「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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自分の見る自分と、他者から見る自分と、一致すると一番いい。 自分の感じている自分と、他者から見た自分が違うみたい。自分を過信していたようで、がっかりした。 小さな隙間に針が刺さったみたいだ。 昨日お祭りのとき、ふざけて言った私の一言で、一緒に居た小さな子どもさんを傷つけた。 そのお子さんは、母親の背中に隠れて、自分が傷ついた事を、体で表現してくれた。 私は、自分がいけなかったと思い、その場で「ごめんね」と謝った。でも、お子さんは、黙ったまま、母親の背中の影から私を見ていた。 私は黙ったままのお子さんの前で、お子さんに言った言葉を自分に向けて言った。 しばらくすると、お子さんは笑った。私は自分が許されたように感じて、ホッとした。それから、私達はもう一度遊んだ。
私は、お子さんが私の言葉に黙っていたとき、無意識に、自分が原因で傷ついたその子の視点を変えようとしていたのではないかな。 大人として、安易な言葉を使ったことを恥ずかしいと思う。私がその場で傷つけた自分を直視していたのなら、私はお子さんの傍で待っていられただろう。それ以前に、言葉を選べる自分を知っていただろう。 私は、お子さんが私の目の前で、私の言葉を心のフィルターにかけて落としてくれたことに、感謝したい。そして、気が付ける自分でよかった。 もっと自分を見つめていこう。
園長さんから、Mamoちゃんに聞きたいことがあるのと言われました。 「ご両親とのやり取りの中で、相手のいいたいことが分からないとか、こちらの意見と違うとき、Mamoちゃんはどういう風に答えるのかを教えてもらいたいの」 園長さんからの質問は、7月24日に他の保育士さんに尋ねられた内容と同じものでした。私は7月24日には、日記に書いていませんが、「相手の言葉が分からない時や、自分の受け取り方が正しいのかどうか不安な時には、復唱して、この受け取り方でいいですかと尋ねています」と伝えました。今日も、園長さんに同じ事を伝えました。園長さんは「ふーん。相手の言葉を聞いているよ・見ているよと伝えていくんだ」と言われました。 その後、しばらく、言葉や生き方について語り合いました。 園長さんは、人は間違いをするのだから、間違ったところを見れば次へ繋がるのだと言われました。 そうですよね。自分を責めてしまったら、自分を生きてはいかれない。その場を生き延びるだけの自分になってしまいます。私は、私自身の過去の経験を思い出し、深く頷きました。
話が終わり、私から「たくさん話をしていただいてありがとうございました」と伝えました。 すると、園長さんは、「私も、Mamoちゃん自身の視点とか、見たものや感じたことを聞いて、いろいろと勉強させてもらいたいと思ってる」と言われました。 私は、やはり…戸惑ってしまいました。でも、今考えると、人は誰とでも学びあい育ちあうことが出来るのだから、何かを掴もうとされている園長さんは素敵です。それに、私をどのように見られるかはその方の自由なのだから、私はいつもと同じように生きていればいいのだと思います。
方法や形ではなく、心が一番大切だと、常々語りながら、生きたい。 いつも丁寧に自分を語っていればいいのだね。 いつも、心と心で語り合おう。
