HOME ≪ 前日へ 航海日誌一覧 最新の日誌 翌日へ ≫

Ship


Sail ho!
Tohko HAYAMA
ご連絡は下記へ
郵便船

  



Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
パトリック・オブライアン・ウィークエンド2007

毎年1回、秋に英国のポーツマスで開催されている「パトリック・オブライアン・ウィークエンド」ですが、今年も8月31日(金)〜9月2日(日)に開催されます。
プログラムの詳細は下記の通り


8月31日(金)
19:00 ポーツマス、海軍博物館に集合
20:00 ビクトリー号下砲列甲板にて歓迎晩餐会

9月1日(土)
10:15 講演1「From Quarterdeck to Paperback」
      オーブリーとナポレオン戦争時代のフリゲート艦長たち
      講師: Dr Tom Wareham(博物館学芸員)
11:45 講演2「By management and a portion of good luck」
      1803-1805年地中海における諜報活動
      講師: Dr Colin White(海軍博物館館長)
13:0〜14:30 ポーツマス・ハーバークルーズ
      午後:博物館など自由見学。
18:30 室内楽コンサート「Concert: Celebration of a Friendship」
      夕食

9月2日(日)
10:15 講演3「Patrick O'Brian - The Novelist -」
      小説家パトリック・オブライアン
      講師: Count Nikolai Tolstoy
         (オブライアンの義理の息子:後妻マリーの長男)
11:30 講演4「Illustrating Naval History 」
      歴史海洋画を描く
      講師: Mr Geoff Hunt
         (海洋画家、オブライアンの表紙画などを担当)
12;30  ビクトリー・ギャラリー見学
13:30 昼食
15:00 解散

参加費: 400ポンド(×250円=10万円!)
宿泊費: 上記には含まれません。ポーツマスのホリディ・イン・ホテルにて1泊1室79.95ポンド。

詳細は下記ページをご覧ください。
http://www.royalnavalmuseum.org/PatrickObrianWeekend2006.htm

申し込みは上記ページ下部の「booking form」をクリック。
使用言語の表示はありませんが、おそらくは英語オンリーと思われます。


講演内容はとてもとても魅力的なのですが、いかんせん高すぎですね。


2007年06月24日(日)
マルタ(6)国立美術館・ハーバークルーズ

さて、話は戻って、19世紀のマルタを忍ぶ最後の訪問地は国立美術館。
ここは実は旧海軍本部、ただしこの建物に司令部が移転したのは1820年頃だそうなので、オブライアンの小説で再度マルタが登場することがあれば舞台となる…というところ?

でも、海洋小説は抜きにしても、この国立美術館はおすすめです。
騎士団時代の銀器など、素晴らしい細工物の数々、中世〜近世のイタリア、フランス絵画。
それから当然かもしれませんが、海と帆船を描いた風景画がとても多いのが特徴。

エントランスを入り、階段を登っていくと、両側に歴代の地中海艦隊司令長官の名が刻まれています。
それだけで私などは、名画を見にきた筈が、もうすっかり妄想の世界。
この階段を、リチャード・ボライソーが、副官エイバリーを連れて降りたりするの図…とか考えると、思わず顔が笑ってしまったり。
いや時代が10年違うのはわかってますけど、ま、堅いことは言わないの。

【美術館エントランス】左手の大理石が歴代地中海司令長官を記したもの


【歴代司令長官】1886-1957年
下の方にある、あとづけの長いのは、第二次大戦当時のカニンガム提督と、ビルマ伯マウントバッテン卿。


ナポレオン戦争時代のところは書き写してきました。
1792 Samuel Cramston Goodall RA
1793 Richt Hon Samuel Lord Hood VA
1795 William Hotham A
1795 Sir John Jervis KB, A
1799 Richt Hon. George Lord Keith KB, VA
1803 Richt Hon Horatio Viscount Nelson KB, VA
1805 Cuthbert Collingwood VA
1810 Sir Charles Cotton BART, A
1811 Sir Edward Pellew BART, VA
1814 Charles V. Penrose RA
1815 Richt Hon Edward Lord Exmouth KCB A
1818 Sir Thomas Freemantle CCB RA
RA=海軍少将、VA=海軍中将、A=海軍大将
KB, KCB = バス勲位
私はただ小説を読んでいただけなのに、ほとんとの名前が馴染みだというところに、ちょっと頭を抱えたり…。

おまけ【美術館階段の手すり】これってぢつは、本来ぶんぶん振り回して敵の斬り込み隊を撃退する道具でわ?



