umityanの日記
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2006年11月20日(月) 母と和服のママのダブル誕生日。

今日は母の誕生日。本当にご苦労様だ。腕白小僧ばかり三人産んで、迷惑ばかりかけっぱなしだった。父が早くに亡くなったので、母の苦労は並大抵ではなかったはずだ。何とか一人前に生きている。あらためて感謝である。

僕は次男坊。長男は母の近くにいる。三男坊は僕よりもっと遠くにいる。故郷で三人の兄弟が一同に会する機会は少なくなった。恐らく、母の亡き後しか会うことはないだろう。兄弟は他人の始まりとはよく言ったものだ。

変なもので、弟は僕や長兄とうまくいっている。僕と長兄はそれほどうまくいっていないが弟とはうまくいっている。長兄は僕とはうまくいっていないと思っているかどうかは分からないが、弟とはそれなりにうまくいっているようだ。まどろっこしい言い方をしたが、要するに僕を中心に言えば、「ぼくは兄とはうまくいっていないが、弟とはうまくいっている」ということだ。

「兄とうまくいっていない理由は何故か?」と考えてみた。思い当たる節はいくらもある。兄は母の近くにいるが、母が必ずしも幸せに見えないこと。兄は長男風をふかして我々に相談なく事を運ぶこと。未だにすねかじりをしいること。自分の都合が好いときだけテルしてくる。そのテルがろくなテルではないのだ。まあ、こんなところが僕の気に障るのだろう。

母はよく言っていた。「遠方にいる子供が一番親孝行。あんたは二番目。一番近くにいるが長男はだめ」。うんんんん、なんだか分かるような気もする。長男は、「おれはいつも近くにいて、あれこれと親孝行しているんだ」と言うが、遠方にいる者から見るとそうは見えない。

とは言え、やはり、母は長男を一番頼りにしているようだ。先祖を守るのも、何かあったら真っ先に頼れるのは近くにいる長男であるし長男の嫁である。そこが次男、三男の弱いところか?。墓だって分家の墓を建て、そこから僕はスタートだ。昔は一族が同じ墓に入ることが多かったが今はそうではない。ひがむことは止めよう。なにはともあれ、母の誕生日に乾杯だ。

乾杯で思い出した。なななんと、今日は行きつけの小料理屋のママさんも誕生日。母と同じ日なのだ。僕もちゃっかりした者よ。すでに「のりちゃん先生」と、誕生日のケーキをぶら下げて乗り込む予定になっている。予約していたボジョレーヌーボーも今宵、のどを通過することになるか。とりあえずダブる乾杯でこの紙面を閉じよう。まだ、仕事中だぜ。




2006年11月18日(土) 自分の有り様。

今日は人一人っ子、来なかった土曜日。僕は珍しく朝から晩まで、クライアントの書類とにらめっこをした。「何故、こうなのか?」という、その理由が分からない。悶々としながら一日が過ぎた。「さばけない」ってつらいぜ。「神よ!!僕に能力を・・・」と叫んでも、「このあんぽんたん。自分で考えんかい」というおしかりの言葉が返ってくるだけ。


なんとかつじつまを合わせ、やっと解放された。まだ不満はあるが、枝葉末節については来週の月曜日に解決することにしよう。やれやれだ。話を転じよう。

それにしても、最近、世の中がてんでおかしい。誰もが何かにとりつかれたように進んでいるように思える。ふっと、思い出したことがある。あの名作、銀河鉄道999でテツロウが目にした光景である。機械の体となるべく捕らえられた人間が、行列を組んで機械室へ送られている姿。まさにそんな様相である。

機械の体に変えられた人間は、永遠の命を授かる変わりに、マインドコントロールされて、機械の女王の手先となって、宇宙征服の片棒を担うってわけだ。あなおそろしや。しからば、今人間は何を求めて歩いているんだろうか?。

テツロウはそこで考えた。機械の体をもらって永遠に生きても、亡くなった母に会えるわけではない。喜怒哀楽も持たず、夢遊病者みたいに漠然と生きても、そこに何の意味があるのか?。たとえ、限られた命ではあっても、や泣き、叫び、笑い、愛しながら一個の生身の人間として生きていくことが、どんなに素晴らしいことか。そこに気が付いたわけだ。

それじゃーー、人間がとりつかれたものは何か?。おごり、高ぶり、地位、名声、金、いじめ、利己主義、責任回避、エトセトラ。どうやら、そういうものに向かって人間は歩いているように思える。機械の体を求めることと、ちっとも変わらないじゃないか。

時々、自分の有り様がどうなのかを真摯に考えることも必要だ。












2006年11月08日(水) やはり竜巻か。

北海道で竜巻・・・。このニュースを聞いて驚いた。一昨日、当地を震撼させた風雨と雷を思い出した。当地で竜巻になりそこなった異常気象が北海道へ渡り猛威をふるったことになる。何という自然の脅威か?。今朝、テレビのニュースでやっていたが、今や、この竜巻は場所を問わず、どこにでも発生するそうだ。ニュースにはならなくても、日本でも年間10件以上の竜巻が発生しているらしい。「そうなのか」と改めて驚き。

生来、臆病者の僕はちょっとした異常に震えおののく。先日夜半の雷風雨の時もそうだった。突然の出来事だったからだ。「備えあれば憂いなし」の時間的余裕もない。「災害は忘れた頃にやってくる」とはまさにしかりである。北海道の被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。


