○ダーZ、映画を語る。
やっぱり僕は、映画が表現としては一番好きである。 距離感が良いのかもしれない。 スクリーンの中に世界はあるのに、その世界には指一本たりとも立ち入ることはできない。 客観表現とでも言おうか。
映画は比較的大衆的なものであもある。(演劇、お笑いコントなどに比べて) その分、マニアックではないと言える。 やはりマニアック過ぎるものばかりでは、不安である。 自分だけが笑っているのが良いことなのか? 良いわけないし、そんなことは有り得ない。 自分だけが面白いと感じるものがあるなら、それはたぶん僕がラリっている時だろう。 絶対、共感者がいるはずである。 ある作品を面白いと思う、自分以外の共感者が。 その共感者が少ない場合、その作品はマニアックなものと位置付けされるのだろう。
ではなぜ、僕は客観表現である映画を求めるのか? それはこの先を読み進めていくとわかるかもしれない。
希に、マニアックなものが、<マニアックと言う名のメジャー>になる場合がある。 それはいつしか、したり顔でメジャーとなるだろう。 そういうのが表現の世界において、面白い瞬間である。 新しい表現の誕生とでも言えるだろう。(人は飽き性なので、必然のことである) そういうこともあるので、客観性を求める場合、マニアックなものにも要注意である。
やはり映画を観る僕というのは、客観性のある映画に期待しているから、それを好むのだろうと思う。
あと、映画でマニアックなものと、例えばコントでそうであるものとは、立場が若干違う。 簡単に言えば、映画でマニアックの度合が強いと、大抵問題にされない。 なぜか? 言い忘れたが、マニアックの中にも、大衆的になり得るマニアックなものと、本当のマニアックなものとがあると思う。 大衆的になり得るそれは、どこかに従来の表現法に通じる面があるはずなのである。 真のマニアックなものとは、あまりにも逸脱していて、特に映画表現の世界では犯罪者(もの)なのだと思う。
話が逸れたが、映画はスクリーンが観客の前にある限り、つまり二次元である限り、どうしたってリアル(現実)からは多少離れたものである。 そんな点が、映画の表現にリアルさを必然的に求め(井筒監督の口癖でもある)、客観性を求めるのだと思う。 つまり、二次元式の映画には客観性のあるものが似合う、という僕の見解である。 (反対に、目の前で三次元の生身の人間らによって表現される舞台は、多少表現方法が現実離れをしていても見れるものである。) だから、映画は真のマニアックを受け付けにくい某体なのである。
ただ、何がリアルか?という問題には、僕は寛容である。(井筒監督ほど特定の表現方法を求める姿勢を持っていない) 例えば、ミュージカルがリアルでない、と言うのは簡単だが、僕はそう断定しない。 ミュージカルにも、リアルなものもそうでないものがあると思う。 北野版座頭市で話題のタップシーンを、リアルでない、嘘だ、という人もいるだろうが、僕はあれがあの映画のリアルだと思う。 何となくではあるが、あれは、(町から悪党が一掃されたという)農民の喜びの表現だが、あのタップの軽快で迫力のある(演出)表現が、まさに、まさに<喜び>そのものであるように感じるのである。 映画の中のリアルとは、現実のそれとは違う。 また、現実のリアルを映画にそのまま持ち込んでも、それに新しさはない。 それならドキュメンタリーで充分だろう。
またまた話しが逸れたが、僕は、二次元であるが故に必然的にリアルであることを迫られた表現某体である映画に、愛着がある。 愛着はそのリアルさ、客観性によって生まれるのだろう。(映画=客観性=リアル=愛着) 人は、自分たちと違う存在を嫌う性質の生き物、という点を考えると、リアルな映画は、他の芸術や表現方法のものより身近で愛着のあるものになり得易い、ということがはっきりとわかると思う。
現実と言う名の世界に住む僕らが客観という幻想の潜む映画という表現に愛着があるが故にそれを鑑賞する様は、まるで自分の事を客観的に空から覗いているかのようだ。 映画が好きな人は、現実の正体を知りたいと思う人達なのかもしれない、と、ふと思った。
―END―
ついしん きめ細やかな法則よりも、臨機応変で変幻自在な対応の方が役に立つ。
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