Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
「M&C」の続編はDVDの売上高次第
4月21日の米日刊紙USA Today紙に、映画業界のDVDセールスに関する記事が掲載され、この中でFOX社の関係者が初めて、「M&C」の続編の可能性について、言及しました。 ひとことで言ってしまうと、「続編が製作されるか否かはDVDの売り上げ次第」のようなのですが。 この記事についてご紹介いたします。
DVDs can push big-money films into profitability
高額な制作費のかかるハリウッド大作は、昨今、DVDの売上に期待をかけるようになっている。 DVDの場合、ビデオとは異なり、人々はレンタルより購入に動く。DVDは映画経済を完全に変えてしまった。 いまや映画会社の収入の半分は、DVD売上によるものだ。 「ロード・オブ・ザ・リング:旅の仲間」の全米興行収入は3億1400万ドルだがDVD売上は4億9800万ドル。「ファインディング・ニモ」は興行収入が3億4000万ドルでDVD売上が3億7000万ドル。
この現象を、「消費者は映画館に足を運ぶ代わりにDVDに金を払っている」、とDVD情報誌の編集長は分析する。
FOXホームエンタティメント社(DVD発売元)のマイク・ダン社長は、DVDのおかげで、制作費の高額な大作は、10年前より作りやすくなった、と語る。興行収入にDVD売上の上乗せが期待できるからだ。
DVD売上は、続編の可能性をも開くものだ。「キル・ビルVol.1」のDVD売上は先週、劇場公開時の興行収入額をうわまわり、更に先週から公開された「キル・ビルVol.2」の観客拡大にも役立っている。
ラッセル・クロウ演じるジャック・オーブリーの続編について、FOX社のマイク・ダン氏は、「FOX社では、今夏の終わり頃、全世界の興行収入およびDVD売上額を見た上で、再び航海に乗り出すかどうか決定する予定だ」と語っている。
…ということで、続編が制作されるか否かはDVDの売上次第ということのようです。 また仮に夏に続編が決まったとしても、実際に動き出すまでにはさらに時間がかかるでしょう。ラッセル・クロウは既に次作の撮影に入っていますし、ピーター・ウィアー監督の次回作も、ワーナー・ブラザース製作の「Pattern Recognition」に決まりそうです。これはウィリアム・ギブスンが昨年発表した小説を原作としたネット社会のスリラーとのことで、どちらかというと今度は「トルーマンショー」的な映画になるのでしょうか?
そのようなわけで、夏頃までは気をつけて、今後もアメリカのネット情報を当たろうと思っていますので、期待はせずにお待ちくださいますよう。
その他最近の記事としては、
London Times 2004.04.23に、英国の最近の子役事情に関する記事が掲載され、この中に「M&C」の話が紹介されています。
英国では最近、ふつうの家庭のふつうの子供たちが、子役として映画に出演し驚くべき演技力を発揮している。 「ハリー・ポッター」のロンとハーマイオニー、ルパート・グリントとエマ・ワトソンは、学校での演劇経験しか無かった。 「M&C」のピーター・ウィアー監督は、児童劇団で演技を学んだ子供ではなく、自然な演技の出来る子役を探しに、学校を訪ね歩いた。 マックス・パーキスも学校での演劇経験しかなかった。 映画製作にもショービジネスにも無縁だったパーキスの両親は、しかし、映画出演は良い人生経験になるとして、息子をメキシコの撮影現場に送り出した。 映画の撮影終了後、英国の寄宿学校に戻ったパーキスのもとには2件の出演依頼が持ち込まれたが、学業を優先するとしてこれらをしりぞけている。 子役とは、幼い頃から児童劇団に入ったりモデルの仕事をしている子供たちだけではなく、ふつうの子供にもふつうに訪れるものなのだ。また中流家庭でも習い事のひとつとして子供を児童劇団に入れる親たちがいる。大人になって他の職業に就くことになっても、人前でのプレゼンテーション能力は求められる、児童劇団での経験が別の形で将来に役立つであると考えられているのだ。
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そういえば先日「ピーターパン」を見に行きましたが、この映画に登場するウェンディ、ジョン、マイケルのダーリング姉弟は、やはり学校演劇の経験しかないふつうの子供たちから選ばれたそうです。
でも未だに「M&C」後遺症をひきずる私は、妙なところでひっかかり…フック船長のジョリー・ロジャー号は12ノットで走るっていうんですけど、それってサプライズ号の最大船速じゃありませんか?…ジョリー・ロジャー号のあの船体で、いくらなんでもこれは無理だと思いません? でもジェイソン・アイザックス演じるフック船長はとても素敵なのでありました。
それにしても最後に「M&C」を見終わって1週間というのに、もう寂しい…とか思ってしまっている私。 いずれDVDが来るとは言っても、やはり映画館の大迫力とドキドキ感は、DVDでは味わえないもの。 「オーシャン・オブ・ファイアー」を見に行って、ブエナビスタ・インターナショナルの文字が画面に出たあと、「海が出てこない〜」…と悲しくなってしまったり…なにを聞き分けのないことを言っているんだか。
でも「オーシャン・オブ・ファイアー」ってある意味、「ラストサムライ」と全く同じメッセージを伝えているんですね。 第7騎兵隊に象徴される、西部に躍進するアメリカ(白人社会)に違和感を感じる主人公が、海外に行き、異文化に触れそれを理解する。 ただ、「ラストサムライ」のオルグレンの場合は受容一方で日本に溶け込んでしまったけれど、「オーシャン・オブ・ファイアー」のフランク・ホプキンスの場合は、馬と遊牧の民の文化を媒介に、アラブ社会の一部を変えると同時に、自分自身も母につながるネイティブ・アメリカンの文化を見直して変化していく…という図式で、異文化交流という意味ではこちらの方が面白かったと思います。 もっともラストサムライの描く日本歴史と実際の歴史にズレがあるように、「オーシャン・オブ・ファイアー」で描かれていたベドウィンの社会と文化がどこまで当時の現実に即していたものかはわかりませんけれど。 もっとも、ホプキンスとベドウィンたちの価値観の違いの一つに、「運命は自分の意思で変えられるか否か」というものがあり、これは実はシェカール・カプール監督が「サハラに舞う羽根」で描こうとした東洋と西洋の文化的差違(西洋人は運命は意思の力で切り開けると思っている)にも通じるものでもあるので、その意味では普遍的テーマなのかなぁと思ったりもします。 いずれにせよ「オレ様のスタンダードがグローバル・スタンダード」な今のアメリカには、こういう映画は貴重なのではないでしょうか?
ついでにもう一つ、映画のおすすめ。 これは大都市圏だけのミニシアター公開なので、ご覧になれない方には申し訳ないのですが、「M&C」とアカデミー賞で撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞を競った 「真珠の耳飾りの少女」 私がこのHPでこんなこと言うのは何かもしれませんが、私やっぱりアカデミー撮影賞は「真珠の耳飾りの少女」だと思う。 映像と照明…光の具合が本当に綺麗なんですよ。さすがフェルメールの絵画を描いた映画。 そして、17世紀のオランダ・デルフトの町屋の生活を克明に描いていて…どのように日常生活をおくり、食事を作り洗濯をしていたか…がそれこそ「M&C」の船上生活のように正確に再現されています。 ストーリーそのものは本当に淡々と進むのですが、深い味わいのある映画です。
2004年04月30日(金)
日本丸展帆と横浜帆船模型展
本日は、海洋小説系の友人たちと、オフ会で横浜に行ってきました。 日本丸の展帆と、関内の有隣堂書店ギャラリーで開催されていた帆船模型展を見に。
横浜・桜木町の駅前のドックに係留されている日本丸は、正確には先代の日本丸で、80年代の半ばまで商船大学の練習船でした。 通常は帆も帆桁も固縛されていますが、年数回、ボラインティア展帆員の手によって展帆すなわち帆を広げる作業が公開されます。 ゴールデンウィーク中はあともう1回、5月5日にも展帆が予定されています。
展帆作業そのものを見に来るのは3回目ですが、前回はお天気が悪く、ストームセイル展帆(トプスルとジブ)でした。 今日は晴天ということで総展帆(すべての帆をひろげる)を見ることができました。 「M&C」効果か、この晴天のせいなのかわかりませんが、展帆を見に来られた方はいつもより多かったようです。
下で作業を見ていると、やっぱりマストに登りたくなってしまいますね。トゲルンやロイヤルまで行く自信はないけど、トプスルまでだったら一度だけど海星(セイルトレーニングシップ)で作業させてもらったし…、たぶん大丈夫だと思うんだけど。 でも日本丸の展帆ボランティアには年齢制限がありまして(39才まで)、私はもはや志願できないのでありました。
なにやかにやで未だに「M&C」にどっぷりな私は、展帆作業を見ていても妙なことが気になる。 たとえば操帆命令。DVDの吹き替え翻訳はどうなるんだろう? 例えば英語で投錨命令は「Let's go!」と言います。小説翻訳の場合は「投錨」と書いて「レッツ・ゴー」とルビをふる形が一般的のようです。映画の字幕なら「投錨」2文字ですむでしょう。でも吹き替え版の場合は? 「とーびょー!」と耳で聞いて、ふつうは、「闘病」ではなく「投錨」だとは思わない。投錨って耳なれない言葉ですから致し方ありません。 NHKで放映された「ホーンブロワー」の時はこれを、「錨を降ろせー!」と吹き替えていました。 これなら誰にでもすぐにわかります。
それで、日本丸の操帆命令はどうなっているのかな?…ということが、今回とっても気になりまして。 海星の操帆命令は、ほとんどが英語のままで、ロープを引く時も英国式で、掛け声は「ヒーブ!」でした。 日本丸の命令は名詞が英語、動詞が日本語、ロープを引く掛け声は「わっしょい、わっしょい!」 でも右舷(スターボード)と左舷(ポート)は英語のままだったりします。 やっぱりこれをそのまま、吹き替え版で使うわけにはいかないかなぁ…とも思います。ちょっとわかりにくい。 うーん、吹き替え版の翻訳をされる方のご苦労お察しいたします。
日本丸展帆畳帆のあいまをぬって、関内の有隣堂ギャラリーへ。 横浜帆船模型展、今年の特集は「旗」でした。 ヨーロッパ各国の海軍が掲げていた旗を年代ごとに紹介したパネル展示がたいへん参考になりました。 帆船模型展は東京でも規模の大きなものが開かれますが、横浜の模型展は小じんまりとしていますが、製作者の方の顔が見えて親しみがあります。例えば展示方法の創意工夫、製作途中の船が出品されていること。帆船模型は2年、3年と歳月をかけて製作される方が多いので、毎年模型展に伺っていると、船の製作過程を見ることもできるのです。
模型展は5月5日まで、関内の有隣堂書店で開催されています。 期間中横浜にいらした方は、立ち寄られてみてはいかがでしょう?
