umityanの日記
DiaryINDEXpastwill


2012年11月25日(日) 今日は、ちょっと吠えすぎたか?。

連休最後の日曜日。娑婆世界は、どんな様子を呈しているのか定かには分からない。バカンスを楽しんでいる人有り、仕事をしている人あり、さまざまだろう。僕は後者のほうだ。僕には連休なんて関係ない。毎日が休みのようでもあり、毎日が仕事でもあるからだ。個人事業主とはそういうものだ。

今日は薄曇り。時折、お天道様が顔を出したり、引っ込めたり。「どちらかにしてよ」と言いたいが自然現象には僕の意見など聞いてもらえない。そんな天気を横目にみながら、せっせと事務仕事。のらりくらりとやっているが、結構はかどる。一休みしては茶を飲み、飲んだらまた仕事。そして又、茶。このインタバルが、新たな発想を喚起し、良質な仕事へと導いてくれる。一気にやることも大事かもしれないが、時間があるときは、のんびりやることが吉だ。
とかなんとか言っているが、本来は怠け者。

従って、秋という季節が醸し出す自然の美に触れたいという衝動にも駆られる。そういえば、先日、高校時代の同級生が、「芋掘り」に行ったそうだ。なんでも、同窓生の家が農家で、「芋掘り」の手伝いに同窓生を勧誘したらしい。見渡すばかりの広大な畑地。「ここ掘れワンワン」ではないが、面白いように大きな芋が取れたという。帰りには大量のお土産ができて、ご満悦だったようだ。だが、しかし、バット、毎日、芋ばかり食べるわけにもいくまい。正月、僕が故郷へ帰ってくるまで、芋を残しておくそうだ。涙がちょちょ切れるぜ。「有り難く頂戴します」と言っておいた。

そうそう、明日は、のり坊君(のりちゃん先生)の誕生日。のり坊君と僕は同い年。僕が数ヶ月年上だから、君付けでも構わないか?。今ごろは、山の神のところで、相睦まじく、一週間後の再会を誓いながら、話に花を咲かせているだろう。結構なことで。明日、月曜日には、こちらへ帰ってくる。祝いがてら一献、傾けなくてはなるまいて。のり坊君と、僕は妙に気が合う。同い年とい事もあり、お互いに言いたいことを言い合う。喧嘩らしきことも度々。「もう、君とは会わない。不愉快だ。」と、言いながら、数日後には、どちらからともなく、電話を入れる。あの喧嘩が嘘だったかのように再会してしまう。話が弾んでしまう。決して「ホモ達」ではない。念のため。

小料理屋「梓」の、ひろこさんがよく言っている。「あなたたち二人は本当に仲がいいのねえーー。話を聞いていたら、いつもほほえましい」と。言われてみると、そうかなあー。場所は違えど、同世代を生き、同じ釜の飯を食って来たから、話が合うのだろう。もう一言、付け加えれば、頭の程度だ、同レベルということか?。

まああ、なにはともあれ、昨今、世の中が騒がしい。選挙間近。日本丸の行く末は、国民一人ひとりの判断にかかっている。時々思うが、日本の豊かさは借金が築いたものだ。国民は借金してまで豊かになりたいと思っているのだろうか?。借金で首が回らなくなり、増税でケリをつけようとする。後世に大きな負の遺産だけが残っていく。そんな体質はいつ脱却できるのだろうか?。もう、無理かもしれない。

後戻りは出来ないかもしれないが、暑さ、寒さをしのぎ、田畑を耕し、自給自足の原始生活が日本人に一番、相応しいようにも思える。皆が同じ境遇にあるならば、人心はもっと豊かになる違いない。税収は科学の分野、医療の分野、教育の分野に投入し子孫を育てる。夢の実現の為には、それ相応の我慢が必要になるだろう。ちょっと、吠えすぎたか?。




2012年11月22日(木) 小さな幸せ。

今日は時が瞬く間に流れた。午前中、一つ仕事を片付けた。午後から研修だった。研修は嫌というほど味わってきたので参加したくはないが、人様に関わることだから、そうもいかない。研修が終わってクライアントのところへ赴く。自宅へ戻って机上の仕事。今、仕事を終えたところである。やれやれだ。

本当は、今月26日に誕生日を迎える、のり坊君(のりちゃん先生)と、祝い酒で、一献やりたかったのだが、彼もまた、会議で近県へ行っていると連絡があった。その後は、新幹線で自宅へ直行とのこと。単身赴任だから、山の神に会いたいのだろう。それにしても、毎週、毎週、帰っているから、よっぽど、惚れた女房に違いない。動機がどうあれ、幸せな人よ。うらやましいぜ。

