「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2009年11月30日(月) 配置

 東京へ行っている間に貯まった郵便物の中に本の料金を振り込んで下さったお知らせ封筒が2名分もありました。私のミスで確認が出来ないまま日にちが過ぎていたので遅れてしまった方には電話で連絡をしました。お二人とも「日記を読んでいたから…楽しみにして待っていました」と返事を下さいました。振り込み詐欺などが横行している世の中。遠方で初対面の方もいらしたので「楽しみにして」という言葉が心地よく響き、私もいつもやさしく生きようと思いました。
 本について、郵送用の文章を作っている時に気付いたのですが、私の本はどの章から読んでも大丈夫だなぁと思いました。ちなみに、理想の父の一人でフランス人哲学者ルソーが『エミール』(上)の始めにご自身の本について同じようなことを書いているので、彼と同じ書棚になれべられる本のような気がして嬉しくなりました。と言っても私のものは、ここをこうするともっと読みやすかったかなぁという反省の中で浮かんだ発想なのです。あらっ?ルソーも同じだったのかしら?


2009年11月29日(日) 新しい未来

 昨晩23時前、名古屋へ向かうバスに乗りました。一晩過ごした夜行バスの旅は乗車前に梅酒を飲んでおいたせいか初回よりも楽に過ごせました。前回の経験を生かして寝る体制にもコツをつかめたことも大きかったのでしょう。小さい体を座席の足元辺りまで下げてひじ掛けを枕にして入眠。休憩でサービスエリアに着くと明かりが付くのでトイレに行き、今度は反対の方に曲がって入眠。腰を痛めずに済む体勢です。子どもの頃から小さい体にコンプレックスを持たされていましたが最近は便利で嬉しいと度々思います。
 早朝5時に名古屋へ到着。少し荷物が増えて重くなったスーツケースをゴロゴロ引いて夜明け前の名古屋の道を歩きました。初回に帰ってきた時とは違う感覚。「帰って来たんだなぁ。2回目の景色なんだなぁ。2回も子どもに会いに行けたんだなぁ」と思いました。そのとき、東京で目覚まし時刻にセットしていた音楽が鳴りました。私は毎朝子ども達の朝起きを、前の晩に頼まれた分だけ手伝いましたが、その寝顔にそっと声をかける時、過去とは違う・やさしい気持でそこにいる私を確認しました。(ただし子どもには「お母さんの起こし方は、もっと眠くなっちゃう・まだ寝てていいよという起こし方だよ」と言われて笑い話になりました…。)
出来たことを挙げてみると、頼んでもらえたことをすぐにするとそのことさえも私の自信になると学びました。その理由は『インナーチャイルド』(P301)に「子どもは直感的に、ある人が時間をかけて構うものは、その人が愛しているものであることを知っています」と書いてあるのですが、私は「子どもは親が何を大切にしているかを感じている」と思うからです。反対に「行ってらっしゃい」や「おはよう」の声かけは相手に返事を要求する言葉なのだと改めて気付かされました。その気付きをきっかけに次への階段を上る私を確認する事も出来ました。
それからこんな事もありました。私が荷物整理をしていた時、トランクから短くて縮れた毛が一本出てきたのです。私はそれを拾って「これは誰のかなぁ?」と傍に居た娘に尋ねました。娘は最初、(えっ?)という表情をしました。その私達の傍に別の娘が「何?」と寄ってきました。私は「これなんだけど、私のかなぁ?」と冗談を交えて言い、最初の娘は「それは私のじゃない。お母さんのだよ。だって…」と言い、後から来た娘は少し恥ずかしそうに笑い、その私達から少し離れた場所ではもう一人の娘がクスッと笑っていました。
私はかねてから子ども達と、大人になることや性について語り合いたいと思っていたので、自然な形でそのように出来たことを嬉しく思いました。楽に生きていると傍に落ちている小さなものもそのことを語るきっかけに利用出来るようです。
私自身は子どもの頃に、このような機会はありませんでしたが、「性」は家族や親子で語り合ってもいいこと・語りあう必要があることだと思っています。そして、母の私が女性の体を語ることは娘達が女性の自分を知る原点のような気持ちもしています。
ということで2週間の旅は出来たことが重なって終了しました。又、新しい未来が待っています。


