「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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夜勤明け。朝の申し送りでは、私が前日申し送られた内容についてのさらに細いことを責任者に尋ねられ、私は答えられず、ダイレクトな怒りが届く中、私はついにため息をついてしまいました。私は今のところ、申し送られた内容をその通りに次のスタッフに申し送ることで精一杯なのですが、その自分を伝えるまでには行き着きませんでした。そして責任者も、私の伝えたことと違う受け取り方をなさっている部分があり、私達は他者からの情報を、自分の持っているもので判断することがよくあるのだと思いました。私はこの時、自分の伝えたことが違う内容で伝わるのはよくないと思いましたので、すぐに「ごめんなさい。私の伝えたことは、これこれです」ともう一度丁寧に伝えました。 そもそも、申し送りというものをどういう形で聞き、どういう形でするといいのか、1ヵ月くらい前からの小さな疑問でもあります。フロア内で「あそこへ申し送りに行くのは嫌だ」という声が聞こえてくることがありますし、ロッカールームでは他のフロアの方も同じことを言っています。つまり、伝えたことによって嫌な気持ちになるような申し送りは私達のストレスの元になっていて、少し広がりすぎかもしれませんが、看護師の離職率を上げる原因の一つになっていると思います。何より、この世界には情報を知っているものが優位のような空気があって、変だなぁと心から思います。 その違和感とは別に、私の伝え方はどうかな?と自分を振り返りました。私も聞き取り違いや伝え間違い、伝え忘れがあり、反省すること多々なのです。 そんな私は今日、知っていることをより少ない時間で簡潔明瞭に伝えられるようになりたい。そのことを練習したいと思いました。とするならば、申し送りの時間はその練習舞台として利用できるよい場所でしょう。 私はさらに、情報をよりよい形で伝えられるように、患者さんのことももっとよく知りたいとさえ思いました。知っていることは優位なこととは違いますが、私の自信になることは確かです。このことは、これまでの経験を思い起こして感じ取ることが出来ます。私は仕事を利用して、よく育つことが出来るのです。 と、本日の結論を書きながら、私は今またまた新しい世界を感じる予感がしてワクワクしてきちゃったのです。そう言えば、知らないということはこれから知ることが出来るということだと、心の父が折に触れて語っています。私は「知る」ことの面白さを体験したい。この、自分に対する好奇心が、心のファシリテイターとして育つために必要なエキスなのです。こんなことを思いつく私って面白い♪
明日から2連休。何をして遊ぼうかな〜。
今日は夜勤入り。明けの明日は責任者に申し送りをするので少し緊張しています。というのは、私は3月に就職してから度々、情報不足のメンバーが責任者から叱責されている様子を見せられてきたからです。 けれども、責任という言葉が浮かんだとき何故か心が落ち着きました。どちらにしてもゆっくり眠れそうになかったので早めに仕事へ行き情報収集して安心した方がいいと思いました。ということで行ってこよ〜。
仕事。今日は久しぶりに忙しい日でしたが、流れに乗って動いていると新しいことも勉強出来て、その分自信になるのでいいです。 明日は夜勤。今日OPをした透析患者さんが明日の夜にはどうなっているかなぁと少し気になります。でもどのようであっても、その時出来た分が出来た分だと思います。 ところで、本日付け朝日新聞で「一年草」と「多年草」の違いを読みました。内容によると、一年草は一度に全てを花芽にしていっせいに花を付けるけれど寿命は一年。多年草は長い時間かけて成長し自分が大きくなって条件が揃うと花の芽になる。つまりせっかく育った自分の体を大切にしながら毎年種を付ける。それぞれは環境に応じた場所で生きているそうです。それから、多年草の中には花芽が出るまでに100年近くかかるものもあるそうなのです。人間はいつも急いで成長しようとするけれど、どちらかに分けるとするならば多年草の側に入ると思いました。自然の観点からみてもその時出来たことが出来たことです。
人事課の方に呼ばれ、所属先の責任者同席して話がありました。内容は「来月から夜勤専属になりますが、あなたの業務はまだ独り立ち出来ていないので、病院としては試用期間を延長するという判断をしました」とのことです。試用期間が延長されても最初に聞いた条件は同じだそうなので何故改めて延長するのか不思議に思いました。そのことを確かめたいと、私の心が言いました。「私は今少し不安になっています。条件は変わらないのに改めて伝えられる理由が何か他にあるのでしょうか?」「特にありませんが、もしこちらの判断が嫌なら考えてもらってもいいということです」。嫌なら辞めてもいいということだと分かりました。私は、条件が変わらないということを確認しメモに残したので、今日のところはそれでいいと思いました。 この後、責任者は「他に聞きたいことがあったら、病棟のことでもなんでも今聞いておくといいよ」と例を出して言い、私はそのことに関連して感じていたことを一つ語りました。すると人事の方が「それはどこの病院でも同じだよ」と言いました。誰もみな、一般社会を基準にしていることがいけないと私は思うのです。 「私は忙しい時や嫌な気持ちを抱えていると人を傷つける言葉を使ってしまうので、丁寧に話すように意識しています」と私が言うと、人事の方は「でも、みんな言いたいことを自分の胸の内に収めて仕事をしているんだよ」。「すみません、私は自分の気持ちを語っているところです」。責任者が「菅野さんは自分で納得しないと動かないもんね。いつもどうしてだろう?なんでだろうと考えているんでしょう?」と言いました。「私は今まで社会に流されて生きていたので、今は自分を大切にして生きるように練習しているところなんです」責任者はクスッと笑い「でも、流れに乗るという生き方もあるよ」と言いました。「そうですよね。私も流れに乗るのが好きです。ただ、マイナスの流れに乗っていたら、私だけのことなら良いですが、私がもし我慢して働いていたら、私の後から入ってきた人にも我慢させてしまいます。私は、それはいけないと思っています」。お二人は少し黙っていました。