保健部会で、生活リズムの学習会を。 メンバーさんは睡眠の大切さや健康な体を保つことの大切さを語っておられましたが、たいていは、「早く寝ればいい事は知っているけれど、両親は仕事に忙しくて夜が遅い。どのように伝えればいいのか」という保育士さんが持つ疑問でした。そうです。大人は忙しく働かされすぎるのです。
私も今月、部会のルールに載って、清潔について取り組み資料を纏めてみました。子どもさんとの関わりは楽しかったけれど、「健康教育をする」という視点で見るなら、知識を元に考えたものは、子どもさんには伝わりにくく、時間をとって語ることの無意味さを感じました。それに、子どもさんはいつも、自分の感じたものを大切にしようとしているのに、これ以上私を押し付けては、失礼だと思いました。何か違うのではないかと思っていたことはやはり違っていると小さく確認した出来事でした。
ということで、部会の中では、「出来たことを次へ繋げられるよう勉強しています」と語りました。 そして今は、たいていのことは、自然の流れの中で出来上がっていくもので、出来たことがあって初めて、次の考えが浮かぶのではないかと思えています。
私はこれからも、自分に必要なことや生きるために優先順位を大切に出来る大人として、心を基準にして生きていこう。 私のスタンスを大切にね。
Baseball
4歳児クラスさんで手洗いの本を読んでみたいと思い、担任さんにお願いして、私から子どもさんたちに手紙を出させて頂くことにしました。 始めはお子さん一人ひとりに手紙を書きたいと思ったのだけれど、一人ひとりに書くには時間が足らないので、大きな画用紙に皆さんの名前と保育士さんの名前を書きました。文章は、単語と絵を入れて、シンプルに伝わるように意識しました。大きな蛇口と大きいけれどかわいい手。お水で洗った後の手の絵には、ダリアちゃんのぴかぴかマークを入れてみました。一番下には、さりげなく私の似顔絵を入れました。 半日かけて作った“今月の作品・ピカピカマーク入り”の出来上がり。 自信を持って、クラスの保育士さんに「私の大作を見て」と言ったら、「わぁ、きれ〜い。丁寧に書くとそういうのが出来るんだ」と。 いつも楽しい絵を描いている保育士さんに認められて喜んでいたら、「でも、指が一本多いよ。なぞなぞに使うの?」という追加の言葉が…。 絵に描いた指が一本多かった。ちょっと残念。ぴかぴかマーク入りなのにな。 でも楽しかったから、いいのです。 ほんとに、なぞなぞに使ってもらおっと。
お昼休みにBaseball
今日は観察の必要なお子さんに付き添って、初めての2歳児クラスで、見守りを兼ねて遊びながら過ごしました。 始めは、私の顔を見て泣き始めるお子さんもいました。私は、子どもさんが安心できるようにしたかったので、泣いているお子さんからは少し離れて見ていたのですが、気が付いたら泣き終わっていて、私の傍で遊んでいました。 一人のお子さんに、私の膝の上ででんぐり返しをさせてもらったら、行列が出来たので、少しびっくりしました。そして、一番たくさん、でんぐり返しをしたのは、始めに泣いていたお子さんでしたよ。 子どもはいつも感じたままに動くのですね。
一人の保育士さんから、「ご家族と私とで、受け取り方の違いがあるとき家族への言葉かけをどうしたらいいのか・どう答えていけばいいのかな」と尋ねられました。 私は…、心には「この保育士さんのやさしさも好き」があり、そして、いくつか思い浮かんだこともあり…そしてどのように語ればいいのだろうと考えすぎて、うーんうーんと唸ってしまいました。
*不思議な植え込みって何?