2004年04月29日(木)
航海(公開)終了
ついに上映が終了してしまいました。 私の最終は21日(水)の新宿プラザ、今回この映画を見てくれた友人たちと行きました。 23日も行けないことはなかったのですが、この日は一人になりそうだったから、そんなの寂しくて泣いちゃう(笑)と思って。みんなでワイワイの水曜を最終にしてしまいました。 まぁ、もうじきDVDも届きますし、東京は5月に池袋で2本立があるそうなので、大画面が恋しくなったら池袋行ってもいいかな、と思っています。
何だか今まで解説に追われ、この映画について個人的雑感など書いたことがありませんでしたので、今日はそのあたりを書いてみようかと。
今回、映画を見てすっかり惚れてしまったのは航海長。いやその、ウォーリーのロープ切断を決断するところで、やられてしまったんですが、…あぁぁ、あたしって、またこのパターンだ。 原作を読んでいて航海長のファンになったことは無いのですが(ラミジでも)、映像になるとどうも。 私はホーンブロワーの第1シリーズでも結局は航海長のファンになってしまい…、なんででしょうね?別に爺さま趣味はない筈なんですが。老水夫のプライスのファンになった…とは言いませんし。 水兵さんでは、実はスレードがお気に入りです。肩にオウムを乗っけていたからかなぁ? でも渋みと凄みがあってちょっとイイ俳優さんだと思いません?アレックス・パーマーって。 候補生では、カラミー君がお気に入り。 これは彼自身…というより、私が彼に、今まで海洋小説で読んできた多くのキャラクターを投影させている結果かもしれません。 アーサー・ランサムの児童文学に登場するジョン・ウォーカーとか、候補生時代のリチャード・ボライソーなどなど。 カラミーはある意味、英国ジュヴナイル文学の正統派少年主人公タイプなんですよね。
原作ファンとして見たときに、今回やっぱり残念で、心残りだったのは、諜報員としてのマチュリンのもう一つの顔と、ボンデンの活躍…というより、ボンデンとオーブリー、ボンデンとマチュリンの絆を見ることができなかったこと。 だからやっぱり、どうしても続編…見てみたい。やっぱり難しいですかねぇ?
実は今回、3月くらいからでしょうか? 友人たちの助けも借りて、私はネット上で、映画をご覧になった方の感想をも追っていました。 海洋モノ初めての方が、何処を疑問に思われ、何処がわかりにくいか?…というのをフォローするためだったのですが、いろいろな方のさまざまな感想を読んで、なかなか考えさせられました。
まず最初に、宣伝と本編が大幅に異なるこの映画について、実際にご覧になったあと「ぜひ、この映画を見るべきだ!」とHPや日記で広めてくださった方に、私から言うのはおこがましいかもしれませんが、深い感謝を。 本当にありがとうございます。 口コミの凄さというか、ネットのパワーに威力には驚きました。 YAHOOの映画評などを読んでいても、ほとんどの方が「予告編と本編が違う」ことをご存じでしたし、3月後半以降は、少なくともネット上では、この映画の実情は八割以上正しく伝えられていたのではないかと思います。
ただし一般の、…というか私が見ていたのはYAHOOの映画評ですが、この評は見事に割れていました。中庸の評価がほとんどなくて、五つ星の「絶賛!」か、一つ星の「つまらん、わからん、寝た」のどちらか…という(笑)。 最終的平均評価は五段階評価の3.7くらいでしたか、YAHOOの映画評は、概してミニシアターものの方が良いですね。平均して4点台の後半に行きます。 「M&C」の総合評価が低い理由は、おそらくロードショー公開だったからでしょう。これがミニシアター公開だったら、もっと評価は上がっていたのでは? もっともロードショー公開だったからこそ、地方を含めて多くの方に見ていただけた…というメリットがあり、ミニシアターで限定公開になってしまったら見たくても見られない方が大勢いらしたと思うので、それはそれで良かったと思うのですが。
確かに、ロードショー公開に慣れた方が見ると、この映画って「盛り上がりがなくてつまらない」だろうと思います。「全世界の人に、わかりやすいエンタティメントを提供する」ことを基本原則としているハリウッド・ロードショー映画は、ストーリー展開が単純でわかりやすく、特定の時代や歴史背景を知らなくても楽しめる作品…が当たり前なのですが、それって全て、まったく、「M&C」にはありませんものね(苦笑)。 その点、ミニシアター公開映画は、じっくり内容を見せるものや、観客にある程度の下知識を要求するものが多く、観客もまたそれを承知の上で映画館に行きますから、「つまらん、わからん」と文句を言う人はあまり出てきません。
YAHOO評の中には「何故アカデミー賞なのかわからん」というのもありました。 渡辺謙のノミネートでにわかアカデミー賞ブームになった今年、そのあおりで「M&C」は多少の注目のおこぼれをいただいたものの、その反面、アカデミー賞そのものを誤解した日本人も多かったもしれません。 今年のアカデミー賞は「ロード・オブ・ザ・リング:王の帰還」が完全制覇しましたし、「ラストサムライ」もあぁいう作品ですから、「アカデミー賞はわかりやすい感動大作に与えられるものである」と鵜呑みにした方が多かったようです。が本来アカデミー賞は、ゴールデングローブ賞と違って、業界人の選ぶ賞なので、かならずしも世間一般の人気や興行収入が反映されるものではない。感動大作はもちろん受賞の一因にはなるけれど、必ずしもそれだけではありません。 「M&C」って去年(2003年)のノミネート作品で言えば、「めぐりあう時間たち」に近いかなとも思います。 確かに「めぐりあう…」はわかりにくし、私も現代編(メリル・ストリープと周辺の人々のエピソード)は理解できていませんが、でもだからと言って「何故アカデミー賞なのかわからん」という意見は、去年は出なかったと思うのですけれど。
映画評を書くのは怖い…と時に思うのは、映画理解が、時にその評を書いた人自身の物差しになってしまうこと。 その人の人生経験とか、許容量とかが、時に素直に出てしまう。「わからない」と思うのは、ひょっとしたらその人自身の狭量さや知っている世界の狭さ、人生経験の不足に由来していることもあるのだということを、ちょっと立ち止まって考えてほしいなぁと、これは私自身への自戒でもあるんですけど。
これとはまた逆に、よくご存じゆえの批判…というのもありました。 「ピーター・ウィアー監督にしては社会批判が無い」とか「イラク戦争が問題になっている時期なのに、主人公たちが戦うことに悩まない」とか。 これに対するピーター・ウィアー監督自身の反論は、「この映画では、当時の価値観を当時のままに描きたかったのであって、現代の解釈をもちこんでいない」というもの。
歴史モノに現代の解釈を当てはめるのは結構難しいものです。 例えば「赤穂浪士」は、主君のために47人の家臣が命をかけて復讐を果たす話ですが、現代の解釈で言えばそれはちょっと非常識。でもそれを言ったら始まりません。私たちは「江戸時代の武士道ではそれは善とされた」という価値観を承知した上で、赤穂浪士の大河ドラマなどを見ているわけです。 「M&C」もある意味同じことだと思うのですが。
昨年公開された「サハラに舞う羽根」は、やはり19世紀の英国帝国主義時代を舞台にした映画でしたが、監督のシェカール・カプールは一部に現代の価値観を持ち込もうとしました。 これはある部分では成功していますが、一部では当時の価値観との間に軋轢が生じて、やはり歴史モノの現代解釈は難しいなぁと思いました。 歴史小説はその時代の価値観を舞台とし基礎としているわけですから、一部分だけを現代風に変えると全体のバランスが崩れかねない。「サハラ…」で言えば、現地で主人公を助けるスーダン人アブー(ジャイモン・ハンスゥ)の描き方などは「英国人の見たアフリカ人」ではなく「実際のスーダン人」に近くなっており評価できます。 ただしアブーの物語は全体の進行から言えば脇のラインなので良いのですが、ストーリーの基本軸にある主人公ハリー(ヒース・レジャー)の従軍拒否理由を現代解釈にしてしまったのは、果たして良かったのか? 確かに現代人はハリーに感情移入しやすくなりましたが、彼をとりまく周囲の人々と根本的なストーリーの流れは19世紀のままなので、逆にストーリー展開にちょっと無理が出てしまったような気がします。
もっとも「M&C」も、全く現代解釈が無いわけではありません。映画のマチュリンには現代人に通じる価値観があり、ゆえに「典型的な19世紀初期人」であるオーブリーと論争になるのですが、そこで最終的にはオーブリーの方法論が通ってしまうところが、…だってこれ、基本的には歴史映画なんですから、それが歴史映画たるゆえんなのではないでしょうか。
2月27日付の航海前夜の日記で、この映画の公開で何がどのように変わるのか? 不安と予想を書きました。 2ヶ月たって、当たったものもあり、予想外の展開になっているものもあり。
