「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2006年12月31日(日) 2006年見つけた豊富

 2006年最後の日。
 私はいつもと同じように、自分の心に感じたものに添って動いていました。仕事がない分動きやすく楽な一日でした。

 今年もあたらしい事をたくさん経験しました。
まず、裁判を起こしたこと。
それから、保育園という違う世界を知ることができたこと。
野球でヒットを2本打ち、ピッチャーとキャッチャーを経験しました。
年の暮れには空手を再開しました。来年も続きます。
遊びの中で怪我もしました。ギプスを巻いて車椅子に乗り、いつもと違う世界を知りました。
そして今は生き物はカブト虫を飼っています。
そして昨日と今日は、こんなに楽しんだのは初めてというくらいに年賀状つくりを楽しみました。それからそれから、一人遊びも上手です。

どれも皆、新しい私のプラスの人生です。
一年間よく遊び、よく学びました。
今感じているのは、動いた分は形になり、動いた結果を見て、さらに自分を広げていけるということです。私はこれからも成長します。

プラスの自分のカウントは昨日から始まっています。
来年も素直にシンプルに、自分を開拓していくのです。

** 〜Toi muốn đi Baseball〜 **

**楽しんだ年賀状の背景も載せてみよう。少し前の絵だけれど…。**


2006年12月30日(土) 新しいこと

冬休み二日目。
 車の調子が悪いので、午前中にオートバックスへ行きました。でも、原因はつかめず、年明けまで、待ちです。帰りに戸笠公園で運動をしました。私の体は、運動が足りないとき、「運動したいよ」と私に伝えてくれるのです。今日のようにお天気がいい日は、特に全身で伝えてくれるので、今日も又、お日様を浴びて骨を強くしてあげることも出来ました。

 午後は、名古屋へ着てから初めての年賀状を書きました。
年賀状については、名古屋へ着てから、それまで当たり前にしていたことの全てが不必要に感じて年賀状も止めていたけれど、今年は自分がここに生きていることを人々に伝えたくなったのです。自分の中のこのような変化が面白いです。そして、古いお友達の事を思い出して懐かしく感じられる自分もいいです。ですから、年賀状つくりは過去にもしたことがあるけれど、新しい私の新しい動きなのです。
ちなみに年賀状作りも、今はパソコンで出来るから以前より楽しくて楽ですね。メールでも年賀状を送ることが出来るのですねぇ。いいですね。

時間はいつも動いているのだなぁ。そして、ゆっくりでいいのだなぁ。

** 〜Toi muốn đi Baseball〜 **



2006年12月28日(木) 現実

 2006年最後の仕事。

 午前中、50代の保育士さんから、「Mamoちゃんの子どもさんはいくつなの?」と聞かれました。
心に、小さな波が立ちました。先日子どもがいることを語ると決めたときから、いつか何かを聞かれるだろうと想像はしていました。自分の語った言葉に責任を持てる自分を意識していようとも決めていました。私の生き方について、どんな言葉が返ってきても、対峙できる自分を育てようということです。そして、早くもやってきた第一弾。
 ところが私は、3年半前に分かれた子ども達の年をいつも思い出せません。(たぶん…)「小学生」と答えると、次に「年に何回かとか会ってるの?時々会えるの?」と尋ねられました。私は、会えないと伝えることで、自分の弱い部分を刺激してしまうような気がして、会えないとは言えませんでした。とっさに、「状況が許せば…」と答えてしまいました。保育士さんは私の事実とは違う解釈をされました。今の時代は、母親が子どもと離れて暮らすとは考え辛い世の中なのです。私は訂正をしませんでした。
 そのあと、「私はネ、子ども達に “お母さんはもっと、あなた達の心を分かるお母さんになれるよう勉強してくるから待っててね ”と約束をして分かれてきたの」と伝えました。
保育士さんは少し黙って、それからうーんとため息のような息を漏らして、「そんな難しいことを…」と言いました。ところが、その時私の脳裏には、3年半前に子ども達と約束してきたことは、おそらく可能なのだと、プラスのイメージが沸いていました。ですから、保育士さんには、「出来るか出来ないかは別にしてネ。そしてたぶん、出来た分は出来るかも」と伝えました。保育士さんは「へぇーっ」と言いました。
その後は、「子どもさんは何人いるの?2人くらい?」「う〜ん、そこはまだ内緒にしておかせてね。きっとびっくりすると思うから」「え〜っ、まさか5人くらいとか…」(近いなぁ…)。
 昼休み、車の中で子ども達の事を思い出しました。二つの目に涙がたまり、あふれて落ちそうになりました。でも、今泣いている自分を続けていては、私は現実から遠のき子ども達との約束さえ忘れてしまうかもしれません。だから、現実を見ようと自分に伝え、心を新たにして午後の仕事へ行きました。もちろん、約束を果たすことは目の前の目標の1つ・点の一つです。そして私は自分の人生の為に、現実を見たいのです。