海洋小説の舞台を訊ねてマルタの旅、最後の仕上げはハーバークルーズ。
ヴァレッタの対岸のマルサムシェットハーバーから一時間半の港内遊覧船が出ています。
船はいったん外用に出てからグランドハーバーに入港するので、昔通りの入港気分が味わえます。ただし遊覧船は大型ではないので目線は戦列艦より低いかもしれない。
乗船を待つ間、ポーツマスのヴィクトリー号を思い出して高さを計っていたのですが、この遊覧船では甲板でも目線は上砲列甲板まで行かないんじゃないかと。
それでも右手に聖エルモ、左手に聖アンジェロと開ける港内の景色は上々。

【グランドハーバー入港:右舷に聖エルモ砦】


艦尾甲板でキーンと肩を並べていたボライソーは、いくつかの白い砦を配した港湾が、動きののろい74門艦を迎えるように開けていくのを見やりながら、不安な思いを無理やり抑えなければならなかった。
穏やかな海面越に礼砲が響き渡ってきて、最寄りの砲台の上で旗が一枚、ちょっと下がった。


【グランドハーバー入港:左舷にリカゾーリ砦】



海洋小説の舞台を訪ねて、英国のポーツマス港にもプリマス港にも行きましたけれど、ここグランドハーバーほど当時の面影が残っている港は他にはないでしょう。
プリマスなんてほんと、横須賀と全然変わらないただの現代の軍港ですし。
プリマスは空襲がひどかったので市の中心部は聖アンドリューズ教会をのぞいて、ほとんどが現代風の鉄筋コンクリート建築物に建て替わってしまっています。もっともそれを言えばヴァレッタだって1945年には瓦礫の山であったのだけれども。
マルタの人々は建物を一つ一つ復元し、トルコとの大攻囲戦当時の町並みを再生しました。そしてそれらは今、まちぐるみ世界遺産となっています。
蜂蜜色のマルタストーンで建造された町は、青い青い地中海と対色のコントラストをなして、海洋小説を抜きしても、この青い青い海をいつまでも眺めていたい。そんな気にさせるグランドハーバーでした。


***エピローグ***

12月12日朝、マルタを発ってロンドン経由で帰国の途に。
午後草々にロンドン着、空港近くのホテルに荷物を置いてから紅茶と本を買いにダウンタウンに出ました。
本屋でのお目あては「Making of Hornblower」、ちょうどこの時期(1998年)に英国では、C・S・フォレスターのホーンブロワー・シリーズの初期を、テレビドラマとして放映中でした。
ITVという民放で夜9時から2時間枠の一話完結、全4話放送予定で、この時点で10月に第一話、11月に第二話が既に放送済み。
Tom MacGregor著のメイキング本も発売された…と風の噂に聞きました。
実は私、英国在住の元同級生に、かなり図々しいお願いをして、10月11月のTV放映をビデオ録画してもらっていました。

10年ひと昔とは、本当によく言ったものですよね。
今だったらドラマDVDもメイキング本もインターネットでぽちっとワンクリックじゃないですか?
わずか10年前は…、シリーズ本こそ洋書店のカタログで、新刊情報も取り寄せも比較的簡単でしたけど、ムック本など特別編集ものの刊行情報はなかなか得られず、洋書店ではビデオを取り扱ってくれず…、
現地在住者に家庭用ビデオ機で録画をたのんだり、めくら注文をしたり、機会があれば向こうの本屋に行ったりしていたのです。
今思うと隔世の感があります…しみじみ。