内容が伝わったかどうかわかりませんが、私はある時期から、機会があれば自分が大切にしていることを、時には母と重なる責任者の女性に伝えてみたいと思っていましたので、今日その機会を得たことと、私の言葉に耳を傾けてもらえたことも嬉しく思いました。
病棟で購入する本代金の集金がありました。私は個人で購入する金額の分だけ提出しました。私は自分の本が届いたら、他の皆さんにも利用してもらいたいと思っています。自分を大切に出来ていることを嬉しく思いました。 ケアさんの一人が、親族がなくなった忌引き休暇から戻ってきました。「疲れたけど、49日とかなんとか、まだまだいろいろあると思うと疲れたと言っちゃ怒られるでしょ」私は「ごめんなさい。私はそういうことを一切信じない人なのです。疲れたと言ってもいいよ」と言うと彼は「そう?僕自身も全く信じてないんだよ」。 夕方、教育委員会を受け持っているナースが「菅野さんはこれからも勉強会に一切出席しないの?」と聞きました。「わかりません…」。私に分かるのは今の現実なのです。そして、私はいずれ勉強したくなると分かっていますが、その私を待ってもらいたいというのが私の気持ちです。 帰りに「言葉」について思いました。私はどなたかの言葉に影響を受けて何かを引き出し語るように私の言葉も他者の心から何かが引き出されるきっかけになると思うのです。これまでの経験から、社会の言葉は通常マイナスということは分かっているのですから、その中で語っていくのなら今までと同じなのです。 私は、例えば自分を否定されるような言葉が返ってきたとき、それさえも自分のプラスに変わるような返事を伝えることが出来るようになりたいのです。今日は「あの時はこんなふうに言えたなぁ」と昼間の出来事を思い返し、今度はこんなふうに伝えようと次の機会を楽しみにしながら自宅に着きました。
今日は休み。いつもと同じ朝早い時間に目が覚めたので外国の友人にメールを書きました。最近の私のプライベートは英語一色になっています。早く外国へ行けるようになりたいなぁとその日を楽しみにしています。 午後からグランドへ運動をしに行きました。この頃は家と病院の往復ばかりで運動をしていないので久しぶりに動いて体が喜びました。 考えてみると、入職したての頃は家に帰って来たときには眠たいと思っていましたが、最近では睡眠までの2時間を楽しむことが出来るようになっているので、体も心も慣れてきたのだと思います。 来月からは夜勤だけになって今よりも休みが増える予定なので、運動を上手に取り入れて健康を保てるようにしようと楽しみにしています。
今日は夜勤明け。2回目の昨晩は1回目よりも知っていることが増えている分だけ安心でした。(患者さんには選択の余地がないので申し訳ないのですが…)、人々の命が一晩、私の心の判断にゆだねられていると思うと、心が引き締まりましたし嬉しくもなりました。と言って緊張はなく、時には「することが多すぎる…」とつぶやきながらもこなしていきました。途中で仕事中に写真を撮りました。この写真は成長した私として仕事を始めた最初の1枚になりました。 80代の男性患者さんは腸が捻じれて便が出なくなる病気を持っていらっしゃるので私はいつも「今日はどんな便が出ましたか?」とお尋ねします。彼はいつも「台湾バナナが一本」と言い、指でそのサイズを知らせて下さいます。私は「これくらい?」と尋ねて、意図的に小さく表現したり大きくしたりして楽しみます。毎回彼のお腹の音を聞いて「元気に動いていますよ」とお伝えして、時には「もうちょっと出たいと言ってるよ」などと冗談も言います。でも本当に、台湾バナナ1本では小さいのでもう少し出るといいなぁと思っているのです。 こんな会話は看護の教科書では学べませんでしたし、ナースの皆さんに申し送っても意味があるとは捉えられないのが現実です。けれど私は、この小さな会話が彼の心によい作用となり自律神経をよい形で動かし、しいては大きなバナナが出ることにつながっていると思っています。 なごやかな時間を経て朝になり、責任者がくると夜中の空気とは一変しました。あることから怒りを向けられる人が居て、私はその場所に居られなくなりました。何時の時も強い人のストレスは弱い人に向かうと、私自身もそうしてしまわないように気をつけようと改めて思いました。 家に帰ると、未来のことを思いました。 この頃度々、数カ月か一年後か又は数年先の未来のイメージが浮かんでくるのです。私はもう一度外国で暮らしたい。それは今の私の願望ですがきっと実現すると、不思議なほどにそのことに確信を持てている未来予想図です。 行き先は、いろんな角度で見て日本よりも先を歩いているどこかの国です。進んだ国を選ぶことは、私が一人の人として生きることと今よりも成長できること、それから子ども達の親として彼らが望んだときに手伝わせてもらえるような状況の中に身を置いておいておきたい気持ちを満たすことにつながっている。今のところ、全部が叶うと思える、という基準なのです。
今日は午後から、救命救急の講座を受けに行きました。この講座は病院指定の任意の講座ですが、私は受けておきたいと思って参加したので自主的なのです。楽しかったですし勉強になりました。社会には自分を向上させる機会が落ちているので上手に見つけると成長の道具として利用することが出来ます。 私の病院でも勉強会が度々あり、それらは全て任意ですが、背景には強制的な空気が漂っています。若くて力の弱い人達がそれらに参加しないとき管理者から言葉の制裁を受けることもあります。ですから、皆さんは嫌だと思いながら受けているのが現状です。 ちなみに私は先日、早く帰りたいという理由で勉強会に出ませんでした。その影響かどうかわかりませんが勉強会の数日後、「これからは勉強会の出欠を記入する」という決まり事が病院全体で出来ました。私は、これではまるで学校の先生が校則を一つ増やして生徒を締めつけているのと同じだと思いました。 けれども、そんな社会であっても心を大切にして生きているとそれらを上手に利用して成長し、自分により丁寧に生きることが出来ます。それが、社会がよく変わることのきっかけになると思います。
