○いつものようにパソコンの前に座り起動させた時、何か嫌な気がした。 それは何かに追い越されてしまうような、それによって自分がくだらない人間に思えてしまうような気であった。 これはどういった感情なのだろう?と思い浮かべる暇もなく、僕は昨晩見た夢の世界を思い出していた。 それは友達がPCのキーボードをかなりの速さでタイピングしている様子であった。 一つ言っておくと、実際の世界では彼はまだパソコンをかったばかりの大学生である。 それなのにあっちの世界では僕以上に何かに取り付かれ様な速さで打っていた。 夢の中で僕は(負けた・・・)と思っていたことを覚えている。
○「たまたま同時」 不謹慎ではあるが、いづれ地球という生命に限界がやってきた時、そこにまだ人間が残っているのだとしたら、その残っている人間すべてはたまたま同時に死ぬんだろうなーということをなんの感情の起伏もなく思った。 しかし、一つひっかかったことがある。 それは<たまたま同時>という言葉にである。 最近僕は人間の感情というものに呆れ返っている。 それは人間の感情は人間が人間であるためには必要不可欠なものであるはずなのに、時には人間が人間である事を許さないかのように人間を裏切る事があるという点である。 それは置いとくとして、ぼくの言いたいのは<たまたま同時>に人が一人残らず死ぬ時ってのはどういう感じなのであろう?と興味が湧いたということである。 その模様は何か宗教的でもあるな、と思う。 多少の誤差はあるにしろ、人間が同時に死んでしまうとすると、それは本当に恐ろしいような気がする。 そんなにいっきに大勢の人が地球というとてつもなく偉大な存在のものと共に宇宙へと零れていく様は、一切の人間という生命に対しての否定をしているように思えて仕方がない。 いや、否定どころの騒ぎではない。 無視、といった感じである。 人間の感情が自分自身や他人の感情に連鎖的であるのが人間らしいのだとしたら、その連鎖的反応を一瞬のうちに消し去ってしまう地球の終わりの日というのは末恐ろしい事実である。
○「週末のコメディ」 週末になると男は「スタンダップ劇場」に行く。 それは毎週の事である。 段々その男は週末だけでは飽き足らなくなり、仕事をやめてそこに毎日通い詰めるようになる。 やがて金が尽き、バイト代だけでは生活が苦しくなり、ついにはその劇場でバイトをするようになった。 それも単なるボーイではなく、板の人間になったのだ。 そんな男が週末に劇場でショウを提供する時の心理を描いた小説。 10年後に発売予定。
○占いとは? 占いとは標語のようなものである。 もしくは、人に考えることをさせる装置である。
○「狂人は行く」という、主人公が周りから狂人扱いされていながら本人はいたって生に喜びを感じているような映画を撮りたい。 しかしまた、その狂人もさずがに全員から狂人扱いされるのに飽きて・・・
○宗教について、あの中に入ったとして、そこでもう抜け出せないほどの喜びを感じだとすると、もうかなりキツいでしょうね。 タバコと同じでしょう。 しかし、生活のリズムまでコントロールされるっていうのが最大の怖さですね。 つまり他人にコントロールされていることは、自分という存在の肯定になるのか?ということである。
○チャップリンは狂人だ。なぜならヒトラーという強大な悪がいて、そんな存在を映画で堂々と批評した。つまり二人は対極関係にある。たとえ彼(チャップリン)が善玉だとしても、彼は狂人だ。狂人でなければあんなもの(映画「独裁者」)は作れない。ふと、なぜかそんなことを昨晩ふとんの中で思った。彼がそういった、本当は怖い人間であるのだと教えてくれたのは淀川長治であり爆笑太田である。(二人は雑誌の対談の席でそのことについて語り合っていた。) なぜそんなことを思ったかというと、怖い人って素適だな、というのが僕の考えだからである。 不思議とチャップリンの事について語る淀川長治も、また「そうですね」と相づちをうつ太田もが怖い存在のように思えてくる。 怖さは伝染するものなのだろうか? だから僕にとって<怖い>という要素は最近興味深い。 だからといってそれについて具体的に考えていないのはまずいのだけど。 つまり僕にとっては<怖い>は重要であり、松浦亜弥もビッグスリーも、テリー伊藤も会社の社長も、はたまた都知事、県知事、市長町長村長も、近所の情報屋も、高橋尚子も小泉首相も、井筒監督や岡村隆史も、それにやくざもやくざもやくざもやくざも、なんでも怖いものに対しては反応しては(自分にはそういった要素ってあるのかな?)などと思い思って、自分自身もそういう存在になりたいなーなどと思うのである。 またなんでこんなことを考えたのかというと、きっとそれは僕の友達の影響である。彼があるテレビタレントに対して<ニヤニヤ>、<募金活動>、に代表される全面的に偽善的な表情をしているものを感じ取り、その人の事を「気持ち悪い」と形容したことがきっかけなのだと今思えばそう思う次第だ。 <怖い>ということは、一種の知恵、技術といったものだと僕は思う。
○ストッパーのようなものをはずして会話するという爽快さ。
○運命とはやがてヘリウムガスが抜けきって上の方から落ちてきた風船を見つけることの連続のようなものだ。
○記憶がなくなるのはいいことだ。という仮説が僕にはある。
○「僕って背が高いでしょ?おばあちゃんより」と僕はおばあちゃんに言った。 これはある言葉に別の言葉を載せる事によって意味を変え、オチをつけるということの一例である。 ここで伺える現象は<自慢>→<自慢にならない>への移行である。 ちなみにうちにおばあちゃんは背が並みに低い。 つまりおばあちゃんより背が高くたって自慢にはならない。
これと似たような現象を伺えるものに、さまぁ〜ずという芸人の持ちネタがある。 「鹿を叱る、夜中まで」 これは面白い。 鹿を叱る、というダジャレは単なるダジャレだが、「夜中まで」という言葉を付けるだけで一気に世界観が広がる。 つまり<ダジャレ>→<かわいそうな鹿(鹿への同情心)>という移行である。 その広がりが実に面白い。
○「気づく」 僕は 気づきたい
何かに 気づきたい
ありったけ 気づきたい
何に 気づきたい?
わからない
何に 気づけばいいのか わからない
わからないことに 気づき
何が わからないのか 気づき
そして 何かに 気づきたい
―END―
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