 退社して家に戻ると、中日新聞の方がGobamcanの取材に来ていらっしゃいました。
私も同席させていただいて、質問されるままに、裁判のこと、自分の動き、今の自分になれた経緯を語りました。ジャーナリストは、私の子ども時代と私が子ども達にしてきたことについていくつかの質問をして下さいました。私は、私がどれほど子どもを大切にしたくても、自分が生き辛いままではどうにもならなかったこと・そればかりか傷つけてしまうことがたくさんあったこと。根底は自分が子どもの頃心に受けた傷を抱えたままの大人であること・そして、心の傷を癒やしていけば大丈夫なのだということを語りました。それから、誰にも自分の人生を語れるような生き方をしたいとも。 ジャーナリストは、連鎖という言葉を使ってうなずいておられました。
 それから、ファシリテイターとして育つということについて、「こういう場合(育ちを手伝う場合)、出来ているうちはいいけれど、そのうち、自分の思うようにならないと、ついつい、何やってるんだという言葉が出てきますよね」と仰いました。
私も過去には子ども達に同じことを感じ傷つけてきました。そして、今の社会には、同じような言葉が飛び交っていることもわかります。ジャーナリストの言葉を聞きながら、私はプラスの自分の感じたものを大切にしようと自分に伝えました。

 社会の動きの話では、ジャーナリストは、「自分達は弱い人の意見を吸い上げて社会に伝えることが仕事です」と仰いました。私は「吸い上げる」という言葉に「理解する」とか「取り入れる」とは違うニュアンスを感じて好感を持ちました。
ストローでジュースを吸って飲む様子を想像すると、「吸い上げる」というのは、自分で吸いあげる。自分が飲もうとした分だけ上がってくるのです。ですから、ジャーナリストとは、社会の底辺に居る私達の言葉をご自分の心に添って吸い上げて下さって、伝えきれない私たちの代わりに代弁して下さるということのように感じられたのです。私達の言葉を聞いてくださるときには、上からでも下からでもない私たち市民と同じ位置で、その方の基準に沿って動いてくださるということのようにも感じました。記者というお仕事をされるときには大切なものなのだなぁとも感じました。

 夜、一人自室で、「机の配置が変わってる」と言っている自分に気付きました。よく気が付けた。すぐに気が付けた自分を認め能力にして、「何が間違っている?」と自問しました。
 間違っているのは、机の配置が変わっていると言っている自分。原因は、子ども達や過去の詳細をたくさん語ったからでした。 そして、本来の私は、暖かいお風呂に入りました。