ある男性患者さんは数年前、仕事を探している時に発症したそうです。でも保険証とお金がないので病院に行けず市の窓口に相談したそうです。ところが、一般に言う「たらいまわし」にされ、最終的に救急車で病院へ運ばれた時には、体は死んでしまう寸前になっていて、現在は人工透析を利用して生きていらっしゃるのですが来月退院する予定です。先日その患者さんが言いました。「僕は退院しても、透析があるから何も出来ることがない」。 私はその方に言いました。「あなたはあなたの経験を社会に伝えることが出来ますよ。あなたがそれをすることは、世の中がよく変わるように動くことにつながりますよ。その方法は、探してみるといろいろありますよ。それは、あなたが透析をしていても楽しく生きることになると、私は思いますよ」。その方は天井を見つめて「ふ〜ん」と言い、そのことをイメージしているようでした。 私は心のナースなので、その方が「よく生きたい」とか「こんな生き方がしたい」と自分の未来を思い浮かべそのことをしていけるように手伝うことが出来ると嬉しいのです。 明日はまた休み。きっといい天気です。どこへ運動しに行こうかなぁ…。
初めてのナース一人夜勤(ナースとケアさん一人のペアです)。緊張もありましたが、どちらかというと「どんなだろう?!」のワクワクを多く持って出勤しました。日勤の同僚達は私を見て「ついにその日が来たね」という感じに笑いました。私はふとすると緊張しそうになる気持ちを同僚達に「パワーをもらっておく」と言ったり、彼女達の手に触れさせてもらったりして遊びの中で切り替えました。皆さんは時間が来ると帰って行きましたが、私は不思議にも帰っていく皆さんに見守られているという気持ちがしていました。 残りが最後の一人、責任者だけになった時、二人の患者さんの様態が一度に悪くなりました。私は少し心細くなって、「もう帰っちゃいますよね。そうだ。帰る前にパワーを分けて下さい」と言って責任者の腕に軽く触らせてもらいました。すると責任者は「いいよいいよ。私はもう帰って寝るだけだから、うんと触っておいていいよ」と言って腕を広げました。その腕の柔らかいこと。私は再び自分を伝えていいのだなぁと安心しました。その後、責任者が他の人に「あの子(私)が心細い顔してるからもう少し残っとく」と話しているのが視界に入りました。その様子も私にとっては安心の材料になり、私は丁寧に仕事をしました。 ケアさんと私との二人だけの一晩は、相変わらずすること満載。わずかな食事時間にもコールが鳴って満足に座っていられませんでした。眠くて思考が鈍った時はケアさんと二人で「あ〜眠い眠い」と声に出して目を覚ませました。 夜が明ける頃、前夜のうちに少し持ち直していた急変患者さんの様態が再び悪化しました。でも、こんな場合も急いですることはあるけれど慌てる必要はないのです。最善の判断ができるように、これまでの経験を呼び起こすように自分に耳を澄ませ、その時間を共有しているケアさんに相談したり、またはお願いをしたりしながら出来ることをし、そうしているうちに患者さんは一応落ち着きました。 まもなく、日勤の人たちがやってきました。「朝が来たんだなぁ」と一安心。喜ぶ気持ちにまだ仕事時間だよと言い聞かせ、皆さんに申し送りをして終了しました。すると、出来たことに対する満足感と何かしらのやさしさの中に居ました。それはきっと新しいことに対する好奇心と持って生まれた素直さの中で仕事をしたからだと思います。 帰る前、私は責任者に昨日安心した自分の気持ちを伝えました。責任者は「一晩出来てよかったね。あの患者さんも守ることが出来たよね」と言いました。私は「あれ?」と思いました。自然な死という観点から見てそうしたことがどうかは別にして、私は痰が詰まって呼吸が出来ない方の痰を取り除いて一時的であれ、楽になるよう手伝った。どういえばいいのでしょう。命を手伝ったというような、今までとは違う感覚でそのことを実感しました。 昨日ストロークに利用した責任者は、その前日に申し送りの中で意見を交わした女性と同じでしたが、私は前日の出来事に対してこだわりを持っていませんでした。それは感じた時にその場所でで自分を伝えられたことで終了したからだと思います。少し話が逸れるかもしれませんが、私は社会では常にいろいろな場面に出会います。それは私の価値観とずれていたり一緒であったり、その時々で私の感じることも違っています。一昨日は私の希望と一致したのでしょう。 家に帰ると眠さとは別に、したいことが浮かんできました。心が楽だと切り替えもすぐに出来るのでしょう。 昼寝の後、新聞を読みました。私自身は楽に生きられるようになっているけれど社会には問題が多く、中にはそのことをどうしたらいいか、世の中がもっとよい形に変わることを願っている人が居ることを、新聞の中から知ります。そんな時いつも、「なにかしたい」という思いが広がります。そして、大袈裟だけれど、自分の考えを社会に伝えていくことが私の仕事のような気がしています。そして、何が出来るか、まだ分からないのです。このわからなさが面白いです。
数日前、「病院全体で始まった新しいカルテ記載法について勉強しなければならない。その本を個人で買うかみんなでお金を出し合って病棟に一つ置くか決めて下さい」と尋ねられました。私は病院用のものを負担するには抵抗があったので「自分で買います」と伝えました。ところが今日は「その本はみんなでお金を負担して病棟に一冊置いて下さい」と指示が出ました。私はそのことに違和感を持ち、先日の面談の残念さも手伝って、何か言わなければと思いました。とっさに浮かんだのは「自分で買う人も病棟用に買う分のお金を出す必要があるかどうか、アンケートを取ってもらえますか?」という言葉でした。「何のために?病院は今新しいことを勉強しようとしているから必要なものです」「それはわかります。なので病院用の物品を働く人が負担する必要があるのかどうかを確かめてもらいたいです」「じゃあ、あなたの分は私が負担します。でもあなたはステーションのものを一切見ないでください」 「そんなふうに言われると…」「病院は全体で発展していこうとしているんです。