「ジョーク心」をこれからは持っていきたい。 それによって相手の投げてくる言葉を、遠くへと打ち返したい。 それが打たれた相手も納得するようなパフォーマンスであることを心がけて。
「未練とは」一種の美学であり、究極には死に損なうということである。
「なわとび」をやっていると、不思議と飽きてくるものである。 今のところ毎日計千回跳ぶのを目安にしているが、初めてから早5日目程の今日、跳ぶ事に飽きている自分を発見した。 (ちなみに3日坊主になっていないことには自分でも驚く。) これはなんとかしなくては!と思い、あらゆる工夫を施す事にした。 いつもは100連続で跳ぶのを10回繰り返しているのだが、その一回一回によって跳び方を変える事にした。 果ては100連続で跳ぶ間でさえも変則的にしていった。 具体的に言えば、初めは両足を揃えて跳んでいても、途中で片足ずつにしてみたり、片足で2回や5回ずつ連続で跳んでみたりすることをやった。 呼吸法についてはある回では口ではっきりと吸ったりはいたりをしたり、鼻のみでやることもあった。 また、1回縄を回すにつき1呼吸をし、普通は2回吸ったら2回はくリズムで行うのだが、それを四回ずつにしてリズムをわざと崩したりもする。 こうやってつまり、基本のリズムを崩す事により、身体的にも精神的にも飽きがこないようにやっている。 組み合わせとして凄いのは、片足ずつ5回連続で跳ぶ時で、この場合、呼吸も(吸って吸って吸って吸って吸ってはいてはいてはいてはいてはいて)とやるとキツいので例えば2回吸って2回はいてとやると、跳ぶリズムと呼吸のリズムがごっちゃになって、わけがわからなくなるのである。 ただ精神的にも肉体的にも辛いだけである。 こんなことでいいのか?
「劣等感」というのは多分にある。 これが今のところの僕の原動力である。
「いいわけ」をするな、とよく小学、中学時代に先生から言われたものだが、そんなのは知ったこっちゃない。 僕はいいわけする為に生きているようなものである。 つまりそれは僕に「死ね」って言っているようなものである。 思いついてしまったが、仮に「シネマ」と言われたら「そうです、それがやりたい(撮りたい)んです。」と言いたくなるだろう。つまりそれは「君は何で自分を表現したいの?シネマ?」と言われているという事である。
「飽きる」のが人間の本性だと最近思う。 同じ事をやっていて飽きない、というのはウソである。 ただしこんな場合がある。 例えば料理が好きな人がいるとする。 その人は朝昼版、毎食、そしてほぼ毎日家族や自分の為に料理をする。 その場合、彼女は毎回カレーライスをつくるわけではない。 たぶん毎回カレーであれば彼女は料理という行為の度にやがて発狂するはずである。 つまりメニューを考える事、メニューの材料を考える事、調理法、味付け、盛りつけなどといった一連の作業が毎回違うパターンであることが重要なのである。 それならば毎食分毎日料理をつくることが同じ事をやっているという事にはならないのである。
人は変わっていかざるを得ないのが性なのだと思う。 よって究極には人は飽きた瞬間に死んでしまうのでは?とまで思っている。 つまりそれは形として本能的な自殺行為に達するということ。 しかし、そこに達してしまう場合でも、ほんとうは飽きずに済んでたのに、という場合が殆どなのではないか? ということで、人はもっと積極的に飽きて積極的に次の面白い事を探した方がいいのだと思う。 それはどんな規模のものでもいい。 これはどこかで聞いた事の使いまわしの表現だが、<無知死(無知であるがゆえに肉体的、精神的に苦痛を伴い、やがてそれが死に結びつくという事)>だけは避けたいというのが僕の最近の考えである。 つまり精神は肉体と繋がっているので、肉体的に何か新しいことを知っていかなければ精神的にも豊かだとは言えないだろう、という見解である。 知識をつけることも、旅に出ることも、買い物に行くのも運転をするのも全部肉体的な経験を積むことである。 (ただし行動範囲が狭いからといってその人が肉体的経験が少ない人であるとは限らない。例えばさっきの例をあげるなら、料理ひとつとっても、その中でやれることは多岐に渡る。無意味に多趣味に走るよりはあらゆる料理が創作できる方がいいということである。)
飽きるということは実に人間らしい性質である。 そして飽きると次の新しいことを探す。 結果無知死を防ぐ事になる。 まずは飽きる事を怖れずに、といったところだろうか?
―「終わりよければ・・・」なんてウソだね―
「ついしん」、江川達也は偉い。
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