ともあれ、録画してくれた元同級生にはできれば直接会ってお礼が言いたかったのだけれど、子供さんがまだ小さいのと、家に電気工事が入っていて、出かけられないとのことで、ホテルからお礼の長電話。
「本当に変なこと頼んで、おたくでごめんね」と謝ったら、彼女に「そんなことないって、私とってもうらやましいんだよ。好きなことのために、今度だってマルタまで行ったんでしょう。そういう人生って幸福でしょ」と言われてしまい、
「うちの子もそういうふうに育つといいんだけど、どうやったらそういうふうになるのかなぁ」
ちょっとちょっと待ってよ! それってアブナイよ、って私は思ったんだけども、英国っていうのはマニアは尊敬される国だから、そういう価値観もあるんでしょうか。

それはともかく、彼女のこの言葉にはびっくりでした。マニアに走っている自分の人生が、他の人には幸福そうに見えるなんて、今まで考えたこともなかったから。
そりゃ今回はたまたまお休みとれたけど、ふだんの私の生活といえば、残業だらけで、行き帰りの電車のわずかな時間に海洋小説とか読んではぼーっとしているのが関の山で、この生活が幸福かっていうと、うーん。
でも、これでもし、海洋小説やその他、冒険小説やらファンタジーなどの本の面白さを全く知らない生活だったら、もっと毎日は味気なくて悲惨だろうし、まぁ幸福な人生かどうかは別にして、海洋小説は私の毎日を幸福なものにしていくれていることだけは事実だから。

ロンドンのダウンタウンで、お目当ての本と紅茶を手に入れて、チャイナタウンで炒飯を食べて、空港近くのホテルに帰るまえに最後に立ち寄ったのがトラファルガー広場。
せっかくマルタから帰ってきたのだから、海軍門を拝んでネルソン提督にご挨拶(海軍本部に出頭ってやつ?)していかなくっちゃね。これが「正式」ってもんだわ。

クリスマス直前のトラファルガー広場は、イルミネーションがとても綺麗でした。
広場を囲む壮大な建築物を見ると、七つの海に冠たる大英帝国の威光がつくづくとしのばれます。
ネルソン提督の像を見上げながら「閣下が苦労して獲得されたグランドハーバーからついさっき帰ってきましたよ」なんてね。
でも私、今朝はまだマルタにいたのよ。それが夕方にはトラファルガー広場に帰ってきている。
帆船時代の航海を思うと、つくづく現代の交通手段の発達ってすごいものがあるなぁと今さらながらに感心しました。

10年前、初めて英国に来てこの海軍門を見て大感激したんだっけ。私、15年ボライソーシリーズに付き合ったんだわ。いろんな本にハマったけれど、これだけ長い付き合いをした本もない。
長年私に幸福を与えてくれた作者アレクサンダー・ケント氏に、トラファルガー広場で感謝をささげます。


2007年06月17日(日)
マルタ(5)戦争博物館

英国の海洋小説作家は、第二次大戦経験者である場合が多く、歴史小説以外にも第二次大戦を舞台にした戦記小説もいろいろ書かれています。
そしてそれらの中には否応なく、マルタ島の話がでてきます。
ヴァレッタの戦争博物館に行く前に私が立ち寄ったのは、パレス広場のホステル・ドゥ・ベルデリン。
ここでは「ヴァレッタの歴史体験」なる45分の映画が上映されており、第二次大戦当時のマルタをフィルムで見ることができます。

ほとんどの物資を外からの輸入に頼っていた島は、戦争が激しくなるにつれて補給に頭を痛めることとなりました。
野菜以外は自給できず、食糧もすべて配給制となり、1942年の夏、マルタは降伏寸前にまで追いつめられます。
マルタを潰すために、イタリアとドイツは補給船団を狙いました。

マルタ船団の話は第二次大戦の海洋小説には必ず出てきますが、このマルタ船団そのものを舞台にした物語は、フィリップ・マカッチェンだけではなくC・S・フォレスターも書いています。
どちらも少数の艦船が、イタリアの艦隊とドイツの急降下爆撃機を相手に船団を死守する話ですが、実際のマルタ船団には空母や戦艦などかなり大掛かりな護衛がついていました。
それでも約半数の船がマルタに到着することなく沈んだのです。