私達はその指示を受けて動いてるし、働いている以上はここの指示に従わなくてはいけないんです」「わかります。ただ、いつも、こう決まったからこうしてと命令だけで説明がないので、私はどうしたらいいのか分かりません」「それはあなたが知らないだけです。この病院では前からこのような方法で行こうと皆で協力してやっているんです」「私が来てからも色々と変わっています。私は、こんな方法になりましたがどうですか?とひとつずつ尋ねてもらいたいです」「そんなことは出来ません。それを知りたいのなら、パソコンの中に議事録があるのでそれを読んでください」「時間があれば出来ますが、その時間はありません。だから、一つずつ…。何かが変わった時は一つずつ、その都度丁寧に、尋ねてもらいたいです」。 申し送りの中なので殆どのスタッフが私達のやりとりを見ていました。責任者は時々周りを見渡しましたが皆さんは黙っていました。 責任者はその後も何か言っていましたが、私はもう聞けなくなりました。 「ごめんなさい。私は自分の感じたことを伝えさせてもらいました。そのことに対して、命令とか指示で上からかぶせられると何も言えなくなります。もっと、そのことがよくなるように会話をしたいです。こんな意見があって、じゃ、どうしようかという形ような…」「じゃ、あなたは私の話を聞かなくてもいいです。私はもうあなたに何も言いません」「そういうふうに言われると何も言えなくなります」。 話はうやむやな形で終わりました。でも、私は感じたことを感じた時に伝えられたので、それでいいと思いました。 後から、ケアさんの一人が「菅野さんは偉いよ。初心を大切にしてる」と言いました。もう少し後ナースの一人が「ここだけの話だけど、他のところではみんな上の人が揃えてくれたよ。だいたいそうするものよ」と言いました。私が「そうでしょうね」と言うと、彼女は「でも、ここは個人病院だから」と続けました。私はもう、限られた場所でしか話せない会話をしたくありませんでした。嫌な気持ちが否定の言葉を引き出して「そう言っていたら何も変わらないから」と答えました。私も自分をよりよく伝えられるように勉強が必要です。 帰りの電車内で今日の出来事を振り返りました。申し送りの後、私は責任者とすれ違う時には緊張しましたが、すぐに思いきって声をかけ、同じように仕事をしました。年上の女性に感じたことを感じたままに伝えられたことは私の能力になりましたし、責任者からそれ以前と同じように接してもらえたことは、私の心の安定の手助けにもなりました。 母のことが浮かびました。母は、私が何かを訴えると私を無視しいじめました。でも、私はもう大人です。今の能力を心に沁み込ませて自分を守ることが出来ます。嬉しい変化なのです。
明日は初めての一人夜勤です。朝寝坊が出来るのでうれしいです。
一昨日の夜勤と昨日の個人面談の疲れとで、遊びに行きたい気持ちはあるのに行動が追いつきませんでした。それでも自転車で散策しました。空が青くて向こうの方まで澄み切っていて、本当に気持ち良かった。 そんな中、人生はゆったりでいいのだなぁと確認もしました。 いろんなことは、その結果よりもそれをしたというところにあるのですねぇ。それは、お金や物に変えられない、心の財産だと思います。
職場で個人面談がありました。ところがそれが、私にとっては個人的な部分にまで介入されたと感じる形で終わったのです。もともと面談の場所は狭い空間に元気のよい年上の女性と二人、というシチュエーションの中、私は少し緊張していて、責任者の言葉に何も言えずに終わりました。 面談については「どんなかなぁ?」の思いで受けてみたことなので、半年後の再面談をどうするか決める材料になったと思いました。半年後、再び受けてもいいし遠慮してもいいのです。 今日は夜勤の疲れが残っていて、眠たくて疲れました。明日は休みなのでゆっくり休養しましょう。
今日は夜勤明けです。今回は先輩ナースと一緒で次回からは私一人になるので夜中に患者さんが急変した時の方法などを学ぼうという思いも持って向かいましたが、幸いにも患者さんは安定していました。しかし…絶え間なくすることがあって、食事の時に30分くらい休憩した後は朝まで、時々お茶は飲めましたが、カルテの入力以外はずっと立ち仕事。「朝までに終われるのかしら??」と焦る気持ちが沸いてくるくらいにすることがありました。 終盤が近づいた時、先輩ナースが「これとこれがもう少し出来るといいんだけど…心配だなぁ」と言いました。「そうですね。私は、今日は2回目なので、これとこれができたなぁと思ったり、あと何ヶ月かしたらあなたと同じくらいに動けるようになるなぁと思ったりしています」と答えました。私は本当に数カ月すると出来るようになると思っています。このことの根拠は、2か月前こんなにたくさんのことをするの??と疑問の中に居た私が今ではそのことが出来るようになっているからです。けれども、入院患者さんの多くが高齢や寝たきりの方となっている場所で色々な処置が他のナースと同じように出来るようになるということは、嬉しくもあり複雑でもありました。 自宅に付き新聞を開くと「死を不自然に引き延ばさないで」という見出しの記事が目に入り、私の心とLinkしました。病院の流れに乗れるということは、人の死を不自然に引き延ばすことの流れに乗っているのと同じことだと思うのです。病院に不自然さがあるのは、お金や宗教や人々の間違った固定観念などいろいろな不自然なことが混ざり合っているからだと思います。 しばらく後、このことに関する新しい考えが浮かびました。 新聞の記事を書かれた方は医療の外に居る女性でした。その女性と私は同じ価値観を持っていて、違いはその事に関して中に居るか外に居るかということでした。そして、外に居る人は訴えることが出来ます。逆に中に居る人はそのことに直接関わって、よりよく変えることが出来るかもしれないのです。この考えが浮かんだとき、何かが出来そうだと思い、嬉しくなりました。と言っても、何をどうしたらいいのか、相変わらず分からないのです。ただ、自分の感じていることを信頼して明日も仕事に行く。その繰り返しです。そこに居ることが私の人生のために意味のあることと思えています。 明日は朝から仕事。今日は、昨日の分も早く寝ます。
