umityanの日記
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2012年12月31日(月) 今年最後の雑感。

大晦日、どうしたことか太陽が顔を覗かせた。刻一刻と変化する気象。カメレオンみたいだぜ。それでも、気持ちが良い。昨夜、今年の大反省を記したので、今日は日記を書くまいと思ったが気が変わった。

まずは今年一年、大変お世話になったクライアント諸氏、先輩、知人、友人、メル友、この日記にリンクしている人たち、その他、袖を振りあった多数の人たちに感謝の念と、来年の幸を祈願したいと思う。

「本当に、一年、ありがとうございました。来年も変わらぬご厚情をお願いするとともに、皆様に幸あらんことをお祈りします」。なんだか、年賀状みたいになってしまったなあーー。

特にお世話になった小料理屋「梓」の、「そうね」おばさんこと、ひろこさん、来年もよろしく。美味しくて安い手料理を頼んまっせ。さらに、とっちゃん坊や達5人衆、いや、今や7人衆(のび太君、ドラえもん君、夜泣き爺さん、ねずみ男くん、スネ夫くん、一休さん、それに僕、ジャイアン)か。来年もよろしく。さらに、さらに、僕の小さなハートを揺がした画廊のマダム、シズカちゃん、オリーブちゃん、金魚ちゃん、エリ坊君、ナナ君、ナミ君、小森くん、千秋君、明子くん他、他。来年はお手柔らかに。僕、ジャイアンは至って小心者です。もう、下手なカラオケは歌わないぞーーーっ。「本当ーー、嘘ーーーっ」と言う言葉が聞こえまーーーす。こればかりは来年になって見ないと「分かんなーーーい」である。

さあ、午後から昨日、未処理となっているゴミ君たちを一網打尽にすべく、焼却炉へ向かおう。これで、今年の僕の総決算だ。と言いたいが、まだ帳面付けが残っていた。今年の僕の頑張りはどうだったのか?。帳面をめくるたびに手が震える。空白の多い月ごとの紙面が、いかに今年、仕事をしなかったかを窺わせる。これで良いのだ。死ぬ間際に「仕事をし過ぎた」と後悔しないためにも。

とりもなおさず、今日、大晦日は早く寝て、元旦の天気がどうあれ、遅起きに徹することにしよう。一年で一番ゆっくりできるのは正月だ。正月を過ぎると戦国時代ならぬ娑婆世界が待っている。生き抜くためには休養が必要だ。

ただただ、来年が良き一年であることを心から願おう。














2012年12月30日(日) 大反省。

大晦日を明日に迎え、今日は最後の大掃除をした。我が机の周りに散財した本やら書類。見ることもないのに、念のため取っておいたチラシやカタログ。あればあるものよ。思い切り、ダンボール箱に投げ入れ、火葬にしようと思ったが、あいにくの雨。あすへ持ち越しだ。ついでに、使い切っていなかったホワイトボードを来年こそは有意義に活用しようと、ボードに覆いかぶさっている本棚の配置替えをした。本棚の下には、わんさと埃が充満していた。「俺って誇り高き男ばい」と変に感心しながら、一網打尽に。やっと、意図したとおり、配置替えが終了。これで来年が迎えられるか。真っ白なボードが目に新鮮だ。

さて、明日は恐らく、今年を反省する気にはならないだろう。紅白歌合戦があるから?。カウントダウン番組があるから?。とんでもない。ここ数年、歌番組は見ていないし、テレビはほとんど見ない。じゃああ何故に?。要は、早く寝たいからだ。ここしばらく遅寝の習慣がついてしまった。それゆえ、大晦日には早く寝て、元旦には遅く起きたいからだ。日の出は、もち見られない。天気も悪そうだし、好都合といえば好都合。寝れる時に、たらふく寝よう。

てなわけで、今日は今年の大反省を書いておこう。小反省、中反省は既に記した。大反省といえば、いつも心に引っかかっている母のことだ。四月頃、介護施設へ入所した。兄がほとんど手配したのだが、僕は、先々月、一度、会ったきり。老いた母の姿は見るに忍びない。つくずく思う。もっと、頻繁に母に会えばよかったと。意識はしっかりしているが、膝関節が悪いため今は車椅子の生活。「仕事が忙しかろうから、無理せんでええ」といつも言っているが、そんな言葉に甘えてしまった僕が情けない。父を早くに亡くし、兄弟三人三様、母には随分と面倒をかけてきた。母あってこそ、今の自分があるのだ。