今回の映画化で、1巻までさかのぼって原作を読んでくださった方が多かったのは、予想外に嬉しいことでした。全20巻すべてがハヤカワから翻訳出版されるのはまず間違いないでしょう。まずは一安心です。 TVドラマ「ホーンブロワー」の日本語版DVD発売決定や、今夏のBS再放送も決して「M&C」と無縁ではないと思います。
願わくは、皆様>どうか映像だけにとどまらず、同じハヤカワから出ているアレクサンダー・ケントのボライソー・シリーズや、徳間文庫のアラン・リューリー シリーズ、至誠堂のラミジ・シリーズなども読んでみてくださいね。 私は「M&C」のHPをやってますけど、実はいちばん面白いと思っているのはボライソー、次がラミジだったりするのです。
まぁ世の中なんて移り気だから、「トロイ」が公開されたら皆さん「トロイ」に、「キング・アーサー」が公開されたらアーサー王に行っちゃうわよ…とも言われていますが、ランスロット(ヨアン・グリフィス)経由で「ホーンブロワー」に戻って来てくださっても結構ですので、海洋冒険モノもお忘れなく(笑)。 いやその、アガメムノンやユリシーズ(どちらも軍艦の名前になっている)経由で、もっと早く英国海軍に戻ってきてくださっても良いのですが。
2004年04月24日(土)
「ホーンブロワー」の日本版DVD発売
以前から良くこのページで言及していた英国のTVドラマ「ホーンブロワー」の日本版DVDおよびVTRの発売が決定したとのことです。 また、今年の夏ふたたびNHK-BSにて再放送があるようです。
第一回発売日:2004年7月23日(金)第一部(第1話〜第4話)原作1巻 第二回発売日:2004年9月24日(金)第二部(第5話〜第6話)、第三部(第7話〜第8話)原作2〜3巻。
VTRは各話毎、DVDはボックスセットのようです。 詳細はホーンブロワーサイト「順風満帆」にupされています。
やったー!(感涙) これってやはり「M&C」効果なんでしょうか? それとも主演(ホーンブロワー役)のヨアン・グリフィスが今夏公開の「キング・アーサー」でランスロットを演じることから、ブレイクを見越しての発売ということなんでしょうか?
なにはともあれ万々歳です。 7月はおそらく「マスター・アンド・コマンダー」の日本版DVDも発売になると思われるので、皆様いまからお財布のひもの引き締めをよろしく(笑)。
そう言えば、20日前後に発売になった映画専門誌各誌。「ロードショー」のハリーポッターのスチール写真には、リー・イングルビー(ホラム役)の演じるナイト・バスの車掌さんもありましたね。キング・アーサーにスチールにはちゃんとヨアン・グリフィスのキャプションもついていましたし(先月号はクライブ・オーエンとキーラ・ナイトレイだけでヨアンはムシされていたので)。 でも…キング・アーサーの製作裏話を紹介していた某誌…ランスロット役のローン…って誰ですか(苦笑)? いやそのIoanが読めないのはわかるし、母音が二つ続くのは不自然だと思うのもわかりますが、IがLだったら大文字よ。 この裏話自体はなかなか面白いものなので、興味をもたれた方は一読しておいて損はないと思います。
2004年04月23日(金)
Mr.とSir──字幕に出ない呼称の話し
字幕に出ない「M&C」第2回(笑)…いちおう第3回まで予定してます。 今日はざっくばらんに、呼称のはなし。
これ、海洋小説を読み慣れていらしたり、「ホーンブロワー」をご覧になっている方はよくご存じのことなので、読み飛ばしていただいてもよいのですが。
初めてこの時代の海洋モノをご覧になった方、字幕には出てこないけど、なんだかよく「ミスター」とか「サー」とか言う言葉が聞こえていたなぁと思われませんでした? この「ミスター」と「サー」、字幕では微妙に訳が変わっていて、「艦長」だったり、「副長」だったり「大尉」だったり「航海長」だったり。 この呼称体系、基本原則は2つです。1)階級が上の人に呼びかける時には「サー」を付ける。2)尉官以下の士官、準士官、士官候補生と航海士は「ミスタ・誰それ(名字)」と呼ばれる。 ただし同一の階級同士(ex.海尉同士、候補生同士など)の場合は、ファーストネームで呼び合うことも可です。 このミスタは、大尉などの代わりであり、現代の例えば社内活性化のために「部課長」を止めて「さん」で呼ぼう…などというのは全く(天と地ほどにも)違いますのでご注意。
そんなわけですので、ブレイクニーが「サー!サー!」と叫びながら走り回るのでして、ちなみに彼は艦長にも副長にも航海長にもマチュリン先生も「サー」と呼んでいますが、字幕の方はちゃんと「艦長」とか「先生」とかになっています。 …でもねぇ、これって間違い起きないですかねぇ? 私むかし担任の先生に用があって、職員会議中の部屋のドアを開けていつもの調子で「先生」と言ったら、その場の全員が(先生だから)振り向いた…っていう笑い話の失敗をやったことがありますが(笑)。
さて、規律に厳しい孤高の艦長の場合ですと、艦内の全ては「ミスター」と「サー」だけで片づくのですが、人間味あふれるジャック・オーブリー艦長が、いまだに海軍の規律を無意識に蹴飛ばしている軍医を乗せているサプライズ号の場合は、この原則に様々な例外があって面白い、これがもう一つの「M&C」のおたのしみ…だったりします。
まずは、大変良くTPOを心得ているジャック・オーブリー艦長、というより少年時代から何十年とこの世界で暮らしてきて規律が骨の髄まで染み通っている…と言うべきかもしれませんが、その艦長の場合です。
よく聞いていると、オーブリーは、公式の場と非公式の場、周囲に部下がいるかいないか、を上手く使いわけているようです。 オーブリーはマチュリンに4つの呼びかけを使っています。 まず正式のものは「ドクター」。これはマチュリンが内科医なのでドクターですが外科医なら「ミスター・マチュリン」になる筈のものです。公式の場、および周囲に気心の知れた部下以外の者がいる時(この「気心の知れた部下」については後述)は必ずこの呼称です。 2人きりの時、および周囲が気心の知れた部下だけの時は、ファーストネームで「スティーブン」 あと2つは「サー」と「ブラザー(きょうだい)」で、かなり異例の時に、ご本人知ってか知らずか、殺し文句として使用していました。
艦長が部下への呼びかけに「サー」を付すことはあまりありませんが、これが付くとかなり堅苦しい形式ばった雰囲気になります。 オーブリーがこれを使っているのは、例のガラパゴスに上陸するしないでマチュリンと揉めた時、「道楽には付き合えない」というセリフの原語は「We do not have time for your damned hobbies sir!」です。 これが決めセリフとなったかどうかは知りませんが、マチュリンはこれで引き下がります。
オーブリーとマチュリンは、とくに6巻以降、プライベートでは時々たがいを「brother」と呼び合っているのですが(ハヤカワ書房訳10巻ではそのまま「きょうだい」と平仮名書きで訳されています)、これが登場するのは、ネイグルのむち打ちをめぐって二人が艦長室で議論を展開するシーンの最後、「無政府主義は余所でやってくれ」というような内容の字幕の原語が「You've come to the wrong shop for anarchy, brother」となります。やはりこのセリフでこの議論はおしまいになるのでした。
今から200年前のこの時代、艦長が部下をファーストネームで呼ぶことはまれでした。が、全く無いことはありませんでした。アレクサンダー・ケントのボライソー・シリーズでは、ボライソーが本当に心を許している相手かどうかがこの呼称で区別できるので、結構重要な意味を持ってくるのですが、パトリック・オブライアンの場合はそこまではっきりとは言及されていません。 オーブリーの場合は、付き合いの長さが影響している部分があるのではと思われます。
映画「M&C」の中で、ファーストネームで呼ばれているのは4人、前述のスティーブン、一等海尉(副長)のトム・プリングス、二等海尉のウィリアム・マウアット、それに艇長のバレット・ボンデン。 原作を1巻から読まれた方はご存じと思いますが、後述の3人は、オーブリーが勅任艦長になる以前のソフィー号時代からの部下です。原作ではあともう一人、1巻からの付き合いのウィリアム・バビントンもファーストネーム仲間(笑)に入っています。
ただし、このファーストネーム使用もTPOに準じているようですね。オーブリーが副長をトムと呼ぶのは周囲に部下がいない時、それ以外の時は、通常通りミスタ・プリングスです。
ところで、原作ではボンデンはファーストネームで呼ばれることはありません。これは映画だけの呼称のようです。 映画のボンデンは一カ所「ミスタ・ボンデン」とミスタ付きで呼ばれているところがあって、これも原作とは違うところです。彼は下士官なので、通常はミスタは付かない筈なのですが。 キリックとボンデンはともにオーブリーとの付き合いが長いのですが、今回の映画では物語の進行上、キリックはともかくボンデンに関してはその付き合いの長さを表すエピソードが割愛されています。これを補うための措置なのかなぁと思ったりもしますが、実際のところはどうなのでしょう?