【マルタ船団】1942年8月にマルタを救った補給船団とその護衛に関するパネル展示。黒の矢印が独伊軍の攻撃、赤い丸印が沈没地点。


このあたりの映像がこの「ヴァレッタの歴史体験」というフィルムには実によく残されています。
海洋小説で読んだ最終シーン――ぼろぼろの艦船がグランドハーバーに入港し島民が総出で歓喜の声をもって迎えるシーン――の実際の映像も見ることができます。
入港してきた艦船は、よくこれで沈まずに来たものだと感心するようなものが多い…船の隔壁が丈夫に出来ていればここまで持つのか、と妙なところで感心します。

ヴァレッタの戦争博物館は、第二次大戦のもののみを取り扱ったものではなく、ナポレオン戦争当時のものも展示されていますし、第二次大戦関係では海軍だけではなく、空軍の展示もかなりあります。

【グランドハーバー19世紀】昔の港の様子がわかります。


【グランドハーバー 1863年】日本で言えば幕末ですから、もう写真もあるのですね。



【入口を入ってまず目を引くのはイタリア軍のEボート】


Eボートとは言っていますが実際は一人乗りのMTB(小型魚雷艇)。
ドイツ軍がスコットランドの軍港スカパフローに侵入し、戦艦を沈めた話は有名ですが、実はグランドハーバーにもイタリア軍が同様の攻撃をかけていました。
ただしこちらの場合は沈んだのが商船一隻で、スカパのような被害にはならず。
このEボートはその時の攻撃艇と同型のもの。
傍らには攻撃の詳細とイタリア軍の指揮官が写真入りで紹介されています。

解説や展示は概して客観的で、このEボートに限らず、イタリアやドイツに対しても公平。
先の「歴史体験」のフィルムにしても、英国空軍を多々撃墜したドイツ空軍のエースの話まで淡々と語られています。
マルタの人たちがドイツ人にもイタリア人にも比較的公平に第二次大戦史を語れるのは、この島が猛爆に耐え、ついには戦勝国となったことにもよるのかもしれません。

かと言ってイギリスの博物館にときどきあるような、勝者の奢りがかいまみられるわけではなく、日本のように悲惨を強調するものでもなく、栄光から庶民の悲惨まで、戦争の全てを見てしまったものが、一歩引いた目でその全てを語っているような、そんな視点を感じる博物館でした。

第二次大戦関連の博物館では、もう一つ「ラスカリス戦争記念館」があります。
ラスカリス砦の地下に建設された連合軍の地下司令部を、当時のままに保存したものです。
勤務中の将兵がマネキンで復元されています。

【Coastal Defence Operation Room】沿岸防衛作戦指揮所


【Asdic Sonar Compartment】グランドハーバーに面したこの場所にこれがあるということは、港内に侵入していくる潜水艦を警戒していたものと思われます。


下の短文は、記念館の壁に貼ってあった当時のポスターの文言です。悲壮な漢文調で背水の陣を強調し戦意高揚していた日本とはあまりにも違うものですから、印象に残って書き写してきました。

When you go home, tell them of our say
For your tomorrow, we gave our today.

「あなた方の明日のために、今日ここで務めを果たす」という文章は、日本の場合、「聞けわだつみの声」に収められた家族への手紙や個人の日記の中には幾つも登場する内容なのですが、このように最高司令部の通路にポスターとして貼られることは、おそらく日本ではなかったと思うので。


2007年06月16日(土)
講演会:ランサムとその時代

東京銀座 教文館書店ナルニア国(児童書店)で開催された、英文学者で翻訳家の神宮輝夫氏講演会に行ってまいりました。
講演会の内容は、海や川で帆船を操り冒険する子供たちを描いた英国の児童文学作家アーサー・ランサムの、英国児童文学史における位置づけと当時の時代背景に関するもので、直接に海洋小説にかかわるものではありませんが、
この講演会は聴講希望の方が多く、抽選になったと聞きます。
運良く当たった者としてちょっと責任を感じてしまいましたので(苦笑)、この場をおかりして簡単に、講演内容をご報告したいと思います。

