「生きていくのに大切なこと」こころの日記
DiaryINDEX|past|will
| 2004年11月30日(火) |
「生きるということ」 |
今日私は、「矢作ダム」 へ紅葉を見に行ってきました。風もなく穏やかな水面に映っていたのは、色付いたオレンジ色の山々、そして透き通るように青い空と白い雲。ダムを囲む山は堂々とそして静かにそびえ立ち、ふもとの集落では焚き火を囲む人々が居て、その光景は 「私」 の日常とは違い、まるで 「秘境」 のように思えました。この静かな世界で自然に囲まれて暮らす 「人々」 も“ハイテク”に囲まれて暮らす 「私」 も 、「生きるということ」 をしているのですね。 「生きるということ」は、自分の目の前にある出来事と対峙し、「人」 としてより成長していく事なのですね。私はこれから、より成長する為に「プラスの好奇心を持っている自分」で居ることを意識し 「私」 の命を大切に・より有意義に使いながら生きていく事にしました。
明日から12月。庭のガーベラのつぼみは赤い色を付け始めました。一年前の冬、大きな花びらを持って私たちの前に現れたガーベラ。鉢植えとして 「美しく生きていた葉」 は、後に地植えにされた途端、自然の中で生きる為に 「たくましさを持つ葉」 へと成長していました。 「人」 として生きる私も、何処に居ても今と変わらぬ 「私」 として、けれどより新しい「私」として、「今」 を生きていくことが出来るのだと確信しています。20:00
庭のガーベラ 「矢作ダム」 セキレイ(鳥)は何処に居るかな? ネッシーは何処に居るかな?
此処からは「季節の色」をお楽しみ下さい。
「生きるということ」がどういうことか、だんだん分かってきた。
「生きるということ」は「自分の人生の問題と対峙し、より成長していく事」だと思う。 「自殺すること」は、命を持った「人」として「現実から逃げた」ことになる。 私が子どもの頃、何度も自殺しようとしたのは、究極の辛さの中に生きていたから。けれども私は生き延び、大人になった。大人になってからあとにも自殺しようとした。生きる方法が分からなくて苦して、たまらなかったから。けれどその辛さは究極のものではなかった。何故なら「究極の辛さ」は過去に終わっているから。 そして、私はここに生きている。
何日か前から、恐る恐るでも「生きるということ」を意識してみると、家を出てきた後にも「何かあったら死ねばいい。自分はいつでも死ねる」と思っている自分がいたことを知った。だから思考が入れ替わる。 けれど私は今、「生きるということがどういうことか」を知っているから、これからの私は自分の人生の問題に「興味を持って」取り組んでいくことにしよう。
社会はいつもと同じように動いている。私は「私」の心の中に“静けさ”を感じている。この静けさは何だろう。社会の動きに動じていない自分?! ..分からない。 分からないけれど、私と社会に生きる人とは明らかに何かが違う。見たいものが違う。知りたいことが違う。
私には他の何もかもを置いて考え続けたいことがある。 仕事? 取り組んでいこう。生きるために必要だから。 食事? 睡眠? 大切にしていこう。健康な体が必要だから。 痛んだところは休めればいい。 傷ついた私は癒やしていけばいい。 38 歳。38 歳。私が生まれてから38 年という「時」が過ぎた。 通ってきた38 年。存在した38 年。忘れまい。そして思い出そう。 何があった? 虐待された。 何があった? 虐待した。 何を知った? 世の中には間違いがたくさんあるのだと・私に必要なものは、「今を生きる私」だけだと。 そして、最低限あればいいのは「生きることをする自分」だと。
死にたい? 死にたくない。 生きたい? 生きたい。「私は生きていきたい」。
社会とは違うものを求めている、ただ一人の「私」として。 「私」 自身の手の平で「私」 自身を温めて。
夜勤明け。久しぶりに自転車で出かけてみた。街路樹の赤い色。青い空に浮かぶ白い雲。太陽に向かって走った道の「黒いアスファルト」に、小さく光る無数の石。立ち寄った公園で見た女の子のピンク色の自転車。白く透き通ったススキの穂を背に走り回る子ども達。 穏やかな初冬の空で止まったままのように見える白い雲も、少しずつ動いているにちがいない。 現実はいつも瞬時に入れ替わり、そしていつも私の人生の一場面として繋がっている。私は次々と視界に入る現実の中で、「“生きる事をしている”自分」を確認し、再び赤い自転車を走らせた。9:00
さざんか 近所の公園 My bicycle