呼称の使い分けといえばもう一つ。ブレイクニーに対するもの。これもオーブリーは艦の内外を上手く使い分けています。 ブレイクニーは伯爵の息子なので、陸の上ではロード・ブレイクニー(ブレイクニー卿)であり、晩餐会などの席次はおそらく勅任艦長であるオーブリーより上になるのではないかと思いますが、サプライズ号の中ではオーブリーの部下の一士官候補生にすぎません。 そのようなわけで、通常ブレイクニーはミスタ・ブレイクニーと呼ばれているのですが、オーブリーは2回だけ彼を「ロード・ブレイクニー」と呼んでいます。負傷した彼を病室に訪ねるシーン。これは彼が私的にブレイクニーを見舞っていると考えられるのではないでしょうか?
このようなわけで、オーブリーは海軍の規律を重んじTPOを見事に使い分けているのですが、対するスティーブン・マチュリン…この人の場合は…時に問題が。 いや一応、わかっていることはわかっていて、きちんと「艦長(Captain)」と呼んでいる時もあるのですが、周囲に部下がいようがいまいがファーストネームの「ジャック!」が出てしまうことが多々あって。 まぁそのあたりはプリングスとマウアットがよくわかっていて、上手くフォローしているようですが(天窓の作業をしていたミスタ・ラムをさりげなく立ち去らせる…とか)。
海洋小説の魅力は多々あるのですが、ファーストネームや呼称に現れる微妙な公私のライン…というのも、面白さの一つではないかと思います。厳しい軍律と人間の情の対比が一番良くあらわれる部分でもあります。 マニアな見方ではありますが、「M&C」に限らず、規律の厳しい組織モノでは鑑賞のツボかもしれません。
2004年04月22日(木)
艦長室での会話
以前に指摘していました、ジャックとスティーブンの会話のフルバージョンです。 ホーン岬をまわって太平洋に入った後、ウォーリーを死なせてしまい悩むオーブリーとスティーブンの、嵐の中の艦長室での会話。 字幕に訳しきれない部分をフォローすると、もう少し事情がわかるのではないかと思います。
本日の日記は多数の方々のお力によっています。 UK版DVDからのセリフ抽出、訳語や問題点の指摘、解釈をご教示いただいたTeさん、Taさん、Hさん、Uさん、Nさん。ネイティブにしかわからない慣用句や意味について答えてくださったMr.J、Mr.Tと中継してくれた友人のY。 いろいろと本当にありがとうございました。
******************************************************* J:ジャック・オーブリー、S:スティーブン・マチュリン
S:The deaths in actual battle are the easiest to bear. (戦闘中の死亡…と考えれば、一番受け入れやすいだろう?) For my own part, those who die under my knife, or from some subsequent infection... (僕はね、手術中や、後の化膿で怪我人が死んでしまった時には、) I have to remind myself that it was the enemy that killed them, not me. (自分に言い聞かせることにしている。 敵の手にかかって死んだんだ。僕のせいじゃない) That young man was a casualty of war. (あの若者も、戦争の犠牲者なんだよ) As you said yourself, you have to choose the lesser of two evils. (言ってたじゃないか。小さい方のコクゾウムシを選ばざるを得ない商売なのだと) J:Weevils. (コクゾウムシか…) The crew will take it badly. Warley was popular. (水兵たちにはこたえるだろう。ウォーリーは人気者だった) Have they expressed any feelings on the matter to you? (何か君に漏らしていないか? 彼らがどう思っているか) S:Jack, before answering, I'm compelled to ask, (ジャック。その質問に答える前に、僕は君に一つ尋ねなければいけないことがある) am I speaking with my old friend or to the ship's captain? (僕は今、長年の友と話をしているのか?それとも艦長とだろうか?) To the captain I'd say there's little I detest more than an informer. (もし艦長と話しているのなら、僕は胸くその悪い告げ口をしていることになるのではないかと) J:Now you're talking like an Irishman. (なんだ、まるでアイルランド人のような口をきくな) S:I am an Irishman. (僕はアイルランド人だよ) J:Well, as a friend, then. (わかった。では友人として) S:As a friend, I would say that I have never once doubted your abilities as a captain. (友人として、僕は一度たりと艦長としての君の能力に疑いをはさんだ事はないが、) J:Speak plainly, Stephen. (まわりくどい言い方はよせ、スティーブン) S:Perhaps we should have turned back weeks ago. (おそらく我々は、何週間も前に引き返すべきだった) The men... of course they would follow Lucky Jack anywhere, (水兵たちは…、もちろん彼らはラッキー・ジャックにどこまでもついていくだろう) righffully confident of victory. (勝利を信じてね) But therein lies the problem. (だがそこに、落とし穴がある) You're not accustomed to defeat. (君は敗北に慣れていない) And chasing this larger, faster ship with its long guns is beginning to smack of pride. (大型で俊足、射程の長い砲を装備した船を追いかけまわすのは、 君のプライドを突つかれたからじゃないのか?) J:It's not a question of pride. It is a question of duty. (プライドの問題ではない。任務だ) S:Duty. Yes, I've heard it well spoken of. (なるほど、任務ね。よく言われているセリフだ) J:Be as satiric as you like. Viewing the world through a microscope is your prerogative. (好きに皮肉を言うがいいさ。 顕微鏡で見るような視点で細かく分析するのは、科学者たる君のおはこかもしれないが、) This is a ship of war. I will grind whatevergrist the mill requires to fulfil my duty. (この船は軍艦だ。私はあらゆる手を尽くして、任務を全うするのみ) S:Whatever the cost? (いかなる犠牲を払おうとも?) J:Whatever the cost. (いかなる犠牲を払おうとも) S:To follow orders with no regard for cost. (犠牲をかえりみることなく命令を遂行すると、) Can you really claim there's nothing personal in this call to duty? (そこには一切の私情は無いと君は言い切れるか? J:Orders are subject to the requirement of the service. (命令は軍務にはつきものだが) My orders were to follow him as far as Brazil. I exceeded my orders a long time ago. (私の受けた命令は、奴をブラジルまで追撃せよというものだった。 私はとうに、命令の範囲を逸脱しているんだ)
**************************************************
今回、いちばん問題になったのは、「talking like an Irishman」でした。 実はこれ、英語の慣用句にはなくて、文字通り「アイルランド人のような話し方」という意味なのです。
では「アイルランド人のような話し方」という英語は、いったいどいういうニュアンスなのか?
