umityanの日記
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2006年07月30日(日) 今朝、感じたこと。

いよいよ明日が月末。あれよあれよと言う間に時が流れていく。僕も流れ流れてここまでやってきた。7ヶ月もたつと、年頭に立てた僕の目標が何だったのもか定かには思い出せない。今更、1月に戻り備忘録を読み返す気も起こらない。ただ一つ言えることは。つつがなく健康で今日までこれたことだ。これに勝る目標達成はないだろう。

今朝の新聞を見て、ちょっとショッキングな事がかかれていた。さる病院での終末医療のことである。延命措置を行わず、数人の赤ちゃんが親に看取られ靜にこの世を去った。僕の叔母もホスピス病棟で亡くなった。終末医療に対する思いには複雑なものがある。叔母を見舞ったとき車いすを押してあげた。少しだけ院内を散歩した。とある水槽の中で元気よく泳ぎ回る魚の姿を叔母はしげしげと眺めた。その心境とはいかなるものなのか?。もっと、生きたいとおもったのだろうか?。それとも、自分の生きてきた足跡に思いをはせたのだろうか?。分からない。

ただ、年端もいかない赤ちゃんの場合は、生を受けたということも知らないまま、生に幕を閉じる。生の重さに変わりはないが、そのことが幸せなことなのか?どうかは分からない。

昨今、子供にからんだ悲惨な事件が起きている。悲し事だ。子供が生まれると、昔は「子宝だ。子宝だ。子宝を授かった」と、小躍りして一様に喜んだ。いまや、「子宝」という言葉は死語になってしまったのだろうか?。

その言葉に追い打ちをかけるように、いまは超少子化時代。綾小路きみまろさんが漫談で言っていた。「どうか、皆さん、子供を産んでください。子供を作ることは簡単です。眠っていても出来ます」と。これには笑ったが、要は子供が出来ても、その子供をいかにに育てるかという環境が不十分なため、悲惨な子供の事件が多いのかもしれない。大人達は疲れている。はたまた、きな臭い世情に翻弄されながら生きル事を余儀なくされ、目先にとらわれ、目標を失っていることも大きな要因かもしれない。

僕も目標を忘れてしまうくらいだから、大きな事は言えない。金、名誉、地位とか言ったものではなく、まずは「健康な体に健全な精神が宿る」。を生きていく上での原点にしたいものだ。


2006年07月29日(土) 何となく気負っている今日の僕。

梅雨が去った。あの降りしきる雨は一体、何だったのだろう?。遠い昔のように思われる。今は連日の真夏日。蝉が短い命をいとおしむかのように鳴きじゃくっている。田んぼにも、農道にも人一人っ子見えない。農業革命がもたらした日本的風景?。このことは幸せなことか?。不幸せな事か?。

どうも僕はこういう静かすぎる風景は苦手である。かといって人でごった返した都会も又嫌いである。静かすぎると淋しいし、人が多いと目眩、動悸、息切れ。酒に酔うなら良いが、人に酔ってしまう。わがままな僕ちゃんである。要するに、適当に人がいて、適当に何かをやっている、そんな姿が遠くからでもかいま見れればいいわけだ。か

昨夜は図らずも、のりちゃんからテルあり。彼にとって僕は夕食の相手として格好のターゲットなんだろう。断らない主義の僕だ。まああ、それもいいか。彼の予定は盆近くまで、あくせく働いて、その後一ヶ月くらい夏休みをとるという。結構なことで。こちとらは年から年中、仕事。ひと月も休んだら、おまんまの食い上げだ。「あーーー、はかない人生」と嘆いていても仕方がない。やるしかないんです。やるしか!!。

今日も11時から仕事だ。ちょっくら疲れた体に鞭打って、「やったるでー」と気負い込んでいる僕の姿が見える。「雨にも負けず暑さにもまけず」か。そうしながら生きることも幸せの一つの形かもしれない。


2006年07月18日(火) 明日があるさ。

三日も休みが続くと、四日目の朝は、ひっきりなしの電話だ。嬉しい話ならまだしも、ほとんどが、クライアントからの要望と催促。おまけと言っては何だが、僕のミスもある。「あーーー、こんなに責め立てられては、世の中がいやになっちゃうぜ」と思っても、家出する勇気もなく、たどり着いたところが自動販売機の前。缶コーヒーを手に取り、「明日があるさジョージアで」と、気を持ち直し。何かで聞いた台詞だ。そう,綾小路きみまろさんの漫談の台詞だったっけ。