昨日私は、小さな女の子と触れ合う時間がありました。年齢は3歳くらいでしょうか。その小さな女の子は、こちらへ視線を向けながら私の周囲を回っていました。私はその動きを見守っていると、女の子は少しづつ私との距離を縮め、やがてその小さな指先と大人の私の指先が、初めはそっと、そして次にはリズムを取りながら触れ合いました。女の子の小さな指の感触が私の指へ・心へと温かく伝わりました。少しの時間を経て、女の子は私の膝へ座り、そして私が水を飲む様子をじっと眺めた後で、同じように小さな口に水を含んで飲みました。女の子の大きな瞳の奥に、無限に広がる好奇心が見えるような気がしました。女の子の「動きを見守っている」中で、彼女が何を欲しているのかを感じとれる事もありました。
この 「小さな女の子」 も、やがて 「大人」 へと成長するのですね。そして「自分」を確かめるために、「生きるとは何か」 を知るために、ありったけの好奇心を持ちながら、私たち大人を見つめているのですね。
私は、過去に子どもの傍に居たころ、自分に 「心」 があることも、子どもに 「心」 があることも、気が付かないまま生きていました。そして今は、「心を持った人間」 として、社会に存在する 「大人」 の一人として、 「今を生きる」 事をしています。私が「私」で居る為の大切な作業を続けながら...。16:00
サルビア
過去、自分の感情を殺して優しい人として生き延びていた私は、今 「柔らかく生きようとすること」 が 「安易に社会に巻き込まれる」 結果となるのなら、これから 「揺るぎない自分」 へと成長できる事を意識して、自分を見つめる作業を続けていくのだ。 私が 「揺るぎない自分」 を意識していくことは、私自身が “ごく自然に柔らかさをかもし出す女性” に成長していく事へと繋がっている。 一昨日見つけたカマキリが、今朝もまた同じ場所に止まってた。私の刺激に威嚇したその体勢が元には戻らない。この寒さの中では、 「カマキリ」 として生きては行かれぬのだろう。このカマキリはもうじき死ぬのだろう。カマキリは死ぬ時、私たち人間と同じように、ゆっくりと時間をかけて全体の機能を失ってゆくのだろうか。カマキリは死んだら何処へ行くのだろう。きっと土へ帰るのだな。私は死んだら何処へ行くのだろう。私も土へ帰るのだな。ふと視界に入った茶色い土の感触が、どこか懐かしい気さえする。雨に濡れて冷たい土も、どこか温かい気さえする。
冷たい風の中で身動きしないカマキリを見ていて、ふと思う。 死のうとした。 生きようとした。 生き延びようとした。 生き延びてきた。
そして今、「生きている」 これからも、 「生きていく」 過去はいつも、繋がっていた。そしてこれからも、繋がり続ける。「私」 の命がある限り、決して、途切れない。
Mamo 38歳。 生きていく「私」の土台は、どれほど固まってきたのだろう。私は、今はまだ不安定な「私」の土台を、自分の力で固めていく。21:00
| 2004年11月14日(日) |
「私」 を認める 「私」 |
私は過去、集団の中で適度に同調し、適度に自分を伝え、その 「適度」 については自分が傷つけられないであろう程度を無意識に察して選んでいました。つまりこれまでは、「周囲の色に染まること」 をする事で 「マイナスの中の安定」を求める生き方を続けていたのです。 けれども、 「自分を主張する」 ということは 「他者を否定する事」 ではないのですね。私は 「人」 として 「自分を認める生き方」 を続けていくことが大切なのですね。 本来は、「自分を大切にする生き方」をしている人の集まりが 「集団」 という形で存在するはずなのですから、私は集団の中に居るとしても 「自分の心に耳を傾ける事」 を続けていくことが大切なのです。 私はこれから、「人」 として生きている自分の行動の一つ一つを、より丁寧に見ていきます。私は私自身の中に 「傷を抱えたままの自分」 が存在する事を知っていますから、これから更に腹を据えて 「傷の中で生き延びてきた自分の思考」 を見つめていく事に決めました。 私はこの自分の取り組みが “私が、いつでも、何処でも、誰と居ても、同じ心を持った 「私」 として 「私」 を語って生きていく” ことに繋がるのだと確信しています。そしてその為に大切なことは、全ての感覚を感じる心とプラスの知恵を使って考える 「私」 を意識して行く事だと捉えています。
今日は秋の景色を写真に収めて来ました。私は山の木々の美しさを眺めながら、「今・この時・この瞬間・花を眺め、薄曇りの山の空気を吸い、吹く風の冷たさに冬の訪れを感じる自分」 が存在したということが大切なのだと思いました。途中で見つけたアジサイは、その花の形を丸ごと残したまま茶色く枯れて生きていました。私たちは 「花」 を 「美しい」 というイメージで見ているけれど、実際にはどんなにきれいな花であっても頭を垂れ茶色く生きている “時間” があるのだろうと思います。23:00