もっとも一般的な意味では、「直情的な」とか、「怒りっぽい」とかいう意味になるらしいのですが、それではこのケースには当てはまりません。
以下の諸説は我々の推測、および、原作を読んでいるアメリカ人に伺った解釈です。
1)アイルランド人=頑固者、石頭、馬鹿正直で細かいことを気にする。もっともらしい事を言うが、実は不合理である。 ジャックの率直な問いに対して、スティーブンはすぐに答えず、自分の立場の定義など、まず細かい段取りを気にする、やっと答え始めてもまわりくどい言い方をするなど自分のやり方にこだわる…と言った側面をさして「アイルランド的」と言うのではないか?
ジャックはスティーブンとは長い付き合いであり、多くの運命を共にしてきて、相手の生い立ちなど全く気にせず付き合ってきました。二人の間には壁などなく、同じ位置に立つ仲間である…と、ジャックは無意識に思っていたのに、突然スティーブンが他人行儀な言い方をしたので、「君はアイルランド人に戻ってしまったのか?」というようなニュアンスでこの言葉を口にしたのでは?
2)当時のアイルランドの歴史的背景 1800年まで、アイルランドはイギリスの植民地であり、アイルランド人はイギリス人の支配下にあった。仲間のことを支配者である上官に告げ口するという構図が、イギリス人とアイルランド人の関係に重なるのではないか。またアイルランド人自身がイギリス人に支配されるということをひどく嫌っていたことから、スティーブンの反発を、ジャックがアイルランド的と受け取ったのではないか?
2)は原作を読んでいるアメリカ人の推測です。彼によれば原作の他の巻で、水兵間の告発行為が問題となったことがあり、そこではアイルランド人のことが問題になっていたような記憶がある…ということなのですが。
これが原作にあるとすれば、オブライアンはどのような意味で「アイルランド人」という言葉を使ったのでしょう? また脚本段階で加えられたとしたら、脚本家のコーリー(スコットランド人)はどのような意味でこの言葉を加えたのでしょう? 現代人が持つアイルランド人のイメージが、必ずしも1805年のイングランド人であるジャック・オーブリーのイメージと重なるわけではなく──同じ英語ネイティブとは言え、現代アメリカ人の受け取るイメージには、1850年以降に新大陸に移住したアイルランド系アメリカ人のイメージもあるでしょう。
そもそも当時のアイルランド人の定義も難しいですね。1805年当時のアイルランドは、英国系国教会プロテスタント、英国系非国教会プロテスタント(ユグノー派、長老派)、英国系カトリック、ゲール系カトリックの四派に分かれており、国教会プロテスタント以外は、英国系であっても1793年までは一切の公職につけず、その後も1829年までは議員、裁判官、高級官僚、陸海軍の将官になることはできませんでした。 ここでアイルランド人と言った場合、非国教会およびカトリックは全て入るとして、英国系国教会派はどうなるのでしょう? 現代のスポーツの世界では、イギリスに属する北アイルランドも、アイルランド扱いになることがあり、…はやり外国人には理解しきれない問題かもしれません。
ところで、今回ご紹介したこの会話の詳細は、もう一つ重要な問題を明らかにしています。 字幕では「私は既に命令を逸脱している」としか訳出することが出来なかった、ジャックの責任問題です。
映画の冒頭で明らかにされる海軍省からの命令は「アケロン号の太平洋進出を阻止せよ」でしたが、ジャックはここで、「追撃はブラジル沖までという命令だったが、私はとうにその範囲を逸脱している」とスティーブンに告白しています。 サプライズ号はブラジル沖どころかアルゼンチン沖をも通りすぎ、ホーン岬をまわって太平洋に入りかけているのです。つまりジャックは、ブラジル沖での修理とアケロン号追撃続行決めた時点で、海軍省命令を逸脱し、艦長の決断で命令の拡大解釈してしまったことになります。 ガラパゴスまで追撃してアケロン号を拿捕せよ…とまでは、命令されていないのです。(この部分は原作10巻とは異なります)
アケロン号を追い回すのは、敗北に慣れていないから、プライドが傷ついたから、艦長判断には私情が入っているのではないか?というスティーブンの洞察は、ずばり核心をついていたわけです。
海軍省からの封緘命令書は艦長宛であり、その内容を知るのは原則、艦長のみです。 副長や航海長は通常、命令内容を知らされていません。 ゆえに全ての判断責任、乗組員190余名の命は、艦長一人の決断にかかっていました。
このあたりの事情がはっきりわかると、その後のジャックの決断が少し理解しやすくなるかと。 ガラパゴスで「戦争が終わってしまう前に故郷に帰ろう」とスティーブンに告げるジャックを、不思議に思われるかもしれませんが、あの時ジャックは自分のこだわりを素直に捨て、本来の命令の範囲にたちかえろうとしたのでしょう。
スティーブンは艦長の秘密(命令逸脱)を守り、他の士官たちには漏らさなかったようなので、アケロン号の追撃を諦めガラパゴス再上陸を決めた時、副長以下は当惑していたようですが、映画を見た観客も同様に、ガラパゴス行きと帰国決断の理由を、単に艦長の気が弱くなった(またはスティーブンには甘い)だけ、と考えかねないのではないでしょうか。
命令を逸脱してガラパゴスまで行ったにもかかわらずアケロン号を阻止できませんでした…では当然、本国に帰ってから艦長の責任問題になりますし、叱責だけですむとは思われません。 その事の重大性を、艦内ではただ一人わかっていたからこそ、スティーブンはジャックのために、ガラパゴスの宝を投げ捨てた、とも言えるでしょう。
2004年04月17日(土)
米FOX社DVD情報など
やはり平日にはなかなか更新できません。明日17日、東京の新宿プラザは上映がない…という情報をいただいていたのですが、upできたのは今日のこの時間。明日、新宿に見に行かれる予定の方はご注意ください。朝、新聞で上映予定を確認された方が確実かと。
また、この情報もすでに入手ずみの方結構いらっしゃるようですが、アメリカでは来週のDVD発売にあわせて、FOX社のサイトがリニューアルされています。くわしいDVD情報、ネット上でゲームを楽しめるコーナーなどもあるようです。
「M&C」DVD情報(英語)
このDVDについて、FOX社のスティーブ・フェルドスタイン氏は、「マスター・アンド・コマンダーは、膨大な数の原作ファンを有する映画だ。このような作品の場合、より一歩踏み込んで楽しんでいただけるようなDVDを提供することは、我々の義務だと思う」と語っています。(米日刊紙USA Todayより) 日本でのDVDがどのような形になるのかまだ詳細はわかりませんが、日経エンタティメント誌の映画特集(3月増刊)で7月発売予定のところにタイトルが入っているのを見ましたので(83ページ)、あと1ヶ月ほどで詳しいことがわかるのではないかと思います。
ところで、現在発売中の日経エンタティメント5月号によれば、日本での「M&C」の興行収入は12億円(見込み)とのことです。3月公開の映画の中では5番目の成績。ちなみに1位はドラエもん、2位クィール、3位ワンピース、4位ブラザーベア…ということで、春休み子供向け・ファミリー向け作品優位ということでしょうか? ただしこれはあくまで3月公開映画の順位なので、全体の興行成績から言えば、ロード・オブ・ザ・リングがこの上に来るのではないかと思われます。
この他、海外情報では、英国のタイムズ紙にポール・ベタニーの次回作の記事が載っていました。 Brideshead house will not be revisited for Hollywood remake
今度の共演はジュード・ロウのようです。タイムズ紙の記事ですから、確かだと思いますが、まだムービーデータベース(Imdb)などには情報が出ていません。 この作品「Bridehead Revisited」は、イーヴリン・ウォーの原作。1981年にジェレミー・アイアンズ主演で、英国BBCでTVドラマ化されたもののリメイクとのこと。脚本はアントニー・デービス。 かつてアイアンズが演じたチャールズをポール・ベタニーが、オクスフォードでの友人で貴族の青年セバスチャンをジュード・ロウが演じるようです。アルコール中毒になり姿を消したセバスチャンを、チャールズはモロッコのフェズまで探しに行くようですが。どのような感じになるのか想像できるような、できないような。 撮影は6月頃から始まるとのこと。
次回作といえば、もう一つ、ロード・オブ・ザ・リングのアラゴルンを演じたヴィゴ・モーテンセンの次作はスペインの海洋モノだ…という情報もあるのですが、これをこのHPでご紹介するのは畑違いか、それとも海洋モノだから良いのか。 「El Capitan Altriste」というスペインではベストセラーになっている海洋小説の映画化のようですが。 HPがこちらにありますが、スペイン語です
「映画を楽しむために」からリンクしている只野さんの解説ページに新しく「アケロン号」のページがupされました。ご参照ください。
2004年04月16日(金)