私はいつも、本来の自分を大切にして、現実を生きるのです。


2006年12月26日(火) サクサク

 朝、今日一日自分をしようと心に決めて、スタートしました。
仕事中、自分の背中から自分を見ることを意識しました。時々、「こんなことして大丈夫かな?」と不安に感じる自分が出てきて、そんな時には自分で切り替えて、いつもプラスのMamoを意識しました。
 夕方、部屋に戻って感じたことは、やはり、何をしていても自分は自分をすることが大切だということでした。
例えば、どんなに小さな赤ちゃんも、自分の世界を持っていて自分の人生を歩いている。私も、一人の時には一人の自分を・子どもさんと話をしているときには子どもさんと話している自分を。誰といても何をしていても、いつも自分をしている。基準はいつも、自分なのだと改めて感じました。
 そして、私の膝に座っているのがどんなに小さな子どもさんであっても、私との間には、個としての境界線があり、私は私の感じたものを大切にして動いていくのがいいのです。その為に、私はいつも自分の中に、大人の自分とチャイルドの境界線を持ち、心の傷を癒やし、自分を育てていくことが最優先。そして、大人の私の感じたものをすなおに丁寧に進めていく。これがいいです。

** 〜Toi muốn đi Baseball〜 **



2006年12月25日(月) 性同一性障害

 夜、「性同一性障害」のテレビを見ました。当事者である4人の方と、うち一人の方の父親の男性が、テレビに出演していました。
VTRの中で、一人の男性は、上半身裸で鏡の前に立ち、「この胸がなければ…」と言っていました。私は、過去の、女性の体を嫌って消していた自分を思い出し、少し心が痛みました。コメントの中では、当事者を含めた皆さんが、「障害」という言葉を使っていました。
テレビに出ているお父さんは、子どもさんの事実を、障害として受け入れ、その上で、子どもさんから何かを学ぼうとされているようでした。私は、障害としてくくられることに抵抗したいと、心に小さな叫び声が沸きました。
 過去、私の心と体が違ってしまっていたのはなぜなのか、私はもっと、自分について知りたいです。

「仕事」
 この頃の毎朝同じ状況に加えて、今日は、クッキングの時間に生卵を触った為に蕁麻疹の出た女の子さんがいたので、お部屋に行ってしばらく座っていました。私は、今の子どもさんはみんなみんな、大切なものを得る前に、大人になることを急がされているように感じます。そして、私の動きは、保育士さんの動きと少しずれます。時々、保育士さんの動きの邪魔になっていると感じる事があります。そして後から自分に問うてみると、私に出来たのはこの方法だったということになります。それに私には、カリキュラムが1つ抜けることは、その子どもさんの人生からすると、ほんの小さな点に思えて仕方がないのです。
と言っても私自身も、今ようやく、ここでこんな風に語れる人なのです。
過去にしてきたことの責任をとる意味でも、何が正しいかを知った大人としても、ここに居る大人として、心を基準にして動きたいのです。
そして、出来れば保育士さんと語り合いながら、いつも、少しよい手伝い方が出来ればいいなぁと、そんな機会があればなぁとも感じています。

 それから、私はこの頃、保育士さん方が何を感じているのかを知りたくなっています。同じ女性としてどんなことを考えているのか、母になっている人は自分のお子さんをどんな視点で見ておられるのか、皆さんの言葉を知りたいのです。私のこの思いは、名古屋へ着てから3年半の間、他者・特に“お母さんをしている人”に距離を置いていた自分を振り返ると、成長した部分です。ですが、保育士さんは夜遅くまで働いているようで忙しく、私は忘年会を辞退した人なので、こんな風に感じられる自分を見て楽しんでいます。

赤ちゃんは、泣くのが仕事です。
「おしっこが出たよ。お腹がすいたよ」と泣いて、大人に知らせてくれるのです。大人は、赤ちゃんの動きに心を傾けていると、やさしい大人に成長できます。赤ちゃんは大人を、育ててくれる人ではないかな。