行きの電車の中で、今日の業務内容を浮かべてシュミレーションをしました。私はまだ分からないことはありますが、少なくとも1ヵ月前よりも楽に動けるようになっています。それに、最近では他の方を手伝うこともできるようになっています。 実は、そんな私を確認したのは数日前。その時、自分の歩く先に何かがあるような気がしました。それが何かその時点では分かりませんでしたが今日、その答えを思いつきました。それは、私の掴んだことを他者に、よりよい形で伝えていくということです。 私の思う「よりよい」とは、頑張りや要求とは違う形をしていて、その方ご自身が自らの成長を実感することが出来て、もちろん私自身も、その事に関しての手ごたえを実感出来る方法です。具体的に何をするのかまだ分かりませんが、それは私自身が自分によい方法で仕事が出来て初めて分かることだと思います。 そういえば、看護学生の頃「質の向上」という言葉を習いました。当時は「患者さんに対して看護の質を高める」ということしか思い浮かびませんでしたが、今は自分に対してよいケアをした分だけ看護するときにも、その方法を他の方へ伝えるときにもよい方法で出来ると感じています。仕事以前に、私はいつも中身の濃い意義のある人生を送りたい。そう思って生きることが、実際にその足跡を残す形につながるでしょう。 けれど、今の私には気をつけなければ落ちてしまう穴があるのです。それは、過去よりも楽に社会参加できるようになったことで安心しきってしまうことです。この安心は時に、社会の間違った価値観に対してさえ「これくらいは、いいかも…」という妥協を呼び、いつの間にかマイナスの社会に流されているのです。そんな時は、置いてきてしまった何かを別の何かで満たそうとして気付かないうちに道が逸れているのです。 もちろん、私はいつもそんな自分に気付くたびに安心します。気付いた時点で原点に帰ればいいからです。「変わりたい、今よりも良くなりたい」という向上心と好奇心があればいつも自分をよく育てることが出来ます。 このようなことに関連して、私には心の作業を続けることが必要だと改めて感じます。よく生きるための必須科目です。 私が心の作業に利用しているのは、『インナーチャイルド 本当のあなたを取り戻す方法』(ジョン・ブラッドショー NHK出版)という本です。この本は、私が最も苦しかった時期に藁にもすがる思いで読み進め、現在もその効果を信頼している一冊です。興味をお持ちになった方はぜひお読みになってみて下さい。
休日。小雨が降る中、買い物へ行ったり料理を作ったり、休日だからこそ出来ることをして過ごしました。 普段気付かない自分に気付く出来事もあり、改めて知った自分を興味深く思いました。 人間はいつも成長の過程にあり、それは母のお腹に居る赤ちゃんも今こそ命が終わる人も、もちろん私も同じ。私は今の自分をありのまま認めた分だけ、いつまでも良く成長できると確認しました。それに、私は言葉を大切にして語っていると、周囲からもやさしい言葉を聞くことも出来ます。 自然に沿って生きていると自然にこのように生きることが出来ます。
昼休みは私の時間。好きなことをしていいので、今日は休憩室に入らず別の場所で新聞を読んで過ごしました。理由は、誹謗中傷や噂話が続くからです。私も過去は、言葉を知らないために本当の気持ちと外れた発言をして損をしていることがありましたが、最近では「その発言にはこんなアイデアがあるなぁ〜」とプラスの発想が浮かびます。そして、浮かんだアイデアは、そのことが私の問題になった時にそうすればいいことなので、発言は控えています。 今職場では、個人のスキルアップを目指す目的で責任者との個人面談が行われています。今日責任者は「もうすぐあなたの番がやってくるよ。どんどん行くよ」と勢いよく言いました。私はこれまで面談は受けておけば済むことと思っていましたが、今日になって、私のスキルは私がそのことに興味を持ったときに最もよく伸びるのだし、私は可能性の目を持っているのだし、私のスキルを伸ばすために私の望んだ時のみ手伝ってもらえるようになればいいなぁと思いました。 面談の他に、今週末には床ずれの勉強会が夜の時間帯にあるのです。一人のナースは先日「その日は休みだ。よかった。…なんちゃって、こんなこと言っちゃいかんけどネ」と言いました。私は、言ってもいいと思います。なぜなら、上の人は強制するということで私達の可能性をつぶしているからです。私はその日仕事ですが、興味が沸いてきたら参加する予定です。 今日は5連勤の最終日。偶然にもそれほど忙しい日がなく体も楽でした。心が疲れると体がサインを出してくれますが、今回は心の疲れも少なく、あったとしても早いうちに消化できたみたいです。いつも感じたことを大切にして動くと楽です。
検温に廻っている時、テレビで日本の今の首相に対する芸能人の討論会のようなものが流れていました。ご家族が「今の首相は頼りない」と言いました。私は政治のことで私が知っているのはごく一部なので「そう言われる方が多いですね」と答えました。その後、経済的に裕福な方と余裕のない方との差という話題にもなりました。私が「お金がある位置からお金のない人を見て可哀そうだと言っているのではいけないよね」と言うと「そうそう、そういうのは一番人を傷つける。誰でもそうだけど、本当にその人のことを理解して言っているのかどうか、すぐにわかるよね」とご家族。「そうですよね。でも、実は私も看護師の免許があるので、患者さんを上から見ていることがあると思います」と言い、これからも自分を大切にして働こうと思いました。 今日は日曜日で人数が少なかったので、昼休みは私と30代後半の男性と二人で過ごしました。2畳くらいの部屋に男性と二人。その男性は元気がよくて仕事も早いので、私は就職したばかりのころ彼のペースに巻き込まれないように意識していましたが、今日は楽に過ごせていたと思います。 私の場合はどなたと話す時も同じですが、たいてい最初は相手の話を聞くことで終わります。自分の考えがまとまる前に言葉にすると、せっかくプラスのことを言っても軽く受け取られたり、又は言いたいことが伝わらなかったりするので、本当に私のものになっていることを語れればそれでいいと思っています。このように考えると「聴く」ということも丁寧に語るための情報収集なのかな…。