ただ、僕なりの言い訳をすれば、兄との確執がある。いや、兄というより兄嫁との確執か?。別居とはいえ母の身近にいるのは兄や兄嫁。一番遠くにいるのは弟。次男の僕は距離も兄、弟の真ん中。面白いことに母への思いが一番深いのは、距離の遠い所にいる者からだ。弟は僕にもまして親孝行。次は僕か?。兄は近くにいるから孝行の影みえじ。といっては兄に失礼だが、兄は長男という立場からか、いつも単独で物事を推し進めてしまう。それを後押ししているのが兄嫁ということになるか?。内輪もめをしても仕方がないが、世間一般はどうなのだろう?。そんな事も有り、兄弟とは言え肌が合わないのだ。「兄弟は他人の始まり」とはよく言ったものだ。

母は分け隔てなく、兄弟三人に同じように愛情を注いでくれた。ただ、一番近くにいる兄に対しては、それなりに気を使っているようだ。当然といえば当然か?。いつぞや、「介護施設に入所するなら、僕の家の近くを探すよ」と言ったが、兄の手前からか、首を縦に振らなかった。義理と人情と世間体。娑婆世界はなかなか思うように事が運ばないものだ。兄や兄嫁の立場を理解しつつ。僕も意識的に遠ざかってきた気配がある。それではいけないのだ。つくずく、そのことを反省している。

今年の大反省が暗い話になってしまった。来年は思った通りに行動してみようと思う。母の喜ぶ姿を見ることが僕の幸せである。











2012年12月29日(土) ギラギラ太陽。

官公庁や民間に習い、僕も副業の御用を納めた。年賀状もしたためた。年末ジャンボ宝くじも買い込んだ。販売終了の2日前だ。バラで30枚。夢は大きく持たなくちゃあーー。生きているんだから。本業は31日まで残っている。今日は29日。昨日の雨が上がって、一応小康状態。明日、明後日とまた天気が崩れるようだ。おまけに寒さが増すらしい。今年は極力、暖房の消費を抑えているが、慣れれば、なんとかなるものだ。暑さ寒さも彼岸までだ。とりあえず、家内事業にいそしもう、

それはそうと、年々、地球環境がおかしくなっているように思える。色んな災害や、不順な気象が多発しているからだ。それのみならず、僕が一番、気になっていることは、最近の太陽光線が異様にまぶしいことだ。昔はこんなでなかったように思う。「あんた老化現象で視力が低下しているんだよ」と言われれば、それまでだが・・・・。

東に向かって車を走らせていると、太陽光線のギラギラが、怪しく僕の視界に飛び込んでくる。前方が見えない。太陽フレアの活発化が原因なのか?。分からない。要するに宇宙規模で異変が生じているのかも知れない。恒星も惑星も年々、老化していくからなあーー、異変があって当たり前か?。

そんな中、最近の宇宙科学の進展には目を見張る物がある。土星の衛星、タイタンには湖があるという。湖と言っても、凍った湖らしいが。まるで、第二の地球を思わせるような光景を醸し出しているという。惑星探査機、カッシーニの着陸船が分厚い大気をくぐり抜け、地表の写真を送ってきた。初めて見る風景。パンチでデートだ。生命体の存在が期待される。わくわくするぜ。地球は生命体が存在する唯一の星、孤独星ではなかったと、やがて証明されるだろう。又、太陽よりも大きい恒星の周りを、巨大惑星(木星より大きい)が二個、回っていることが発見された。宇宙は真に神秘に富んでいる。

宇宙規模で見ると、地球で起きている現象なんて、とるに足らない事かもしれない。さ、あれど、100年そこそこしか生きられない人類にとっては、一大事である。一大事と言っても、その多くは人類の飽くなき欲望が生み出したもの。反省はどうなっているの?。このまま行くと人類滅亡の日が遠からずやってくるだろう。地球は存在しているが生命体が存在しない。そんな日が来るかも知れない。