起爆阻止
ハヤカワ文庫NV3月の新刊に、ダグラス・リーマン「起爆阻止」という1冊があります。 ダグラス・リーマンは、ボライソーシリーズの作者アレクサンダー・ケントの本名、同じ海洋小説でもナポレオン戦争もの以外は本名のリーマン名義で刊行されています。
「起爆阻止」は第二次大戦中の英国海軍機雷処理チーム(敷設と処理を担当)の人間ドラマを描いた作品です。 原題は「Twelve seconds to live:生きるための12秒」12秒とは機雷の起爆装置が作動してから爆発するまでの時間、機雷処理担当者にとっては人生最後の12秒となるかもしれない時間です。 そのような非情な世界を舞台としながら、ダグラス・リーマンの筆が描き出すのは人間の情。 それは「M&C」脚本家ジョン・コーリーが、マダガスカルの石油掘削現場での経験を通して知った「厳しい現場で働く荒っぽい男達が持つ驚くほどの優しさ」に通じるものではないかと思われ、非情な世界ゆえに際だち、胸にこたえるものです。
私は艦内の人間ドラマが読みたくて、海洋小説を読んでいるようなところがありますが、ケント(リーマン)にしても、ラミジ・シリーズのダドリ・ポープにしても、ホーンブロワー・シリーズのC.S.フォレスターにしても、人間ドラマについて言えば近現代のものの方が凝縮されたものを描き出しているかもしれません。
たとえば…、リーマンが「起爆阻止」の前に出版した「輸送船団を死守せよ」(ハヤカワNV1028、2003年1月新刊)。物語の舞台は駆逐艦ハッカ号、1942年の12月。 ハッカ号の副長フェアファックスは、戦死した前艦長から「艦をたのむ」と言い残され、損傷の修理に当たってきた。自分のキャリアから言って、このまま艦長に昇進もあり得るかと考えた矢先に、新たな艦長が着任するとの報を受け失望を隠し得ない。 新艦長マーティノーは、以前の指揮艦を撃沈され、部下の多くを失い、自身も心身に傷を負っていた。 着任したマーティノーは艦長室の引き出しに忘れ去られた前任者の遺品を見つける。それは髪の長い女性の写真だった。 ハッカ号はプリマスに入港しマーティノーは上陸する。士官クラブにいると「ハッカ号の艦長」を尋ねてきた婦人士官が居た。それはあの写真の女性、マーティノーの顔をみると、彼女はすべてを悟ったようだった。「彼、死んだんですね」 このような状況から始まる物語は、一つにはマーティノーがどのようにハッカ号の乗組員たちを一つのチームにまとめあげていくか、また作戦司令室に勤務する写真の女性アン・ローシュがもう一つの軸となって、展開していきます。
第二次大戦ものというのは、日本では、そしてやはり女性にとっては、敷居が高いのではないかと思います。 私の場合も、それまではこのようなジャンルは読んだことがなく、唯一読んだと言えるのは小説ではなくて、学校の課題で読まなければならなかったノンフィクション記録文学、吉田満氏の「戦艦大和ノ最期」でしたから。戦争小説なんて読むのは不謹慎では…とも考えました。
けれどもリーマンの描きだす人間ドラマは、ケント作品の歴史帆船小説と基本的には同じ、おそらく作者の中でもこの二つは同じものなのだと思います。 ダグラス・リーマン(アレクサンダー・ケント)は1924年生まれ。第二次大戦が始まったのは15才の時、高校卒業と同時に海軍に志願し、21才の中尉で終戦をむかえています。 終戦時に21才ということは、「戦艦大和ノ最期」を書かれた吉田満氏とほぼ同年…ということなのですね。 リーマンの筆は小説の形をとって、当時の忘れ得ぬ人々のことを間接的に伝えているのでしょう。リーマンが歴史小説を書く時に使っているペンネーム、アレクサンダー・ケントは、戦死した候補生時代の友人の名だと聞きました。
もちろん「戦艦大和ノ最期」や「聞けわだつみの声」などの持つ意味と重さは別格、全く別のもので、これらの小説と比較できるようなものではありません。
けれども、リーマンやポープやフォレスター、さらにはニコラス・モンセラットや海洋小説の最高峰と言われるアリステア・マクリーンの描く、明日をも知れない時代を必死に生きた人々の物語は、小説とは言っても十分に胸に痛く、忘れられないシーンが数多くあり、気安くは読めないと知りながら、新刊が出ると必ず、手にとってしまうのです。 それは、面白いと言うことは決して出来ないけれども、忘れることの出来ない本たちです。
2004年04月11日(日)
ロスト・イン・トランスレーション
東京・六本木のヴァージンシネマは「M&C」の上映が昨日までだったので、聴き収めに行ってきました。 立体感ではTHX-EXのこの映画館が都内一のような気がします。上映室は小さくなっていましたが、部屋が小さい方が逆に音は良くなる…というか、本当に天井上を人が歩いてたり、横の壁がギシギシ鳴っているような臨場感が伝わってきます。
それにしても、何回見に行っても新しい発見のある映画です。それに疑問も。あぁこの映画には見納めっていうのは無いのかしら? 昨日のうれしい発見はマウアット。艦長室の会食シーン(ネルソン提督の逸話を語るところですね)で、ジャックが「プリングスは泣き虫の候補生だった」と言いますね? あそこでマウアットが苦笑しながらプリングスをぽんっと叩いているのに気づきました。考えてみればこの二人も(原作では)候補生仲間なので、マウアットは昔のプリングスを知っているのでした。
六本木ヴァージンは外人さんの多い映画館なのですが、昨日はお隣がアメリカ人のカップルでした。 「M&C」の字幕はほんとうによく出来ているのですが、やはりどうしてもニュアンスを伝えきれないところあって、ロスト・イン・トランスレーション…すなわち翻訳によって失われてしまうものがあるのだけれども、外国人の反応を見ていると、いろいろと気づかされることがあります。
ネイグルとウォーリーがアケロン号の模型を持ってきて褒美にグロッグ(ラム酒)の特配を受けますが、その時にキリックが「それでは礼砲の日には何を飲むんで?」と言うと、ジャックが「ワインだ」と答える。それを聞いたキリックが「そうですかい、ワインですかい」と答えるんですが、隣のアメリカ人がここで笑う。…なにがおかしいの??? やっぱり礼砲の日には特別な意味があるんでしょうかね? いやはやまたまた調べものかなぁ。
映画が終わって1ヶ月で更新ネタは尽きるだろう…と以前私は思っていたのですが、これはちょっと、当分引きずりそうですね。
3回目以降は私、ほとんど字幕を見ていなくて、英語をそのまま聞いていますが、字幕に出てこないジャックの心情とか論理の流れ…って実はけっこう多いんです。もちろん字幕は字数制限がありますから致し方ないのですが、ジャックとスティーブンの口論などは、あのlesser weevilに限らず、字幕だと論理が飛躍してしまっているところが結構ありまして、これはいずれDVDからきちんと原文起こして補足したいなぁ…などと思う今日このごろ。 ちょっと自分のヒアリング力に自信がないので、今ここがこうだ…とは断言できないのですが。
とりあえずひとつだけ、いつも見るたびに残念だなぁと思うところを挙げますと。 アケロン号との最後の戦闘の前にジャックが一席ぶつシーンがありますが、あそこで「we are at(in?) the far side of the world」と言いますね、字幕は「我々は地球の裏側にいる」だったかと。「The Far Side of the World:地球の裏側」これがこの映画のサブタイトル、そして原作10巻の原題でもあるのですが、このあとにジャックは「and this ship is our home」と言っていると思います。それから「This ship is England」となるのですが、字幕では「our home」のところが抜けて、いきなり「この艦が英国そのものだ」と言うような意味のものになってしまっています。
英語の「home」という単語には単なる「家」ではなくてもっと多くの意味がこめられています。「家庭」とか「我が家」とか「精神的に依って立つところ」とか。故郷英国から遠く遠く離れて、厳しい自然とフランス艦、周囲は敵ばかりという「地球の裏側」で、百何十人かの男たちが身を寄せ合って生きている「家」、それがサプライズ号なのです。 …これは辞書を引いた解釈ではなくて、いろいろな海洋小説で、繰り返しこの「home」が描かれているからなのですけれども。「home」という言葉にはそういう意味があるんだよ…と教えてくれたのは、ボライソー・シリーズを書いたアレクサンダー・ケントだったか、ラミジ・シリーズのダドリー・ポープだったか、もはや記憶が定かではないのですが。