いやーーー、最近はなかなかは自分の思い通りに行かないことが多い。もちろん、我が能力の未熟さもある。なんだかんだと言っても、法令に準拠していない書類はまかりとおらない。今の世はコンプライアンスに徹する世の中だ。「なぜ、これではいけないのか?。これで十分説明できるではないですか?」と詰め寄っても、「いや、それでは不十分だ。法令はそんな書類を要求していない」と、一蹴されてしまう。

「悲しいぜ。今の世の中はどこかおかしい。これじゃあ、世の中は活力をうしなうぜ」と、他罰的になり叫んでも、かえってくるこだまは、「あほー、あほー」という言葉ばかり。結局は我が身の愚かさを嘆くのみか?。

いや、待て。ここが成長と退化の分かれ目だ。失敗をバネにさらなる飛躍を目指すか、「俺はだめだ」と自暴自棄になるか?。幸い僕には後者の考えはない。「鳴かずば鳴かせてみせよう」と奮起して、あちこち奔走した。クライアントにとって、大事な時間をロスさせたことは大きな汚点とはなったが、なんとか目的達成へこぎ着けそうだ。やれやれだ。再び缶コーヒーを飲んで、心を落ち着かせた。

「さあ、家に帰るか?、一杯ひっかけるか?」と、思案したが、結局、そのどちらも選ばず、二週間も行っていなかったボスの病気見舞いへ赴くことに決定。ボスを見舞うと、ボスが興奮し、かえって病気を悪化させること数回。かなり遠慮していたわけだ。ボスは集中治療室から出て、元の病室に戻っていた。すでに三回、危篤状態を乗り越えたことになる。強い生命力だ。
すっかり管ははずれて、弱々しくベッドに横たわっていた。僕の顔を見て、にっこりした。奥方が「初めて笑ったのよ。嬉しいんですよ」と僕に告げた。僕はボスの手を握り、「早く元気になり又、一緒に仕事をしましょうや」と励ました。ボスは「有り難う。有り難う」と何度もつぶやいた。僕はこういうシーンが苦手だ。なんだか、こちとらまでが悲しくなるからだ。

ボスに又来るからと言って、病院を後にした。ここで、又、「家に帰るか?一杯引っかけるか?」と思案。山の神へテルをいれた。山の神曰く。「あんた、日曜日も、のりちゃんと一杯やったでしょ。そんなに飲んでばかりいてどうすんのよ。今日は帰ってこなくていいから。」とプチン。これで僕の心は決定だ。「さあ、帰りましょ」と、車を西45度へ方向チェンジ。明日があるさ。ジョージアで。

山の神もさるものひっかくものだ。我が夕食のみを用意して、「あら帰ったの?」と、ことさら喜ぶそぶりもなし。僕の食事も用意してくれて、一応めでたし、めでたしで幕を閉じた。

今日の格言だ。「山の神への伺いで、ノーと返事が来たら、即、帰るべし」。これが夫婦円満の秘訣か?。明日があるさジョージアで・・・。明日へ希望をつなごう。




2006年07月17日(月) 友との刹那の語らい。

よく考えてみると、土曜日から今日まで三連休だった。ついぞ、今日の休みのことを忘れていた。「海の日」かあーーー。さぞかし海水浴場はにぎわったことだろう。昔は海の子だった僕も、今では、すっかり、お部屋のトッチャン坊やとなってしまった。いずれにしても、休みが一日増えたことは歓迎だ。

ところで、昨日は日曜日。どういう風の吹き回しか、「のりちゃん先生」から夕方テルあり。とっくに愛妻の待つ都会の片隅へ帰省中かとおもっていたが、さにあらず。まだ例の、ふらふら病が完治していないらしく、当地にとどまっていた。新幹線とかに乗り、トンネルとかをくぐると、だめなんだそうだ。僕には経験がないからとんと分からない。

