umityanの日記
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2005年08月31日(水) めまぐるしく八月が駆け抜けた。

いよいよ八月も終わりだ。長かったようで短かった八月。色んなことがあった。猛暑の中、衆議院の解散が8月8日。お盆を迎え、真夏の国民大移動。その間、地震やら台風やらが日本列島を襲った。落ち着く暇もなく、世の中は、郵政法案反対議員に対立候補が登場。世間ではその候補を「刺客」と呼んだ。一体、日本はどうなっているのか?。刺客とは暗殺をする人のことだ。たとえ、比喩で対立候補のことを言ったにせよ、子ども達や、青少年達に良いイメージを与えない。大事な国の舵取りを託すのに、こんな愚劣極まりない言葉で茶化しているようでは、日本の将来も危ぶまれる。果たして、こんな選挙に人は皆、真剣になれるんだろうか?。

僕が吠えても仕方がないが、抱えている問題は山ほどある。郵政民営化のみで、そのすべてが解決されるなんて到底思えない。ただ、将来的には民営化は必要だろう。まずは、もっともっと、議論を重ね、慎重にことを運んでもいいのではないか?。

世間の喧騒とは裏腹に、田舎では稲の苗が蒸し暑い風にさらされながら、静かに、力強く生きている。やがて、稲穂がでて、たわわな身を実らせるだろう。毎年見る田園風景だ。自然環境が変化しても、それに負けまいと懸命に生きている動植物達を見ていると頭が下がる思いだ。人間も見習うべきところが多々ありそうだ。

自らのことを棚に上げて、偉そうなことは言えないか。僕はとくれば、相変わらず平々凡々と暮らしている。こう出来るのも世の中が豊かになり、平和になったればこそである。そのことには大いに感謝せねばならない。



2005年08月27日(土) 僕の新たなパートナーは、「椅子の純子ちゃん」

ここ一週間、スランプで日記とおさらばしていた。どうも、生来の能天気が増幅して、思考回路をめちゃめちゃにしていたようだ。要するに、問題意識もなく、のほほんと過ごしていたから、書くことも見当たらなかった。

しかるに、今日は嬉しいことがあったので、備忘録をしたためることにした。嬉しいここといっても、999のメーテルのような美しき乙女と出会ったわけではない。他人様からみれば、「なああんだ。つまらない」と言うことになるが、僕にとっては、それはそれは、やっと、求めていた物を手に入れたという喜びで一杯なのだ。もったいぶるのは止めよう。何のことは無い。ただ、チェアーを手に入れただけのこと。

小さいころ、あこがれていたものの一つが書斎に置かれる机と椅子だった。長さ2メートルはあるかと思われる木製の机、その机に向かって腰掛ける皮製の椅子。もち回転式、リクラインニング式だ。その椅子に葉巻を銜えて、のけぞっている偉そうな人の姿に、かっこよさを感じたものだ。「ははんーーー、あれが社長さんの姿か?」と、子供心に思った。

事務らしき仕事に携わるようになり、何時かは僕もあんな机と椅子に座ってみたいと思うようになった。苦節、うん十年。机だけは長さ2メートルはある中古品を手に入れていたが、椅子は両袖が無い普通の事務椅子に甘んじていた。まあ、超零細個人事業主たる僕には、それが一番相応しいのだろうが、飽くなき欲望は募るばかり。「ギッコ、ギッコ」と音がしていた椅子の背もたれが壊れた。これ幸いと、新たな椅子を物色していたところ、あったんだなーー。それが。プレシデント・チェアー。いやああーーでかい。昔、映画で見た、エマニエル夫人が座っていたような椅子のレザー張りみたいな物である。思わず、「苦しゅうない。もっと近こうに」と言いたい衝動に駆られる。