2009年11月28日(土) 未来の為の今

 今日は名古屋へ帰る日ですが、日中は2番目の子どもと高校見学へ行きました。今回の約束の一つでした。
現地に早目に着いたので傍の公園で野球練習の様子を眺めました。子どもはテニスを楽しんでいるのですが「投げてみたい。やらせて〜」と何度か言いました。見たもの聞いたことに興味が湧くのは自然なことなのです。そして私も「高校見学に来るのにグローブが要るとは思いもしなかったねぇ」と言いました。
 見学の時間になって高校へ入りました。授業見学がありました。耳に残ったのは生徒さんを「おまえ」と呼ぶ教師の言葉でした。生徒さん達は笑っていましたし街中では子どもさん同士で「おれ」「お前」と呼びあっているのを見かけることもあるので呼ばれる生徒さんにも違和感はないのかもしれません。けれども…世界共通の英語ではどんな人と語り合う時も「私」と「あなた」だなぁと思うと…私は将来世界に羽ばたくかもしれない日本の子ども達のことを世界共通の言葉で丁寧に呼んでもらえたら…と思いました。
 体育館で説明会がありました。保護者からの質疑応答の時間になり、私も質問してみたいことが浮かびました。けれども、その学校に通うのは子どもなので私が質問をすることは子どもの境界線を越えることかなあ?と思い、質問をしませんでした。
学校長のスピーチでは子どもさんたちに「茶髪の人は居ませんから安心して下さい」と語っていらっしゃいました。私は(こちらの学校では、茶髪はいけないという基準を持っているのだなぁ)と思いました。ちなみに私自身は髪の毛もファッションも、すべてその人・その子どもさんの個人の問題だと捉えています。
 帰りに、子どもと2つの事を語り合いました。1つは茶髪のこと。一般社会に否定されている「茶髪」というものを子ども自身はどう感じているのかなぁ?と興味が湧いたのです。私は子どもに「茶髪をどう思うか聞いてもいい?」と尋ねました。子どもは「(茶髪の人は)居ないほうがいいけど、自分はしてみたい」と言いました。私は「そうなんだね」とだけ言い、心の中で(この子がしてみたいことが出来るように手伝いたい)と思いました。
もう1つは、質問を控えた自分がどうだったのか確認したくて湧いた質問でした。
「私ね、質疑応答の時に質問が浮かんだのだけど、この学校に通うのはあなたなのだから私が質問してはいけないと思って止めたの。もし私が質問していたらどう?嫌な気持がしたかなぁ?」。子どもはうなづきました。「そうだよね。あ〜私そうしなくてよかった…」。私は自分と他者との境界線を大切に出来たことを嬉しく思いました。
それからこう語りました。「親は子どもが可愛くて守りたい気持ちの中でついつい余計なことをしてしまうと思うの。でもそれは子どもにとっては迷惑かも知れない。だから私は、あなた達が伝えてくれた事のみを手伝うように意識しているの」。本当に、このように意識することが、子どもが自分を生きられる大人に育つのを手伝うことにつながっていると思います。
 帰宅すると夕方。高校見学へ行った子どもを含めた2番目と3番目の子どもはこの晩お友達の家へ泊りに行くことになっていました。3番目の子どものは今朝「(外泊から)帰ってきたらお母さんがいないという悲しい現実」と言い、私は本当にそうだと思いました。そして「又会えるから大丈夫だよ」と伝えました。その子どもは既に出かけていました。もう一度話が出来ると思っていたので残念でしたが、又会えるのですからその時まで楽しみを先送りにすることにしようと切り替えました。
そして2番目の子どもも出かける時間になり、用事をしている私に「バイバイ」と言いに来ました。私が玄関まで見送りに行くと、子どもは私に背中を向けたまま「また来てね」と言いました。親から与えられた、受け入れるしかない現実を受け入れようと頑張っているのが私の心に伝わってきました。私は、帰らないでこのまま居るよ。もう頑張らなくてもいいよと言いたい気持ちに駆られましたが、それは対症療法に過ぎないと分かるから言えませんでした。子どもの言葉をその場で受け入れられる状況が出来るように意識して生活しようと思いました。
 家に残っている1番目と4番目の子どもと元パートナーと4人で夕食をとりました。
元パートナーから「いつ戻る予定?」と尋ねられました。私は元パートナーと、最初の頃よりも幅広い話が出来るようになっています。けれども、子ども達の親として一緒に暮らすために大切なことが語れていないのです。そんな自分を説明する事が出来ず「未定」と答えるのに精いっぱいでした。もしも将来、私と子ども達と子ども達の父親とで心を語り合えるようになったとき、私も再びその場所へ遊びに来ることができるのかもしれません。
夕食後、1番目の子どもと大学のパンフレットを見ました。私は「4人のうちの誰かと私の大学生活が一緒になるかもしれないよ」と話をしました。子ども達は4人とも大学へ行きたいと思っているようなので本当にそうなりそうな予感。既に私の中の青写真としてあるのです。
4番目の子どもが「これ縫って」と繕いものを持ってきました。私はそのとき別の用事をしていたので「時間に間にあったらね」と伝えさせてもらいました。そして間に合うように動きました。(どの子どもに対しても同じですが)5歳の時に離れたその子の中にプラスの思い出が増えるように意識して楽しんだ2週間です。そのように意識する事は私にとっても精神史を変えてチャイルドを癒やすことにつながっていると思ったからです。私は最後にもう一度そのきっかけに恵まれたことを嬉しく思いました。縫い上がったものは子どもが気付いた時に持っていくことが出来ればいいことと思い、部屋まで運ばずにリビングに置いておきました。
 夜21時半。家を出る時間になりました。
1番目の子どもには「いろんなことしてね。楽しんでね」と、4番目の子どもには「遊んでくれてありがとう。いつも楽しんでね」と伝えました。子どもは母のすることを受け入れるしかありません。私はまだ子どもにさみしい思いをさせています。十分分かっていて、それでも帰るという事をするのは、その方が先に広がるプラスが大きいと感じるからです。それなのに残ることが出来たらどんなにいいかと何度も思い、バスに乗ってもまだ「帰らずに済んだら、一緒に暮らせたら…」と思いました。元パートナーの言葉が浮かびました。例えばもしも私が今から過去の家庭に戻るとすれば、一般的には私の人生も子ども達の人生もうまく納まったように見えると思います。その後、私を含めた家族の中の誰かに辛いことがあっても、離れていた時の事と元に戻った奇跡を思えば取るに足らない事になると思います。人々は「そのうち慣れるよ」と言うかもしれません。けれども、私にはそれがいい方法とは思えない。心を痛めて会社を休んで元気になった人が会社に戻ると再び疲れて動けなくなるのと同じだと思うのです。そして、私が過去の方法の中で生きるという事は子ども達にも過去と同じ事を要求することになるように感じます。
 夜の新宿は連なる飲み屋さんの電気で昼間のように明るく外国から来ている観光客らしい人々がたくさん歩いていました。その中をスーツケースをゴロゴロ押して歩く。その私の心はまだ2週間の生活の余韻の中に居ましたが、けれど、興味深く思ったのは前回のように疲れているのとは違うということでした。
しばらく歩くうちに、まずは車内でゆっくり寝れるようにしようと自然に切り替わっていました。私は心から安心出来して自分を生きられる時、自分も子ども達も大切にすることが出来ます。