そういう意味でもう一箇所感動するのは、やはり最後のオーブリーがプリングスを送り出すところでしょうか? ジャックは初めてプリングスに「キャプテン(艦長)」をつけて呼び、それから封緘命令を差し出し言うのです。「Your order」。 あの封緘命令書の内容は、確かにプリングスに「バルパライソへ行け」と命じたものなのですが、命令の冒頭には「トマス・プリングスをアケロン号の艦長に任ずる」という一文がある筈です。あの封書は任命辞令を兼ねているわけで、つまりは現代の昇進辞令交付と同じ儀式なのです。 原作を読んできた人ならば、運にめぐまれなかったプリングスが、実力がありながらなかなか艦長になれなかった経緯をよく知っています。その彼がやっと自分の指揮官を得て独立する。本人ならずとも感慨胸に迫るものが。 そして「Your order」というセリフを聞くと、もう一つの忘れられないシーンが私の脳裏にはかぶります。 場所はジャマイカの海軍司令部、「Your order, Commander」と言ったのは、ロバート・リンゼイの演じたサー・エドワード・ペリュー提督、辞令と指揮艦を手に入れたのはホレイショ・ホーンブロワー(ヨアン・グリフィス)。ねたばれになるので今ここには書きませんが、ホーンブロワーのTVドラマをご覧になった方ならば、この直前のペリューとホレイショの会話は覚えていらっしゃいますよね。ゆえにこのセリフの重さも。 プリングスに任命辞令を渡すシーンは、原作にはありません。 今回映画化されて、いちばん嬉しかったところ、それは原作にないこの任命辞令のシーンを、この目で見られたことかもしれません。
このホームページは、いましばらく(夏頃まででしょうか?)、セリフなどを中心に映画のフォローをしていくことになると思います。 すでにUK版DVDを既に入手されている方もおられるようですが、私自身のDVD入手はゴールデンウィーク頃になると思います(皆さんの様子を見て、UK版かUSA版の解説の多い方を入手しようかと)。 おそらくDVDを見るとまた発見があり、そしてまた解説の必要も出てくるのかもしれません。
2004年04月10日(土)
【未見注意】【未読注意】オブライアンとともに──脚本ジョン・コーリー
【未見注意】【未読注意】映画「マスター・アンド・コマンダー」で脚本を担当したジョン・コーリー氏が、英国の新聞デイリー・テレグラフ紙に昨年11月15日に寄稿した記事です。全文ではなく主要部分のみ訳しています。 原作のストーリーをどのように映画にまとめたかという内容であることから、原作10巻、映画ともにストーリーのねたばれがあります。
It felt as if Patrick O'Brian's ghost was writing with us
アメリカの出版社から、映画監督のピーター・ウィアーに会ってみないかとの電話をもらったのは、シドニー・オリンピックの年、2000年のことだった。 最初に会ったのはシーサイドのカフェ、私たちは二人ともシドニー在住で、その後もたびたびランチをご一緒した。良い友人となったが、仕事をともにする具体的なプロジェクトがあったわけではなかった。
しばらくして監督から電話があった。私が興味を持ちそうなプロジェクトがあるという。パトリック・オブライアンの小説の映画化を手がけるというのだ。 オブライアンは、ナポレオン戦争を舞台にした歴史小説で有名な作家だ。その筆はあちこちに飛び、通常の小説作法、プロットや作劇法に縛られない。世界のあちらこちらを舞台とし、時に脇道にそれて植物学や砲術やロープワーク、開頭手術について詳細に記述する。オブライアンはそれら全てを自らの画布にとりこみ、その上に何百人もの、一度読んだら忘れられないような個性的なキャラクターを登場させるのだ。 そのオブライアンの小説を映画化する…まるで聖書を映画化せよと言われたようなものではないか。 だがピーターは、解決法があると考えていた。1巻に絞って映画化する。他の巻に比べればプロットがまとまっている10巻「The Far Side of the World」を。
オブライアンは、時に細部にこだわり、意図的にプロットに全く関心を割いていないところがあるが、キャラクターの創造にかけては巨匠と言って良い。 二人の主人公、ジャック・オーブリー艦長と、医師スティーブン・マチュリンという、あらゆる面で正反対の二人の友情は、20世紀文学における著名な人間関係の一つと言える。ジャック・オーブリー艦長は何と言っても行動の人であり、直截な物言い、大酒飲み、愛国心があり、職責(軍務)に邁進、戦いを愛している。これに対してドクター・スティーブン・マチュリンは複雑な性格の個人主義者だ。深謀遠慮の人であり、リベラルな人道主義者。博学だがその知識ゆえに自分自身に無力感を抱く。
オーブリーとマチュリンの関係は、数多くのテーマを提示してくれる。職責の概念、愛国心の本質、右派の政治主張と左派の政治主張、次の世代に伝えていかなければならない責任とは何か? 映画化というこのプロジェクトにとりかかるに当たって、ピーターと私はこのようなテーマについて話し合いを重ねた。
だがピーターはたいへん用心深く、ストーリーの根幹を形作る統一テーマを設定するようなことはせずに、まず航海に出てみようじゃないか?と提案した。オブライアンのストーリーをわかりやすく整理してみたら、何かがわかるのではないかという。 「こういう時に、ふつう君ならどうする?」とピーターが尋ねたのを覚えている。何度もアカデミー賞に(そのうちの一度はオリジナル脚本賞に)ノミネートされた人にしては、なんと謙虚なことだろう、と私は驚いた。 ピーターと私の方法は同じものだということがわかった。プロットの主要な要素をリスト化し、手におえる数のシークエンス(一続きの場面。約30〜40シークエンス)にまで整理する。しかる後に、その30〜40のシークエンスを並べ替えて、一つのストーリーラインにまとめあげるのだ。
我々に必要なのはコルクボードとカードと画鋲だった。 映画作りの第一歩は、タイトルカード作りから始まった。「嵐」「砲術訓練」「海の悪霊」「ミセス・ホナーの病」などと言うカードが作成され、コルクボードにピンで留められていった。
一般的な映画は、3つの構成要素から成るものである。1.問題の発生、2.問題の複雑化・発展、3.問題の解決。 原作をこれに即して整理すると、以下のようになる。 1.ジャックが命令を受ける。乗組員の紹介。敵との初戦。 2.敵艦との追撃戦(航海)、その間に艦内の三角関係が乗組員の士気に悪い影響を及ぼし、殺人事件を引き起こす。 そのあと私たちは原作を100ページほど飛ばし、3.に当たるシーンとして、サプライズ号と敵艦がともに嵐に遭遇し、無人島にたどりついた後に、双方の乗組員が対立する場面を選んだ。
この大まかなパターンを幾つかのシークエンスに分類し、各シークエンスを更に幾つかのシーンから構成する。 シドニーの、海からの風をまともに受ける崖の上の監督の家で、私たちは艦尾甲板を歩き回るように言ったり来たりしながら、シーンを創作していった。 その間、情感を盛り上げるために、ピーターは常に音楽を流していた。 ある時は私がジャックでピーターがスティーブンの役、またある時は私がスティーブンでピーターがジャックの役割を演じて、言葉を紡ぎ出していく。
ドラマを創作するという作業は、情感の真実を探り出す作業であり、自身の人生経験を語ることなしにその真実を探し当てることは出来ない。今回の仕事にあたっては、その人生経験がすぐ手の届くところにあった。途上国で医療活動に従事していた私自身の経験は、ドクター・マチュリンを理解する手助けになった。治療法を発見した時の喜びや、対処法がわからぬ時の恐ろしい不安感は、私自身が経験している。 監督として映画スタッフを率いてきたピーターは、ジャック・オーブリーの苦悩をよく理解していた。数多くのスタッフと多額の資金のかかった決断をしなければならない時に感じるプレッシャー。時には周囲からの疑問や反対を押し切ってでも、自分が最善と思う道を選び、それを貫くこと。
午後は私一人で、これにサブテキストを加え、さらにそのシーンのムードや情感をわかりやすくする。翌朝、私がこのテキストを朗読し、ピーターは聞き役にまわり、そのシーンの情感に没入する。文章は人をあざむくことが出来るが、読み上げられた言葉から感情を隠すことは難しく、言葉の流れの不自然さはおのずと明らかになる。 何かおかしなところがあれば、直していく。
このようにして125ページの第一稿が完成した。 だが、全体を通して読み直したピーターは、私に電話をかけてきて、私たちは針路をはずれてしまったのではないか?と言った。
ピーターが指摘した問題点は、第一稿の中心となる三角関係だった。掌砲長とその妻、妻の恋人の三角関係は、オブライアンの原作ではもっともドラマチックな要素となっている。だが彼女を中心とした人間関係は、オーブリー艦長とドクター・マチュリンに直接結びつくものではなく、彼女の存在そのものが艦全体のバランスを崩してしまう。唯一の解決法は、ピーターの言葉を借りれば、彼女を舷側から放り出して再び帆を上げることだ。