今、その椅子に座ってこの備忘録を書いている。ちょっくら疲れたら、深々と背もたれに身を任せ、両手は袖に投げかける。僕も貧乏性な男だ。頭の油で、背もたれのレザーが汚れはしまいかと、手でそっとふき取る。かたわらで僕の様子を見ていた山の神も呆れ顔。「椅子と私、どっが大事なのよ?」と言わんばかりだ。ナンセンスだ。比較にならない。とは言え、世の中には、ひたすら骨董品を集め、女房より大事にいそしんでいる人も多いと聞くから、始末に悪い。

僕はそこまでは行かないが、ただ、気に入った椅子が手に入ったという喜びはひとしおである。何となれば、椅子もある意味では僕の分身である。頭のひらめきも、この、すわり心地のよい椅子から生まれると言っても過言ではないだろう。倒せば水平近くまでいく。その椅子に寝転び、目を閉じると、不思議な感覚に襲われる。頭の中で、「はいアップ」とえば、少しずつ起き上がっていくように感じ、「はいダウン」といえば、少しずつ下がっていくような感覚にとらわれる。真にそう感じられるのだ。

僕は今、思っている。これは魔法の椅子に違いないと。僕の心がきっと通じているのだろう。大事にしなくちゃ。さっそくだ。名前をつけた、えーーーと僕が純ちゃんだから、椅子の名前は「純子ちゃん」にしよう。恐らく純子ちゃんは、僕が死ぬまでのパートナーになるだろう。このことは山の神には内緒である。さあ、僕には過ぎたこの椅子と共に新たな船出だ。


2005年08月20日(土) 久々の雨に僕の心は吠えた。

八月になって、久々に雨が降った。恵みの雨だ。なんでも、四国地方では雨が降らず、水瓶が底を突いたそうだ。これは由々しいことだ。雨は適当に降ってくれれば、それが一番よいのだろうが、自然は人間の思惑で行動してはくれない。やはり、人間が自然に合わせて生きなくてはいけないのだろう。

そういえば、関東地方では、地震がいつ起きても不思議ではないと言われている。最近、結構、大きな地震があった。なんでも東京方面は地盤が弱く、遠方で発生した地震の波が伝わった後、他の地域より揺れが長く続くそうだ。これまた由々しいことだ。

テレビで、地震に備えたアイテムを紹介していた。なるほどと感心したアイテムがあった。一つはスニーカー、いわゆる運動靴だ。まさか、女性がハイヒールを履いて、逃げるわけにもいくまい。スニーカーなら外へ出た時に危険物を踏んでも安心であるし、かつ、すばやく逃げることが出来る。さらに、もう一つは、キャラメル。日持ちがして、手っ取り早い食料源になる。甘いから、体力の消耗を防ぐことが出来る。なるほどと感心した。外にも、アイテムはたくさんあると思うが、何と言っても、備えあれば憂いなしだ。

先ほどテレビでやっていたが、アメリカでは数十個の竜巻が発生したそうだ。日本では竜巻はめずらしい現象かもしれないが、アメリカは結構、多い。まだその原因は分かっていないらしい。竜巻が通過した後の、映像をみた。いやあああ、無残である。家屋も、車も、木々もなぎ倒されていた。人命だって危ぶまれる。

自然は一体どうなっているのだろう?。温暖化、温暖化と叫ばれて久しいが、その対策はいまいち遅れているように感じる。京都議定書等で、世界各国のCO2の削減目標が設定された。これは単なる一時しのぎみたいなもので、生ぬるい気がする。地球が壊れるはずが無い。まだまだ地球は大丈夫という楽観論が、まかり通っている。暑くなっても文明の利器がある。確かにそれで凌ぐことは出来ても、未来を生きる子孫達は、おそらく、外へ出ることもかなわず、制御されたドーム生活、もしくは穴を掘って地下生活を余儀なくされるかもしれない。地震や台風や竜巻、ほかの諸々の現象を考えた時、地球崩壊の危機が目の前に迫っていると言っても過言ではない気がする。