まだまだ、大丈夫という楽観論が脳裏にある限り、地球再生はあり得ない。
少なくとも子孫へ、甦った地球を残したいものだ。21世紀は地球再生の世紀にしなければならない。

太陽光線のギラギラが僕にそんなことを思わせた。




2012年12月23日(日) 年賀状を刷りながら思ったこと。

今日は数年前に亡くなったボスの奥方から頼まれていた年賀状を80枚刷上げた。僕の分はまだだ。常々思うが、賀状は、来てから出すのが良いかもしれない。なんとなれば、出すべきか否かと迷う時があるからだ。迷うくらいなら出さなけりゃ良いわけだが、ハガキが余っても仕方がない。「えいやー」っと、出してしまう。気合だぜ。返ってくる来ないは別問題だ。ただ、最近の年賀状は、常套文句で網羅されていて、昔と随分違った印象を受けるが、これは仕方がないことか?。要するに生死が判断できれば良い。

それはそうと、年賀状を刷りながら、ボスのことを思い出す。一緒によく仕事をした。帰りに小料理屋に寄り、互いに下手な歌をおらんだものだ。ボスの十八番は、演歌だ。北島三郎さんや、石川さゆりさんの歌をよく歌っていたっけ。時々、フォーク系も歌った。内藤洋子さんじゃなかった、内藤やす子さんの歌だったっけ?「弟よ(おとうとよ)」の歌詞を「おととよ、おととよ」と歌うので大笑いしたっけ。また、黒沢年男さんの歌だったかなあ?「おまえに」を、情感豊かに歌い、これは心にしみたものだ。

ボスに遅れを取るまじと、僕も石川さゆりさんの「風の盆恋歌」だったっけ。情感込めて歌うが、聞かせどころが今ひとつ、偽りの拍手に涙したことよ。まああ、これは冗談だが。最近、カラオケのある店で、この歌を歌うと、意外と点数がいいんだよなあーーー。下手でも長年歌っていると、少しは上達するものかーーー?。おっと、今年の中反省はどうなったんだ。ちっとも反省していない僕が見えまーーーーす。まだ、今年は終わっていないからいいか。

ボスがなくなった後、僕が仕事を引き継いだ。今、僕の手元に残っているクライアントは、ボスが抱えていた業者さんばかりだ。クライアントを大事にしてきたボスの心根が知れる。微力ながら僕も頑張っている。いただいた報酬は夜の闇の中へと消える。まああ、ボスの供養と思えば後悔もない。

さあ、明日はクリスマスイヴ。振替休日だが夜の街は明かりを灯しているだろう。僕は静かに部屋にこもることになる。なんとなれば、やり残している仕事が山積しているからだ。最近、車の中でよく聞いている、辛島みどりさんの「サイレントイヴ」でも聞きながらワインを口にふくみ、僕のクリスマスイブとしよう。

そろそろ夕飯の時間が迫っている。我が家は5時から6時のあいだに食することが多い。朝になると、結構、腹がすいているが、朝食兼昼飯が旨い。食事は二食で十分だ。食事の後、風呂に入り、その後は気の赴くままに仕事をしたり、映画を見たりだ。誰も誘ってくれる人がいないときは、寂しくもあり、寂しくもなし。いや、やはり、寂しいか?。早く25日、火曜日にならないかなあーーーー。僕が生き生きと活動できるのは、やはり、平日だ。とにもかくも時の流れに従うしかない。





2012年12月22日(土) 今年の中反省。

今年も10日を切った。早かった1年だ。色んな人と出会い、そして別れた。良いことも悪いこともあったが、総じて可と言うべきか。今年の総反省は年末へ回すことにして、今日は中反省をしておこう。

昨夜は、のりちゃん先生と今年最後の懇親を持った。ひろこさんの店、「梓」でである。場末の小料理屋と言っては失礼かも知れないが、10人程度しか」はいらない店ながら、実に多才な人たちが集まる。寂しくなったら、この店へ行くと必ず知り合いと出会える。話に夢中になり時が経つのを、いつも忘れてしまう。

