おおみち礼治のてくてく日記
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2004年05月08日(土) ●批判の批判●つぶやき●術●想念

●批判の批判
 人を批判できるほど、自分は清潔なわけではまったくないし、立派でもない。
 変に考え込んでしまうと、自分のずるさや弱さ、未熟さといったものに辟易して、窒息して倒れそうになってしまう。
 名前のある人は、誰でもあるような、ちょっとしたことが明るみ出ることで、人生破滅することがあるから大変です。いろいろなニュースが毎日毎日なだれのように押し寄せ、あっという間に去っていき、去っていくのを見つめる暇すらなく、またもやネガティブニュースがやってくる。
 猫か何かのように、あっちでフワフワものが動けば飛びかかり、こっちで何か音がすれば聞き耳を立て……というように、マスコミの流すニュースにいとも簡単に釣られて悪想念を出しまくっている人がいますが、それは最悪です。
 自分の中身を光に当てたら、誰もが口をふさいでしまうのではないかと思うのだけれども――それとも、それは私だけなんでしょうかね。そんなにみんな清潔で立派なんでしょうか。
 一生、自分に直接関係のないニュースをとらえて罵詈雑言いっていたら、その間放っておいた自分自身はどうなるのでしょう。カビがついて、腐って、見るも無惨なことになるのは分かっていることなんじゃないでしょうか。自分の実際の生活はどうなのでしょう。そんなことをしている暇があるんでしょうか。

 もちろん、人のことを言う人だっていていいんだけどさ。いや、もうなんだか、外側のことで何を知っているのか分かっているのか知らないけれども、いろいろ言う人がやたらといて本当に辟易してしまって。
 他人のすることにいちいち首を突っ込んでいるんじゃないよ、と言うこと自体、すでに他人のことに首を突っ込んでいることになるのだから、黙っているのが本当であり、本当に自分を真剣に生きている人のスタンスなのだが、未熟なわしは、つい口を出したくなってしまう。

●つぶやき
 自分の現実を見つめるのが恐ろしいのかもしれない。
 思うようにならない外側の出来事をとらえて批判するのも――何でもいい、何かにはまらなくては生きてゆけないのも、日常の仕事やその立場や自分の容姿にいたるまで、何もかもが気に入らぬ現実、いかに自分が無力で何億分かの一に過ぎない、見分けのつかない蟻に過ぎないのか、懸命に目をそらすための方便かもしれない。
 そのときの自分の決定が未来を決めていくなら、たちまち踏みつぶされてしまう脆弱な蟻一匹に何を決められるだろう。流されゆくほかないではないか。
 積みあげてきた過去――最初はアメーバか何かだったのかも知れないが、人に宿ることを許されるまでの何万年かと、人となって何度生き、死んだか分からぬ繰り返しをしているならば、いま再び生きゆく過程があなたと違うのは自然なことだ。内部の発露が世界であり、過去の理解が映画フィルムのように写し出された世界なら、ただ受け入れ見ておればよいのだろうか。
 しかし、動かぬ石ではなく、確かに意識する自分が在るのであるから、現れ出でたる問題を解かぬわけにはまいるまい。それが自分の段階なのだから仕方がない。いや、いかに信じられぬとしても、その在りようだからこそ、確かに導かれているといえるのだろう。我は物事をややこしくし迷いの道に踏み入らせ、想念は自ら墓穴を掘るようなものだ。妬みも嫉みも相手にしない。相手にすればするほど湧いてくる。自由自在な思考から、理解できればそれがよい。出来ぬ以上、解決しようとせず、湧くに任せて放っておけば、いつかは消えてゆくだろう。
 現象を待つのではなく、気持ちを待てばいいのだろう。頭脳によらず、内側から自然にわき上がる感覚に身を委ね、そのままを行うのがよろしかろう。しかし、それを邪魔する教育された頭脳がある。またもや同じパターンを繰り返し、抜け出せない自分を発見する。だが、それでよいのだ。決まっているだけ繰り返さなくては、次に向かえないようになっている。乗り越えようとしない。だからといって諦めない。ただ、坦々と、てくてくと、歩んで行くのみ。

 ハッキリ書いていないこともあるけど、中身を素のまま取り出したら、以上のような言葉になりました。いろいろあるねぇ…。

●術
 狭い道に駐車してトイレに行ってきたら、変な外人が近づいてきて、流ちょうな日本語で「ここは2メートルの間を空けておかなくてはいけないのですよ。約束を守れないなら、こうします」といって、車を持ち上げひっくり返してしまった。
 さすがに頭に来たので、その外人に殴りかかったのだが、よくみると上背はそれほどないのに筋肉隆々でとてもかないそうになく、腰が引けてしまって力が出ない。

 ……という夢を見た(オイ)。
 目が覚めて、起きあがってすぐに、ああそうか、と気が付いた。力のない、体が小さい自分はダメだ、という思い込み。これは自分を汚す。
 何をするにも、力によらず、中心をとるだけでいいのだ!
 そういう術があったではないか。肉体的な力で物事を進めるやり方もあるだろう。しかし、そういう方法しかないのではない。力を出す才能のない自分は、気に入らない気持ちを押し殺し、力のある人に取り入らなくてはやっていけない弱者であるように感じていた。だから、力のありそうな相手を見ただけで、最初から負けてしまっていたのだ。
 そこに気が付いた。
 力によらない方法があったじゃないか。さんざん稽古してきたではないか。日常に活かされていなかっただけだ。それによって、力のある人にびびることなく、自分を信じて、自分の力を発揮してゆけるじゃないか。

●想念
 たぶんねぇ、他人の想念を受けとってしまうことで、それに自分が動かされてしまうんだと思う。最近は、人の失敗や欠点や、到らない点をあげつらい、揶揄してヘラヘラするのが流行りだかなんだか知らないけれど、そういう、自分のことは棚に上げて下種張る連中の想念が渦巻いていて、本当ならそんなものに乗っかることはないのに、一緒になって何か言いたくなってしまうのは、想念を相手にしてしまうからなんだろう。
 想念が出てきた――もしくはやってきたのを、こんな事を考えてはいけない、と思った瞬間に、それは相手をしていることになる。いけないいけない、と考えれば考えるほど、影響されてしまうんだな。
 どんどん流して、きれいな精神状態でいたいものです。


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