アーサー・ランサムは1884年生まれ。
大学を中退し出版社で働きながら、20才頃から評論や創作を発表しはじめました。
現在に残る12冊の児童文学を世に送り出したのは、1930年代、45才を過ぎてからでした。
今回の講演では、この物語の執筆に至までのランサムの足取り、1930年代におけるこのような児童文学の意味や位置づけについて、神宮先生がユーモアを交えながら、丁寧に解説してくださいました。

アーサー・ランサムは、エドワード時代に育まれた作家だと神宮先生は仰います。
エドワード時代というのは、19世紀末〜20世紀初頭にかけてのエドワード7世の統治時代のこと。
ビクトリア時代の後、第一次大戦の前、英国が最も穏やかで、豊かで、自己満足に浸っていることのできた時代。
政治的にも社会的にも安定し、芸術家は芸術の追求に専念できた、文学が政治色を持つ必要のなかった時代のことです。

この時代、若き文学青年だったランサムは数多くの評論や創作を発表していますが、後に自伝の中でこれらの著作を「再版された困る作品だ」とコメントしているそうです。
神宮先生いわく、確かに実際に読んでみると「そりゃ困るだろうな」と私も思います、とのこと(会場内:笑)。
この時代のランサムの著作で特筆すべきは、当時の文学界や時代の雰囲気を今に伝える「Bohemia in London」(邦題:「ロンドンのボヘミアン」)ですが、
1906年の「Nature Books for Children」は子供むけの解説本ながらナチュラリストとしてのランサムの姿が伺える作品として、また1909年の「A History of Story - Telling, Studies in the Department of Narrative」は、一種の作家論として、ランサムという作家を理解する手がかりとなる著作です。

これらから伺えるランサム像としては、
彼が20世紀(現代)ではなく、19世紀までの文学から多くの影響を受けまた評価していたこと、
作家が事実(史実など)をどのようにとらえたか、またその事実をどのようにオリジナリティ豊かに描いたか、
を彼が重視していたことが挙げられます。

しかしランサムはオスカー・ワイルドに関する評論で筆禍事件を起こし、名誉毀損で訴えられます。裁判では勝訴したものの、英国を離れ、昔話の収集研究のためにロシアに渡ることになりました。
けれども滞在先のロシアでは、革命の動きが徐々に高まりつつありました。
ランサムは英国の特派員として、ロシア情勢の記事を書くことになりましたが、混乱する情勢の中、レーニン、トロツキーの一派が最終的に革命を成功させるだろう、と最初に見抜いた特派員でもありました。

このようにランサム自身は、エドワード時代およびそれに続く1910〜20年代に、創作小説ではなく評論家、特派員として知られていたのですが、 当時のエドワード時代の英国では、この時代にしか生まれない独特の児童文学が誕生していました。
ジェームズ・バリーの「ピーターパン」と、ケネス・グレアムの「たのしい川べ」です。
けれども、時代は暗い方向に向かい、ミルンの「くまのプーさん」を最後に、これらの児童文学の時代は終わります。

アーサー・ランサムが、湖や川で夏休みに帆船を操る子供たちを主人公に物語を書き始めたのは1930年代。※注)
この時代、世界は経済恐慌、大不況に見舞われていました。英国でも労働争議が頻発し、社会は混乱します。
児童文学の世界も無縁ではありませんでした。
貧民街の子供たちを描いたイブ・ガーネットの「袋小路一番地」、C・D・ルイスの「オタバリの少年探偵たち」、Noel Streatfield「Ballet Shoes」、Jack Lindsay「The Rebels of the Goldfield」、Jeoffrey Trease「Bows Against the Barons」など社会的、左翼的な作品が発表される中、夏休みの子供たちの遊びを描いたランサムの児童文学は明らかに異質でした。