そこで我々は再び航海に乗り出し、書き直しの作業にかかった。かつて私たちがオブライアンの原作を整理し、新しいパターンに沿って並べかえたように、私たちが書いた第一稿を見直し整理するのだ。これにはさらに数ヶ月がかかった。 ストーリーラインを単純化すると、オブライアンが創造した途方もないキャラクターたちは息を吹き返したようだった。プロットの皮を剥いていき、本質的要素と考えていたものも捨て去ってみた。観客は最初の戦闘シーンを通じて乗組員と出会う。掌砲長の妻をめぐる三角関係はカット、代わりにジャックとスティーブンの意見の対立が映画の中心となった。 最終的に完成したプロットは、たいへんオブライアンらしいものになったが、オブライアンの原作とは全くかけはなれていた。 私たちはオブライアンのように考え、オブライアンのキャラクターのように話すことを学んだのだ。作者オブライアンが危険を冒し帆の開きを変えた(方針を変更した)ように、我々も針路を変更した。 後になって私は、それが自分たちの書いた脚本なのかオブライアンの書いたものなのかわからなくなってしまった。それはまるで、オブライアンの幽霊が私たちと一緒に脚本を書いているような感じだった。
だがもちろん、オブライアンの幽霊であっても、映画製作会社を納得させなければならない。制作費に合わせて、私たちは幾つかのシーンをカットしなければならなかった。 2002年の初めに脚本は完成し、プロジェクトは私の手を離れた。
その後の脚本の成長に私は立ち会っていない。 2週間前、私は完成作品を初めてこの目にし、まるで長い間行方不明だった子供の卒業式に立ち会っているような感慨に襲われ、思わず涙してしまった。 私たちの脚本に、俳優たちは個性を吹き込んでくれた。 歴史考証を担当したゴードン・ラコは、細部に至るまで当時を再現してくれた。 ウィアー夫人のウェンディ・スタイタスと彼女のスタッフは、塩がこびりついているような19世紀の船乗りたちを見せてくれた。
ポール・ベタニーは、思いやり深い一面を持ちながらも複雑な心理的葛藤に引き裂かれるスティーブンに、血肉を与えてくれた。 ラッセル・クロウはジャック・オーブリー艦長そのものであり、溢れんばかりの熱情で船乗りの生活を愛し、「こんな仲間たちと一緒に大海原に乗り出していくのはきっと素晴らしい体験だろう」と見る者に思わせる。 これは一度見たら、すぐにまたもう一度見たくなる映画だ。あの木造帆船にもう一度乗り込んで、さらにもう2時間半、髪を風になぶられ、塩からい飛沫をあびて、裸足の足の裏にサプライズ号の甲板の感触を感じるために。 オブライアンが存命で、この映画を見ることが出来たら、どれほど良かったことか。
2004年04月04日(日)
4月に入りました
4月に入り、新しい学校、職場、部署に移られた方も多いのではないかと思います。 私は…昨日までに前年度の仕事を片づけるつもりが果たせず、まだ3月34日をやっています。あぁ冗談ではなくって、年度の終わりがM&Cの上映の終わりと同時になりそうですが、それでも先週は映画の日に何とか19:30の最終上映を見ることができました。
先週の日曜日には海洋小説ファンクラブの例会で、船の科学館のM&C展に行ってきました。 会場がランデブー地点を兼ねていたので、メンバーが揃うまでかれこれ2時間近くいたでしょうか? 時間だけはたっぷりあったので、ガラスケースに張り付いて、妻ソフィー宛のオーブリーの手紙をじっくり読んでみたり。でもオーブリー艦長、達筆すぎて字が読めない〜。二人がかりで、あーでもないこーでもないとか言いながら単語を推測して、何とか九割方解読したのですが、これがなかなか面白いものでした。
ソフィー宛のオーブリーの手紙というのは、原作にも多々登場しますが、いつも思うのはこのような手紙を受け取っているソフィーは聡明で分別のある女性で、オーブリーから絶対の信頼を寄せられているのだなぁということ。 作戦内容の詳細とか、任地の情勢とかについて詳しく書かれている手紙が多いのですが、例えば今どき単身赴任の夫がここまで詳しく自分の仕事内容を妻に語るかしら?と思うし、同時代の他の海洋小説に比べても、手紙の内容が濃いですよね。これに匹敵する手紙といえばホーンブロワーがバーバラ夫人に宛てたものとか、ラミジがサラー夫人やイタリアの女公爵ジアナに送った手紙ぐらいでは? ソフィーは基本的には慎ましやかであまり表には出ない性格だけに、内助の功の部分は相当にあるのだろうなぁと思います。
この手紙、映画ではネイグルとウォーリーがアケロンの模型を持って艦長室を訪れるところに出てきます。 ブラジルで補給した時に、「これは大事な郵便だから商船に託して英国に届けるように」と言いながら現地の役人に託されているものです。 オーブリーの手紙には、直前の戦闘のことや、重傷のジョー・プライスをマチュリンが開頭手術で救ったことなどが書かれていますが、ブレークニーの負傷と片腕の切断にも触れていて、「この便で、母である伯爵夫人も(ブレークニー本人からの手紙で)息子の怪我のことを知るだろう、いずれ帰国したら伯爵夫人には私から説明に伺うつもりだが、その前に君から伯爵夫人を訪問してほしい」という一文があります。 いやはや艦長夫人も大変ねぇ…と私たちも解読しながら話していました。
そうそう、原作設定ではボンデンの従兄に当たる設定のジョー・プライスですが、このオーブリーの手紙ではボンデンの伯父になっていました。確かに映画での二人の年齢差を考えると、従兄というのはちょっと苦しいですね。
閉館が迫りそろそろ引き上げかという頃に、会場に科学館の係の方が戻っていらっしゃいました。 私たちの一行の中には、どうしても海尉の軍服の背面を見たいと願っていた人たちがいたのですが、もう最後の最後だからと駄目もとでお願いしてみたところ、なんと見せていただけることになりました。 そしてびっくり。なんと海尉の軍服の後身頃は四枚はぎ…というのかしら?私、服飾用語にはあまり詳しくないのですが。背広やテーラードスーツの背中の部分はふつう二枚の後身頃から構成されていますよね? ところが女性用のシャネルスーツなどは後身頃が中央の二枚と脇の二枚の四枚から成っているでしょう? 海尉の航海用軍服も同じデザインなのです。オッシャレ〜!…というか、この方が体にぴったり合うから着心地は良いだろうし、副長役のジェームズ・ダーシーはスタイルがいいから、ウェストラインが綺麗に出ると思うけれども。 でも、いかつい軍服、それも礼装ではなくって通常の雨風や直射日光にさらされる航海用軍服に、当時はここまで手がかかっていたのかと思うと、ちょっとびっくりでした。
さて、水曜日に急遽「原作を間違えないで購入する方法」をupしましたが、そろそろ、原作は全て読み終わってしまった方もあるのではないでしょうか。次に翻訳が出るのはおそらく4巻でしょうが、夏頃という噂があるものの、確かではありません。 待ちきれない方は原書を読むという手もありますが、オブライアンは…というかマチュリン先生はちょっと手強いから、手を焼かれるかもしれません。つまり彼は常に、ひとひねりしたものの言い方をするじゃないですか、英語ネイティブの人には良いかもしれませんが、外国人は往々にして、このひねりについていけないのでございます。「マチュリン先生の皮肉がわからない〜」と泣きながら何度辞書をひいたことか。 13才のマックス・パーキス君も「オブライアンは大人になったらもう一度読み返すよ。ホーンブロワーやシャープはチャイルド・フレンドリーだから僕も好きなんだけど」と言ってますし。
もっとも「フォレスター(ホーンブロワーの作者)がチャイルド・フレンドリー(子供にも読みやすい)」というパーキス君の言い分も「!!」ではあるのですが。まぁ日本で言えば灘かラサールかという超有名私立校イートンの優等生の言うことですから、割り引いて考えないといけないかもしれません。 2年前、私が初めて原書3巻にチャレンジした時は、実は一人ではなかったのですよね。当時は3巻読書会用の掲示板があって、3〜4人で知恵を出し合いながら、感想など書き合いながら、少しずつ読んでいました。4巻についてもこういう企画、どなたか立ててくださったら面白いと思うのですが。
でも海洋小説の翻訳者は限られているので、オーブリー&マチュリンの続刊を急ぐと、他が遅れたりしないかしら? ボライソーの27巻とかキッドの3巻とか大丈夫かしら? 原語での読みやすさで言えば、やはり一番読みやすいのはやはりアレクサンダー・ケントのボライソー・シリーズだと思うのですが。人間関係で読ませるから会話でストーリーが進む部分が多いし、ほどよくドラマチックで、ストーリー半ばでも胸がキュンとなるようなエピソードがあって、中だるみしないような気がします。
「4月2日コペンハーゲン」のupはもう少し待ってくださいね。なんだか書き始めたら話題がとっ散らかってしまって、少しまとめないといけません。 主要館での上映は来週9日で終わりますので、現在手持ちの記事の中で映画に直接かかわる話題は明日までにupする予定ですが、米国のネットには今なお追加情報が上がってきていますし、今までご紹介できなかった周辺情報──映画公開にあわせて英国の新聞が特集を組んだ、ガラパゴス案内とか、オブライアンの小説の舞台を訪ねて…などといった特集──については、今後ぼちぼちご紹介していく予定です。 よろしければ今しばらくおつきあいくださいませ。
2004年04月03日(土)
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