ところで、明日は勤労感謝の日。名称は良いが、国民の多数の人が、祝日に働いている。僕も例外に漏れず、そうだ。ちっとも、勤労感謝の日とは思えない。税金の還元ということで、お上から、二十才以上の成人に金一封が授与されるなら、勤労感謝の意義もあるんだが。国家財政緊迫の折、それはかなわぬ夢というもの。節くれだった手を、じっと見るのが関の山だ。

ま、嘆いても仕方がない。お天道様の方を向いて、ひたすら歩んでいく。勤労者にできることは、それだけだ。そんな中で小さな幸せを見出せば、良き人生を生きたということになるのだろう。「小さな幸せさん、君は一体どこにいるの?」。尋ぬれど声なし。それもそうだ。「小さな幸せ」は、人、それぞrれの心の中にあるからだ。

奇妙なるかな心。不思議なるかな心。この心あって初めて、山川草木あり。我が心を離れて佛なく、佛を離れて我が心なし。すべてのものは、この心より生じ、この心に帰す。心の平安こそ、幸せの源なんだろう。おっと、宗教と哲学の問題になってきた。やめておこう。

そうそう、新しい発見があった。「謎の美少女」の正体がわかったのだ。メーテルリンクの「青い鳥」ではないが、近くに存在していた。いつも、遠くばかりを見ているから真実が見えないのだ。その正体はここでは述べまい。

「探し物は何ですか?。見つけにくいものですか?。カバンの中に、机の中に、もっと探してみませんか。・・・・」。こんな歌があったっけ。よくよく考えてみると、真実も探し物も、すぐ目の前にあることが多い。小さな幸せだって、そうだ。・・・。これが結論だ。


2012年11月21日(水) 謎の美少女。

いやあ、今朝、日記を覗いてびっくりだ。「謎の美少女」さんより、日記に書き込みがしてあった。僕の知っている人か?そうでないのかよく分からない。「謎の美少女」と、自分のことを呼称するからには、まさしく美少女か、さもなくば、やまんば風、雪女もどきのどちらかに違いない。おっと、これは失礼な言葉か。いずれにせよ、僕の健康を気遣ってくれたことには大いに感謝だ。

よくよく考えてみると、思い当たる節がないわけでもない。まさか、あのオリーブちゃん?、いやいや金魚ちゃん?。うんん、違うか。しからばドラミちゃんか、しずかちゃんか?。うんんん、分かんなあーーーい。

何はともあれ、昨今は謎が多すぎる。その最たるものは宇宙だ。だが如何せん。宇宙の謎を解くには時間がかかりすぎる。僕の命をいくら重ねても、宇宙の入口にさえ到達できないだろう。まずは現実娑婆世界の謎から紐解かねばなるない。

ところで、「謎の美少女」。そういえば、ずっと昔、そんなことを言っていた女性を思い出した。目は細めの切れ長。前髪をたらして、髪の隙間から、怪しげな目で、こちらを伺う。色白で面長。小柄で痩せている。こう書くと、やまんば風、雪女さんという表現がぴったりか?。

昔の童話に、「つるの恩返し」とか、「雪女」、とかがある。人間の姿に化身し、情に深く入り込む。結末は、本当の姿が露呈し、泣く泣く鶴となり、雪女に戻る。こんな童話が好きだった。何故かといえば、「謎」があるからだ。まさか、「謎の美少女」さんは、やまんばの化身ではないだろう。そう願いたい。願わくば、いつまでも、「謎の老少女」であって欲しい。世間のしがらみに屈せず、頑張って生きて欲しい。今、そんな気持ちを「謎の老少女」さんに伝えたい。


2012年11月20日(火) 生・死とは何ぞや?。

今日も素晴らしい秋晴れだ。朝から庭の掃除をした。枯葉が風で建屋の隅に押しやられ、我が物顔で佇んでいる。そんな彼らを僕はちりとりと、箒で一網打尽にする。快感だあーーー。

とはいえ、もうしばらくは、こういう状態が続くだろう。彼らは、精一杯の生を全うし、宇宙のチリとなっていく。それで良いのだ。なぜなら、既に新しい生を育んでいるからだ。

最近、著名な人たちが、次から次へと亡くなっている。テレビ等の媒体を通じてしか知らない人たちだが、一抹の寂しさを覚える。生とは何か?。死とは何か?。時々そんなことを考える。ある坊さんからお経の一節を聞いた。「生を明らめ、死を明むるは、仏家一大事の因縁なり。生死の中に佛あれば生死なし。ただ生死、すなわち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として願うべきもなし」と。