ランサムの作品には、ひと時代前のエドワード時代の空気がある、と神宮先生は仰います。
「たのしい川べ」のような作品…これはひきがえる、あなぐま、ねずみ、もぐら、の野郎ども4人(?)が川辺で勝手きままに暮らしているという本当に読んでいて面白い話なのだそうですが…ランサムの作品はこの「たのしい川べ」と同じように、読んでいて楽しい話でした。
ひと時代前の空気を持っていたがゆえに、暗い時代にリラックスできるエンタティメント作品として、新鮮だったのです。


これが講演の主筋でしょうか、
実際のところは、他にもいろいろなお話がありました。
印象的だったのは、エドワード時代の代表作品を書いたジェームズ・バリーとケネス・グレアムの話。
彼ら二人はともに、実は日常生活にトラブルやコンプレックスを抱えており、おそらくだからこそ、このような強烈な印象を残すファンタジー作品が書けたのだということ。
本気で書いたら、子供向けの作品でも作者自身が全て投影されてしまうのだと神宮先生は仰います。
けれども、その様な作品であるからこそ、ファンタジーであっても長く人々から支持され読み継がれていくのだそうです。

神宮先生は、ユーモアあふれるとても魅力的な方でした。あのユーモア感覚は英国流でいらっしゃるのか?
アカデミックな英文学講義で、正直言って基礎教養の足りない私は置いてきぼりをくいそうなところもあったのですが、でも私、こんなにユーモアあふれるアカデミックな講義、生まれて初めて聴きました。
「いやぁ、ピーター・ダック(3巻目の「ヤマネコ号の冒険」のこと)は本当に面白いですよねぇ、あんな面白い話、あれは読むもので訳すものじゃありません」
とか仰って、会場は笑いの渦。
会場には昔の大学時代の教え子の方も多数いらしていたようですが、あぁいう楽しい教授の講義やゼミを受けていらしたと思うと、なんだかうらやましい思いを抱きました。


講演会の後は、ARC(アーサー・ランサム・クラブ)主催によるお茶会。
今回の企画展に展示された以外の、数多くの英国の写真を見せていただいたのですが、
皆さん…すごい。
私も物語の舞台が見たくて時々海を越えたりしますが、ぜんぜんまだまだです。私はあきらめがよすぎる。公共交通機関で行けないところは簡単にあきらめてしまっていますが、そうでは無い方がいらっしゃるのです。
レンタカーでまわる。レンタサイクルを探す。
そして、現地でヨットを借りる!…そう、確かにノーフォーク湖沼地方は、水路でなければ行けないところが幾つもあるのですが、現地で船を借りて行く…という発想は、私には完全に頭の外にありました。
さすがあのバイタリティあふれる海賊や探検家の子供たちと共に育ってきた皆様だわと感心しました…って他人ごとのように言ってる場合じゃありませんね。反省です。やはり湖沼地方はもう一度訪れてゆっくり滞在しなくてわ。

※注)アーサー・ランサムがシリーズの第一作を書き始めたのは、正確には1929年とのことです。出版されたのが1930年となります。


2007年06月10日(日)
銀座教文館 ランサム企画展

仕事帰りに銀座教文館ナルニア国の「アーサー・ランサム企画展」に立ち寄ってきました。
ランサムに忘れられない思い出のある方>是非ぜひ足をお延ばしください。
私などはもう正面から一つぱぁ〜んとくらって、「うわぁ」と口を開けたまんま写真に見入ってしまいましたので。

いやその、舞台となった農場も湖も川も島も桟橋も、実際に実在するとは聞いてたんですけど、
実のところ湖と川は、時間がなくて対岸からだったけど、私、英国旅行時に自分の目で見てはいたんですけど、
いや…ホントに本当にあるんですね。

本当に本の中の挿絵そのままで…、それはパネル写真を撮られた方が、挿絵と同じ角度で同じように写真を撮られているからなんですけど、
でもランサムって1930年代の物語なんですよ。70年以上前なんですよ、なのに当時の景色がそのまま…さすがイギリスだわ。

