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2005年02月02日(水) 小野沢裕子のトークショウ

癒しの森538                            
            
 昨夜から大荒れの気候であった。出席予定者が雪のため10名余りのキャンセルがあったが、35名の出席でトークショウが開かれた。 トークショーに関することは以下で、妻の筆による。
 「いつも笑顔で、暖かい裕子さんのトークで、会場は熱気に包まれ外の雪をも溶かすようだった。自らを飛行少女と称して、座していては何も情報は手に入れられないとたくさんの体験や感じたことを話されたが、中でも同級生の葬儀の模様を話されたのがとても印象に残った。その中島君という同級生は、学生時代はいたずらで元気印の生徒だった。みんなが思いもよらぬ学校の先生になり、周囲を唖然とさせた。その彼がある年から同級生に会わなくなった。風の便りにどうも病気らしい、ある時は、大分悪いらしい、とうとう会えないまま訃報を聞く。葬儀に小野沢さんも同級生と参列して驚く。葬儀場は、弔問客で溢れ、ロビーをも埋め尽くしていた。しばらく会っていない中島君との距離感を感じながら参列していたところ、式半ばで、二人の生徒の弔辞が始まり、中島教頭先生の人柄を思い知らされる。
 
 女生徒の涙ながらの弔辞は、いじめに遭って登校拒否をしていた私に先生は、家に通って来てくれて「学校に来たくなったらいつでも来いよ。待ってるからな」と言ってくれた。ある時、先生の言葉に励まされて、学校に行ってみようかなという気になって先生の授業を受けた。先生の授業はとっても楽しかった。それがきっかけとなって学校に行けるようになった。あの時先生が見守ってくれたから今の私がいます。先生本当にありがとう。
 
 男子生徒の弔文はとてもよいものであった。原稿もなしにすらすら話す裕子さんだったが、一日寝たらすっかり忘れる私のトロイ頭では、思い浮かばないのがとても悔しい。ステキな詩で、文頭を並べるとある文章になる。生徒達からこのように慕われた中島先生の残された遺児達は将来きっと多くの人々の支えがあるに違いないと話された。私はこの話を聞いて、故事を思い出した。「トラは死んで皮を残し、人は死んで名を残す」とある。折り返し地点をとうに過ぎた私にとって、死んで残せるものは何かをソロット考えねばと思った」

  
  
     


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石田ふたみ [MAIL]

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