そして、大切なものを得る前に大人になることを急がされたのは、私も同じです。だから私はいつも、自分の心に耳を済ませます。

** 

〜Toi muốn đi Baseball〜 **


2006年12月24日(日) 大切なもの

 午前中に部屋の掃除をしました。私の場合、思考のずれに平行して、机の上にいろんなものが並びます。これは私自身のバロメーター。分かりやすいのです。そして、片付けを先送りにしたせいでもあります。どちらにしても、分かりやすいのです。そして、きれいになってゆく気持ちよさの延長で、お風呂場や床拭きまでして、心もお家もすがすがしくなりました。

 お昼前、公園へ行って壁投げの練習をしていたら、1歳半くらいの男の子とお父さんが通りかかりました。
男の子が近づいてくれたので、ボールを転がして遊びました。遊びながらひそかにスナップを使う練習をしていました。小さな赤ちゃんとお父さんのペアなのに身構えずに遊んでいる自分。少し前まで、こんなに楽な感覚はありませんでした。遊んでいる自分を面白いなぁと感じました。

 午後は電車に乗って出かけました。電車には大きなリボンのプレゼントを持った人がいて、よく考えてみると今日はクリスマス。そして今年もあとわずか。そして私には、いつもと同じ日常が。
クリスマスや師走を思うことよりも、大切にしたいもの・優先したいものが、私の心にあるから。

{Baseball}
** 〜Toi muốn đi Baseball〜 **



2006年12月23日(土) 始点

 午前中、カブト虫のお家のお掃除。世話係の私は時々お世話を忘れているのに、相変わらず自分達の力で生きていてくれている。5匹のカブ君、ごめんね。そしてありがとう。

 午後、豊田市へ行きました。
今回は、通訳の女性と一緒です。彼女と会うのは久しぶりなのですが、彼女は今、お腹に別の命を宿したお母さんです。これまでは、小さくてかわいい彼女を時に妹のように感じていましたが、今日は、久しぶりに会ったからか赤ちゃんが居る為か、以前よりも落ち着いて見えました。私も新しい命が生まれるのは嬉しい。まるで姪っ子か甥っ子が生まれるような気持ちもしています。帰りに女性ののお宅へほんの少しお邪魔したら、パパになった彼は料理を作ってくれると言っていました。赤ちゃんが出来てからいろいろなことを手伝ってくれるようになったとも。パパになった彼が、二人で作った赤ちゃんの為にママを守り手伝うことは、小さな赤ちゃんを守ることに繋がります。やさしい環境で育った赤ちゃんはやさしくふんわり生まれてくることを想像し、私もやさしい気持ちになれました。

 そして視点は変わり、私も今日再び、本来の私を意識してスタートしました。どんな道を歩いても、ある地点にはたどり着きます。でも、くねくねの回り道を通るよりも、楽に通れる道がいい。
私は私の始点を意識した視点で、より楽な道を進みます。


2006年12月22日(金) してみてごらん

 この頃、社会で、新しいことをしている自分を感じています。それは何か。
社会のマイナスのふりかけが風に流れて飛んできた時、心にかかったふりかけを、払える分だけ振り払ったら、後は流れに乗って自分をしていること。
これまで、振って来たマイナスに巻き込まれて、その場で「ふりかけがかかった!」と訴えたがっていた自分の心に、少し待ってみよう と言えたのです。
それから、グループの中で聞き役を楽しんでいる自分を見ていること。
浮かんだ言葉をその場で語りたい自分は、他の方の言葉を深く感じたのです。
3つ目は、今まで伝えられなかったことを言葉で伝えていくこと。
心を整理し相手に伝わるやさしい私メッセージを吟味しているうちに、「だいじょうぶだよ。伝えてみてごらん」と自分に言ってあげられたのです。

 ちなみに、どなたと話をしていても同じですが、自分の心が伝わらないと分かったときには、残念に感じます。そして以前は、伝わらないことを相手のせいにしたり、私を否定されていると感じていました。
でも、今は、伝える側と受取る側の基準や価値感・捉え方が違うのが、それぞれに面白いような気がしています。

