「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2015年05月26日(火) |
出来たことを書きだす作業 |
最近、出来たことを書きだす作業の方法が少し細かくなりました。以前は、一行で収まる箇条書きにしていたのですが今はその時の状況を少し丁寧に書くようにしたのです。このようにすることの利点は、書き出し文字として目にすることで改めてその時の状況、自分の行動や気持ちを思い出し自己達成感を感じられることです。良い効果を感じているのでもっと早く気付くべきだったとさえ思います。 ちなみに、出来たことをいつも意識しておくことのメリットは、周囲に巻き込まれず自分を感じて生きられるということです。さらに、マイナスの出来事に出会ったとき巻き込まれる頻度が少なくなると思います。
2015年05月16日(土) |
パブリックでスピーチするという発想 |
先週末、近くのコミュニティで開かれたTEDx へスピーチを聞きに行くチャンスがありました。TEDというのは、カナダのバンクーバー(過去には米カリフォルニア州ロングビーチ、モントレー)で年一回、大規模な世界的講演会を主催している非営利団体のことです。TEDx はTED よりも小規模のため会場は高校で、七つのスピーチを、イマジネーションというテーマのもとに聞きました。出演者達はアメリカ人なのでアメリカの良い未来の為の発想だけれど、その先には ”世界” が映されており、詳しく書けないので申し訳ないのだけれど、それぞれのクリエィテブな発想は聞いていて楽しく、今よりも良い未来を思わせました。そして、テーマがイマジネーションということから私も視聴しながらイメージを浮かべました。実は、四年前に英語を勉強し始めてTEDのことを知ったとき、アメリカ文化そのものの素敵なアイデアだ<私もいつか彼らのようにTED でスピーチにしてみたいな、と思ったのです。 当時私は片言の英語を話せるのみだったのですし、今だって少し成長していますが、まだそれほど多くを語れるようになってはいないのにも関わらず、何という大胆なことを思い、そして今でも思っているのでしょうか。けれど私は当時、真剣に、これはある程度何でも自由に発言のあるアメリカだからこそ出来るのだろうなーと真剣に関心したのです。発言の自由について日本と比べてみると、幾らかの人々は、私もそうですが語るより聞く側になりやすいと思います。ある人は、学校で、職場で、公共のスペースで自分の意見を述べるのを躊躇しがちだと思います。そんな結論付けをした私は真剣に、いつかこのステージで彼らのようにスピーチ出来たらいいなと、やはり本気で思ったのです。人前で話す事の苦手な私がこんなふうに話せるようになったらどうなるの?というような、したことのない事をしてみたいというような好奇心もあったと思います。ということで、その日からTEDはいつも私のコンピュータの中にあったのに、この日の私はその会場に居るではないですか。これを夢の進歩と言わずに何と呼びましょう。そんなわけで、この日の私の頭の中には、もしもそんな日が本当にやってきたら、あれとこれをまとめてこんなふうに語ろう、という発想が出来上がりました。
この事を何度か人に話したことがあるのです。時々本気と受け取ってもらえたり時々相手にしていただけません。そんな時、人々は静かに微笑んでくれるのです。想像の範囲ですが、何と反応してよいのいかわからないというような、そんな冗談なんか言っててというような感じでしょうか。つまり、先は長いのです。年齢制限はないとしても夢で終わる可能性もあるのです。
しかし、いつも変わらずあるのは、人々と語り合ってみたいことやシェアしてみたいことが私の中にたくさんあるということ。この気持ちがいつも心にあるように、プラスに生きようと思いました。それでも実現しなかったら?私の英語レベルから考えると可能性大です。しかし、思っていることが実現しなくても、その過程が楽しかったなら、それでいいと思います。
今日はお散歩をしながら、過去に読んだ本について思い出していました。いくつかの本は、本当に私の心の成長に役立ちました。特に、世間の情報や価値観に惑わされず自分の心を見つめることを推奨している本は、当時読みながら自分のメモに残して折に触れてそこを開き心の中で呟いていたりもしたので、今でもその一節を思い出すことができます。ある一冊の本は当時20歳くらいと思われる若い女の子が書いた、父親との心の距離を縮めトラウマを癒そうとした経験談でしたが、その本は私に<どうしてもどうしても、過去の、子どもの頃に出来なかったことのやり直しをしたい!>と思わせました。別の一冊は、精神科医の視点で心と体のつながりを綴っていたので、自分の体の状態と照らし合わせてそのつながりを実感することができました。別のある本には、子どもの頃の心の傷を癒やす方法が書かれてあり、こちらも徹底的に利用し、当時から10年以上経った今でも持ち歩いて活用しています。 現在はアメリカで英語の勉強をしているために日本語の本をゆっくり読む機会が少ないですし、英語の文章もまだままならない状態なのでどうしても情報に疎くなりがちです。しかし、それでもいつも、本を読みたいなぁと思っています。