そう言えば、「トンネル」は僕も嫌いである。いつぞや、トンネルが崩壊して、多数の犠牲者がでた事故があった。その記憶が未だに僕の脳裏を支配していて、トンネルを車でくぐるときなんか、いつも不安である。「通過中にトンネルの屋根が崩れませんように」と、いつもは拝まない神様に神頼みしている。僕も現金な男だぜ。僕が恐れているものに三つあった。地震、雷、蛇である。新たな恐怖として四番目にこのトンネルを加えることにしよう。

てなわけで、昨夜はのりちゃんと一献傾けることになったが、なにせ日曜日。田舎の歓楽街はどこも閉まっている。「焼鳥屋」へでも行くかと、馴染みの店の暖簾をくぐったが満杯。仕方がない。ちょっくら歩いて、開いているところを探すことにした。

折良く、「○○バー」と看板が掲げられているモダンな店があった。ショットバーみたいな感じの店である。一度だけ行ったことがある店だった。店内はすいていた。足が届かないほど脚が長い椅子とテーブルがあった。僕と、のりちゃんはそこに陣取り、さっそく生ビールとつまみをオーダーした。銀製のメガホンをひっくり返したみたいな器でビールが運ばれた。日頃はガラス製のジョッキで飲むことが多いが、この銀製の器もなかなかしゃれていて、味も上々。僕は二杯たいらげ、のりちゃんは二杯目から芋焼酎の水割りへ。のりちゃんの食べること、食べること。腹を空かしていたわけだ。僕も遅ればせながら追随した。

かくして、よもや話に花を咲かせた。のりちゃんがぽつりと言った。「僕はこんな店が好きなんだよ」と。人から干渉されることもなく、程よい光線が落ち着いた雰囲気を醸し出している。大人の店である。男と女が出会う場、あるいは別れを演出する場。わいわい騒ぎ立てる小料理屋や、スナックの雰囲気とは違う。色んな表情を演出できる。たまには良いなあと思うが、本来、騒ぎが好きな僕にとっては、メインストアーにはならないようだ。そのことを察しているのかどうか知らないが、「今日は僕が全部払う」と言って、のりちゃんが、僕の財布を制した。「ええーっ、そう」と答えて、彼に甘えることにした。

代行車で、彼の居所経由、我が家へ早い時間の帰宅とあいなった。帰り際、彼に紙袋を渡した。山の神からの差し入れの果物である。「のりちゃんも寂しい思いをしているのでは?」と気を使っての山の神の配慮なんだろう。のりちゃんは、嬉しそうに目を細めて、そそくさと去っていった。

ほんの数時間の出来事だった。日頃の午前様と違い、こういう飲み方も良い。朝の目覚めが快調だからだ。そのことが幸いして、今日は朝から、懸案事項だった雑草刈りに専念できた。刻一刻と動き回る黒雲に僕の心は一喜一憂。なんとなれば、何時、落雷の憂き目を味わうかもしれないからだ。中断に中断を重ね、僕をあざ笑うがごとく成長した雑草を一網打尽にした。やれやれだ。体は結構疲れたが、心は充実感で一杯。明日からも、この心を継続したいものだ。





2006年07月12日(水) 目で語る。

ここ二日ばかり、うだるような暑さが続いている。梅雨は明けていないが、まさに夏・夏・夏という感じだ。夏は好きではない。とはいえ、巡り巡る自然の摂理。僕の力ではどうしようもない。なすべことは、如何にして涼を呼ぶかだ。「心頭滅却すれば火もまた涼し」というから、何かに没頭すれば良いわけだ。幸い今日は仕事に没頭した。

まだ、冷房装置が付いていない新クライアントの事務所で、汗かきかき、熱っぽく段取りを打ち合わせた。缶コーヒーを片手に無事に成功。

クライアントにも色んな人がいる。気むずかしい人。ぶっちゃけた人。礼儀正しい人。ざっくばらんな人。話好きな人。無口な人。容易に相手を信じない人。約束を守らない人。表現は色々と出来る。

