おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
●感情について
自分ではポーカーフェイスのつもりだったんだけど、そうでもないらしい。 人に「今日はなんだか嬉しそうですね。いいことあったんですか?」なんて言われて、はじめて、「そうか、おれっていま嬉しいんだ」と認識することがある。典型的な内向思考タイプだからねぇ。思考の反対側にある感情には疎いらしい。 もう12、3年前、腎不全で透析をしなくてはいけなくなるかもしれないという時、まだ会社員だったんだけど、上司にそのことを相談していたら、声が詰まってちゃんと話せなくなってしまったことがある。それまで、別に大したことじゃないと自分に言い聞かせていて、本当にそう思っていたと思っていた(ややこしい…)のだけれども、実は相当に参っていたのだね。 どうしてこんなことを思い出したのかというと、ある人のことが好きなのかどうか分からなくて、ちゃんと対応というか、行動できないでいるオレってなんだろう、なんて考えることがあって。 感情は、もちろん思考ではないから、好きなのか嫌いなのか頭で考えたって答えは出ない。ところが、感情的なことにも、得意な――というより自分の傾向である思考をつい使ってしまうのだな。思考で答えが出るとすれば、それは損得であって、好悪とは違う。 疎いのに、気が付いているということは、そういうことなのかもしれない。なんだか、何度も(?)チャンスを逃しているような気がする……。 ●神観 目には見えないけれども、自分を背後で守ってくれている存在というものはあると思う。宗教には入っていないけれども、自分なりの信仰はある。 宗教(という人間が作りだしたもの)については、やっていること見れば分かるようにこれは悪であり、また、そうではないと認めても人生をかけてやるようなものではなく、趣味のひとつのように、あればあったで面白いかも、という考えである。宗教をやっているあの人のようになりたい、と思うことってないからね。大したものじゃない。 教義という、外側の教えに縛られて不自由な思いなどしたくない。そんなものに依らなくとも常に答えは自分の内にあるのだ。外に答えを求めたら洗脳されるだけである。 よく人間は神の子といわれるように、自分が神の系統であるなら、わざわざ外側の神様を拝む必要はない。単なる事実として、自分がいなかったら、神も宇宙もないのである。 人間は完全である。外側から何か付け足す必要はなく、むしろ付け足したものが邪魔をして、本来ならば見えるものが見えなくなって不自由しているのが人間であるように思う。余計なもの――宗教用語を使うなら、「業」を取り省いて、元々ある光り輝く本体を現すことに注力していけばいいのだ。 自分が神であるなら、想ったことは成るのである。瞬時に成らないから分からないのであって、長いスパンで見たら、都合のいいことも悪いことも、想ったようになっている。ただ、想い(原因)と現象(結果)の間には法則があり、意識は法則によって現象化されるので、法則を知らないと、とんでもないことになったりする。 神様は、個々の人間自身が作りだした原因を元に(法則に沿って)着実に現象化している。聞けば現象から教えてくれる。自分がすべてを招いているのだが、そこを認めないで、人のせいにしているとおかしなことになってくる。都合の悪いことの原因とは、弱さや未熟さ、身勝手さなど、最も見たくない(精神的な)恥部であったりするから、認められないのも無理はないけどね。しかし、受け入れなくては、先に進めない。 どんなに信仰しても、良くならないのは、自分がそうすればそうなるという絶対の法則を知らず、法則を無視した生活を送っているからだ。盲目的に、ただ神様に手を合わせていればいいというものではない。キチンと見て――自分を知り、そうしたらどうなるのかという法則を知った上で、手を合わせるのが筋である。デタラメな生活をしていながら、信仰で何とか埋め合わせできないかなんて手前勝手な法則はない。 ある本に「つらいことが多いのは感謝を知らないからだ。苦しいことが多いのは自分に甘えがあるからだ……」なんて言葉があったけれども、そうじゃない。つらいことが多いのは無知だからだ。苦しいことが多いのは無知だからだ。ここでいう無知とは、もちろん自分と法則についてである。 信仰を含めて、人生に特効薬なんてない。現象はゆっくりと現れる。坦々と法則に沿ってやることをやり、やめることをやめて生きてゆくしかないのである。
おおみち礼治
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