時々思うが、食料さえ確保できれば、高度な文明社会にならなくてもいいのではないかと。決して、科学の発展を否定しているわけではない。バイオテクノロジーの力は食料の大量生産を可能にするだろうし、宇宙物理学、原子物理学は、人類の宇宙への移住だって可能にするだろう。今、危惧していることは、そうなる前に地球が崩壊しないかということだ。

今、日本では衆議院の解散で、郵政民営化の是非が最大の争点になっている。確かに小さな政府による民間の活性化は大事である。それ以上に大事なこともあるはずだ。地球環境を度外視した、ばら色の未来なんてありえないだろう。まずは日本が手本となり、地球保全対策に少なからずの国家予算を投入して、未来の人類に美しい地球を承継していくという長期的対策を講じてもらいたいものだ。

雨の土曜日。緑の苗が雨に打たれて、涼しそうである。そして僕は冷房を切った部屋で、去りつつある夏に思いを馳せながら、この備忘録をしたためた。


2005年08月19日(金) 愛人ロボット嬢。

最近、閉口している事。あふれんばかりの物の存在だ。「物」とは、仕事に限って言えば、所狭しと積み重なった本、雑誌、用済みの原稿書類、ファイル、机に散らばった、さまざまな文具用具。おまけに、送られてくる宣伝用ファクス。これは、ちらっと一瞥を投げて、くずかご行きだ。瞬く間にくずかごが満杯に。机の下には、幾重にも接続された電子機器類の配線達。足で踏みつけることもあるから厄介だ。時々、整理整頓しなければと思い立つが、飛び込んでくる雑用に追われ、いつも後回しになっている。明日の土曜日には、ちょっくら机上の整理をするか?。

果たして、綺麗に整理整頓された机でする仕事と、無造作に散らばった机でする仕事は、どちらが効率がいいのか?。人によりけりだと思うが、僕の場合、昔は、散らかった本とゴミの山のなかでする仕事に、かっこよさを感じていた。無造作に散らかった書斎の中でする仕事が「出来る男」の勲章だと思っていた。見つからない本を探すため、手当たり次第に本を掻き分け掻き分け探すのも、結構、楽しかった。「ここにあったのか」と、目的の物を見つけたときの喜びは、経験した人でないと分からないだろう。「わおーーーつ」と叫びたくなる。

時間に追われることがない場合は、それでいいわけだ。昔は世の中も、身の回りも結構、暇だった。状況が変わった。時間や締め切りに追われることが多くなった。ごったがえしの中から、目的物を探すのも容易でなくなる。今の僕の状態がそうである。あああーーーあ、悲しいぜ。

こんな時、手助けロボット君でもいれば最高なんだが・・・・。背後霊のごとく、僕に寄り添って、用済みの本を手渡すと、きちんと元の位置に収めてくれる。不要の原稿は、即、シュレッダーにかけてくれる。鉛筆を手渡すと、削り機にかけて、鉛筆立てにしまってくれる。長時間の机上仕事のインタバルにはコーヒーをたてて運んでくれる。机で仮眠していると、風邪をひかないように背中に衣類をかけてくれる。机の上はいつもきれいに整理されている。外から帰ると、夏には冷たいお絞りが、冬には温かいお絞りが。なんと、机の上には「ご苦労様」というメッセージが・・。これじゃああ、ロボット君というより、愛人ロボット嬢だ。仕事もはかどるというもの。

恐らく、近未来にはこんなロボット嬢が出てくるだろう。かなり高価かもわからないが、僕ならすぐ飛びつく。「もう、あなたなしでは生きられない」ということになるだろう。

ところで、山の神は?。いやはや、こちらも負けてはいないようだ。まさに、頑強なロボット君を手に入れて、あごで使っているよし。ロボット達も多難の時代がやってくるだろう。


2005年08月16日(火) 僕の夏が終わった。

僕の夏が終わった。既に心は、きたるべき正月へと向いている。お盆も好きだが正月も好きだ。というのも、その時期は何かのけじめをつけるのに、最適な時期だからである。心の洗濯、魂の選択の時期といっても良い。