2006年11月06日(月) どこかおかしい「気象・気性・起床」

昨夜は、突然襲ってきた雨風と雷の爆音で目を覚まされた。まさか、竜巻でも発生したのではと、おそるおそる二階の窓から外を眺めた。断続的に稲光が走り、あられのような雨が窓を打つ。家屋が揺れているのか僕が揺れているのか、ふらふらっと目眩を感じた。夕方までは何ともなかったのに、この急激な天気の変化はいったい何なのか?。

僕は柱にもたれ、しばらく外を観察することにした。雷は横光りだから、落ちる心配はなさそうだ。それにしても、この風雨の強さは台風なみである。先日の台風を思い出した。せっかく瓦の修理が出来たのに、大丈夫だろうかと?一瞬気になった。

ふっと、山の神の方を見やった。女性とはたいしたものだ。かかる事態でも、高いびきで爆睡だ。おまけに、眉間にしわを寄せ寝苦しそうな顔をしていた。今朝、寝ぼけ眼で山の神へ、そのことを告げると、「あんたはもっとすごい形相をしているわよ」と切り替えされた。「そうだよなーー、自分のことはわからないしなーーー」と言い、僕は目をこすった。

何分が経過したのだろう。雷鳴は次第に遠ざかり雨足も弱くなった。ちょっと安心し、僕はベッドへ戻った。当然、すぐには寝付かれない。この自然現象についてあれこれと考えた。考えてもどうすることも出来ない。雷鳴の静まりが僕に船を漕がせたようだ。

かくして今朝を迎えたわけだ。明るくなった外を見やったが、何事もなかったかのように自然はたたずんでいた。瓦が落ちている様子もない。木々もそれなりに息をしていた。昨夜の出来事はいったい何だったのか?。おかしいぜ。気象、気性、起床。


2006年11月04日(土) 「いじめ」の背景にあるもの。

朝起きてテレビのスイッチを入れる。画面に映し出されるのは「いじめ問題」ばかりである。昨今、「いじめ」が原因で自殺する小中校生が増えているからだ。「なぜいじめがあるのか?。なぜ、いじめはなくならないのか?。」とか言った問題に、色んな分野の専門家達が答えている。どの意見を聞いても「もっともである」と思うが、問題解決の核心たり得ない。何故なんだろうと思った。

そもそも、生命体は自己と他者を区別し、自己にそぐわない他者を排除するように遺伝子がプログラミングされているように思える。ミクロの世界を見ても、体内仁はいりこんだ異物を排除せんと、色んなバクテリアや酵素が攻撃して、異物をやっつけようとする。身の保全のために、ミクロの世界でははてしない闘争が繰り返されているわけだ。

地球に君臨する最高の生命体である人間の体内でも、もちろん同じ事が行われている。そうは言っても、ミクロの体内でのこと。日頃、そんなことを意識してはいない。

ミクロの世界ではなく、現実の人間の世界を見てみよう。「おぎゃーー」と生まれたとき、赤ちゃんはすぐ母親のおっぱいを探すそうだ、生まれたその瞬間から赤ちゃんは自己と他者を本能的に区別している。成長するに従って、自己と他者という差別化はどんどん進行し、欲や執着心が助長される。

結局、いじめは欲と執着心に裏打ちされた差別化のひとつの現象と言ってもいいかもしれない。人間が本能的に培ってきた物だから、簡単にはなくすことは出来ないだろう。しからば、いじめはそのまま放置しろということなのか?。無関心を装えということなのか?。いや、決してそうではない。

アリストテレスは「人間は社会的動物である」と言った。また、パスカルは「人間は考える葦である」とも言った。社会的で、考える葦であるということは、いじめが善なのか悪なのか、はっきりと理解させることが必要であるということだ。子供達にはおぼろげながら、いじめがいけないことは分かっている。ただ、いけないという認識を本能が超えてしまう。まだ、社会的な存在たりえないのだ。

昔、じいさんやばあさん達から、「悪いことをすると罰・鉢があたるぞ」と言って、じいさんからはげんこつや竹刀、ばあさんからは裁縫用の物差で、何度も「ばしっ」とたたかれた。痛いの何のって・・・・。泣きながら謝ったものだ。今はそういうこともない。又、「悪いことをすると、地獄へ堕ちるぞ。たたりがあるぞ」と脅され、、真剣に怖がったものだ。たたりは七代先までたたられるというから怖い話だ。この頃はそういうことも聞かないし、言わなくなった。じいさんも、ばあさんも優しくなりすぎた。ましてや、父ちゃん、かあちゃんも、そんなことは言わない。社会的存在への一番の近道が閉ざされた。

ある作家が、「最近の宗教は、極楽や救いのことばかり述べて、罰や地獄やたたりの事を言わなくなった。今や人間の奢りや傲慢さに罰が必要なのではないか。恐れる、畏れるという気持ちを、もういっぺん回復する時代にきているのでは」と警告を発している。

確かにそんな気がする。大人も含め、もっと子供らに「いじめは悪である。罰が当たる。たたりがある。地獄へ堕ちる」という恐怖概念を真剣に認識させる必要があるように思える。人間は誰もが平等に社会的存在であると気がついたとき、必ずやいじめはなくなるだろう。


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