2009年11月27日(金) 親子で語り合える

 昨晩子どもの一人が「お父さんが定年になる頃には、私は孤立しておかなければ…」と言いました。そのことで元パートナーと私の3人で「独立」と「孤立」の話になりました。元パートナーは「孤立にはさみしいイメージがある。社会の認識がそうだ」と語り、私は「そうだよね。漢字には本来の意味があるのに人々が勘違いして捉えている部分があるよねぇ」と返事をしました。元パートナーは私に「二つの違いを説明してみて」と言い、私は思いつくまま語りました。
私の語った事は、「独立」とは家族や会社など今まで所属していた集団から離れて一人で動けるようになることで、「孤立」とは個・人として生きていけること、です。語ったことがどうかはわからないですし、語りの途中で(もっと掘り下げて語れるようになりたいなぁ)と思いましたが、このような空間を持てたことがいいと思いました。
ちなみに、私は新聞を読むのが好きなので滞在中は名古屋から東京へ配達先を変更しています。子どもの一人は新聞に興味を持っているので、私達はそれを材料にして語り合うこともあります。又、子どもの方は学校の授業で私の知らない事を吸収しているので、そちらを材料にして語り合う事もあります。「親子で社会を語り合うってこういうことなのだなぁ」と何度も思います。好奇心があるといつも成長出来ます。


2009年11月26日(木) 優先順位

 昼間、最寄りの市役所へ行ってみると「市長への手紙」と書かれた封筒があったので、チラシを入れて投函しようと思い付きました。けれども家に戻ってから改めて優先順位を確認しました。私がどこで暮らしていてもプラスに動くとアイデアが浮かんでくるのですが、果たして今ここでそれをしてもいいのかな?と。
それから、私には本を書いた後にすることの優先順位上位がひとつ残っているのです。それは本を持って姉に会いに行く事です。こちらは金銭的なことがあるのですぐには無理ですが、それが出来るように意識して動いた方がいいと思いました。そして優先順位のトップはいつも心を大切にして生きられることです。
 そんな気付きも手伝って、週末に名古屋へ戻ることにしました。昨晩子ども達に伝えると、子どもは私に「なぜ帰るの?」と繰り返し尋ね、食卓はシンとしました。私も、子ども達を手伝えることを嬉しく思っていますし、その関わりを通して自分が成長していくのを見るのは楽しいのです。それに、料理や家の中の事を別にしても遠くに居るよりも近くに居る方が出来ることが多いと実感します。それは子ども達が小さい頃に、私に言えなかったこと・出来なかったことが、今そうしたいと感じた時その場で出来るよう、その事を受け入れられる私が傍に居るということです。けれども私はもう一度名古屋へ戻ります。生活を満たすだけでなく子どものスキンシップ不足の補いを手伝うためには私自身がもっと・いつも自由である必要があって、その為にはもっと丁寧にする必要があると分かったからです。そして、このように心を基準にしていたら、離れていても何かが出来ると信じています。
 夜、子どもが塾に通うための手続きを手伝いました。子ども自身が望んで通うので、これも手伝いの一つだと思い楽しみました。けれども私は、学校の先生が子ども達が授業の中で理解できるように伝えることが出来たら、子ども達は塾に行かなくても済みますし、その時間を他の楽しみに使うことが出来ますし、例えば数独の解き方のように楽しみの延長で出来るようになることがあるのになぁと思いました。私は全てのことは遊びの感覚の中で学んでいけるものだと、私自身の体験を通して感じています。