そんな色んな人たちの中で、この分野では誰にも負けないという何かを持っている人は素晴らしい。そんな人のどこが素晴らしいかと言えば、それは「見る目」である。人を見る目。書類を見る目。物を見る目。「目は口ほどに物を言う」とはまさにしかり。目が語りかける。今日は大きくもなく小さくもない僕の目が熱く語った。話を聞いているのか、いないのか分からないが、相手は涼しそうな目で僕を見つめていた。その目が僕を信頼してくれたのだ。きっと、その人は今からやろうとしている仕事に自信を持っている人に違いない。いやあーーー涼しいぜ。

相手が絶世の美女、とまではいかなくても、それなりに魅力のある女性ならば、僕の目はどう語るだろうか?。ギンギラギンと目は血走り、余計なことまで熱っぽく語りすぎる。こうなると、僕の心は見透かされて、かえって信頼を損ねてしまうことも。勇み足とはこのことだ。若い頃はそんなことも多々あった。今でそんなことはないと言えば嘘になるか?。僕もまだまだ純情だぜ。「あなたの場合はロハで結構です」と、思わず口から飛び出してしまうかも。「まあ、嬉しいわ」となり、僕はまさにカタルシスに落ちたということになる。

冗談か本気か分からない話はさておいて、いずれの場合でも仕事の失敗は許されない。全力投球だ。今日は仕事の三分の一が無事に成功。明日以降、残りの仕事に邁進だ。

今日の格言。「目で語るときは、熱く語ることは必要だが、度を過ぎるとかえって逆効果」「見る目は自信から生まれる」ということか。




2006年07月09日(日) 人生はやはり塞翁が馬か?。

七月の目標を立ててから、早一週間が過ぎた。月日は決して裏切ることはないが、僕の目標はどうだろう?。仕事への邁進?。これはあまりに順調で、日曜日のつい先ほどまで仕事に没頭。おかげで、明日以降が楽になりそうだ。僕自身をほめてやりたいところだが、あまんまの種だから、ほめることもないか。

ボスへの最後の病気見舞いから十日以上がたつ。何の音沙汰もないということは、回復に向かっているか、さもなくば一進一退の状況なのかもしれない。正直なところ、様子伺いに赴きたいところだが、僕が行くと、きまって元気を出すから困るのだ。見舞いに行った後、容体が急変したことが数回あった。僕は疫病神なのか?。ついそう思いたくなる。

見舞いは嬉しいに違いないが、そのうれしさが異常な興奮を呼び覚ます。病人にとってこの興奮は好ましい場合もあるが、いつもそうとは限らない。かえって、病状を悪化させることもあるのだろう。やせ細り、痛々しい注射跡の手を握りながら、僕はいつも声をかけた。「大丈夫。大丈夫。まだくたばってはなりませんよ。心配ない。心配ない」と。そう言うと、ボスは目に涙を浮かべながら、枕から頭をもたげようとする。「そのまま。そなおまま」と言って。僕はそっとベッドから去る。こういう状況には、あまり遭遇したくない。従って、今の僕はボスのことがを思い出しては立ち消え、思い出しては立ち消えの状態にある。

そんな中、クライアントを紹介してもらっている、さる先生から麻雀の誘いを受けた。目下、痛い二連敗を喫している。さる先生は今、絶好調の域にいる。僕は本来、賭け事は好きではないが、麻雀は例外である。これも、人間関係を保つ社交の一つであると認識している。さしたる用事もなく、先生の誘いにのった。後の二人は先生のクライアントで、僕も顔見知り。何の屈託もない。「さあいくでーーーー」と意気込んだ。

序盤は不調。中盤になって好機が訪れた。大三元をてんぱったのだ。一か八かの勝負で、ドラをきってリーチ。このドラ切りリーチが運命の分かれ目。見事通過。僕は「そーーーーっ」と胸をなで下ろした。後は振込みか、つもるだけ。二・三巡流れ、「わおーーーーつ」、「撥」をつもって大三元。皆さん目を丸くしてびっくり。ご祝儀をいただいて、僕はほくほく。序盤の失点をカバーして、そのまま後半へなだれ込んだ。そつなくまとめ上げて、締めましてはプラスで幕を閉じた。夕方6時から始めて終わったのが午前2時過ぎ。

