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Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
ロンドン・ヴィジョナリーズ2は11月25日

9月25日に1巻が発売された「ロンドン・ヴィジョナリーズ――コランタン号の航海」
2巻は明後日25日(水)の発売です。

この表紙が目印です。
ロンドン・ヴィジョナリーズ2――コランタン号の航海

3巻は来年1月末の発売となります。
19世紀初頭のロンドンを、お楽しみくださいませ。


2009年11月23日(月)
隅田川タワーブリッジ

東京・隅田川にかかる可動橋、勝鬨橋にロンドンのタワーブリッジのような計画があったことをごぞんじでした?
これが第一案



タワーブリッジちょっと東洋的…のような不思議なデザインですね。
実現していたら、近くにある築地本願寺によく合ったかもしれません。

東京駅丸の内側の行幸ギャラリーで26日(木)まで展示が行われている「土木エンジニア・ドローイング展」に行ってきました。
明治・大正時代の橋梁などの手書きの設計図面が展示されています。

EYES・土木エンジニアドローイング展
http://committees.jsce.or.jp/day/system/files/flyerbacknew.PDF

最終的に採用されたのはこちらの第三案



現在の勝鬨橋の超高層ビルに囲まれた景観…下流から見て左側に聖路加タワー、右側に晴海トリトン、上流奥手に大川端リバーシティ…を考えれば、この最終案が正解だったのでしょうが、
でも考えて見ると、周囲のほとんどが木造平屋だった昭和の初めのこの時代、この設計はかなり時代を先取りした…というか、はっきり言って「かなりぶっとんだ」ものだったのではと思われます。


2009年11月22日(日)
海に出る少女たち

9月5日の日記でご紹介した、ヨットで単独世界一周をめざし社会福祉事務所に留め置かれたオランダの14才の少女ローラ・デッカーのニュース
10月末にユトレヒトの地方裁判所の裁決が出ましたが、やはり航海は許されず、来年7月までは当局(この場合は社会福祉事務所)の監督下に置かれることになったそうです。

ローラの弁護士によれば、彼女はこの裁決にがっかりしているそうですが、単独航海をあきらめたわけではなく、来年8月の出航を希望しているとのこと、8月の出航でも十分、世界最年少の単独航海記録は達成できます。
ローラは、来年の5月まで陸できちんと学校に通うこと、応急手当のセミナーを受講すること、睡眠をコントロールする技術を学ぶことを裁判所に誓ったとのことです。
来年7月まで彼女の航海はオランダの内陸河川と、イギリスまでの北海横断に限定されるとのこと。
最後の決定について、彼女の弁護人は「ローラには経験が足りないと言う理由で航海を禁止しながら、航海の経験を積む手段まで禁じられるというのは納得がいかない」と裁判所の決定を批判しています。

さて一方、オーストラリアでは、16才の少女ジェシカ・ワトソンが、10月16日、ヨットでの単独世界一周をめざし出航しました。
こちらはスポンサー企業の応援つきで、彼女はホームページを通して、日々航海の様子を伝えています。

ジェシカの航海日誌
http://www.jessicawatson.com.au/
オブライアン・フォーラムではこのページを日々読みに行かれる方も多いようで、「彼女は今ドルドラムにいるよ」など話題になっています。

14才と16才という年齢の差もありますが、これは国の習慣の違いも多少はあるかと、
オーストラリアは、その昔、イギリスからはるばる海を渡った航海者たちが作った国ですし、
イギリス本国でもタイムズ紙に掲載されたローラの記事には、彼女の航海を肯定するイギリス人たちのコメントが数多く寄せられていました。

個人的意見としては…そうですね、ローラの航海範囲が内陸河川と北海のみというのは大きな間違いだと思います。
確かにこれでは経験が積めませんもの。
経験を積むためにはやはり、EU域内は航海可能範囲としないと…南はカナリア諸島までね。

最初から世界一周と言わず、まず大西洋を横断して、問題なかったら太平洋〜インド洋とまわって、少しずつルートを延ばしていって、気がついたら世界一周していました…というのはダメなのでしょうか?