小柄で和服姿の良く似合う、ひろこさんは、まさに細腕繁盛記を彷彿とさせる、おかみさんって感じだ。忙しいときに声をかけると、「そうね。そうね」と、「そうね」おばさんに変身。いわゆる決まり文句だ。さらに忙しいときは、「ごめん、ちょっと声をかけないで」とか、「こっちに振らないで」とか言う。そのさまが実に愉快だ。ちょっと手が空くと、「わたしも いただこうかしら」と「小生ビール」を旨そうに飲む。

この店で知り合いになった人も多い。デーチャン、野中ちゃん、堀口ちゃん、八チャン、丸ボーロのお姉さん、観音さん、ひろこさんの同級生達。挙げれば枚挙にいとまが無い。あと、僕の個人的な友人達がいる。本間君、のび太君、ねずみ男君、ドラえもん君、夜泣き爺さん。スネ夫君、一休さん、オリーブちゃん、しずかちゃん、金魚ちゃん、えり坊君、山姥風雪女ちゃん、なみ坊君、小森君・・・・、これまた、述べ尽くせない。

皆、酒が取り持った縁かもしれない。ここで中反省の一つを挙げておこう。
   1.今年も飲み過ぎたなあーー。

そうそう、一昨日は本間君から、なるほどと思わせる格言を聞いた。
   1.仕事は東
   1.人は西
   1.旨い物は少人数
   1.仕事は多人数

うんんん、どうにでも解釈できる格言だ。一番気に入ったものは「旨い物は少人数」ってやつか?旨い物を多人数で食うと、あっという間になくなる。味わう暇も無い。ゆっくり時間をかけて、少人数で喰らうべきか。
ここで中反省の第2点目を書いておこう。
   1.今年は旨い物を多人数で食い過ぎた。味わうゆとりがなかった。

さらに中反省の第3点目を挙げておこう。
   1.歌が下手という自覚もなく、点数のみに執着し、他人へ「聞く地      獄」を与えてきた事だ。

図らずも、昨夜は、のりちゃん先生退散の後、同郷のママが経営する画廊スナックでカラオケを歌う機会を得た。えり坊君が同伴した。なんと、えり坊君は84点、85点の高得点。僕は60点、70点代に甘んじた。不愉快だあーーーと思えど、それが実力なのだ。身の程知らずもいいとこだ。
そこで第4の反省は
   1.いつも自分が勝者になると思うな。身の程を知れ。
ということか。

反省点はまだまだ山ほどある。紙面が長くなった。年末の大反省に譲ろう。












2012年12月20日(木) ゴミとの一年。

すがすがし冬空だ。やや寒い。雀がピーチク、ピーチクと鳴いている。カラスが獲物を求めて屋根から機をうかがっている。なんとも平和で、おだやかな今日。僕は早朝より、せっせとゴミや可燃不要物をを袋に放り込み、焼却炉まで運び一網打尽にした。快感ーーーんーー。

ゴミって、たまればたまるものだ。買い物をすれば包装がしてあり、シュレッダーにかけたり、かけなかったりの失敗文書や廃棄文書。箱に入っていれば、不要な箱となり、飲み物となれば、瓶、缶やペットボトルが残る。分別して決まった日に処分もできるが、毎日ではない。おまけに不燃物の生ごみがある。我が家では一切のゴミ処理担当者は僕である。

生ごみは、裏庭に据え付けてある専用のポリ容器に放り込む。今4個ほどすえつけている。生ごみは要したものだ。しばらくたつと、満杯だった量がだんだん下がっていく。有機物が分解し、貴重な肥料に変身する。おかげで、傍に植えている梅ノ木は毎年、大きな実がなる。今年もバケツ数杯分の梅が取れた。

栄養が行き届くと、自然の生き物は期待を裏切らない。「これでもか」と言わんばかりに、その能力を発揮する。ありがたくもあり、そうでない時もある。そうでない時とは、たとえば、生ごみの栄養分が梅の身に変身したのかと思うと、梅に愛着がわいてこないのだ。なんとなれば、生ごみの姿をいやというほど見ているから、梅に食指が動かない。したがって、梅のほとんどを人にあげている。市井で買う梅は別なんだが・・・・。害はないとはいえ、要するに気分の問題だ。