ということで、5連勤の4日目も無事に終わりました。明日働いたらやっとお休みなのです。嬉しいな。
昨日の出来事の延長で、病院の周りを案内していただけました。私を案内して下さった方は「昨日怒っちゃったから…」と通りで出会う職員に説明をしていました。私はその言葉を興味深く聞きました。 病院の敷地内には老人健康保健施設がありました。天井から床まで木で出来た、大きくてきれいな施設です。利用者さんは具合が悪くなったら隣の病院へ移って治療を受け、よくなったら又施設へ戻る。おそらく、その流れの繰り返しなのです。どこかで書いたことがありますが、ドーナツの中をぐるぐる回っている、という印象を受けました。このことは、おそらく私の職場だけでなく日本の医療社会全体がそのようになっていると、過去の経験を合わせて思います。 関連する話題ですが、先日、私のフロアで急変して他の場所へ移動した患者さんが亡くなりました。私はその方の受け持ちだったナースから「彼女が枕元に出てきて、“楽になったよ。ありがとう”と言った」と聞きました。彼女の言葉は彼女のものなのでいいのですが、私はその時「楽になったよ」の意味を思いました。私はいつも患者さんの痰が詰まったら吸引をして痰を引く。その後呼吸は楽になるのだからいいことのはずなのだけど、果たしてご本人がそうして生きていることを望んでいらっしゃるかどうか…。私の働く療養科という場所は高齢か寝たきりで意思疎通の図れない方が多く、大体はこちらの判断で処置をさせてもらっています。寝たきりになった時、私ならしてほしくないことをしていることが多々ある、と思っているのは私一人なのでしょうか。いろんな事は、自然の流れの中でも必要なことなのかどうか…。 と言っている私も無意識のうちに社会の流れに乗っていることがありますから、心を基準にして看護をするように意識しています。そして、今の私に出来ることを少しずつしています。 幸いにも、私の受け持ち患者さんは会話が出来る方ばかり。その方達と語り合い、医療のことを少し手伝わせて頂きながら成長するきっかけを得ています。
昨日のこと。私は60歳代のナースの一人に、その方が受け持っている患者さんの処置について尋ねました。けれど彼女は怒っていて…。私は、ナースの怒りは私のせいではないとわかったので黙りましたが、私も怒りを感じました。その後、私がそのことを忘れて仕事をしていたら、そのナースは「さっき言われたことやけど、今日はあの部屋の人が急変して大変やのに、こっちの部屋の人はこれを早くしてと言うてくるし、もうやってられんと思って。ほんとイライラするわ。私はどうせ後3日でやめるし(部署を変わるのです)、もう何でもええわ」と伝えに来ました。私は何も言いませんでした。 そして今日、そのナースが「昨日のことやけど、忙しすぎてイライラしとってん」と言いに来ました。私は自分を振り返って準備OK。「私は丁寧に聞きました。あなたは私に怒りました。私はあなたに何か怒られることを言ったのかなぁと自分を振り返りました。でも、何がいけなかったのか分かりませんでした。ただ怒られて本当に悲しかった」「ごめんごめん。あなたが悪いんじゃないよ。イライラしとってん。ごめんごめん」。その表情は、昨日とは違っていました。私は自分を伝えられたので、その出来事は私の中では終わりになりました。怒りを伝える私の話を聞いてもらえてよかったと思いました。 昼休みは3人のナースと過ごしました。私は電子辞書で遊んでいましたが、他の二人は共通の話題で楽しんでいるようでした。ところが、そのうち一人のナースが部屋を出ていくと、残った一人が出て行ったばかりの人の批判をし始めました。私はそれを聞きたくありませんでした。「ごめんなさい。私は人の陰口を聞くと困るんです。もしも私に、他の人の陰口を言う人がいたら、私も陰でそんなふうに言われているのかなぁと心配になります。それに、たった今同じ話題で笑い合っていたのに、すぐ後にその人のことを悪く言っているのを聞くと…なんというか…信頼という言葉が浮かぶので…。例えば、こんな事があったんだけど、どうしたらいいかなぁ?という話ならいくらもできるんだけど…」。私がそう言うと、そのナースは「そっかそっか。あんたはいい考え持っとる。それがいいわ」と言いました。そしてもう一度「だけど昨日なぁ…あ、ごめんごめん。これでもう終わりにするわな。昨日はほんと大変やったから…」と。昼休みのナースと朝会話したナースは同じ方なのです。二人で少し笑いました。 午後、別の方が「誰か、ある場所に届け物をしてほしい」と言いました。私は手が空いていたのですがその場所を知りません。「行きたいですが、場所が分かれば…」と言うと、その方は地図を書いてくれようとしました。ところが途中で地図を描くのが大変になったそうで「もう、めんどくさい。自分で行った方が早いわ。暇なときに病院の周りを散歩するとかして道くらい覚えといて」と言いました。私が「そんなこと出来ません」ととっさに言ってしまったので、お返しの言葉も受けて嫌な気持ちなりました。 結局別の方が行くことになり、私は手伝いたい心をつぶされた気持ち。「あーあ。私は手伝おうとした為に関係ないことで怒られてしまいました」と独り言を言いました。すると、私に地図を書いてくれようとした方が私の肩をぽんと叩いて恥ずかしそうな顔をしました。それから「今度、天気のいい日にその場所を案内するからね」と、帰るまでに2回言いました。今日もまた、積極的に自分を伝えた日。自分を伝える練習が出来てよかったなぁ〜の本日です。