2009年11月24日(火) ライフスタイル

 チラシのポスティングをしました。以前介護の仕事をしたときにもしたことがあるので2度目なのです。
マンションの集合ポストに入れると早いのですが、味気ない気がしたので一軒家の方へ方向転換しました。
一軒家にはいろんな形をしたポスト。入口が鉄のように重たいものもありました。そのお宅にお住まいの方がポストを空けたとき文字と私の顔写真が視界に入るように工夫して入れました。本を書いたこともチラシを作ったことも私の自己満足に過ぎないのだけれど、街頭でチラシ配りをした時と同様に、他のチラシとは違うと気付いてもらいたいと思うのです。
配っているうちに「どんな方が住んでいるのかなぁ?」と想像が膨らんで楽しくなってきて…。この楽しさを一日で終えるにはもったいないので明日の楽しみに残して帰りました。
 帰りに繁華街に出てみました。先日の朝日新聞にはデフレ宣言のことが載っていましたがデパートから買い物の袋を提げて出てくる人も多く見かけました。私は経済の事はわからないのですが、人々が不景気という基準はどこなのかなあ?と小さな疑問が湧きました。例えば公園の炊き出しを利用して生きている方々はずっと前から不景気だと思います。それから収入が少ないことを不景気と言うとすると、私も不景気になるのかな?でも私は心を基準にして生きているのであまり苦になりません。持っている分で楽しめる、という感じなのです。きれいなお家よりもポケットに小銭を持って身軽に歩きたいのです。それでも生きていくのに金銭は必要ですから、名古屋へ帰ったら少し働こうと思っています。


2009年11月23日(月) 壁と仲良く

 子どもの一人とロッククライミングというスポーツを体験しました。ロッククライミングというのは手と足だけで壁を登っていくスポーツで、新聞折り込みのチラシを見た子どもからお誘いがあり、私もしてみたいなぁと思っていたので一緒に行かせてもらったのです。
 お店の中に入ると、事前にチラシで見た以上に料金がかかることが解りました。子どもとの動きに必要な金銭は元パートナーのものを利用させてもらっていますし、私は現在無職ですので迷いました。ところが、その私を見る子どもの目が…。それは未知の世界への好奇心だと分かりました。その事を手伝いたい・体験してもらいたい(表現がいいかどうか分かりませんが…)と思いました。
手続きをしてその場所へ行くと、10畳くらいのスペースの周囲の壁に大小の石がくっついていて、人々がスパイダーマンのようにその壁を登っていました。壁は70度くらいのものから直角、80度くらいのものや逆さまのものなど数種類。足の指が折れるくらいのきつい靴を履いて手にはチョークをつけて壁にトライしました。指の第1関節をよく使うので、以前ふすまの桟でケンスイをしていたことを思い出しました。
何度か Try しているうちに「壁と仲良くする事」を思いつき体がコツを掴んで…最初は無理かなぁ?と思っているところにも辿り着きました。
私が子どもよりも少し先に達成すると、子どもから「どうやったの?」と尋ねられました。そんな時、私は少し語ることを意識して、それから「壁と仲良くするの」と伝えました。すると、子どもは「そっか」と言って Try し、ゴールに到着した時は満面の笑みでした。その様子を見て「その物と仲良くする」はいろんなことに使えるなぁと思いました。
 何かと仲良くすることはその時の流れに乗る事に似ています。私もこの滞在期間、自分と仲良くして時間の流れに乗って時を過ごします。