20世紀もそうだったが、21世紀もゴミ処理の問題が大きな課題である。テレビで、ゴミ山で暮らす住人をみたが、その人にとって、それは結構な暮らしに違いない。あえて欠点を言えば、悪臭と防災である。近隣への配慮を怠ってはいけないだろう。その二つが解決すれば、ゴミも財産。ゴミの山をベッドに寝るのも悪くはないだろう。ふんわか、ふんわか、ほーーい、ほい。

もち、僕にはできそうもない。むしろ、山奥の何にもない掘立小屋で晴耕雨読で暮らすのがお似合いだ。ただ、これも、過去の夢を引きずった愚かな男のたわごとだ。フォルダーに保存してあるが、上書き保存する女性には考えも及ばないことだろう。

今年もあと10日ばかり。あと何回、ゴミ処理をすればいいのだろうか?。ゴミ処理に明け暮れた一年だったと言っても過言ではないだろう。ゴミよ、万歳ーーー。来年もよろしく。





2012年12月16日(日) 生と死。

先日、同業者の先輩が亡くなった。どうして?、なんで?、また?と、我が耳を疑った。早朝に電話が鳴り、その日に仮通や、翌日に本通やを済ませ、その後、葬儀と相なった。先輩には随分と可愛がってもらったので、悲しみもひとしおだ。苦しんだ様子もなく、穏やかな顔をしていた。そのことが、せめてもの救いだ。

生とは何か?。死とは何か?。生の陰に死あり。死の陰に生あり。生と死はまさに表裏一体。定まりのないものだ。生命科学者。柳澤桂子さんが、その著書の中で書いていた。「宇宙を一元的にみると、一切のものは単なる原子の濃淡に過ぎない。原子が飛び回り物質が成り立っている。あなたも、わたしもない。けれどもそれは存在する。物は原子の濃淡でしかないから、それに執着することもない。一元的な世界こそ真理で、我々は錯覚を起こしている。宇宙の真実に目覚めた人は物事に執着することがなく、何事も淡々と受け入れられるようになる」と。

いやああ、そこに達しているのは神や佛だ。人間は自己と他者というように、二元的に物事を考えるから、喜び悲しみを知る。とらわれも生じる。生きているときは、それでいいのではないか?。喜びや悲しみがあるからこそ人間の心は浄化して行く。成長していくわけだ。浄化していく心の終着点が、一元的な世界なのかもしれない。

とはいえ、人間は死ぬ間際に後悔することが多々あるという。以前、日記にも書いたが、あんなに仕事をしなければよかった。もっと友達を持てばよかった。もっと、家庭を大事にすればよかった等々。これでは一元的な境地に達していないことになる。

僕は逝くときに何を考えるだろうか?。後悔の念が、次から次へと湧いてくるかも?。おっと、その前に、考えることさえ考えられない状態かもしれない?。ということは早めに身辺整理と、辞世の句を用意しとくべきか。

今はただ、先輩の冥福を心から祈ろう。


2012年12月06日(木) まずは今年の小反省。

深夜、竜巻かと思える強風が吹き荒れた。建屋がガタガタと揺れた。怖さと同時に、「瓦は大丈夫かなーー?」という心配が心をよぎった。しばらくして風はやんだ。よかった。よかった。朝、起きると、昨夜の嵐が嘘だったかのような青空。自然は、ある時は悪魔になり、またある時は天使になる。互いにけん制しながら、しのぎを削っているようだ。良かれ悪しかれ、生命体はその恩恵を被っている。

そんなことを考えながら、今日の日程を確認。午前中、仕事をして、午後から会議があり、その後は忘年会。忘年会かあーー。組織で行う忘年会は、さほど面白くない。義理と人情がが働くからだ。義理と人情で飲む酒はうまくない。

だが、一年を振り返り、反省するには忘年会は良い機会でもある。忘年会が何回もあると、その都度、反省、反省だ。反省することが多すぎるぜ。売り言葉に買い言葉で口論にもなり、泣き上戸がいればに笑い上戸もいる。むっつりすけべーに、やかまし男。下手な歌を大声で歌い、まさに聞く地獄。そんなことにお構いなしの男。もちろん、女にも当てはまる。人、さまざまだ。

僕は、どのジャンルに属するのかわからない。何故なら、その全てに経験があるからだ。ケースバイケースで変貌する。カメレオンだぜ。まあ、とにもかくも、酒は静かに味わいつつ飲み、さしつ、ささされつで飲むのが最高だろう。真剣な反省もできるというもの。