 それから、風向きの話に戻りますが、最近、自分をしながらの“待ち”は、風向きが自然に変わる結果につながりやすいということを知りました。
そして、風向きの変化が、自分にとってとても大きな気付きになりました。
社会での一連の動きを振り返ると、今までがおかしかったのだ・大変だったのだと再び実感します。
そして、これから成長する部分もまだまだあるのです。
だから、もっともっと、貪欲に、自分にやさしくありたい。

又、自分に何かをさせてあげよう。
能力は、自分を信じる自分が増えると同時に増えていくのですね。

** 〜Toi muốn đi Baseball〜 **
 


2006年12月21日(木) ていねいさ

 看護師さんのみの保健部会。他の保育園へ視察へ行きました。
民間保育園における保健職の位置はさまざまで、看護師が保育要員としてカウントされている場合と、殆どフリーとして動ける場合とあります。そして今回集まった方はどなたも、その中で出来ることを探しているようで、「ここに看護師が居ますよ」と小さくアピールしていると言われる方が居たり、保育士さんばかりの中で唯一一人の、違う職種の自分達が何をしているのか理解してほしいという言葉もありました。私も時々、私の能力を有効利用してもらえたら…と感じることがあるので、共感できる部分です。

 ところで、保健部会内の看護職のメンバーの中では、おそらく私は2番目に年長と思われます。私は、私よりも若い方が今の職場で何を感じているのかを知りたい。ですから、この頃は、あまり語らず、皆さんの意見を聞いていることが多いです。それが今日は、「何かあったときの為に要因から外れたくても、体制が整わない」という話になり、私も最後に、「保健職は、フリーの方がいいと思います」と語りました。

 自分を伝える時、自分を大切にして丁寧に語ることが出来ると、私の話を聞いてくださった方も、丁寧に言葉を返してくださいます。これは、相手が子どもさんでも園長さんでも、他の方でも同じです。そして自分を伝えきれないと感じたときには、楽に語れるようになるまで、自分を待ちます。
それに、出来た分が出来たことなのです。

自分の心に添って動くと、自分を待ってあげることが出来る。
自分に丁寧に関わってあげると楽なのです。


2006年12月18日(月)

 子育て支援
 今日は、一人のお母さんが、鼻つまりのことについて尋ねて下さいました。鼻つまりといえば、私は先月の保健部会で、鼻のかみ方の勉強会の担当になり調べて得た情報があったので、その中のものを思い出しつつ出してみました。一方、お母さんはお家の生活スタイルとお子さんの状況を語ってくださって、私たちは二人で「何が出来るか?」を語り合う状況になっていました。私はお母さんと話をしながら、「情報を求められている時には語りやすいなぁ」と感じていました。そして、他にもいろんなアイデアが浮かんできました。
 もともと、そのお母さんが私に尋ねてくださったことで、私は自分の引き出しを開けて語ることが出来、そして、語り合うことで新たな案が浮かんできたのだと想像します。今日のお母さんは、私の可能性を引き出してくださったのです。
 それと、実は、保健部会で調べ物を始めたとき、あまり乗り気ではなかったのですが、そして、しているうちに楽しくなってきたのですが、してみることで次の材料になると実感しました。

 支援が終わった後の反省会の時、保育士さんはいつものように、私に「何か悩みごとを聞いたり相談に答えたり、はありましたか?」と尋ねてくださいました。私はついさっきまでの何ともいえない心地よさを再び感じつつ、今日の内容をお伝えしました。

何とも言えないものを表現するのなら、それは、愛と言うのかな。

** 〜Toi muốn đi Baseball〜 **





2006年12月17日(日) やさしく輝いて

 昨日の育成会に使われた、アルフォス・デーケン氏の著書『死を教える』抜粋資料を読んで、自分はこれからどう生きるかと自分に問いました。
ちなみに、資料の中の 「第2章 死への準備教育とそのあり方 (9成人(中高年期)の教育)」 には、次のように書かれています。