2009年11月22日(日) 基本

 3連休のまん中の日。午前中は約束の二つ目のテニスをしに行きました。
テニスは子どもの頃に遊んだことがありますが、最初はラケットを振る時に野球のバットを振る時のようになってうまくいきませんでした。それでもしばらくすると慣れてきて感覚を取り戻してきました。感想として二つのスポーツを一緒にするのは難しいと思いましたが遊びの1つとして楽しみました。
 午後は家でのんびり。リビングでパソコンを広げていたら子どもが見に来ました。私の日記を読んだ子どもから「チャイルドが出てきたの?」「チャイルドは何と言ったの?」私はその時の様子を思い返して返事をしました。癒やしたチャイルドのことをうまく説明出来ませんでしたが、子どもの好奇心って面白いなぁと思いました。「ファシリテイターって何?」という質問に答える時、私はその事をしている私を大切にしようと改めて意識しました。
そんな私の方は子ども達と生活を共にするようになって時々「あ、ミスしたなぁ」と感じることがあるのです。そして、そんな時はそのことに気付けた私を大切にして同じ事をせずに済む方法を探します。具体的な方法が浮かぶこともありますが最後は、私をする・心を大切にするというところにたどり着きます。つまりここは原点なのです。


2009年11月21日(土) 好奇心

 家族皆が休み。朝、新聞にある間違い探しのゲームにTryしていたら子どもが起きてきて、その横にある難易度4の数独をしたいと言い、ある方法を使って解き始めました。
子どもは「この方法で解けないはずがないんだよね」と言いました。
私は最初意図が見えませんでしたが、そのうちに私にも出来そうな気がしてきて、分かるところを答えて、二人で30分で完成しました。その方法は4人の子どもたちに共通のもののようですが、学校で習ったのではなく遊んでいるうちにそうした方がいいことが解ったと、小学校6年生の子どもが言いました。私も…。今度は一人で難易度4でもTryしてみようとワクワクしました。子どものすることを真似してみると成長出来るのです。
 午後からは娘との約束になっているプリクラを撮りに行きました。撮ったプリクラに文字を書くところで子どもの一人が「ずっと一緒に居られるように」と書きました。そのように出来たらいい。そして私は又、もうすぐ名古屋へ帰ります。こんな時私の心は複雑な気持になります。子どものしたい事を手伝う母。どこでどのように?出来るところを出来る範囲で。それが私にできること。出来あがった写真を見ながら自分に言い聞かせました。私は一人の人で、1つずつなら進めます。
 家族で夕食をとりました。気のせいか、夕食の話題に度々経済的な展望のような話になります。子ども達は「遠地にあるマンションを売ればいい」とか「車は中古でいい」とか言います。そして一般に大人の世界は見方が違っています。
 私はシンプルな世界が好きで子どもの見方に近いです。リュックサック一つで旅に出てプラスの思い出を詰めて日本に帰ってこれたこと・ベトナムの方々との暮らし・帰国後に心の投資金とお借りした金銭でスタートした生活。ヒトは希望を持っていたら少しのお金を大切にして生きていけると心から思います。それに最近では、お金は後から付いてくるという言葉を大切にして生活出来るようにもなりました。星空の下で寝袋で寝てみたいなぁ〜と思っていたらいつかできるような気がしている 43歳のヒト・そして母の私は本来持って生まれものをそのまま使って生きられるよう、子どものような好奇心とシンプルさを大切にしています。


2009年11月20日(金) 原体験

 数日前、家の近くの施設で某大学精神科教授の講演会があることを知り、その場所でチラシを配ることが浮かびました。本に関する何かをしたい気持ちの延長でもありました。今日、終了の2時間の講演会の終了30分前に会場へ入りました。そこには統合失調症と言われている方のご家族が集まっていました。
講演はまもなく終盤になり質疑応答の時間に。私は思いついたように手を挙げました。
「私は過去、うつ病・パニック障害などの診断を付けられ薬を飲んでいました。子どもを虐待して、そのあと多重人格ということが解り子ども達と離れて心の作業に専念しました。今年で7年経ちました。今は作業の体験をまとめた本を出版出来るまでになりました。子どもたちとも再会して虐待していたことを謝罪出来るようになりました。仕事はずっとしていましたが社会に出ると早さを求められ付いていけなくて度々転職しました。でも、私はこれからも私のペースでゆっくり歩いてもいいですか?」。教授は「いいですよ。健康が大切ですからね」と言われました。
実は手を挙げたのは本当に思いつきでしたし、その答えが私の世界とは違うことを私は理解しています。
会の終了後会場の方数人にチラシを受け取っていただき、一人の男性が本を購入して下さいました。帰り支度をしている教授にもチラシと名刺を渡しました。この時は少しドキドキしました。
 家に帰るとチャイルドが出てきて、手を挙げた理由が解りました。私は過去とは違う自分を確認したかったのです。教授に自分を伝えたのは過去の傷を癒やしたい私の行動だったのです。原体験が出来たような気持ちになりました。