昨日はお盆の最終日。夜には幾万という魂が灯篭舟にのって、住処へと帰っていった。その光景を目の当たりにすると、ただただ、感謝と畏敬の念で一杯になる。先祖を思い出すのは、お盆と正月と命日の日だ。かくて、皆、故郷へ帰るわけだ。「故郷を遠くにありて思うもの。そして悲しくうたうもの。よしや、うらぶれて異土のかたいとなるとても、帰るところにあるまじや」である。故郷の山川草木は皆、仏の御姿である。その姿に触れると、あたらな勇気がわいてくる。

一夜明けて、今頃はユーターンラッシュ。とうちゃん、かあちゃんのおっぱいをたっぷり吸ったことだろう。僕の友人は9連休と言う大型の休みを利用して、奥方が里帰りしている上海へと出向いている。恐れ多くも、「女房を大事にしてまっせーーーー」と、先方の親にご挨拶をしようというわけだ。ご苦労様。18日に帰ってくるそうだ。結構なことだ。誠にうらやましい限りである。

こちとらは盆であれ、日曜日であれ、仕事でフル稼働。あーあー、僕も故郷へへ帰りたいぜーーー。3時間でいけるから、あまりに近い故郷ということになるか?。今は、兄が大きい顔をして、にらみを利かせているから、必ずしも愉快ではないが・・・。僕は超零細の個人事業主。帰りたいと思っても帰れない。僕のみならず、サービス業に携わっている人たちにとっては、人の休日が稼ぎ時だ。その代わり、人が働いている時、休むことになる。ちぐはぐだが、これで世の中のバランスがとれているのだろう。僕も涼しくなってから、平日に帰ることにしよう。

更に、昨日は戦後60年という、一つのけじめの日。いろんな場所で、鎮魂の催し、慰霊祭があっていた。何百万もの人達が、かの戦争で亡くなった。この忌まわしい出来事は、60年という歳月が流れようと、遺族の記憶から消えることはない。たとえ、日本の人口が戦後世代のみになったとしても、戦争の悲惨な記憶・記録は、ずーーーっと、ずーーーっと、後世に語り続けていかねばならない。なんとなれば、今日の幸せ、繁栄の源は、戦争で亡くなった人たちの尊い犠牲の上に成り立っているからだ。

いみじくも昨夜は「アジアの中の日本」と言うテーマで、NHKが特番をやっていた。中国・韓国、アジアの人たちを交えて、戦争、歴史の認識、靖国問題、教科書問題、未来の日本、・・・いろんなテーマで、いろんな人たちが意見を述べていた。

全部を聞いていないので、大それたことは言えないが、アジアの近隣諸国の人たちは、遠い過去にさかのぼれば、いわば兄弟である。その兄弟達は過去、幾たびとなく兄弟喧嘩をした。「兄弟は他人の始まり」とはよく言ったものだ。誰が言ったのかは知らないが、兄弟に喧嘩はつき物だろう。ただ、日本が招いた太平洋戦争は行き過ぎだった。ことの発端がどうであれ、兄弟達の尊い人命を奪い、傷つけたという事実に対して、目をつぶることは出来ないだろう。兄弟達の間での歴史的認識にズレがあるにせよ、まずは、誠心誠意の謝罪を第一とし、二度と戦争を起こさないという固い不戦の誓いを、時間をかけて説いていくことが肝要であろう。今、日本政府はそのことを、懸命にやっている。戦後60年とは言え、兄弟が仲直りできる道は険しい。それでも、血をわけた兄弟だ。いつかは、その意が通じる日がくるだろう。その日が、一日も早く来たらんことを願って、僕の夏に終止符を打とう。





2005年08月10日(水) 今日の収穫。

仕事で県外へ出向いた。僕にとっては車の旅みたいなものだ。最近は本当に便利になった。知らない地へ赴いても、ナビがちゃんと案内してくれる。音声の指示に従っていれば、ほぼ完璧である。ただ如何せん、音声を任されているウグイス嬢の声が、冷酷、冷淡、愛想無し。一本調子。聞いていて腹が立つこともある。怒らない怒らないーーー。恐らく、これには理由があるのだろう。