そういえば、今年も、小料理屋「梓」の、ひろこさんに、ずいぶんと怒られた。「○○さん、あなたは一言多いのよ。言わなくていいことを、すぐ言うんだから。私は何度も、傷ついたわ」って。その都度、「ごめん、ごめん」と謝ってきた。僕は、本来、思っていることを、「ずばずば」言うほうだ。よく、かみ砕いて、相手のことを考えて、しゃべればよいのだが、思いついたことをすぐ口に出してしまう。従って僕にはストレスがないが、相手にストレスを与えていることに気が付かない。まことに、おめでたい、あんぽんたんのふうけもんだ。

自分のことを卑下することは止めよう。僕にも固い面はある。絶対言ってはいけない事は、言わない。当たり前のことだ。「僕は口は固いほうだからね」と、ひろこさんに言うと、「本当ーーーーっ。嘘ばっかり・・・」と、信じてもらえないようだ。かく言われながらも、「僕は信頼されている」と自負いしている。だから、愉快に話せるわけだ。自己満足か?

今年の反省すべき第1点、「世の中は自分を中心に回っているのでない」と自覚すること。第2点、「しゃべる時は相手の気持ちを慮ること」。おっと、今年の反省を総括するにはまだ早すぎる。とりあえず今年の小反省だ。大反省は後日に譲ろう。


2012年12月03日(月) 怖いもの5つ。

今日は素晴らしい秋晴れ。やや肌寒い。山小屋での畑作業にはもってこいだ。そう言いながら、「うち震えているあなたの姿が見えまーーーす」と誰かが言っているようだ。

まだ、暖房を入れる必要もない。まずは我慢、我慢だ。電気代も馬鹿にならないからなあーー。いずれ、電気代が値上げになるという。負担増だけが目につく今日この頃。「ブルータス、大前もか?」と言いたくなる。

てなわけで、つい先日、書斎と居間の電球をLEDに取り換えた。結構値段が高い。寿命が長いうえ電気代の節約になるというのがうたい文句だ。いくら寿命が長いとは言え、僕の寿命より耐久年数が長かったら不愉快だ。幾らの節約になったのか知る由もないからだ。

話題を変えよう。午後から外回りの出勤だ。まだ二時間近くある。日記をしたためるにはちょうど良い。最近、気になっていることを書いておこう。「あなたが怖いものを5つあげなさい」と言われたとする。定番の答えは、「地震、雷、火事、親父、?」といったところだが、僕の答えはこうだ。最初の3つは同じ。4番目の親父は、もういないから、その代わりに人間とあげておこう。5番目はトンネルだ。

昨日は、都市圏でトンネルの落盤事故があった。10名近くの人が亡くなったよし。痛ましいことである。ただ、ただ、お悔やみを言いたい。昔、北海道でもトンネルの事故があり、九死に一生を経験した人がいた。トンネルの怖さ。そりゃーー、山を打ち抜いて、穴を掘り、道とするからには高度な技術がいる。建築工学を駆使して築造したとしても、永遠に堅固なものはない。長年使っていると、どこかに、ひずみが生じ、事故につながることがある。防ぐ方法はあるのか?。便利なものとして構築されたものは、定期点検のみならず、毎日の点検が必要だろう。転ばぬ先の杖だ。

僕は昔から、トンネルらしき物が嫌いだ。天井と左右の壁しか見えない。おまけに、空気がどよんと濁っている。比較的、照明が暗い、距離が長ければ長いほど、出口が見えない。出口が見えないことほど怖いものはない。都市伝説ではないが、幽霊が出そうな気がする。(これは冗談)。それでも、便利だから人は通るわけだ。僕は極力、トンネルのある道は避けている。「急がば回れ」という諺もある。仕方がなく、トンネルを通るときは、一目散に出口目指して、「神よ、仏よ」と祈っている。

4番目に怖いのは人間。人間は時として悪さをする。幽霊は死人だから一応、悪さをしない。昔、母からよく言われたものだ。「死人より怖いのは人間だよ。あんた、お人よしだから、すぐ騙されちゃうもんね」と。何を言っているのか当時はよく分からなかったが、若干、反論もある。