「/成人期は、青年期に獲得した自我の同一性の見直しをする必要が出てくる。/生まれてからこれまで、その人が持ってきた価値観や生活秩序、社会における自分の地位や責任、家庭生活における役割などを再検討することを意味する。つまり彼らのライフスタイルを再評価したり点検したりすることになる。
 その場合、ユングも指摘しているように、青年期以降一貫して持ち続けてきた男性性への原理、すなわち上昇志向の生活態度、権力と富への欲求、社会的影響への固執などに代わって、女性性の原理、すなわち自己の内面へ目を向け、心の内部の呼び声に耳を傾け内省したり、瞑想する態度が必要となる。そこから人間に対する優しさや思いやりが生まれてくるのである。
/さらに、「人生途上で危機的な状況に遭遇するさまざまな危機をどう乗り越えてゆくかが重要な生活課題となる。この危機を克服できず、挫折感に支配され、自滅の道をたどるか、それとも、その危機を/生成のエネルギーに転換させ、創造的なものに高める努力をするか/もしこの危機を乗り越えることが出来れば、その人は前よりもいっそう広い視野でものを見ることが出来、/人格的にも成長し、より円熟した自我を形成することになるだろう。」。

 心の傷を癒やす作業を続けていくことは、デーケン氏の書かれている言葉と同じように、自分を高め、より有意義な人生へと繋がっています。そして危機感は、長い人生からすると、“点”のように存在し、Step upのきっかけになっています。
それから、第2パラグラフには、男性性と女性性について書かれています。この内容は男性に向けて書かれたものと受取れますが、これまで仕事を続けてきて、そしてこれからも働くことが必要な私の心に響きました。

 現在40歳の私の人生は、これからもきっと、この3年間と同じように、少しずつ広がっていくでしょう。
私は、死ぬときには、自分に満足し、穏やかなやさしい私として死にたいです。
何かを語るとすれば、目に映る自然や傍にいらっしゃる方に、「どうもありがとう」と言うでしょう。

いつもやさしく輝いて、生きたいです。

** 〜Toi muốn đi Baseball〜 **



2006年12月16日(土) 死を学ぶ

育成会。「死を教える」。育成会で「死」を勉強するのは今年で3回目。

 今年は、「今回は、自分の過去を語らずに皆さんと一緒に“死”について学び、“生きる”につなげよう」という案を持っていました。
 ある方は、「死にたいと思って実際に死んでしまう人と死にたいと思っても、死なずにとどまる人との境目は何でしょうか?」と、ご自分の疑問を語ってくださいました。私はこの疑問に答えられる人なのかもしれないと、自分に同じ質問を投げかけてみました。
私も何度も死のうとし何度も思いとどまりました。思いとどまった理由は、苦しいことすら気が付かなかったある時は「死んだはずなのに生きていた」で、苦しい自分を知り始めたある時は「子どもたちの存在」。少し楽を知った時点では「死んでしまったらもったいない」。そして最終は「死にたくない。生きたい」でした。書き出してみると、それぞれに現実的な理由だったりその時の気持ちだったり。そしてその奥には、子どもの頃自然の中でたくさんの命に触れてきた経験も大きく影響しているように感じます。さらに、理屈や理由とは違うところで、命ある・生きものとして、死ぬまで生きることをしてきたからではないかとも。
 それから、生き物として死なずに生きてきた私も、これまでは、命あると共に自ら考える生きものとして、何かの物事にぶつかり限界を感じる度に、子どもの頃に学ばされた方法のそのままに、死ぬことで苦しみから逃れようとしてきたのだと整理することが出来ます。

 今は、これがどんなに悲しくて大変なことか、分かります。
そして、物事は先へ向けて解決していけることを知っています。
自分にやさしい解決の仕方があることも知っています。
自分を変えていこうと意識することで次へ進むということも知っています。