ベトナム人研修生さんのところへ行きました。 日本語の試験を受けたいと言う女性と散歩をしながら話をしました。彼女は少しの日本語で「日本人と話をして発音を覚えることが大切」と言いました。私も女性に伝わる言葉を捜して語るよう意識しました。花や鳥を見つけたり空を見たりしているうちに、自然な日本語が出てきました。伝わる言葉を捜しているときよりも、空や鳥を見つけて感動したときのほうが、自然に言葉を発していることが印象的でした。女性は川岸に座って、日本語で家族のことなどを語り始めました。私は今度は、女性から日本が出てくるのを待ちたくて、静かに聞いていました。面白い空間でした。
休日。 朝、自動車の名義変更へ行ってきました。 軽自動車の名義変更をするのは初めてなので、受付探しからワクワクしました。うろうろしていたら、係りの女性が「こっちよ」と教えてくださいました。書類に書かれたきれいな字を真似して、私もきれいに書いてみました。記入を間違えて時間がかったりしましたが、間違えても、以前のように混乱しませんでした。 記入した書類を提出して、しばらくしたら私の番号が呼ばれ、カウンターへ行ってみました。そうしたら「はい、これね」と、車検証を渡されておしまい。「あれ?おしまいですか?」と尋ねると「はい、おしまい」って。 あまりにも簡単だったので、ちょっぴりびっくりしました。費用はわずか40円。何でも出来てしまう。すごいですね。 午後は家でのんびりしました。じゅうたんの上に寝転がって、切り替えようかなぁと思って集めた生命保険のパンフレットを眺めました。お友達は買い物に出かけたのですが、私は家に残りパンフレットを見ていました。子どもが留守番をしているみたいで、ワクワクしました。 夕方は相撲を見ました。いろいろな名前の人が居て面白かった。ほとんどの力士さんは手足にサポーターを巻いていました。勝負の世界では怪我は付き物なのかな。みなさん痛めたところをしっかりカバーして試合に出ているみたい。 私も足を怪我した時、ギプスを巻いたまま試合に出たらどんなだっただろうと、あらぬ事を想像して一人で面白がっていました。ちなみにお相撲さんは投げられても受身を使って上手に転びます。すごいね。お相撲して遊びたくなりました。 夕方はバッティングセンターへ行きました。今日はナイターは休みでしたが、バッティングセンターでBaseball をしてきましたよ。
これからも、子どもの頃にできなかったことを経験させてあげよう。たくさんたくさん、いろんなことを経験させてあげよう。 自分を楽しませてあげた分だけ、心も成長できるよ。
今日も一日、楽しかったね。
Baseball もね。
育成会。 始まってすぐに実感したのは、「育成会に来られている方は、一般の方とは語る言葉が違う」ということ。 そして次に感じたのは、「自分を語ることの意味の深さ」でした。 私も、もっと自分を語っていきたい。どうすれば自分を語る場所を広げることが出来るのかな。 いつも成長途中の私、成長途中の自分をも語っていけると、無意識に縛っている自分のくさびをはずしていけるのではないかな。 社会に自分を語ることで、持っている能力をさらに確かなものにするきっかけになるのではないかな。 過去に自分を語れなかった私が、心の中で笑ったり遊んだりしながら自分を語っていけたら、どんなに素敵かな。 語る自分を楽しんでいる時の語りは、どんなにやさしく穏やかかな。 クスッと笑いがこぼれるGUGを飛ばしながら、やさしい日本語を広げていきたいな。
いろんなところで自分を伝えてみたい。私は何を語るだろう。
2006年07月09日(日) |
地球さん、てつだってね |
昨日から、腰を使って歩くことを意識しています。 通常、歩くときに出す足の一歩を、腰から出してあげるのです。 腰の回転が体に響いて、気持ちが良くて、好きです。 最初の一方を出して、前に進むとき、足の親指の付け根より少し下で地球を蹴ります。 地球を上手に蹴った分だけ、体はグ〜ン!と前に進んでくれます。地球が押し返してくれているようで、嬉しくなります。 ついでに意識の中で引いた一本の線の上を上手に歩くように意識します。 まるで、モデルさんみたいです。 ちっこいけれど、腕が筋肉マンで、来年夏にはベトナムへ行く予定のモデルさん。 マッチョなモデルはいつも心を大切にし、自分を磨いていこうとしています。
