Mother (介護日記)
Index|Yesterday|Tomorrow
24日の日記の続きです。
銀行を出てから、了仙寺に向かった。 以前、ゆきっちと涼ちゃんとで来たことがある。ジャスミンの花が強く香る時期だった。
わざわざ「ここに来ました」と言わんばかりに、 『了仙寺』と書いた入り口で写真を撮った(笑)
庭に入ると、散策をしている団体さんがいた。 寺をバックに母の写真を撮っていると、その中のひとりの紳士が、 「撮りましょうか?」と言ってくれたので、お願いした。 一枚撮ったところで、寺をバックにしたのでは「顔が小さくなってしまう」と言われ、 ズーム設定してから、もう一度お願いしたら、これがとても良い写真になった。 (写真のコーナー参照)
そもそも、私は写真映りが悪いので、私自身の写真は少ない。 「撮るよ」と言われた瞬間に表情が硬くなるというのか、 鏡で見る自分とはまったく違った顔になる。 ましてや、私がカメラを持つ以上、母とのツーショットはなかなか撮れず、 行きの電車の中で散々挑戦したが、やはり腕の長さには限界があった。
だから、この一枚にはとても感激した。 一生の記念になるだろうと思う。 どこかの知らない紳士、「ありがとうございました」だけで通り過ぎてしまったけれど、 本当に感謝している。
* * * * *
了仙寺を裏道から出て、ペリーロードを歩く。 石畳の川沿いの小路は、雰囲気の良いところ。 居酒屋、クリーニング屋、雑貨屋、喫茶店などが民家の間にあって、 のどかな午後の散歩にはちょうど良かった。
下田では、行き交う人と挨拶を交わすことが多かった。 同じ位のお年寄りから50代ぐらいの人まで、道ですれ違う時には皆、 「こんにちは」と言うので、こちらも自然に挨拶を返した。 観光客の受け入れに寛容であると言うことであろう。
小さな町だと、中には観光客に対して排他的な感情を持つ人がいたりするらしいが、 ここはそうではなかった。
私が子供の頃から、2年に1度ほど、遠縁を訪ねて来てはいたが、 こうやって街を歩く機会はなかった。 前回、ゆきっちに教えられてやっと下田の散歩コースを知ったほどだった。
確かに、叔父が亡くなってからは遠縁の家にも訪ねにくくなってはいたが、 なんのことはない、お散歩にくれば良いだけのことだった。 そんなことに、叔父の葬儀後15年もの間、気付くことができなかった。
『ペリー上陸の碑』が稲生沢川の河口の広場にできていた。 ここは『下田マリンタウン』の計画予定地になっているらしい。 すでにヨットがたくさん停泊していた。
ベンチが置かれ、花壇が整備されて、お散歩途中の休憩にちょうど良い。 右手には海が広がり、正面には寝姿山、左手には町の建物がギッシリと見える。 海上から下田の町を一望しているかのような場所である。
私たちは、車の通りの少ない路地を使ってマイマイ通りに戻った。 下田は狭い道路が多いので、車椅子では注意が必要だ。 マイマイ通りには両側に歩道がついている。
その後、最初の花屋さんに寄り、カーネーションを買った。
稲田寺(とうでんじ)には、養子に行った母の兄の墓がある。 母は車椅子では墓所に進めないので、境内で待っていてもらった。 ところが、私は墓石の場所がわからなくて、迷子になってしまった。 古い墓石の整理もされていることから、移動したのかと思った。 バケツを持ったまま、グルグルと3周もしたところで、お寺の女性に 「聞いてきましょうか?」と声を掛けられ、恥ずかしながらもお願いした。 ご住職らしき方がわざわざ出て来てくださって、墓所まで案内してくれた。 やはり、彼岸なのでシキミが上がっていた。 水を取替え、持って来たカーネーションも加えた。
次に、福泉寺に向かった。 ここには、母の親兄弟が眠っている。
ここは井戸水であった。 『まだあったんだ』 私は子供みたいに井戸の水を汲み上げたが、たくさん漕がなかったので 雨水のまま、お墓に持って行ってしまった。 今度は墓所は間違えなかった。 ここでもシキミの水を替え、カーネーションを加えた。
駅に戻ると、既に4時を過ぎていた。 電車の時間を見て、構内の喫茶店で休憩。 そう言えば、ここまで飲まず食わずで良く歩いた。
一日を有効に使った気がして、私はとても満足だった。 たくさん撮った写真は、帰宅後すぐに印刷をして、母のアルバムに貼ってあげたら 遅くまで何度も見直していた。
|