自然に死ぬまで生きていることが、自然なのです。
生きていてよかったと、心の底から感じています。



胎児として生まれた瞬間から、死に向かっている。
人は死ぬために生きているとも言える。
こうして考えると、年を取り老いていくという事は健康な証拠なのだから、喜んでもいいような気がする。
必ず死ぬのだから、死ぬまでの間、どのように自分を生きるかが大切になる。


2006年12月10日(日) 優先順位

 昨日、仕事帰りに図書館へ行き、保育園で使う保健教育用の紙しばいといくつかの本を借りてきました。理由は楽しいから。「してみたい作ってみたい」の続きで、この動き。楽しみの延長なのです。
 ところが、プライベートの時間です。これまでは、意図的に、仕事とプライベートの境界線を付けていた私です。楽しいからと、自分の時間に仕事のことで動いているのがいいのかどうかわからずに、ちょっぴり不安を感じました。楽しみなことは、他にも最低3つ、あります。こちらも楽しみの延長で、どれもプラスだと感じます。

 そんな私は何を優先するか…。あれもこれも、実際に本当にしたいこと。どれも、少しずつすればいいかもしれません。そういえば、ずっと昔タイマーをかけて少しずつしてみたことがありました。このときは、時間が来たら止めて切り替えるという動きが楽しくて、身になりました。

そして今は過去よりも少し大きな動きをしています。
そこで私は考えた。
心の傷を癒やすことは最優先します。
それから、先に繋がることをします。
それと、これまでもち続けてきた目標・目的を大切にします。
これまでもって続けてきたことからしていきます。
そうしたら、何を優先すればいいか、見えてきました。

心の傷を癒やしながら、これまでしてきたことを最優先します。
仕事は楽しくても、次の・次の・次の・次くらい。
それでもどうしてもしたければ、過去のように、タイマーをかけてしてみます。

あ、これも面白いかもしれません。「毎日少しずつ」が、身になるのだから。

** 〜Toi muốn đi Baseball〜 **



2006年12月09日(土) 心でお財布を

 ボーナスが出ました。自分の目的の為に、大切に使います。
お金に関しては、私は今も、多くの傷を抱えていると想像します。
子どもの頃には、「お前の為にお金を使うことほど無駄なことはない。生きているだけでお金がかかる」と言う母の言葉に、私自身の存在は消え心はいつも傷ついていました。母が家計簿の前で、度々、計算が合わないと言っていたので、大人になるまで、「うちの家はひどく貧乏なのだ」と感じていました。
 そんな私は、中学の頃には「たくさん働いて、私の為にかかった費用を親に返さなければ」という思いを抱えさせられていました。資格のある職業を選んだのには、子どもの頃に心に抱えさせられた大きな傷と、その延長にあった、姉への間違った憧れ心のためでした。
 ところが、大人になって、私や姉の結婚や誰かのお葬式など、本当に必要なときには、家の中のどこからか相当の金額が出没していました。
実際には、親が子どもの為に適切に費用を出そうとしなかったのだと知ったのは、心の勉強を始めてからのことでした。

 ちなみに、大人になってからの私が最も貧しかったのは、高等看護学校に通った2年間でした。この時には、365日太陽の当たらないアパートに住み、近所のパン屋さんでパンの耳を買って食べました。でも、学校に行って学ぶという目的があったせいか、苦になったことはありませんでした。
 そして、働いているうちに、いつの間にか、「働けば収入がある」という感覚が染み付き、経済的に不安を抱えることはなくなりました。
でも、いつも心は探せなかった。
そして、収入の安定した男性を結婚相手に選んだ事で、生活は安定しましたが、心の辛さは変わらないどころか、上乗せされた分だけ増していました。
過去に持たされた価値観の中で感じる辛さは、相当大きなものでした。


 今、私はこんな風に感じます。
私の心の安定が得られるのなら、お金は生きられる分だけあればいいです。
心が安定していれば、少しのお金を有意義に使うことが出来るのです。心が安定しているから身になる収入を得ることが出来、次へ発展するのかもしれません。
経済的に安定していることと、心の安定は違う次元なのです。