<読める分だけ書ける>というのは本当だというのは実感済みですし、だからこそ、尚更もっと本を読みたいと思うのです。 良い本を探せるのも一つの能力だと思います。しかし、こちらはあまり育っていないのかな。。。英語版にしても日本語版にしても、魅力的と思える本にはなかなか出会いません。きっと興味の範囲の問題だと思います。というのは、小説よりもドキュメンタリーが好きで、一般の人がよく知っているような有名な作家さんの書く本を読みたいと思ったことがあまりないのです。 ドキュメンタリーを書く人の人生はどちらかというと、大きく成功された方か、厳しい状況を切り抜けた方かのどちらかになりがちだと思います。彼らはその経験を通して人々に伝えたいことがあるから本を書かれたような気がします。実は、過去に自費出版した私の本もその部類に入っていました。私がずっと以前に、ある女の子の本を読んだことで自分の欲求に気付いたように、私の本もどこかで役に立っていたりするといいなあと思います。そして、出版からもう何年も経った今では、2冊目の、未来に書くであろう本に対する気持ちのほうが大きいです。 いずれにしても、もっと良書が読みたい。よし、<やっぱりこれからも良い本を選べる能力を持っていられる私でいよう>と、森をサクサク歩きながら改めて思いました。
2015年05月01日(金) |
心と体と繋がり。サプリメントについて思うこと |
数ヶ月前サプリを買おうとしたことがあったけれど、やはり抵抗があったのです。一旦飲み始めるとやめるのが難しくなることもあるとも思いました。それから、健康の助けになるとしてもそれを一生飲んで生きていきたくなる可能性もあるとするならば、それはおかしな気もしたのです。この思いは、子どもの頃にたった数粒の薬を飲むのに抵抗があった自分に似ています。当時、その薬が苦いとかまずいとかいう理由ではなくて、とにかく体が受け付けなかったのです。自分とは違う何かが入ってくることに体が抵抗したのだと思います。
昨今、多くの人々がサプリで健康を補う習慣を持っているのは何故でしょうか?長く生きたい為?疾患を治す為?もしも健康に生きるためだとしたら、別の方法として、ヘルシーな食べ物を食べ前向きな心で生き、エンドルフィンなどのハッピーホルモン、身体に大切な、そして自分で生産できる可能性の高い物質を自分で作り出せるように意識すという方法がありますが、サプリはこれらに取って代わる役割をするのかな?しかし、仮にサプリがそのように作用するものだとしても、人々はそれを長期に渡って買い続けることが出来るでしょうか? 疾患を治す為だとしたら、私はこれまで大きな疾患にかかったことがないので語れることがありませんが、環境の整理をしたり普段の食べ物を見直したり、最も大切な心の整理をしたりする作業はサプリ摂取に比べてどうでしょうか? ちなみに精神科医アリスミラーはその著書の中で、彼女自身の経験として、心の整理で関節炎が治り人工関節を入れなくてもよくなったと語っているけれど?軽い喘息もちの私も私なりの幾つかの方法で、今のところは悪化しない生活を送れているけれど? 将来私も重い疾患にかかって、こんな風に言っていたことを後悔する日がやってくるのでしょうか?
サプリについて考えていた当時、体と心のつながり、サプリと体のつながりについても深く考えました。心と体のつながりは既に明らかだと思います。では、サプリと体のつながりはどうでしょうか?サプリメントとは体の機能を高めるために摂取するものなのだから、東洋医学の部類に入るのでしょうか?しかし、人は他の動物と同じ自然の生き物だということを思い出すと、人も彼らと同じように自然の食べ物を自分に与えてあげる方がよく、つまりサプリとは本来食べ物で取るべきものがどうしてもうまく摂れない時に利用するものではないでしょうか?
サプリメントは永遠に利用し続けられるものでしょうか?お金があれば少なくとも永遠に買い続けることはできるでしょう。しかし、お金はそういつまでもあるものではないし、買えない時もあるかもしれませんし、お金があったとしても果たして本当に永遠に買い続けることが出来るのでしょうか?大地震が来てすべてのお店がなくなったら?信頼していた会社が詐欺をしていたら?仮に、正しいと思っていた、あなたの体とそのサプリとの相互関係に関する情報が科学の進歩で後々間違いだということになってしまったら?
サプリメントは体の機能向上を手伝う物質というのはあっていますか? 仮にそうだとして、毎日欠かさず飲まなければという観念にとらわれるようになってしまったらそれは何故? 人々がいつもそれを持ち歩き、一泊旅行にさえそれを持っていかなければ不安になるのだとしたら、それはサプリ依存ということになりますか? 仮にそうだとしたら、彼らの依存や不安はどこからやってくるのでしょう? 何より、それがなければ不安になる生活は人にとって当たり前のことなのでしょうか?
そもそも、生きることの価値はどこにあるのでしょう?それは命の長さか質か?私の答えは質です。出来るだけ自然な工程の中で作られた手に入れやすいものをおいしく食べ、日常に小さな幸せを見出し、明日を思って眠りに付く。そんな生活を望む私にとって、サプリメントはやはり、今のところ、異物として映ります。
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