写真の角度…というか、光景をファインダーに切り取る目が、物語の中の子供たちの視点そのままで、この写真を撮影された方は、本当にこの物語がお好きで、その主人公の子供たちの目で、この景色を見てこの写真を撮られたのだなぁということが、見るからにわかるのです。

展示室の中央に、復元されたツバメ号が、陸に上がっています。
「小帆船の各部となまえ」という図解ページが一緒に紹介されていて、
表紙裏にこういう図解というのは馴染みなのですが、その、最近は「74門(二層甲板)艦概念図」だの「各種甲板見取り図」ばかりだったので、
あぁそういえばランサムの表紙裏に帆船図解があったんだ…と懐かしく思い出す一方で、
マスト1本メンスル1枚のこの図解から出発して、今はスカイスルだのスタンスルだのクリューラインだのって随分複雑かつ遠くまで、私も来ちゃったんだなぁとしみじみ。

神宮先生の講演会に当たりましたので、明後日もまた銀座に参ります。
知り合いが軒並み抽選にはずれてしまったようで、何だか私だけ申し訳ないような気もするのですが、
このブログという場もあることですし、こうなったからにはメモ帳準備万端整えて、一言なりとも聞き漏らさず、きちんとした講演会レポートをupできるよう頑張って聴講して参ります。
会場で見かけられましたら、お気軽にお声おかけくださいませ。

ところで、ポリネシアの復元帆走カヌー「ホクレア号」が明日、横浜に入港するのだそうですね。
歓迎式典その他いろいろなイベントがあるようです。
乗船見学会もあるようで、珍しい船(帆船)なので興味があるのですが、ちょっと横浜・銀座の掛け持ちは出来かねるところ。
こまっています。

ホクレア号のスケジュールは下記をご参照ください。
http://www.yokohama-seafes.com/hokulea2007/event.html


2007年06月08日(金)
マルタ(4)戦没者墓地と海事博物館

さて海洋小説関係のマルタのみどころは幾つかありますが、海事博物館も戦争博物館も近代と現代は一緒に展示されているので、時代ごとではなくスポットごとにご紹介しようと思います。

まず最初に訪れたのはカルカーラの戦没者墓地。ここにはフィリップ・マカッチャンの「突破!マルタ島封鎖網」のあとがきで訳者の佐和誠氏が紹介された旧日本海軍の戦没者記念碑があるところ。これは第二次世界大戦の戦没者ではなく第一次大戦で英国の同盟軍であった日本がマルタ島に派遣した駆逐艦「榊」の戦没者を弔ったもの。

まぁその私はナポレオン戦争時代の帆船小説の英国人に惹かれてここまで来たわけですが、こんな地球の反対側にひっそり眠る日本人のお墓があると聞けば、お参りにいかないのは罰当たりというもので、海事博物館に行く前に行ってまいりました。

戦没者墓地と海事博物館はバレッタから見るとグランド・ハーバーの対岸、前回話題となったドックヤード・クリーク、カルカーラ・クリークのほど近くにあります。
戦没者墓地へは、4系統のカルカーラ行きバスに乗って、ヴィットリオーザのバスターミナルを過ぎ、左手に教会のある角を曲がったら天井の紐を引っ張って降りる合図のブザーを鳴らします。
バスは次の角の停留所で止まり、道なりに左へ曲がっていってしまいますが、正面にはちょっと細いがそのまま真っ直ぐ行く道があるのでそれを進んでいって右手の長い塀が切れたところです。

門を入ると圧倒されるのは、広大な墓地に並ぶ白い墓標の数々、手前はほとんど第二次大戦期のもの。かなりの数に及ぶが墓石は1人一基ではなく3〜4人が一緒に葬られている、その数に圧倒されて思わず手をあわせてしまいます。
墓地の奥へ進むにつれて年代が古くなり、旧日本海軍の記念碑があるのは一番奥手。静かで、鳥のさえずりと色とりどりの花がとても美しい墓地。この安らかさが少しでも彼らの慰めになれば良いのだけれども。