いやああ、難しい。自然界のすべての物は原子からできており、役目を終えるとまた原子に戻る。ただそれだけだ。まさに空の世界だ。役目とは子孫を残すことかもしれない。脈々と生の遺伝子が承継されていく。その役目を終えれば消滅が待っている。生と死は、そういうものだろう。

僕は今、生の途上にある。ぐうたら、ぐうたらと毎日を過ごしているが、ただただ、父や母に感謝している。父、母なくして我はなし。「ありがとう」の一言だ。

今日は、くしくも母の誕生日。先日、会ってきたが、老いていく母の姿を見ることは辛い。辛くても現実から目を背けてはいけない。佛があれば、生も死も同じこと。母は今、そんな境地にいるのかもしれない。僕はまだまだ、そんな境地にはなれないが。

堅い話になった。柔らかい話に戻そう。昨夜は、のりちゃん先生と、小料理屋「梓」の、ひろこさん誕生日前夜祭に赴いた。二人で極上のワインを1本携えて、暖簾をくぐった。「おめでとう」と言うと、「誕生日はあしたよ。そんなに早く歳をとらせないで」と言う。「そうだよねーー。午前0時までには、まだ数時間あるしねえー」と言ったことよ。

ワインはカウンター仲間たちにも、ママがおすそわけし、我々が率先して飲んでしまった。僕は夕食を既に済ませていたので、料理がお腹に入らなかったが、近海でとれた「酢牡蠣」が美味しかった。のりちゃん先生は、日頃になく、大量に料理を注文。「土瓶蒸し」をうまそうに食べていた。

二次会は、のりちゃん先生と分かれて、一人で、画廊スナックへ。先日、高校の同級生をもてなしてくれたので、そのお礼かたがた、出向いたわけである。客は僕ひとり。カウンターにはママと、オリーブちゃんと、金魚ちゃんがいた。客一人とあらば、もてること常のごとし。「歌でも歌ったら」と、言われたが、小心者の僕。さすがに遠慮した。ほどなく初老の男女がやって来た。よかった、よかった。初老の男女が歌うこと歌うこと。僕は聞く地獄で、焼酎のグラスを口に運ぶことに専念。まあ、こういう日があってもいいだろう。

早めの帰宅で、朝から庭の清掃となった次第である。



2012年11月18日(日) 久々の日記

2週間以上、日記から遠ざかっていた。腑抜け状態からは既に脱していたが、仕事兼雑用でペンを採る気になれなかった。今日は素晴らしい秋空だ。風もなく穏やかな日曜日。こんな日が続いてほしいものよ。午前と午後に二つの仕事を片つけた。明日から2­〜3日は時間的余裕ができそうだ。

それはそうと、来る11月20日は、行きつけの小料理屋、梓のママ(ひろこさん)が誕生日を迎える。「何歳になるの?」と尋ねると、「自分の齢は言わないのに、人の齢ばかり聞くのね」と言って、眉をしかめられた。くしくも僕の母と誕生日が一緒だ。

先日、仕事のあいまをぬって、母の所へ行ってきた。今年の初めごろまでは、身の回りのことを一人でこなしていたが、なにせ、足の膝が悪くなり、歩くのが苦痛になってきた。今は人のお世話になり、車いすの毎日だ。

まだ、気は確かで痴呆もないが、老いていく母の姿を見るのは忍びない。兄と兄嫁が近くにいて面倒を見ているようだが、僕から見ると、あれこれと不十分なところが目につく。僕より遠方にいる弟から、「母に何か買って渡してくれ」と幾ばくかの金子を送ってきた。山の神が、今から着れそうな衣類を買ってくれたので持って行った。母はたいそう喜んでくれた。子供は何歳になっても、母の前では子供だ。母の前では頭が上がらない。特に男にとってはそうなのかもしれない。ちょっと、女々しくなった。

そうそう、のり坊君(のりちゃん先生)も今月26日が誕生日だ。20日に、ひろこさんと、のり坊くんの誕生日を合同で祝うことにした。一石二鳥ってやつだ。おいしい赤ワインを一本、持ち込もうと思っている。もう、とっくに過ぎたが、僕の誕生日には、ひろこさんが千寿だったか、万寿だったか忘れたが、酒を一本プレゼントしてくれた。皆で飲んで、酩酊すること常の如し。歌でも歌いたかったが、ここの店にはBGMしかない。ひろこさんの口ぐさむ歌で乾杯した。泣けるぜーーーー。