2009年11月15日(日)
【至急報】明日の八点鐘

「名帆船乗り、送る鐘――明日世界で八点鐘」という記事を本日(6日)の朝日新聞夕刊に見つけました。
URLをご紹介しようと朝日のホームページに行きましたが、記事がネットにアップされていませんでした(アップしてくださいませ!朝日新聞社さま>)ので、一部をここにご紹介します。


7日午後4時(日本時間)、横浜、大阪、サンフランシスコの港や洋上の帆船で一斉に鐘が八つ打たれる。
名帆船乗りへの別れと遺志を継ぐ弔鐘だ。

日本にセイルトレーニングと「海星」をもたらした元日本セイルトレーニング協会理事長の大儀見薫さんが9月18日に80才で死去した。
元同協会事務局長で共にセイルトレーニング導入に努めた今井常夫さんが「大儀見さんにふさわしいお見送りを」と八点鐘を呼びかけた。
「海星」の乗船経験者やヨット仲間が送る集いを開く横浜ベイサイドマリーナ、87年のレースで大儀見さんがゴールした大阪北港ヨットハーバー、サンフランシスコを母港に環境調査活動をしている「海星」、そして世界の海で大儀見さんと交流のあった帆船が参加を表明している。
今井さんは「海星とあこがれは国内の主な港のほとんどに寄港し、5万人を超える人がセイルトレーニングを経験した。大儀見さんがまいた種を私たちが育て、次の世代に伝えていきたい」と決意を語る。


そんな前日に…ですが(明日は用事があって、とても午後4時に港へは…)、海星1日コースにお世話になった者の一人として、別の場所からですが明日4時、お祈りの心だけは一つにしたいと思います。
「海星」に、日本で帆船に乗れる機会を作ってくださって、本当にありがとうございました。


2009年11月06日(金)
パイレート・クイーン

11月28日〜12月25日まで、東京の帝国劇場で「パイレート・クイーン」というブロードウェイミュージカルの日本版が上演されます。
そのタイトルの示す通り、これは海賊の女王の物語、舞台は16世紀末のアイルランドとイングランド。

…とくれば、女王とはエリザベス一世のこと?と考えられる方も多いと思いますが、この「女王」は、イングランド支配に昂然と反抗し、イングランドの商船を襲撃したアイルランドの女性族長グレース・オマリーのこと。
上演パンフレットのキャッチコピーにいわく「海の女王・女海賊グレース・オマリーvs陸の女王エリザベス一世、二人の女性の愛と自由の物語」…だそうな。

イングランドの属州にとりこまれつつある16世紀のアイルランド、オマリー一族の族長の娘に生まれたグレースは、その勇敢さとリーダーシップを認められ、父からガレー船の指揮を任せられていた。
イングランドの商船を襲い圧政に抵抗するアイルランド人たちは、イングランド人から見れば海賊である。
やがてグレースは、幼馴染みのティアナンとの恋をあきらめ、オフラハティ一族との同盟のため、オフラハティのドーナルと婚儀を上げることになる。
だがグレースの父の死後、オマリー族をも支配しようとする夫ドーナルとの溝は深まった。
ついにドーナルはイングランドと密かに通じ、グレースを陥れ捕らえさせる。
このときグレースの子供を守り、ドーナルを討ったのはティアナンだった。
ティアナンは自分の身と引き替えにグレースを釈放するようにイングランドに求める。願いが容れられアイルランドに帰ったグレースだったが、戻った故国はイングランドの支配の下に荒廃していた。
グレースはロンドンに向かい、イングランドの女王エリザベスに、女性として母として訴えかける。グレースとの会談を終えたエリザベスは、グレースにオマリー一族の土地を再び治めることを許し、グレースは釈放されたティアナンとアイルランドに帰る。
…これがミュージカルのあらすじ。