山の神より、「えらい遅いわね!!」とテル有り。「うん、もうすぐだから」となだめて。家路へ急いだ。天の岩戸は当然のこと、堅く閉ざされていた。今日は合い鍵持参ではない。ひょっとすればと、秘密の隠し場所を覗いたら、な・な・なんと、合い鍵がちょこんと座っていた。後は忍び足でベッドへもぐりこんだ。

朝、起きると開口一番、「どうだったの?」と山の神からの質問。「いやああ、昨日は、大勝利だったよ」と言うと、山の神は「ふん」と不満げ。「勝つたら、また誘われるでしょ」と言いたいのだろう。確かにそれはある。まあ、しかし、すべては 時の流れるままだ。

今日の格言。「人生はやはり塞翁が馬だぜ」。いつも良いことばかりではない。気を引き締めてかからなくちゃ。







2006年07月01日(土) 月初めの所信表明。

6月にさよならして新しい月のスタートだ。今に泣きそうな曇り空。家の周りの田んぼには水がたゆたゆと張られ、早苗が涼しげになびいている。人は誰もいない。毎年見かける風景だ。この早苗が日ごとに成長し、たわわな稲穂に変身する。その頃になると季節はすっかり秋。

秋かあーーー?。ちょっと早すぎるな。その前に灼熱ふりそそぐ夏があったっけ。夏かあーーーー。苦手な夏。山や海はあれど紫外線の強い夏。僕の柔肌がいたんでしまう。おのずと冷房のきいた部屋で過ごすことになる。不健康だが仕方がない。

おっと、今日は季節の事を書くつもりはなかった。7月のはじめだ。今月の目標を掲げるのが一番相応しいだろう。
     1.仕事に全力投球
     2.雑草刈りで、家の周囲の美化
     3.故郷の母へのご機嫌伺い
     4.3年4組クラスメートとの再会
     5.のりちゃんをはじめ、友人・知人達との夜の社交
     6.お中元の品定め
     7.エトセトラ

まあ、ざっと、こんなものだ。仕事を除いたら、ほとんど遊び関連の行事ばかり。ただ、男にとって一番なのは、やはり仕事。仕事で思い出したが、先日、我が家を来訪した4人の仲間の一人が、はからずも、僕と同じような仕事をしていた。今、互いに情報を交換し合いながら、新しい仕事に挑戦している。持つべきはクラスメートだ。互いに辛苦をなめて自分の物にした知識や情報だって、クラスメートとあらば、無償で提供できる。打算がないからだ。彼は書道の達人。みごとな筆使いで、お礼状が届いた。「3年4組のクラスメートのパワーを糧に頑張りましょう」と書いてあった。同感。同感。

時はすでに10時。まだ、雨は落ちてこない。時間の問題だ。そういえば、昨日のこの時間に、大先輩の来訪を受けた。年内に大都会へ引っ越すのだそうだ。子供が皆、大都会にいて、もうこちらへは帰ってこないため、夫婦自らが、子供らの近くに引っ越し、老後のあれこれを片つけてもらいたいとの思いからである。世の中も変わった。分かる気がする。

その大先輩から、「もう持っていかないから」と、たくさん残留物をいただいた。世界文学全集。日本文学全集。LPのクラシックレコード盤。いやああ、これは貴重だ。幸い、我が家にはまだ昔のステレオがある。レコード針で聞くクラシックも最高だぜ。なかでも圧巻なのが、碁盤である。以前は、先輩宅で、酒をのみながら囲碁をしたものだ。これが奥方の逆鱗に触れ、「酒を飲みながらするのは止めてください」とたしなめられた。以来、ごぶさたしていたが、その碁盤を僕にくれた。厚さ13センチの見事な物。へっぽこ囲碁打の僕も、こんな碁盤を持つと急に強くなったような・・・・?。

先輩はもう一つ、厚さ30センチ以上はしているかと思われる碁盤をもっている。時価にしたら相当な物だろう。先輩の家ではその碁盤で戦っていた。
もち、4目置いて僕がいつも負ける。さすがに、その碁盤はくれなかった。当然と言えば当然だ。先輩の勝ち汗がしみた碁盤だからなーーー。

時がたつと周りが色々と変化する。変化してやまないのが世の常。自然の常。宇宙の常だ。僕たちはそんな変化に翻弄されながら毎日を生きている。変化は潔く受け入れ、また自らも変化して生きよう。




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