 世の中には、談合という出来事があって、見えないところで得になることを探す人が居て…。
私はいつも、自分の心を大切にし、自分の為に、心でお財布を開いてあげます。


2006年12月02日(土) 視点

育成会
 午前の部で、『28DAYS』というアメリカ映画を見て、語り合いました。
映画の中で、主人公のヒロインの姉妹が電話で言葉を交わす場面がありました。画面の中の姉妹が、お互いに遠慮がちに言葉を発する表情には、過去に心を開いて語り合うことのなかった私と姉との関係が重なり、少し心が痛みました。そして、心の痛みに気付いた自分にホッとして、それから、今は過去とは全く違う視点を持って生き、やさしく成長しているよと、自分に言葉をかけました。
こんな気付きが心の傷を癒やすきっかけになる、という見方をする自分が楽しみに感じられました。
 映画の中の矯正施設は、28日間でアルコール又は薬物の依存から抜け出す取り組みをしている場所でした。
私は自分の心の作業を振り返って、そしてこれからの事を思い描いて、28日という日数は、自分の細胞に刻み込まれた心の傷と丁寧に向き合い癒やしていくには、あまりに短い期間だと感じました。

 ところで、私の場合、これまで、アメリカの国で思い浮かぶのは、多重人格保持者ビリーミリガンでした。
ところがこの頃は、アメリカ=戦争・圧力が浮かんできます。
なぜならば、私の知った情報の中では、ベトナム戦争を起こしたアメリカには、現地の状況を知っている人たちが自国の一般市民に向けて流した情報の中に、嘘があったからです。
そして現在でも、イラク戦争の後のイラクの情勢は、政治に疎い私にも、アメリカは、平和の為にと起こした戦争の責任を放棄しているように見えているからです。さらに、日本にとって憧れのようになっているアメリカでも、権力が先に生きて、力の下で苦しい人々が居るのではないかと想像してしまいます。

 映画と政府を関係付けることは失礼なのですが、映画の中では、依存から抜け出し、自分を生きられるような指針を探せる場面はありませんでした。
そのアメリカに生きておられる、何かに依存させられた方たちは、人種や国の違いを除いて、人として、どう生きているのだろうかと、小さな興味もわいています。



 午後は、11月10日に放映された『居場所を下さい』のドキュメンタリーを元に語り合いました。私は数日前に、自宅でこの番組を見ていきました。
中に出ている男性の言動は、私の視点とは全く違うものでした。そのせいか、テレビに出ている子どもさんの表情は、楽なようには見えませんでした。
 途中で、両親が離婚して離れた父親に会いに行く女の子が出ていました。
再開したお父さんは再婚しておられ、「子ども達に責められるのではないかという恐怖心をいつも持っている」と語っていました。付き添ってきた男性は、「そんなことは思わせません」と伝え、男性の肩をたたきましたが、私には、女の子は戸惑っているように感じられました。
私も、自分が離婚を選んだことで、小さな子どもたち4人を私という母親から離すという状況を作りました。ですから、自宅で番組を見た後には、私にも、子ども達が突然会いにくることがあるのだろうかと想像しました。
 私の場合は、番組のお父さんが言われているような恐怖心は感じませんでした。そして、もしも今、子どものうちの誰かが私の元へ着たとしたら、私は、家を出る時、4人の子ども達と約束してきたことを続けている今の自分を語るだろうと想像しました。

 私は自分の心の傷を癒やすために、名古屋へ来たのです。
そして、今も、心の傷を癒やし続けるためにここで暮らし、この環境を利用しています。
保育園で働くためでも、本を書くためでも、ベトナムへ行くためでもなく、心の傷を癒やすために、今はこの場所で生きています。
そして、私は何のために生きているのか…。
おそらく、よりよく死んでいくために、生きている のでしょう。

このマイナスの社会も、自分の心の成長の為に、利用すればいい。
何よりも、心の傷を癒やしていくことを優先します。


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