2009年11月19日(木) 羽ばたき

 夕飯の時、子ども達が「昔の事を話して」と言いました。私はそれぞれの子どもの事で覚えている事を語りました。一番下の子どもが5歳の時に行ったキャンプ場で手を切って縫った時のこと。それは私が覚えている、謝罪したい記憶の1つでした。私が「ごめんね」と言うと子どもは少し照れたような表情になりました。私はその子を含めた4人の子ども達の前で謝罪することが出来てよかったと心から思いました。
その後も幾つか話をし、子どもの一人が「子どもは好奇心を持っているんでしょう」と言いました。そうなのです。子どもは好奇心を持っている。そして私も好奇心を持っている。
子どものように純粋な心で私の中の好奇心と感覚を使っていろんなことを経験したい。
その為に、私は社会の波に飲み込まれず私自身を大切にします。

子ども達へ、私の人生のファシリテイトをありがとう。


2009年11月17日(火) 生きるということ

 昨晩は遊びの延長で長女の布団に入りました。狭いから寝れないかなぁと思っていましたが長女も何も言わず、私達はそのまま朝まで一緒に寝ました。私は子ども達との日常の小さなやりとりが過去にしてきたマイナス母の補いになることを、いつも心の片隅で願っています。
 今日は、日中は Mamo本の話になり少し意外だったことが…。
 2番目と3番目の子どもは本を受け取って1週間のうちに読んでしまったそうなのです。私は自分の書いたものですが読むのは休み休み。子ども達の読みの早さに感心しましたが、実は(この早さは読み流した感じかなぁ?)と思っていました。その私に子どもが「内容を言ってみるよ」と言いました。子どもは「最初にいろんな人の名前があって、その子達はだんだん良くなっていって、それから最後の方はお母さんの…」と。子ども達は人格達の言葉のページも読んでいたのです。私が再び感心していると、子どもが「子ども達の能力をあなどるでないョ」と言いました。私は「はい、ごめんなさい」と謝りました。
子どもが語った中の「その子達はだんだん良くなって…」という言葉。“どんなに苦しくても自分を見つめた分だけ楽になるということ”を感じ取っていたら嬉しいなぁと思いました。そして、子ども達はそのことをその子自身の経験から、可能性(すると出来る)という形で感じ取っているようにも思いました。
子どもは「子ども達のことをもっと書けばもっと売れると思うよ」と言いました。私は「もし皆のことを文章にしたら、それをみんなに読んでもらって本にしてもいいかどうか確認するね」と答えました。子ども達から学んだことを本にする。そんなことが出来たらそれもいいと思います。
 その私のすることは、私の感じたものを大切にして、ニュートラルを意識して、自分に丁寧に生きることです。


2009年11月16日(月) 表現すること

 今日は月曜日。子ども達と元パートナーは学校と仕事へ出かけ、日中は1人になりました。したい事もあり家事という仕事もあるので優先順位を決めて動くことにしました。2週間の滞在なので暮らしている人々のペースを邪魔せずに済むよう必要最小限にすることを意識しています。
 夕食は鮭のムニエルと豆腐の白合え。大きなボールで白合えの材料を混ぜている時、給食室のお姉さんのようでうれしくなって、そのまま声に出しました。子どもは笑っていました。食卓に並んだ料理を写真に撮りました。料理を楽しんだ自分を楽しんで、味はさておき食事はおいしかった。私は調理師免許があれば学校給食の仕事も楽しく出来るようになったみたいです。
 私は時々、子ども達に勉強の事を尋ねられます。授業中に書いたノートにはその事について書いているけれど、意味が解らないまま黒板の文字を写しただけの時もあるそうです。私はその事を知らない時、パソコンで調べます。それから時には「こんなことが解ったよ」と伝えます。昨日「私の説明大丈夫だった?」と子どもに確認しました。子どもは「うん。でも、なんで?」と聞いてくれたので「丁寧に分かりやすく伝えられているかどうか知りたかったの。もしその反対だったら、もっと丁寧に伝えられるように勉強したいと思って」と答えました。
こんなことを語る時、丁寧に生きたい私を語っているような気持ちになります。

 給食のお姉さんを楽しんだ結果


2009年11月15日(日) 機会

 2度目の旅の3日目。料理や洗濯をしながら子ども達が何か言ってきた時に、その事を手伝う。そうして3日が過ぎました。午後、リビングでパソコンを開いて居たら三女がやってきて、自然の流れで私のHPを閲覧することに。私が家を出た当時の様子から今回7年ぶりに再会した時のこと、それから前回名古屋へ帰る時の気持ちをそのまま書いた文章を、娘は少し読みました。
私の事は隠すこととは違いますし語っておきたい気持ちがあるのです。けれども、子ども達の生活は学校の勉強と部活を中心にして読み物は小説と参考書。家の中では箸が転んでも笑い転げるという様子で遊び、一般に言われる心の病とは無縁の世界で生活している子ども達に、私は自分をどのように語るといいのかなぁと思いつつ、その機会を探しています。