�々疝魴未侶平А´�隠れたイチョウ �L滅鬚たШ未硫屐´ぅ汽�ラ �ゥ椒織鵑硫屬縫�モ �Ε▲献汽ぁ´Щ魁´╂稈遏´�トイレの花 �� トタンの壁に「人」 �� �� �� �� �� �� �� �� ��
| 2004年11月09日(火) |
時間を使って生きてみる |
2004年10月24日、私は自分のメモ書きに 「人より時間がかかっても、遅れをとっても構わない、1つずつ、自分の心を確認しながら取り組んでいこう」 と書きました。 これは、過去に “誰かよりも先にする事・誰かよりもよく出来る事” にエネルギーを使っていた私が、 「“何かに急がされるように生きている自分”を変えたい」 と痛感した日の決意でした。
本当に大切なことは、「その時、その事に取り組んでいる自分を知っていること」なのですね。そして 「早い」 という評価は 「遅い」 という言葉があって成り立つ。つまり他者との比較があって初めて成り立つものなのですね。例えば私たちの生活の中で、ある物事に対して比較が必要な場合はありますが、その事が私たちの生き辛さの原因だとするならば、私たちはこの重たい荷物を全て降ろしてしまう必要があるのですね。
もう今は、ゆっくりとゆったりと生きれば良いのです。私は今、より柔らかく生きる為に 「時間を使って生きる自分」 を意識しています。時間に追われるのではなく “時間を使って生きる” のです。8:14
何かの “生きもの” を育ててみたい。植物にする?! それも良い。 けれど私も “生きもの” なのだから、まずは自分を育ててみよう。 私が 「私」 に心を傾け優しく接していく事で、「私」 はどのように育っていくのだろう。
私たちは草花や生きものに対して、ありのままの姿を受け入れる事が出来るのだから、自分自身に対してもありのままの自分を受け入れていくことが出来るはずなのだ。これからの私は自分を肯定する事を意識して、「今」という時を生きるのだ。そうして生きていく事で、自分を育てていけるのだ。 「人体実験?!」 それも良い。 この実験は、私の中にある生き辛さを 「薬を使って抑圧する」 のではなく、「心を見つめ対峙していく事」 で成長していこうとする、かつてない画期的な実験なのだ。
明日は何があるのかな?「明日」を迎える事が楽しみです。明日はどんな私かな?明日を生きる「私」が楽しみです。明日の朝、眼が覚めた瞬間に私は何を思うのだろう。明日の私を想像してワクワクしながら布団に入る私です。22:30
休日の朝。布団からはみ出た手足に寒さを感じて眼が覚めました。 この頃は朝夕がめっきり冷えこむようになり冬の訪れを感じます。ゆっくりと布団から抜け出して、私の体が冷えないように衣服を整えた後、庭に放られていたダンボールを片付ける私の耳には鳥の鳴き声が聞こえてきました。ふと視線を上げると、晴れて初冬のさわやかな空が一面に広がっていましたが、防寒した身体にも吹いてくる風は冷たくて、それでも 「今、風の冷たさを感じる私が居る」 ことが素敵なのだと思いました。過去には、自分が何をしているのか、何の為にそこに居るのかが分からないまま生きる私でしたけれど、今は自分の動きの一つ一つを確認できる私です。
昼間には久しぶりにプールへ行き、水中の「真空パックの中のように静かな世界」の中で、自分の心臓の鼓動に耳を傾けてみました。そして水の底に頬を付けてタイルの目地の粗さを感じてみたり、次の瞬間にはゆったりと水面に浮かんでみたり、今日私が触れた 「水」 は、いつもに増して 「柔らかさ」を持っているようにも思えました。私は水中で感じる事が出来る「とろけるように柔らかい自分」を日常でも持続させる事を意識して、より楽に生きていくのです。
帰りには、通りの景色に秋の気配を探しました。今年は紅葉が遅れているらしく、森の木々は緑色を残していましたが、時に濃い緑の中に赤や黄色が映えている景色を見つけては、その色合いの美しさに私の心は躍りました。 木々が色付いていることよりも、今この季節を楽しんでいる自分がいる事が大切なのだと思います。
朝起きた瞬間から、自分の心と対話しながら一つ一つ動いていくことの連続が 「生きるということ」 ではないかと思います。私はこれから、「私」として生きていくのですから、何時の日か、「寝ているときですら生きている事を実感できるのだろうか」 などと考えてみたりもしています。
一昨日、ススキの穂を逆光撮影してみました。ススキが輝いています・・。 今日の空は、筆に白い絵の具を付けて一振りしたように 「白い雲」 が伸びていました。 
|