おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
■この世は私のためにある
「ウーララ、ウーララ、ウーラウララ」って、山本リンダの曲があるでしょう。テレビをつけていたら、その曲が流れてきたのだけれども、この歌詞で言いたいのは「この世は私のためにある」=「この世は、私につくすためにある」という意味であろう、と。 誰もが経験により、そんなはずはないことを知っている。しかし、「この世は私を鍛えるためにある」といえば、その通りかもしれない。 人間的には、健康で、体力もあり、お金もあって、容姿にも優れていて、学歴もあり、社会的にも尊敬されるような仕事についていて、性格も明るくて、異性にもてて……なんていう人生を望むと思うのだけれども、これもまた、万事そううまくいくはずもない。 もし、そのように見える人がいたとしても、それは一方的な見方に過ぎず、見えないところで人知れず苦労や悩みがあるものだ。 人間の理想や都合は、ときにいとも簡単に粉砕され、不運を嘆きたくなるが、「この世は私を鍛えるためにある」のであれば、理想も都合も、人間を鍛えるひとつの道具に過ぎないのだな、と分かる。 理想を追い求め、都合のいいように事が成るよう望み、動くのはいいけれども、この世の本質はそこにはない。だって、鍛えるのが目的なら、鍛え上げられることが本質だということになる。その結果、求めるものが得られるのであれば、求めるものに一直線に向かうのではなく、本質の方をやっていけばいいのだ。 鍛える(本質)とは、世の中――といっても人間が作りだしたせせこましい、いわゆる世間のことだけではなく、当たり前のこと、を理解していくことにある。ただし、自分を中心に考えること。一切、人のせいにしないことが最低限の約束事だ。だって、「この世は「私を」鍛えるためにある」のだからね。 ■ハッコツ温泉 中学生くらいのときさー。面白い地名はないか探したことってありませんか? そのとき見つけたのが、いま話題の「白骨温泉」であった。 「おー、すげーよー、ハッコツオンセンだってよー。うひゃひゃひゃひゃ」 などとバカが顔つき合わせて笑っていたことを思い出してしまった。「しらほね」温泉だったんですねー。(爆) このニュースから、いくつか分かることがあると思う。 いやーばれちゃいましたねーと嗤ったり、サギじゃないか! と怒っても意味はない。自分はどうなんでしょうか? 前も書いたけど、まあいっか、といい加減にしていることはないかどうか。もし、ばれたらどの程度の問題になるか分かっているかどうか。大丈夫だろう、とたかをくくっていることがないかどうか。嘘をついて、人を騙し、信用を裏切っていないかどうか。 そんなニュースばっかでしょ。あれはおれだ、と思えばそのようなことはなくなるのである。そこが肝心なのであって、他人がどうかは自分の後のことです。 > 長野県では、「温泉法には湯の色に関しての項目はなく、触法行為ではない」としている(産経新聞) すぐに、法律の問題にするのはどうかと思う。法律に違反していない=すべて許される、ということでもないだろう、と。じゃあ、法律以前の、常識やマナーなのかというと、そういう言葉でくくるのもイヤで――だって、そんなの当たり前、自分がそうされたらどう思うのか、という、ものすごくベーシックなことであって、マナーとかなんとか、言葉にすることですらないと思うからだ。これは、多分、言葉にすると、そうしなくてはならぬ、という固定観念と強制力を感じるからで、私などは、もっと自然にすればいいじゃん、と思うのですけどね。 法的な問題ではなく、そうしていたらどうなるのか、という当たり前のことを考えられていないのが問題。 まったく関係ないようだが、この前、ハワイに行ってきた人から聞いたのだけれども、ツアーのバス運転手が、片手でハンドルを握り、もう片方の手でマイクを持って案内しているので、それは危ないのではないか、と言ったら、運転手は「こういうスタイルは法律で認められている」と答えたのだそうだ。 実際、危ないのに、自分は正しいと法律を持ち出して証明(?)しようとする。かたくなに自分のやり方を押し通そうとする。法律云々ではなく、「危ない」んですけど……。法律に抵触していない、という理由で勝手をしていたら、いく先々で困るのは、結局、自分でしょう。 法律もいいが、そういう問題ではない。 その現象を招いた「自分がまずある」。触法行為でなければいいのではない。世界は自分を中心とした、必然の賜物である。その賜物をどう招くかは、己の生き方ひとつにかかっている、と思うのです。 ■日本に到着 テレビをつけたら、そればかり。マスコミは騒ぐのが仕事だから、騒ぐだけ騒げばよろしい。私はしないけども。どこかにさらわれたとか帰ってきたと聞いても、別に嬉しくもなければ哀しくもない。本当に嬉しければ、何をおいても空港に迎えに行っている。連れ去られたことに本当に怒りや哀しみを感じるのなら、助けるために某国に潜入していた。 それをせず、ただ垂れ流される情報に浸かって、よかったですねぇ、なんて言うのは、それは偽善者である。 自分が、偽善者であることを認識できない人が多いのは、「本当に」という意味をたいへん甘く認識していることと、普段から「本当」「真剣」というものに触れていない、もしくはやっていない証拠である。そうやって生きて満足ならそうすればいいんだけど(いやみっぽいな)。 偽善をいくつ重ねても善にはならず、むしろ悪になってしまいかねない。 このニュースに関しては、冷たいようだが、もう好きにして、としか言葉が出ない。それなのに、勝手な感想を抜かす輩が多くて、うるさくてかなわない。 自分の手の届く範囲での事件なら、これはもう大変なことだけれども、そうじゃないからね。私にとっては、自分の健康と仕事の進み具合の方が、100兆倍も重要です。 ■辛口性格診断 http://www.jmrlsi.co.jp/cgi-bin/ego/diagform.pl をやってみた結果……
うへへへ。
おおみち礼治
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