先日、英語の歌を覚えたいと思ったとき、英語に興味を持っている私の娘が外国のグループの歌をメールで書いてくるのを思い出して、「お勧めがあったら参考程度に教えてもらいたいなぁ」と伝えてみたら、すぐに「We are the world」と他に娘自身の好きなグループ名を書いたメールが届きました。 そういえばそれより前の頃「i-pod」や「i-phone」について尋ねてみた時にも、すぐに説明が届きました。尋ねる前は、子どもに聞いてもいいことかしら?と迷いの気持ちを少し持っていましたが、聞き始めて間もなく、分からないことはそのことを知っている人に尋ねていいし、尋ねる人が娘達の場合は母と子の会話になると分かりました。それから、素直に尋ねられる自分がくすぐったくなりました。 娘から情報を得た「We are the world」。私もさびの部分だけは知っていたのですぐに聴いてみました。 すると、歌に集中している自分の中から不思議な気持ちが沸いてきて、まもなくそれは少女がテレビの中にあこがれの人を見つけて、その世界で楽しむ気持ちだと感じました。もしかしたら、誰もが通るのかもしれない子ども時代の通過点のような、「好きなことを楽しむ空間」のような…。または「個の世界」を楽しんでいるような感覚です。ただ、この世界は心が満たされた状態の子どもでも通る道かどうかはわからないのですが、いずれにしても、過去の不足部分を体験している気持ちなのでした。
仕事は今日から5日間連続勤務なので余力を残せるように働こうと、朝の通勤電車の中で浮かべていたのですが、一日が終わってみると自然にそうなっていました。きっと、感じたままに動いたからです。
休日。4時に目が覚めて二度寝して6時に起床。今日もいい天気です。 まず、日記を入れました。その後、7月から始める「育つ会」のページを作りはじめましたが、思ったよりも時間がかかって目も疲れてきて、何より体が運動モードになったので、グローブを持って外に出ました。 近くのグランドへ行ってみると少年サッカークラブが練習していました。又別の場所も使用中。行き先をバッティングセンターへ、こちらは心の父と行きました。腰を回転させる時の気持ちよさ。素振りをしていないのに、打ったあとの爽快感がいいフォームだよと知らせてくれる事さえありました。 そのあと昼ご飯を食べながら心の話をしました。今日も心を語る自分に安心しました。今は過去よりも良く生きているけれど更に少し良く生きるための知恵をもっとつかみたいと思いました。 しばらく運動していないせいか体が動きたがったので、日暮れ前にもう一度公園へ行きました。でもやっぱり使用中。一度家に帰って再びホームページを微調整。時計は18時を回りました。けれどやっぱり運動したいモード。きっと、パソコン操作が多いので体がサインを出してくれているのだと思いました。 もう辺りが暗くなった後、もう一度近くの公園へ向かいました。公園の少し手前まで行くとナイトゲーム用の照明が点灯しているのが見えました。今度は、野球グループがノックの練習をしていました。 私はしばらく眺めていました。(ボールが転がってきたら…)と思っていたら転がってきた…。「私も一緒に捕らせてもらいたいんですが…」「あ〜、いいですよョ」。よかったよかった。こんなとき、いつも女の子は得だなぁと思うのです。 セカンドの位置で捕って1塁や3塁へ返すというのをしました。それから「GET2」というのもしました。「GET2」というのは、一つの打球でアウトを二つ取ることを言うと思います。以前から何度も説明を聞いていましたが実際にしてみたのは初めてです。してみてやっと、今まで聞いていてことが体で分かりましたョ。 グランドの皆さんは球が飛んでくるとき、両腕を外側に大きく開いてボールを待って、海の波を掬いあげるような体勢をしていました。私も真似をしてゴロ球が捕れました。捕れなかったときは「グローブが反対だよー」などと知らせてもらえました。それでも捕れなかった時はたぶん女の子ちゃん走りだったのだと思います。もうそろそろ終わろうかなあと思っていたら、終わりになりました。気持ちよかった。体の欲求に沿って動いてみてよかったです。 寝る前に、鳩山首相のツイッターをチェックしました。最近政治の話題を読む延長で鳩山さんのつぶやきを見つけたので、私のパソコンのデスクトップに5ミリ四方くらいの彼の顔写真があるのです。(Linkボタンが顔写真になっているのです)。時々、何をつぶやいているかなぁとチェックします。鳩山さんはご自分をフォロー(LINKを貼った)する人全員をご自身もフォローするそうなので、私は個人で動くのが好きなので政治の党に特別の思い入れはないのですが、日本をよくしようと動いている方に、私のプラスのつぶやきに気付いてもらえれば、それはそれでいいなぁと思っているのです。
仕事。先日の私の休み中にフロア内で何かがあったらしく、今日も不満を吐露する話題が続き、人々の性格を血液型で振り分ける方も居ました。私も血液型を尋ねられましたが、「私はたった4つの形に自分を当てはめると、自分がかわいそうだと思う人なのです…」と答えました。 話題は昼休みも続きましたが、人々の会話に耳を澄ませていると最終的には心の負担の部分へ辿り着きました。あるとき発言してみました。「みんな仕事で疲れきっていて、どうしたら本当によくなるかを練るエネルギーがないですよねぇ。余力が残せる形で働けるように環境が整うといいんですよね…」「それはわかるけど、仕事と結婚(しなさいと言われる)と、趣味で始めた武道でさえ周りに攻め込まれてて仕方なくやって、ゲームに逃げてる」。いつも携帯でゲームをしている若い女性ナースが言いました。「外国に行ってみると価値観が変わる」。外国に行ったことのあるシングルマザーのケアさんの意見は私と一致しました。「勉強なんて、もう出来ん」。私よりも年上で胃を痛めているナースは言いました。私は「勉強は、本当は楽しいものなのですよ。きらいにさせられちゃったんですよねぇ」「そうなんだ…」。 話はさらに広がりました。「動けばいいということはわかるけどすぐに内にこもってゲームに逃げちゃう」「できないと思っていることでも、してみると意外に出来ることがありますョ」。私は先日のカンファレンスのとき責任者や他のメンバー数人の前で伝えたことを今日もう一度伝え「あったことをありのまま正しく伝えると、伝えた分だけ伝わって変わっていくと思っています。なので、自分を大切にするのがいい…と気付いたのは40歳を過ぎてからのことです」。ちょうど昼休み終わりました。 今日は人々の語りを黙って聞いているということを超えて、自分を語るということをしてみた日。心を通した会話が出来て、プラスの余韻を残した昼休みでした。