【第一次大戦時の日本海軍戦没者墓地】



第二次大戦時にマルタは多大な犠牲を払いました。
地中海の只中にポツンと一つだけ取り残された英国(連合国)の基地の島、地中海の北側フランス、ギリシアは枢軸国に占領され、目と鼻の先にはイタリア領のシチリア島が位置する。
連日のように爆撃機の襲来があり、1940年6月11日、イタリア参戦の翌日に初空襲を受けたこの島は、1944年8月28日までの2,357時間に3,340回の空襲を受けた。全島に投下された爆弾総量は1,600トン。世界一爆撃の激しかった島としてギネスブックにのっているのだそうです。

戦没者墓地は、とにかく墓石の数に圧倒されます。
この島の防衛戦で亡くなった方、空襲などに巻き込まれた島民の方の総数がどれほどになるのかわかりませんが、この墓地を訪れると、どんな記録より小説より、この墓石の数が事実の重みとしてのしかかってくるのです。

【第二次大戦時の集合墓石】翼は空軍関係者


これら空軍関係者の墓石は、おそらくは迎撃に上がって帰らなかった方、空襲の犠牲となった方々のものなのでしょう。下の鷲マークは被占領地ポーランドからの志願兵。


さて、翌日に訪れたのがヴィットリオーザの海事博物館。ドックヤード・クリーク沿いの聖アンジェロ砦側の岸壁に位置します。

【海事博物館入口】左手はドックヤード・クリーク。



博物館の入口にはマルタの海事史がエドウィン・ガレア氏の美しい水彩画で紹介されています。
1898年のナポレオン占領から始まって、最後の一枚は1989年、マルサシェロック湾に浮かぶU.S.S.Belknapとソビエト連邦の巡洋艦Slava。この艦上でブッシュ大統領とゴルバチョフ書記長の会談が行われ戦後の冷戦に終止符が打たれたことから、戦後の東西二大陣営時代を「ヤルタ(会談1945)からマルタへ」と言ったりするのですよね。

海事博物館には船の模型が多い。

アレトゥーサ号、クリミヤ戦争のオデッサ攻撃で活躍した1849年の42門フリゲート艦、この時代になると艦尾楼がないのがよくわかります。
駆逐艦モホーク号、1941年地中海で撃沈された。これは元乗組員の生存者トマス・オレル氏が作り上げ寄贈したもの。木製だがとても細かいところまで丹念に作り上げてあります。
かつて自分が勤務しそしておそらくは多くの仲間とともに沈んだのであろう艦を、オレル氏がどういう思いで作り上げていったのかと考えると胸を打たれます。

【ヒベルニア号の艦首像】


ヒベルニアは1804年ポーツマスで建造された110門の一等級艦。長く地中海艦隊の旗艦でその役目を終えたあとはマルタのシンボルとして1902年まで聖アンジェロ砦の下に錨をおろしていた。

この傍らに、ヒベルニア号の艦上で開かれた1893年7月のヴィクトリア号、カンパーダウン号衝突事件の軍法会議の版画絵というのがあったのですが、ヒベルニア号の大キャビンで14人の提督と艦長が机を囲んでいる図、これが非常にせせこましい。
提督方の肩はくっつかんばかりで、これじゃぁあの金の肩章がぶつかってしまうでしょう。
ふつう会議室でこういう余裕のない椅子の並べかたはしないと思うのだけれども、考えてみればポーツマスで見たネルソンのヴィクトリー号の大キャビンにしてからが決して広くはなかった、こんなところに14人もの、それもあの仰々しい正装の人間が集まればせせこましいのは当たり前。

軍法会議のシーンというのは、この同じグランドハーバーで行われたキーンに対するものとか、ラミジとか他にもいろいろ小説にはよく出てきますが、
読んでいるとこう…広々としたテーブルの向こうに偉そうな提督が座っていて、で有罪か無罪かを決する剣が、唯一つ乗っているというような、日本の法廷のような光景を今まで想像していたので、こんなせせこましいものだなんて、ちょっとイメージこわれた…というか。


2007年06月03日(日)