話は変わるが、15日、高校の同級生が僕の地を訪れた。今は女房ともども、画家で生計を立てている。僕と同じ故郷に住む彼の母が今年亡くなった。10年以上も寝たきりだったそうな。さぞ、つらかったことだろう。今年は、絵を描く気にはなれないようで、充電期間中とのこと。そこで、僕は「アルコールを充電しよう」と梓に招待した。3年ぶりの来訪だったので、話が弾んだことは言うまでもない。

彼は僕に絵を買ってほしいようなそぶりをした。なんでも、彼の絵に僕が登場していると言う。写真を見ると、確かに、帽子をかぶった猫背風の男が一人。うつろな目をして佇んでいた。「おいおい、この目黒福蔵みたいな男が僕か?」と言うと、「実はそうなんだよ」と言う。似ているようでもあり、そうでもない。「不愉快だーーーー」と思ったが、本当はうれしかった。値を聞いてびっくり。さすがに僕の食指はうごかなかった。まあ、いずれ宝くじでも当たれば考えてみないこともないが・・・。

二次会は、同郷のママが営む画廊スナックの門をくぐった。ママは最近、二科展だったか?二紀展だったか忘れたが、パリ賞をとったそうだ。賞金が出るとのことで、まもまくパリまで赴くとのこと。「ママ、賞金で一杯飲もうや」と言ったところ、「何言ってんの。旅費等で、賞金は吹っ飛んでしまうわよ」と、にんまり笑った。この店で歌うこと常の如し。同級生が「ギザギザハートの子守歌」を、ツイスト交じりで、腰をくねくねさせながら歌った。これがうけたのなんのって。「ジュリアーノ・ハートブレイク」を歌う、ねずみ男君の姿を彷彿とさせた。すっかり酔いがさめてしまった。

時は人を待たず、どんどん過ぎていく。我々も、どんどん齢を重ねていく。そんな中で、良い思い出をたくさん残したいものよ。







2012年11月03日(土) 11月だあーーー。

11月の声を聞いたが、僕の声はまだ聞こえない。副業がめっちゃ忙しい。喜ばしいことだ。これで、11月も交際費の捻出ができる。カラオケで好きな歌をおらび、泣いてみたい心境だ。「淋しさに悩む日は、あの人を思い出す。・・・・人は皆、一人では生きていけないものだから・・」。わおーーーーん。オオカミの遠吠えみたいだ。

昔、綾小路きみまろさんが言っていたっけ。「我々の商売は呼ばれないと行けないんです」と。まさにしかりだ。クライアントがいて、呼ばれて、商談が成立するや否やにかかっている。信用と仕事の正確さ。これが一番、要求されることだろう。自分のことを言ってはなんだが、「苦節○○年。やっと、酒が飲めるようになりました。明日は撮影が待っています。レントゲンの・・・」。これも綾小路さんの受け売りだ。

冗談はさておき、ようやく秋らしくなった。あの灼熱の夏が嘘のようだ。寝具も、毛布一枚から、プラス掛布団へ。いずれ、毛布二枚が必要になるだろう。そうこうしているうちに、12月、正月がやってくる。気の早い僕は、すでに今年の反省を考えている。先日、スナックへ行ったとき、「今年もお世話になりましたねえーー」と言うと、「まだ早いわよ。もう来ないの?」と言われた。ねずみ男君の常套文句、「わかんなあーーーい」と応えておいた。

旅日記を10部ばかり製本した。とっちゃん坊や達、他、関係各位へ配布するためだ。皆、「面白かった」と言ってくれた。思い出の品になってくれれば、書いた価値もあるというもの。

昨今、世の中のことに、あまり目を向けたくない。なんとなれば、悲惨で暗い事件が多くて、日本の未来を暗示しているかのようだ。弱肉強食、食物連鎖、適者生存、貧富の格差。自然の驚異。神は、それらを容認することによって、生命体の異常な増殖を防ぐべくプログラムしたのだろう。

ただ、神が一つ見落としたこと。それは「心の共存共栄」と言うことだ。いじめ、暴力等による子供たちの自殺。痛ましいことだ。社会が悪いのか?。環境が悪いのか?。家庭が悪いのか?。そうではないだろう。たかが100年も生きられない人間。考える能力をもったなら、五欲(金銭、名誉、食欲、睡眠、性欲のみに埋没することなく、世界中の人々や隣人との、心の共存共栄を図っていくべきだろう。そうすることが、「人生を楽しく生きた」ということになりはしまいか。心の共存共栄こそ、日本人、世界中の人々に求められていることだ。

日頃、そう思っているが、押し寄せる欲の誘惑をはねのけるのも大変だ。




umityan |MAILHomePage

My追加