午後、一人のドクターがフロアへやってきました。老人保健施設に入所予約をしていた患者さんの一人が亡くなったという話を聞きました。その患者さんはこの半年間入所できる日を待ちつつ予約費用を支払っていたそうです。でも、亡くなってしまったので施設には入れないのです。待っている間もお金を払わなくてはいけないなんて変だと思いましたが、日本の国のシステムがそのようになっているそうです。私はひどい話だと思ったので「先生、先生はよい資格を一つ持っていて社会を動かす力があると思うから弱い人が楽に生きるのを手伝って下さい」と言ってみました。ドクターは黙っていました。 昨日のブラジル男性の話題も含めて世の中には私の知らない世界がまだまだたくさんあります。よいことも悪いことも合わせて、もっと社会を知りたいと思いました。
帰る時間になりました。昨日は同じ時刻に患者さんが急変したので遅くなり駅まで歩いて帰りましたが、今日は受け持ち患者さんのところへあいさつに行く余裕がありました。「明日は休みなので、また明後日お願いします。今日一日ありがとうございました」。その患者さんはちょうどお熱があったので握手した私の手の冷たさが気持ちいいと言いました。「明日は休み?淋しいわぁ。でも仕方ないね。ゆっくり休んでね。明後日ね」。合わせた手をスリスリ。利用していただけることの喜びがここにもありました。
今日は責任者がお休みで、働く皆さんが自由だったのです。そのせいか、日ごろ言えないと思われる不満の言葉が耳に入り、昼休みになると拍車がかかりました。皆さんの不満はたいてい言葉の問題で、それは私も共感する部分なのですが、私の場合は当事者の居ないところで話をすると楽しくありません。同じ空間に居ることに耐えられなくなったので部屋の外に出ました。 行く場所を探して屋上へ行くと、日系3世のブラジル人男性のケアさんが居ました。彼は日本の永住権を持っていますが、最近お子さんが生まれたので、日本の国籍を取得したいそうです。でも、それには50万円も費用がかかるのですぐには出来ないということでした。私はその値段に驚きました。この社会で、国籍を変える為の書類作りに50万円もかかるとは到底思えませんでした。私がその気持ちを言葉にすると彼は何と言っていいかわからないというように、はにかんだように笑いました。彼の笑顔には、ベッドサイドに立っている時と同じ落ち着きとやさしさがあって心地よく思いました。わずか10分くらいの時間でしたが、いい昼休みを過ごせたなぁと思いました。 そういえば先日の朝日新聞で、ある外国の首相が、指示を受けているある女性と語り合って席を離れた後、その女性のことを批判した言葉を外し忘れたマイクに拾われて支持率急降下という記事が載っていました。言葉の問題において外国でも日本と同じ現実があるということなのでしょう。私は、世界共通の課題なのだと思いました。 私は、他者との関わりの中で自分と違う意見に出会ったり、価値観の違いから違和感を感じたりすることは自然なことだと思います。そして、例えば価値観の違いから生じる違和感や時には不快と感じる気持ちを上手に消化するにはどんな方法があるかなぁと言葉選びを楽しんでいます。それから、最近では、自分に良い形で伝えられるようになるまで自分を待てるようになりました。さらに、もっと瞬時に伝えられるようになりたいと日々アンテナを張っています。 このように意識して過ごしているうちに、ある日「こんなふうに伝えてみよう」と言葉が浮かんでくるので不思議です。時には間違った言い方をしてしまうこともありますが、そんな時は次のステップに利用してきました。一般社会の方法から離れた世界は楽ちんです。今は、前向きな会話の中で仕事が出来るようになるためには、私はどうしたらいいかなぁと、その方法を探しています。
今日もお休みです。数日分の新聞をゆっくり読みました。中に、「政府から、最先端・次世代研究開発支援プログラム(500億円)の公募」案内が出ていました。研究テーマは二つあり、その一つは「健康社会実現のためのライフ・イノベーション」だそうです。私も公募に応募できるかなぁと調べてみると、4年制大学を出て現在研究室に所属している人という条件付き。私には社会がよくなることの一端になりたいという思いがあるのに入口が狭いと思いました。でも大丈夫。私は私に出来ることをして楽しんでいればいいのです。 今日の楽しみはヨモギ採りでした。庄内側の河川敷。天気もよかったのでたくさん人がいました。私はまず、しろつめ草の上に寝転んで広くて青い空を見渡しました。それから、草花が吸っているきれいな空気を、私も体の隅々に届けたくて深呼吸しました。適度な暖かさと草の香りが心地良くて眠ってしまいそうでした。 夜はヨモギの卵とじ。楽しく栄養補給をして心も体も喜びましたョ。
今日はお休み。午前中、地下鉄東別院駅の近くにある女性会館という場所へ行き、会場の予約をしてきました。会場は心を語る場所として利用します。2か月先の予約なので7月からの始まりになります。会館の掲示板に募集要項のポスターを、それから、会員募集のチラシも置かせて頂きました。今まで自宅でしていたことの場所が変わるだけなのですが、新しいことを始める時のように新鮮な気持ちです。 帰りに栄へ寄りました。今、買いたい物が3つあるのですが買い物も優先順位に沿っているので、今日は実際に市場にそれがあることを確認して、見て触れて楽しんで、いつか私のものになる日を楽しみにしてそれらとお別れしました。 午後はのんびりタイム。最近の動きを振り返りました。心の安定は次の発想につながります。又、楽しみの中で生きていると、楽しみを先延ばしにすることも出来ます。それも流れの中で自然にそう出来るようです。 夜、久しぶりに英語の勉強をしました。少し話がそれますが、私は最近、小鳥のようにきれいな声のアメリカ英語を聞けるホームページを見つけたので毎日のように聞いています。そのせいか、ほんの少しだけど前よりも聞き取りが楽に出来るようになっているみたい。 明日も休みです。明日は少し看護の勉強をする予定でしたが、天気がよさそうなので河川敷にヨモギを取りに行こうかなぁ〜。
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