まさか、道案内にお世辞を言う必要もないというわけだ。「後、300メートル先で、どこどこの交差点を右折です。その後直進です」という案内を、{あと300メートルで右折でございまーーーす。対向車に気をつけてくださいませ。はーーーい、無事に右折しましたね。そのまま直進をお願いしまーーす」。

カナリヤのように優しい声で、こういう音声が流れると、運転者は、「えらい親切やわーーー。気に入った。にこにこ、にんまり」ということになる。そこがみそである。運転中の音声案内は、単調で明瞭かつ手短かなのが一番よいのだろう。なぜなら、音声があまりに可愛いい声で、冗長だと、運転者がその声に気をとられ、かえって危険だからである。クラブやキャバレーのホステスさん達の声と違っていて当然だ。

友人に、そのことを言ったら、「おまえのナビは安物だろう?。俺のガイド嬢の声は優しいぜ」とか言われた。実のところよく分からない。まああ、なにはともあれ、本来の目的は無事に現地へ到着することだ。ナビ談義はこれくらいにしよう。無事に仕事を片つけ、帰りは山越えで帰還した。

おっと、「帰還」と言えば、スペースシャトル「ディスカバリー」が無事に帰還だ。野口さん、本当にご苦労様でした。「少年よ夢を抱け。夢の実現には時間がかかるが、あきらめないで、どこまでも夢の実現に向かって努力してほしい」。この言葉が印象的だった。ほとんどの子ども達が野口さんの名前を知っていた。子ども達は夢のある出来事に多大の関心があるのだ。大人たちは子ども達に夢を与える教育をしなくてはいけないと思った。さすれば、非行も犯罪もなくなるはずだ。大言壮語してしまった。

話を元に戻そう。山越えの途中にある、レストラン兼喫茶店へ立ち寄った。よく立ち寄る店である。いつもの美味いコーヒーを所望した。僕の疲れた様子を見てとったのか、ママさん自ら製造したトマトジュースをご馳走してくれた。なんでも、ニンニクと他のエキスが入っているらしく、体がもりもり元気になるとのこと。「朝は五時に目が覚めるわよ」なんて、驚かされた。うまかった。「在庫ないですか?」と聞いたら、家族が飲む分しか作らないとのこと。お礼に、自然食のみで生んだ卵を10個買うことにした。コーヒー代込みで800円。安いーーー。

朝から出立して午後の4時に我が家へ到着した。家ではボスが首を長くして待っていた。ボスも、この頃の暑さに体力消耗気味。幾分か元気が無かった。「駄目ですよ。80歳までは仕事をばりばりせにゃーーー」と発破をかけたしだいである。

ひとしきり話し、ボスを我が家へ送り、今日の僕の仕事も完結した。今日の収穫。野口さんの地球への無事帰還。トマトジュースによる体力増強。自然食卵の入手。ボスとの再会。まああ、こんなところか。仕事の成功はもちろんである。







2005年08月07日(日) 蝉、蛙、蚊、雷、地球環境。

蝉が、わんさか、わんさか鳴いている。夏本番って感じだ。都会では、蛙が鳴きじゃくるマンションは値が安いとか?。夜中の合唱は騒音とみられるのだろう。先日、テレビでやっていた。僕は至って平気なのだが・・。田舎では、蝉でも、蛙でも鳴かないと、あまりの寂しさに心が滅入ってしまう。人間って、本当に感情的な動物なんだ。

      蝉しぐれ、君にも聞こゆ、祈りの日。

先ほど、やってきたお客さんが言っていた。「蝉は鳴いているけど、今年は蚊がいないですねーーーーーー」と。確かにそうだ。半ズボンで庭先や、草むらのあるところへ行っても、ほとんど咬まれない。昔はちょっと、外へでるだけで、薮蚊みたいなのが、栄養たっぷりの僕の腕や足に止まり、お腹を膨らませていた。蚊も災難のご時世になったものだ。
     
