| 2003年03月12日(水) |
そういうのをグシャグシャに崩したい |
「悪口」 友達のT君のどこが嫌か? それを三つ挙げたいと思う。
まず一点め。 レストランでご飯粒を残すこと。
二点め。 【ちょくちょく】という言い回しを使うこと。 ちょくちょく、というのは定期的に、という意味合いなのだろうけど、その音がどうも嫌だ。
三つめ。 くしゃみを人に向かって放つこと。(手やハンカチで絶対押さえない。) これは甚だ疑問だ。 意味が分からない。 僕も何も押さえずにそれをすることがあるが、そういう場合は必ず近くに人のいない方向に向かってするようにしている。 それも室内では必ず何かで押さえてやるようにしている。
上の三つの悪癖から推測すると、彼は比較的自我の意識が強い人間であると言える。
「大衆」 大衆に実体はない。 大衆という抽象はそもそも存在しない。 大衆のことなんて考えても意味がない。
「自由」 自由とはSだ。
「私は入ります。」 繋がっているように思えても 本当は繋がってはいない
本当は繋がっていないのに 繋がっているように思えるのが面白い
私はお風呂に入ります あなたがなんと言おうとも
つけたり消したり致します あなたがなんと言おうとも
一つのお風呂に三人いても 三体が三人なのはなぜだろう?
一つの家族が三人ならば どうして三人で一家なのだろう?
ただ物理的に三つの体が離れていても 本当は三つなのかもしれない
そして三つが二つになったとしても それはそれで一つなのかもしれない
「同意」 それに同意しないのは 同意した瞬間にそれが決まってしまうから
そう決まってしまうことが 本当はとても怖いから
「伝達」 今のところ 的確に伝える手段は<言語>。 伝達とはアウトプット。 アウトプットするのに一番都合がいいのは言語だろう。
例えば人に「アルタの7階に行って下さい。」と伝えるとする。 それを聞いた人はアルタの場所を知っていれば行けるだろう。 しかし場所を知らない人はその場所を何らかの手段で知らなければ行くことが困難である。(歩き回って偶然知る方法もある。) 地図を見て知る。 言葉で教えてもらって知る。(道筋、近くのシンボル・・・)←アルタ自体がシンボルでもあるが。 主に上の二通りの手段で知ることができる。 まさかアルタの音を聞いて場所を知ることができる人なんていないだろう。
地図というのは半ばイラストでもあると言える。 ではアルタの建物のイラスト(写真)を手に入れた場合、それを元にそこへ行けるだろうか? 行けないと思う。 その場所を知るには現在地(自分のいる場所、知っている場所)とアルタとを繋ぐ道筋を知る必要がある。 それを相手に知らせるには、アルタの建物のイラストなり写真よりもより多くの情報量を見せる必要がある。 そして相手に確実に伝えたいことがある場合、言葉というのは実に有効なものである。
絵画をギャラリーで見た場合、それから受ける印象というのはあるものの、そこから確実な作者のメッセージというのは汲み取りにくい。 如何に絵、イラストといった類の視覚的なものがはっきりとしないものかがわかる。 (地図というのも半ばイラストではあるが半ば言語に頼る部分もある。)
「行くと着く」 私は今日、アルタに行った。 そこで『笑っていいとも!』という番組を観覧してきました。
上の文章の<アルタに行った>は<アルタに着いた>の方が正しいのではないか? 行く、というのは意志であり、本当にアルタという場所に居た事の説明にはならないのではないか?
アルタに行く アルタに行った
どちらにしても、アルタに居た時に使う言い回しではない。
アルタに着いた
これはアルタという場所に入った瞬間に言う言い回しである。
こう考えると着く、という言葉は行く、という言葉の現在形であるのだろうか?と思う。
「孫のパンツ洗う人」 孫のパンツを洗うことが嫌なのか? 孫のパンツを洗っていると言われるのが嫌なのか?
「神様」 神様=自分
「面倒なこと」 それは面白くもないのにやらされること
―END―
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