僕は本来「性善説」を信じている。理性と本能が戦い、普通は理性が勝っている。本能には欲が働くが、それを抑えるのが理性だ。本能が理性を超えたとき、よからぬ考えが心を支配する。そのよからぬ考えを制止するのも人間の役割だ。制止ができなかったときに、人間の怖さが露呈する。

それでも、人間を信じたい。人を信じることに限界はあるんだろうか?。マクロ的には人は性善だ。ミクロ的には個々のケースがあるだろう。ただ、いかなるケースであれ、人を信じるという心に躊躇はいらないだろう。いつも、そうありたいと思っている。なぜなら、信じて生きるほうが生きやすいからだ。

「罪を憎んで人を憎まず」。そんな言葉がある。そこまで心を浄化できるのは神や仏だけだろう。いつも、邪心の誘惑に負けそうな僕だ。「よからぬ心」を、極力、制して生きる。それが今後の僕の課題か。


2012年12月02日(日) 獏も食わない夢。

とうとう師走を迎えた。仕事も遊びも結構、忙しくなる。忘年会が三回計画されている。一番早いのは、12月6日。総勢10名程度か?。人間は生まれてから死ぬまで、いろんな組織に属する。組織に属していれば、当然、人間関係が生じる。避けて通れるものもあるが、そうでないのもある。夏目漱石の言葉ではないが、とかくこの世は生きにくい。

昔、よく思ったことよ。人里離れた山奥に居を構え、晴耕雨読で暮らす。晴れた夜には美しい星空を眺め、「生命とはいかなるものぞ」と考える。人類は宇宙から飛来し、この地球で息吹を挙げた。不思議なるかな人間。最近、水星の極近くに大量の氷があることが分かったそうだ。と、同時に有機物の存在が注目されている。いかなる微生物が存在しているか興味深い。生命の起源解明に大きな期待が持てそうだ。山奥の掘立小屋の中で、そんなことを考えながら、生きていくこと、これこそ最高の幸せに違いない。

だが、いかんせん。僕ジャイアンは寂しがりや。以前、日記にも書いたが、三日もすれば、一目散に山を下っているだろう。「マロニーちゃんではないが、ネオンちゃん、どこ、どこ?」と言いながら。これを食い止める一つの手立てがある。999のメーテルちゃんか、ポパイの恋人、オリーブちゃんみたいな人と、一緒に暮らすことだ。まさか、雪女の化身とでは、僕ジャイアンも凍ってしまうぜ。

掘立小屋の中から、「お茶がはいりましたよ」と、鶯のような声が聞こえる。僕ジャイアンは、「はい、はい、今行きます」と畑中から、おらぶ。夜になれば、山川の珍味で腹を満たす。ろうそくの灯りで深夜をともにし、小鳥のさえずりで目を覚ます。僕にとっては、最高に素晴らしい人生と思えるんだが・・・。

街中のスナックや小料理屋で、時々そんな話をする。返ってくる言葉がいい。「あんた、今時、そんな女性がどこにいるね。逆立ちしたっていないわ。知らないの。パソコンを例にたとえると、男と違って、女にはフォルダーが一つしかないの。何故って、すべて上書き保存で間に合うから。要するに現在、未来のことしか考えていないの。分かるうーーーーー?。男は過去に執着しているから、フォルダーがたくさんあるでしょーーー。出来ない過去の夢にとらわれるのは止めなさいよ。山奥で暮らすなら一人でどうぞ」って。

いやはや、冷たい言葉だ。悲しいぜ。確かに、現実の世界はそうだろう。だが、しかし、バット、「余計なお世話だぜ」と言いたい。地球はともかく、宇宙の時代。どこかにそんな夢を持ったエイリアンがいるかもしれない。そんな夢を抱くことに何の躊躇がいるだろうか?。いや、いらない。僕は待つ。生命の灯が消滅するまで。

とかなんとか、このせわしい師走に、獏も食わない夢に浸る、ふうけもんがいる。僕のことだ。現実では、馬車馬みたいに働き、過去から引きずっている夢を追う。僕は女ではない。新たなフォルダーが必要だ。この夢を記録しておこう。さあ、12月最初の日曜日だ。仕事に戻るか。







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