2009年11月12日(木) 2度目の旅

 明日から再び東京へ行ってきます。心の中は、もうしばらく休みたい気持ち少しあり。けれども、私は前回帰る時に1つ約束をしてきたので、それを守りたい気持ちが大きい。私は大きい気持ちの方に向かって歩きます。それに「行ったら何かあるかも…(当然なのだけど)」とか「今回は前回の経験を踏んだ位置からスタートなので前回よりは楽だろう」とか、前向きでニュートラルな発想を持っていくのです。
 と、ここまで書いて気付いたのですが、私の中の二つの気持ちが二つとも私の気持ちになっている…。私は二つの気持ちを持っている私を知って、考え込む作業をせずにプラスの方を選ぶことが出来ている。成長しているみたい。よかった…。
ということで、2回目の母の旅へ行ってきま〜す。


2009年11月11日(水) 主体

 最近、「自分を主体」という言葉が心に浸透するようになりました。これまでにも自分を主体に動いていたのだと思いますが、今改めてその私を感じているみたい。
させられてしていることや嫌な気持ちのまましていることはマイナスになるか、その時は出来てもいずれは剥がれるメッキに過ぎないと、経験から思います。母になったばかりの頃、全てを楽しいと思えなかったのはそれまでの人生が全てマイナスの情報を埋め込まされ何かに動かされるように生かされている経過の中に居たからだと思います。
営業モードの私を見てみると、自分を主体にすると楽しく動けるのです。楽しいことは誰に言われなくてもしてみたくなり、アイデアはいくらも浮かんでくるのです。
そして、間違って過去の方法をしてしまった時にはそんな私に気付くことが出来るのです。気付きを楽しんでいるうちにそのこともいつか出来るようになる。今は知らない事もいつの日か気付き、いつの日か理解する。ということを、私は自分の経験を通してここに書くことが出来るようになっていることにも気付いて、あ〜うれしい。


2009年11月10日(火) 自然な母

 母に育つ私をイメージする時、小学生の頃にテレビか何かで見た「北国の雪の中で子ギツネを生んだキタキツネ」を思い出します。穴の入口に立つ母ギツネの後ろから子ギツネが数匹顔を覗かせていました。母ギツネの目がまんまるくて印象的でした。
動物はその時期が来ると子どもを生みます。子どもを身ごもったその時から親になります。人間はそれを「子孫繁栄」と呼びます。動物は子が生まれた後はその子が独りで生きていけるよう・独り立ちできるように食べ物の捕り方を見せて知らせます。人間はそれを「子育て」と言います。人間が子どもを見る視線は動物のそれとは少し違い、自然から離れていると思います。それは、動物はまさに生きるということをするのみなのに対して、人間は何かが出来てこそ生きる価値があるかのような感覚を持っていて、子どもの自立の意味は集団生活が出来るようになることのように捉えられている部分があるからだと思います。
けれど、サル科の動物「ヒト」なら、キタキツネの母のように自然な生き方が・自然な母が出来ます。私はキタキツネの母のように子どもが独り立ちするのを手伝える母になりたい。子ギツネは好きなように遊び自分の世界を広げる。母ギツネは子ギツネの命が危ない時のみ手助けをする。今夜キタキツネの母は、私の理想の母に仲間入りしました。
ちなみに、キタキツネの親子を見た当時の私は「素朴」という言葉を知らなかったと思いますが、その瞳に共感するものが私の中にもあったと思います。私は私の内にある素朴さを大切にしたい。その為には、間違った愛の中で育てられた心の傷を癒やして新しい母に・生きていることそのものが愛を放っているといつも感じられる母に育つこと。私はこんな私を大切にします。


2009年11月09日(月) すること

 午後、本のチラシの最新版を持って栄へ行きました。本が出来た空間へ戻ってくるとする事はいくつも浮かんでくるのです。
 合間に子ども達の家に居た時の私の様子が浮かびました。私はその場所へ何を目的に行ったのかなぁ?と改めて振り返ります。約束を守り自分を伝えに行った私。そこまで出来た私。そして、これからすることは何でしょう?例えばお皿洗いや洗濯をするだけなら私以外の誰にも出来るのです。私に出来ること・私のすることは何でしょうか?プラスの母をするというのは、することの一つなのです。それはわかっているのですが、その仕事は私にとっての何で、その私のしたいこと・出来ることは何なのかなぁ?と…。
私は私の人生を生きたいのです。母というのは私の人生の中で優先順位の上にあることのひとつ。その私は本のことや心のことなど他にもすること・したいことがあるのです。私のすること・したいことの殆どは楽しみです。回想をする私の頭には今が基準となって始まっている未来予想図が広がり続けるのです。
その私は今も成長途中。ありのままの私を生きることが今ある現実を楽しみゆったりの人生を進むことにつながります。つまり「いつもありのままでいいんだなぁ・そうであることが大切なのだなぁ」と…。