     蚊もいなく、腕さすりつつ、さびしそう。

今日の好天とは裏腹に昨夜は雷を伴う雨だった。空がゴロゴロと鳴り、閃光が走る。僕の嫌いな光景だ。つい最近、雷に打たれて亡くなったり、やけどを負った人がいた。雷はどこに落ちるかが分からないから厄介だ。従って、僕はいつも避難場所を求めて右往左往。木の下も危ないそうだ。家の中の柱だって安全とはいえない。然らばどこだ?。あった。あった。車の中だそうだ。と言うわけで、最近は車の中に駆け込むようにしている。この僕のうろたえぶりを、山の神は冷ややかな目で眺めている。まあ、それはいいとしよう。
  
      うらめしや、幽霊逃げる、雷か。

とみに思うが、ここ近年、地球の環境が大きく変わった。日本全国が亜熱帯地方に組み込まれる日も近いだろう。バナナがよく育つに違いない。おっと、そんな暢気なことを言っている場合ではない。人類同士の戦争に終止符を打ち、一刻も早く、全人類が一丸となって地球存続への道を模索すべきだろう。

広島原爆の日は、まさに、全人類の存続をかけた祈り日である。


2005年08月06日(土) 八月の声。

八月の声を聞いて六日になる。ただただ、せわしく動いていたと言う感じだ。ことさら書く内容もなかったので、備忘録はご無沙汰していた。

猫の「もこ君」がおかしい。食欲がなく、ごろごろしている。恐らく、熱中症にやられたのだろう。ついぞ経験したことのないこの日照り。猫様も災難だ。人様はいかがお過ごしなんだろうか?。お見舞い申し上げます。

さてと、僕は、太陽に追われ、仕事に追われ、息つく暇が無かった。こう言うと聞こえは良いが、その実態は?。昨夜は再び、「のりちゃん先生」とあいまみれることになった。久々に彼からのテル。以前、戦わした口論が後味悪しということで、一献傾けたいと言う。僕に異論は無い。

行きつけの小料理屋のママは、夏のバカンスで、十日ばかりフィリピンへ旅行中。うらやましいぜ。てなわけで、昨夜は何度か行ったことがある、鶏肉専門の小料理屋へ。マスターは僕たちと歳もほぼ同じで、話が合う。ビールに始まり、焼酎へと。大きな徳利に入った焼酎サーバーから繰り出される芋の味はまた格別だ。

マスターの勧めで、カウンターにバーベキューセットをあしらえ、炭火で肉を焼いて食べた。これがまたうまいんだよなーーーー。昔、何かの宣伝であったが、「あなたはこしらえる人。僕は食べる人」。これが男女間だったら差別用語になるとのこと。そんなもんかなーーーー?。今回はのりチャン先生がこしらえる人だ。器用に菜箸をあやつり、肉が焼けていく。マスター特製の「みそだれ」で、舌鼓み。グラスのお代わりも弾んだ。

夏の氷が瞬く間に溶けるように、僕たちの気詰り感も融解していった。話は多方面に及び、協調しあうところはうなずき、そうでないところは、互いの方向性、考え方の違いということで妥協とあいなった。まあ、それでいいわけだ。帰りには互いの健康を祝福しあった。終始、静かな会話だった。よくよく考えてみると、周りの迷惑も顧みず、大声で言い合った、あの時の姿は、大人気ないといえば大人気ないか?。

のりチャン先生は、これから盆過ぎまで、しばらくの休暇のようだ、こちとらは、盆であろうと無かろうと、年から年中、仕事。これも宿命だ。従って、盆に故郷の地を踏んだことが無い。涼しくなってから、父や叔母の墓参りに行こうと思っている。

       ひや酒を、仏も飲むや、盆きたり。

       道端の、地蔵頭に、カキ氷。

いやああ、駄作二題でした。枯葉落ちる秋が恋しいぜ。
      
       



     










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