心の中で、「もっと蹴ってごらん。もっと自由に歩いてごらん」と自分に声をかけます。 心が「満足満足」と言っているみたい。
私はこんな自分が好きです。
(地球さん、もっと手伝ってね。)
ベトナム語の授業へ行って来ました。今日は主に、歌の練習をしました。 ここで、面白いことに気が付きました。 言葉は、単語をつなげると1つの文章になりますから、日本語はひらがなをつなげると日本語の文章になり、ベトナム語はベトナム語の単語をつなげるとベトナム語で会話が出来るというのは知っていましたが、ベトナム語の唄も同じだったのです。 音程やリズムで流されて発音や声調が分からなくなることはあっても、ぼんやりでも正しく発音できていれば、音程やリズムで声調が分からなくなっていても、正しい発音として他者に聞こえるらしいのです。 丁寧がいいということですよね。おもしろいです。
そして、私の唄はどう? ハテナ・ハテナ♪。
お母さんって何かなぁ。 母性本能って何かなぁ。
私の心の中にも、小さな子どもを守ったり、やさしく語りかけられるものが、備わっているのではないかなぁ。
私がお母さんになれる始まりは、小さな自分を守り、私自身の弱い部分を育ててあげるところからではないかなぁ。 小さな自分に、「いいよ・大丈夫だよ」と、いつも語り続けてあげられるところからではないかなぁ。
おかしな言い方だけど、私も、自分のお母さんになれるのではないかなぁ。 もっともっと、自分の心を大切にしてみたい。 私って、どうなるのかなぁ。
Baseball
2006年07月02日(日) |
Keep tring |
夜、職場から、自由選択で行ったアレルギー研修会の報告書を書きました。 実は、この研修会は私の希望で参加したものなので、私は会場までの交通費を請求していません。ところが、職場からは、報告書を書いて会議で報告するようにと求められ、変だなぁと思っています。でも、研修会も報告書を書くことも楽しかったからいい。感想の1つとして、アレルギーに関連つけて、心を大切にしたいと書きました。 結果は後からついてくる。たいていのことは、通り道にある小さなことなのです。
そして世の中は、 2,006年7月2日付けの朝日新聞には、山口奈良県の医師宅が全焼し、長男が放火殺人の罪の問われた事件で、長男の在校保護者が嘆願書を出したという記事が載っていました。 先日育成会では、引きこもり20年の方が両親を殺害され、罪に問われた事に対して周囲の動きが変わっていることを知りました。 つまり、社会は少しずつ、変わってきているのだと思う。小さな変化が嬉しいな。私も自分を生きよう。
どうしてかな。今日は昨日よりも一昨日よりも、いろんなことが楽しく感じました。不思議…。
Baseball もあるよ!
2006年07月01日(土) |
守ること・冒険すること |
今日は、昨日の裁判の疲れの為に自分が定まらない一日。笑っている自分と突然悲しくなっている自分のギャップに苦しんでしまいました。こんな時には、ついつい自分を責めがち。 けれども、 例えば裁判所の一室で、私が混乱するのは、私の心の問題だけではなく、裁判官や弁護士に法律とは縁遠い私にわかる言葉で伝えて頂けないからだと言ってもいいと思えると、途端に楽になりました。 そう。社会がもっと生き易いなら、私はもう少し楽に生きられているはずなのです。 人々が、自分を訴えることをあきらめてしまったり、訴えるために弁護士を雇ったりする理由は、今の社会に欠けているものがあまりにも多いからだと思うのです。 それでも私たちは、今の自分を直視したことで、次への道を見つけていけます。目の前の出来事をすぐにまとめることが出来なくても、今の自分から次の自分へ発展させていけるのです。
今夜の私は、自分の中に、いつもに増す、あたたかさを感じています。 私のことをいつでも心から愛し、守り、膝の上でやさしく抱いてあげられるのは、私自身です。 母親は、いつでも子どもを包み込み、やさしく膝に抱き、「大丈夫よ・それでいいよ」と伝えてあげられるのです。 そして父親は、いつでも、母親よりも大きな体で、「生きていくこと」を伝え続け、「どこへでもいってみてごらん」と、冒険する自分を見せて生きていくのです。
私は私の母となり父となり、これからもたくさんの新しいものを経験させてあげることにしました。
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