みどころは二人の女王が対立し、そして最後には互いを理解するというところ、グレース役は保坂知寿、エリザベス女王は涼風真世なので、見応えはたっぷりでしょう。
アイルランドの物語ということで、アイリッシュダンスをふんだんに盛り込んだスペクタクルな舞台も魅力だそうです。
ちょっと、わくわくどきどきの展開、時間があったらぜひ見に行きたい!ものです。

でも歴史海洋小説好きとしては、気になるのはやっぱり史実、
ミュージカルはなんともドラマチックな展開をしますが、実際の彼女の人生はどのようなものだったのでしょう?
エリザベス女王と直談判なんて、ほんとうに史実にあったのでしょうか?

グレース・オマリーというのは、イングランド側の記録に残されている英国名で、アイルランド名はGrainne Ni Mhaille(aにはアクセント記号)。
Grainneというのはケルトの豊穣の女神に由来する名前なので、優美を意味する英国名グレースは、イングランド側が記録を残すときに、音のみを充てた名前のようです。
16世紀のアイルランドに実在し、実際にエリザベス女王とも会見をした女性族長です。
グレースは英国人が充てた名前ということなので、以下、実在の人物を語る時はゲール名のGrainneを使わせていただきます。

Grainneはオマリー一族(クラン)の長(チーフタン)、「コナートの海の女王」と呼ばれ、アイルランドでは多くの物語に語り継がれる伝説的な人物です。
が、実際のところ、どこまでが史実でどこまでが英雄譚なのかよくわからないのが困ったところなのですが、
とりあえず史実を確認していくと、

Grainneは1530年、アイルランド西海岸メイヨーに、オマリー族の族長(チーフタン)Eoghan Dubhdara O Mailleの一人娘として生まれました。
西海岸クレア島に城をかまえるオマリー一族は、多数の船を持ち海外との交易を行っており、Grainneもゲール語の他に英語、スペイン語、ラテン語、フランス語などが話せたようです。
父の死後Grainneは一族の船と海外貿易を引き継ぎました。実際に航海に出、船の指揮もとっていたようです。
アイルランドを属州としていたイングランドは、当時アイルランド船の貿易に税金を課していたのですがオマリー一族の船はこの税金を公然と支払わないなど不服従はなはだしく、イングランドから派遣されていた統治官がGrainneについて「40年間に渡りイングランドへの反抗分子に援助を与えていた」と記した書簡が残されているなど、Grainneが当主となったオマリー一族がイングランド統治に素直に従っていなかったことは事実のようで、このあたりが様々な英雄譚となって残っているようです。

エリザベス女王と会談したというのは史実ですがこれは1593年…ミュージカルの夢をこわして申し訳ありませんがGrainneが63才の時で、恋人の命ではなく実はイングランド軍にとらえられた息子のためにロンドンまで出向いたようです。
Grainneは二度結婚しており、最初の夫Donal an-Chogaidh O'Flahertyとの間に2人の息子と1人の娘、二番目の夫Richard-an-larainn Burkeとの間には1人の息子が生まれました。
このDonalは好戦的で野心的な人物ではあったようですが、イングランドと通じて妻を陥れたという史実はなかったようで、ミュージカルでは悪役にされてしまって気の毒かもしれません。

まぁミュージカルはミュージカル、史実を誇張したそのドラマチックさを楽しむのが正しい見方かとは思います。
それにしても16世紀のイングランドと言えば、キャプテン・ドレイクをはじめとするスペイン財宝船を襲った私掠船団(俗に言う海賊)で有名ですが、そのイングランドの鼻をあかしていた反抗的なアイルランド船団があった…というのは何とも新しい発見で、
知らなかった事実を教えていただいた…という点ではこのミュージカル「パイレート・クイーン」に感謝です。


2009年11月03日(火)