2009年11月08日(日) 丁寧に

 子ども達の家で過ごした1週間を振り返って分かった事は、家庭の中は現在も、私が家を出る6年半前からそうであったように男性社会が続いていて、子ども達は力によって従わされているということです。ある夜の息苦しさはその社会に入ることを要求されることへの息苦しさでもありました。これから幾度も感じることになるのでしょう。私が過去と同じなら、子ども達を巻き込むことも同じです。
私は子どもの防波堤になりたい。その為には感情と思考を切り離して動くことなのです。一度ごとに切り替えることを意識して練習します。
 夕方には前向きな考えが浮かんできました。浮かんだことを1つずつ丁寧にしていけば、針の先ほどでもプラスに向かっていく。私は私の中のプラスの思考を信じています。


2009年11月07日(土) 風景

 名古屋の自宅へ戻ってきました。新しい世界の1週間。約7年ぶりに子ども達と共に過ごした7日間。
家を出る時と同じだったのは社会の基準に合わせることを要求される世界が残っていること。その変わらなさに自分をなくしそうになりました。変わっていたのは子ども達が成長していたこと。本当に夢のようでした。
滞在中は子ども達の世界に乱入することをせずに済むよう意識しました。そして、子ども達の世界へ少しずつ参加させてもらえました。体を使った遊びをした時には、ランドセルがはみ出るくらい小さかった体が寄りかかった時ずっしりくるくらいに大きくなっていることを体感させられました。英語で質問された時には外国の言葉を使って世界を歩く準備が出来るようになっていることを知らされました。また、頻繁に聞こえる溜息には「ゆっくりでいいんだよ」と声をかけるきっかけを得ました。そして私もキッチンにあふれるお皿を洗いながら「ひとつずつでいいョ」と語りかけました。この時間をもっと長く過ごしたいと思いました。
けれども、心ない大人の力に疲れました。眠れない夜、暗闇で過去と同じ危機感を持ちました。寒波のための寒さが自宅へ戻る後押しになり、今朝東京を経ちました。
名古屋の地下鉄に乗り見慣れた風景が視界に入ったとき緊張の糸が切れて心から悲しくなりました。ひとまず私を大切にすることが出来てよかったと思いました。少しの間お休みです。休みながら次の動きをします。

 子ども達へ
 私をあなた達の世界へ入れてくれてありがとう。あなた達の心の成長を手伝える大人で居られるよう、人としての私を大切にして過ごします。又少しだけ待っていてください。


2009年11月03日(火) 流れ

 子どもや元パートナーと生活を共にして3日目。今日は皆がお休みなので家に居ます。私は昼前に子どもの自転車を借りて町探検の旅に出ました。寒くて寒くてまもなく引き返しましたが、知らないところを知るのは楽しかった。それに私が主体で動くと楽です。…と感じるということは、他者が主体になっていることがあるのですよね。明日も「私を主体に動くこと」を持続させて楽しみます。
 午後は二人の娘と買い物へ行きました。再会してからの約束の1つでした。娘達はお店の中を歩きました。「おかあさん、これは?」「いい感じだね」「これ着てみる」「行ってらっしゃい」。一般社会の人々と同じように商戦の流れに乗った服を見て歩く娘たち。それは私の価値観とは違うけれど、今日は私を利用して買い物を楽しむ子ども達を手伝いました。それは、子ども達がしたかったことの1つのように感じたからです。


2009年11月02日(月) 世界

 子ども達のトランプゲームの様子を見て(それでいいんだ…)と思うことがありました。負けぎみになっている子どもが持ちすぎたカードをふざけて皆の中に紛れ込ませたのですが、他の子ども達は「あ〜っ」というだけで笑って終わるのです。それから、隣の人が負けるように見え見えの方法で導いている人も居るのですが、皆がそれに気付いているのに笑って終わったり、便乗してふざけてお腹を抱えて笑ったりして楽しんでいるのです。その様子は、私が子どもの頃にした姉弟間での遊びの風景とは違っていました。トランプゲームがいいかどうかは別にして新鮮な不思議な風景でした。


2009年11月01日(日) 始まり

 午前6時。初めての新宿に到着しました。子ども達と待ち合わせの時間まで2時間近くあるのでチラシを配る予定も持っていたのですが、夜行バスに揺られて睡眠不足なのです。外で待つには寒いですし、近くのお店が開くまで山手線に乗ってグルグルまわって時間調整をしました。1時間近く乗っていましたが、前にも横にも私と同じように最後まで座っている方がいました。電車の中は低経費の休憩所です。
 そして、子ども達と待ち合わせの駅へ行きました。改札を出て辺りを見回すと、懐かしい娘達のお顔が3つ並んでいました。いよいよ小さな旅の始まりなのです…。


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