと叫んで指さし、警察を呼んでくれることを期待しながら、家に飛び入り、玄関先に置いてあった長い柄の付いたフロアランプを手に取って、男に向かって槍のようにつきだす。 ふと左を見ると、別の男が腕を縛られて座らされているのが見える。犯人の男は何かにつまずいて倒れたが、すぐに起きあがって、ポケットからナイフを取り出す。 その途端、形相が変わった。 「これは殺される」と分かったので、ランプを投げ捨ててホールドアップしながらいざって逃げる。と、先ほどの腕を縛られた男が、犯人の後ろ側から飛びかかる。犯人はその衝撃で前に倒れ、何かにぶつかって頭がまるでゴムでできたようにバウンドする。 それを見て、これは夢ではないか、と夢の中で気が付いたのだが、まだ少しだけ夢は続く。 倒れて手から離れたナイフを、フロアランプで遠くにやる。 ここで目が覚めた。 テレビドラマで、似たような場面は珍しくないが、見ていて恐いと思ったことは一度もない。殺気も感じないし、あんなへなちょこどうにでもなるわい、くらいにしか思ったことはない。 だが、これは何だ。 夢の中だが、体験してはじめて本物(?)の殺気、とてもかないそうにない人物がナイフを持って圧倒し、襲いかかってくる、殺される(かもしれない)という恐怖を実感できた。 こんな体験したくありませんねぇ。 ■ひきこもり 以前、夜中にやっていたひきこもりの特集番組で、引きこもっている20代前半の男性が、暴力をふるい、汚い言葉を浴びせ、お金だけはせびって普段は自室に閉じこもって、家族がいる時間はほとんど出てこない。母親はノイローゼ気味で、ずっと自分をせめている――なんて番組がやっていた。 で、それまで無関心だった父親が、息子の部屋に上がり込んで、「いい加減にしろ!」と怒鳴って首根っこを掴まえ、壁に押しつける。そうされながら、息子は父親の顔を殴り続けるという修羅場も映し出されていた。 いや、似たような家庭の話しを聞いたので、思い出したのだけどね。 息子さんの方を知っているのだが、「親には育ててもらったかもしれないが、別の(価値観を持った)人間なのだから、もうハタチを過ぎたら、家を出て自分の家庭を作ればいい。自分とは違う人――親であれ、違うのだから、分かってもらおうとしない。もしくは分かってやろうとしない。ただ、違う、と分かるだけでいい。何もしない。 いちいち起きたことをとらえて解決しようとしたら余計に苦しくなる。だから、どんどん流す。解決しようとしない。それでいいし、そうするのが本当。頭脳に振り回されているようだから、いったん考えるのを止める。本心をしていれば楽なもの。ただ、自分が快適にできているかどうかだけが大切」というようなことを言っておいた。 それは敗北主義だ、負け犬だ、という人が必ずいるのだが、まあ、そう思う人は、解決しようともがいてみたらよろしい。それも決まっているから。 ともかく、いろいろな次元での話しがあるから、一概には言えないのだけれども、家族であるにもかかわらず、ひとりひとりが自分と他人とを切り離して考えていることが問題だと思うのだね。上と矛盾しているようだが、両方とも理解したい。 他人は自分であり、自分は他人である。 これが分からないうちは、対処療法的に何をしようと何も解決しない。いや、解決しようとしなくていいんだけどね。ただ、自分が快適にやれているかどうか。問題はそこ――自分はどうか、だ。問題があるとするなら、常に外ではなく内にあると知るべき。これは息子さんだけではなく、そのご両親にも当てはまる。当てはまるというより、まさにそのとおりなのであり――ちょっと考えればすぐに分かる。番組の例では、息子さんにしてみたら、それまで何もしようとしなかった親父が、テレビカメラの前で突然張り切り、おそらくはそれまで同様、力で強引に押しつけるだけで何も息子さんのことを分かろうとしない態度で来たら、それはもううざいどころではない。暴力をふるって当たり前。息子さんに暴力をふるわせている父親がまずあるのだ。 父親自身にとってはそういうこと。父親だけが悪いというのではなく、母親には母親の、息子さんには息子さん自身の原因というものがある。人がどうのこうのではない。自分はどうかだけ分かればよろしい。それだけに注力する。 悪い、と書いたが、本当は善悪ではなくて、原因。また、過去積み重ねた業というものもあるから、「今は」仕方がない、霧の中を歩むほかないこともある。歩んでいけばいつかは晴れた場所に出るでしょう。 そしてまた、自分が力んだら相手も力む、という法則。 自分を中心に世界が映し出されているのだから、まず、自分を磨くべき。自分が磨かれれば磨かれた世界が見えてくるもの。自分がそのレベルに達しない以上、良いものを見たくても見ることができない。それが法則。余計な想いを捨てて身軽になり、快適にしていけばいい。 このようなことを理解していくのが人生といえると思うのですけれどもねぇ。いま生きている、命があるということ以外は、大したことじゃありません。力を抜き、それはそれとして、大らかな気持ちで生きたいものです。
おおみち礼治
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