Mother (介護日記)
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2003年04月16日(水) 入院24日目 ( 連れ帰れば余命1週間 )

レフティーに大型スーパーに連れて行ってもらった。

長袖の肌着シャツって、婦人物は襟元が開き過ぎていて肩が落ちてしまう。
暖かくなってきたことだし、ランニング型にすることにした。
母はレースがついたものを喜ぶので、アレコレと探して選んだ。

食欲のない母に好きな物を食べさせたいと思いながらもグズグズしていたが、
じぐ母さんの“食べられるうちに” と言う言葉にハッとして、あわてて実行に移すことにした。

看護婦には以前に「おはぎやゼリー飲料を持って来ていいですか?」 と聞いたら、
「先生に聞いてみるね」 と言ったが、おそらくは忘れられているのだろう。
まぁいい。 母には特に食事制限がないので、食べさえすればいいのだ。

握り寿司とプリンを買った。 



母はベッドで寝ていた。
パジャマが着替えてあるので、今日もリハビリに行ったのだろう。

起こさぬように、静かにパイプ椅子を出して座っていると、やがて目を開けて、
「あら、いつの間に来ていたの? 起こせばいいのに。
 良く来てくれたわね、ありがとう。 
 ここまで来るのに大変だったでしょ? 感謝します」 と言った。



そのうちに廊下があわただしくなった。

複数の看護婦が、隣の部屋と斜め向かいの部屋を機材やワゴンを運びながら行き来している。

ベッドごと、患者が移動したようだ。

母の病室にある機材も持ち出して行った。

どうやら男性患者が危篤状態らしい。

エレベータで大きな機材も運び込まれた。

母の病室から見た斜め向かいの病室とは、つまりはナースステーションの向かいである。
危篤状態になると、患者はこの部屋に移されて特別な処置がされるらしい。

そんな様子を目の当たりに見たのは、母のこれまでの入院生活で初めてかも知れない。

私はすっかりビビッてしまった。



母は、私が買って来たお寿司でさえ、最初から「あまり食べられない」 と言った。

私がご飯をはずして、ネタだけを口に運んであげるが、
歯肉が腫れて入れ歯も合わなくなっているため、うまく噛めない。
結局、寿司はバラバラに解体しなくてはならなかった。

母の舌は荒れていて、白く斑になっている。
この状態では、味覚も変わって来るのだろうか?

ネギトロやイクラ、エビに赤身などをホンの一欠づつ食べた。
プリンも二口だけ。



「早くおうちに帰りたい。 こんなところにいつまでもいたら余計病気になっちゃう」

その一言が、私を一層敏感にさせた。

まもなくして夕飯が運ばれてきたが、
母は今、寿司をつまんだばかりなのでとても食べれる状況ではない。

とりあえず保温のフタだけはずして、そのまま私は病室を出てしまった。



涙が出そうなので病室にはいられなくて私はあちこちを放浪した。

配膳室では食事係と話した。
やはり、お昼もバナナを一口食べただけだったと言う。
リハビリに連れて行くのも、かわいそうだった、と。

玄関ロビーでは4階の婦長に会い、
「自分で考え込まないで、先生を捉まえてドンドン聞かなきゃダメよ」 と言われた。

そして6階の廊下で会った看護婦とも話した。
「家に連れて帰ってもいいんじゃない? 外泊ってことで。 家にも酸素あるんでしょ?
 何かあったらすぐに連れて来るのが条件で。」

そしてちょうど担当医がいたので、いろいろ質問をしてみた。

「母が寂しがって“家に帰りたい”と言っているのですが、どうでしょうか?」

「家に帰ると点滴ができない」

「点滴をしなかった場合は、どうなりますか?」

「そうなると栄養が取り込めないので急激に悪くなります。
 環境が変わって、食べてくれるようになればいいですが」

「急激に、と言うのは具体的にどのくらいの期間ですか? 
 と言っても、一概には言えないとは思いますが・・・1週間とか10日とか?」

「まぁ、そんな感じで」

え? 1週間? 私は自分で言っておいてビックリしてしまった。

「1週間ですか? ・・・ それはちょっと・・・」 

「また考えておいてください」



それから私は屋上に行って、かなり暗くなって来た街を見下ろした。

私が決めるのか・・・ 母の命の打ち切りを。

今までにも
『苦しい思いはできるだけさせないで楽しく過ごせれば、
 多少残りが短くなっても・・・』 と考えてはいたが、
こんなに責任が重大であるとは思わなかったし、
ましてや、おぼろげなイメージでしかなかった母の最期について、
突然に『残り1週間』 と言われても・・・

1週間で何ができよう?
海を見せて、お友達に合わせて、美味しいものを食べさせて・・・



再び、ナースステーションにいる担当医を見つけて話し掛けた。

「もしこのまま入院しているとしたら、今後はどのような治療がありますか?」

「肺の繊維化がかなり進んでいますので、
 このまま治療を続けても以前のようには回復できないと思う。
 食べられなくなっても、胃に穴を開けてチューブを通して、
 そうやって何ヶ月も生き伸びている人もいますが。」

「そういうのは、ちょっと・・・
 どこからが延命治療になるのでしょうか?
 家に連れて帰ることを私が決めてもいいのですか?」

「ご本人の意思表示があれば・・・」

「母は延命はしないで欲しいと以前から言っています」
 
「もう一度ステロイドパルスをやってみますか? 先週もやったのだけど。
 最初は良かったんだけどね。 だんだん薬が効かなくなって来ている」

「いつから始めるのですか?」

「では、明日から」

「それはどのくらいの期間ですか?」

「3〜4日」

「その効果はいつわかりますか?」

「すぐに」

「・・・それでは、その結果をみてまた考えることにします」



さて。

母にとっての幸せとは何か。

私のそばにいること。

そして嫌いな注射はしたくない。



苦しくても、生きていれば

明日は何を話そう?

明日はどんな写真を撮ろう?

明日は何を食べさせよう?

明日は誰に会おう?

明日は何を見よう?

明日はどこに行こう?




ネットにきよしさんという方がいて、ガンのお母さんを自宅で看ていらっしゃった。

やはり最期は自宅で、と危険を覚悟で退院を決めたが、
担架ごと運べる車の手配に時間がかかり、
退院予定のその日の明け方に病院で亡くなってしまった・・・



私はどうする?


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