おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
●いまさらだけど
自衛隊、サンダーバード化計画。 国際救助隊ですね。 ……だめ?(^^; 自由の裏には責任が張り付いている。なんで? といわれても、人間の作りだした法律やら社会システムに関係なく、世界――というより、宇宙自体(といってもいいと思うんだけど)がそのように出来ているのだから仕方がない。責任を否定した自由を、自分勝手という。立場によって容認される度合いは違うかも知れないが、何人たりとも押し通し続けることは出来ない。頭で否定したり、あるいは無視したとしても、そうすればそうなって当たり前という絶対的な法則が働くべきときに働き、否応なく相応の責任をとらせるからだ。 ひとりひとりが、自分の身の回りのことをキチンと行っていれば、環境は自然と整ってくる。水にしずくが落ちるように、内側(自分のこと)が整えば、その影響は外側に波及する。すべてを救うことは出来ないが、自分を中心とした半径何メートルかの人間は、自分を整えることで、同じく整えてゆける。自分を救うだけでいいのだ。もし、これが逆で、外側が整わなければ内側が整わないとしたら、永遠に自分だけが整わない。外側は限りなくあるからだ。だが、安心すべし。そんな法則はない。 内側を整え、快適に生活していれば、どうしてそんなに安定しているのですか? と相手の方から見に(学びに)来るだろう。自主的に、というところがミソである。他人のことに首を突っ込む必要はないと分かる。 それはともかく、正義感からか、誹謗中傷がひどい。この事件から(法則と自分自身の)何が理解できるかが大事であって、批判(というより罵倒)すればいいというものではない。無謀だったのは確かだけれども、自分の行動について迷惑をかけたことをちゃんと謝ったのだし(批判的な人をさらに刺激するような発言もあったが…)、そこで終わりにすべき事ではなかろうか。あまりの誹謗中傷に耐えかねて、早まった考えを起こされたら、どうするのでしょうか。それこそ、ものを言うにも責任というものがある。 「汝ら罪なき者この女に石を投げよ」とはキリストの言葉でしたっけ。誰だって、間違いを起こす可能性はある。そのとき、ミソ糞に罵倒されたいなら別だけど、そんなことは誰も望んでいまい。しかし、そうされるとしたら、それは自分がそうしたのである。言わなくてはいけないこともあるが、程度というものがある。発したものは返ってくる、という法則を理解するだけでも、だいぶ違った世界になると思うんですけどね。 さてさて。 自分を快適に。
おおみち礼治
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