umityanの日記
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2004年03月30日(火) 花見より鼻見がいいのではないか?これは余計なお世話か。

花見より鼻見がいいのではないか?これは余計なお世話か。
at 2004 03/30 11:28 編集

「春深し、隣は何する人ぞ?」。こうくれば、もう次の句は決まってくる。「いわずもがな、花見する人ぞ」である。今や、全国津々浦々、花見の話で、もちきり。そんなに、花見が楽しいだべかーー?。花をめでるより、我が低い鼻をめでたがいいのではないだべか?。おっと、こう言ってしまうと、ひがみ根性の何物でもないなあ・・・・。止めておこう。

いやああ、それにしても、日本って、平和だ。というより、平和ボケしていると言った方が近いかもしれない。
戦後60年。よくぞ、日本はここまで復興したものだ。戦争を知らない世代に属する僕も、じいさん、ばあさん、父、母から、色々と昔のことを聞いた。それは、それは、並大抵の苦労ではなかったようだ。その苦労を苦労と思わず、我々をここまで、導いてくれたことに感謝せねばなるまい。僕も、なんとか、不良中年にならず、ここまで、生きてこられた。すべては、ご先祖様と、周りの人達のおかげである。

それはそうと、今、日本社会はどこへ向かって進んでいるのだろうか?。時々、行く先が分からず不安になる。年金改革は光が見えない泥沼へ沈み込みそうな気配だし、経済は、一部の業種を除くと、一向に良くならない。
行政改革の一環として、公的機関は、独立行政法人化ということで、お上の手を離れて、自主存続の道を模索し始めた。まあ、これは悪いことではない。競争の原理で、良い結果に結びつけば幸いと言うものだ。
ただ、花形の業種や研究にたずさわる人たちは、日の目を見るかもしれないが、そうでない、地味つな研究に邁進している人たちにも、目を向けて欲しいと思う。でなければ、世の中が偏重主義にかたむいてしまう危険性がある。

ただ、こういう改革は、本当に20年、30年、100年先を見越した、有意義な改革なのかどうか定かではない。
僕にいわせれば、改革の旗揚げは結構なことだが、それを行うのは、何といっても人間だ。その人間の改革を行わないで、機構だけを改革しても無意味ではないか?。
いまや、人間の心の荒廃は目に余るようだ。

教育現場を見ても分かる。教師はサラリーマン化し、子供の教育より、わがことしか考えていない。はたまた、「子供にいじめはするな」と言いながら、教師同士がいじめあっている。なんという悲しい現実だ。
気にいらなければ、平気で人をこけおろす。我が身の愚かさにきずかない。本分は、子供を精神的にも学問的にも立派に導くことであるはずなのに・・・・・・・。一体、その本分をどこに置き忘れてしまったのか?。
もちろん、すべての教師がそうではないことは分かっているが。

要するに、言いたい事は、改革は結構だが、人間の心の改革にもっと、国も行政も力を注ぐべきではないか?、ということである。
こう批判的なことを言うと、「それじゃあ、お前になにか、いい案があるなら出してみよ」と、言われそうだ。残念ながら、こういうことの特効薬はないようだ。国が掲げた、「ゆとりある教育」とは、必ずしも、形ではない。心がともなってこそ、ゆとりある教育というべきだろう。
その心の改革を僕も今、模索しているところである。




2004年03月24日(水) いかりや長介さんの死。

いかりや長介さんの死。
at 2004 03/24 12:31 編集

ドリフターズの、いかりや長介さんが亡くなった。思えばちいさいころ「8時だよ全員集合」というテレビ番組を見て、大笑いしていたことを思い出す。なにしろ、奇想天外な出し物で、コントを演じていたが、演じる人たちも大変だったろう。

頭上から水が「ドバーッ」と流れてきて、びしょぬれになったり、はたまた、頭に、洗濯桶やらが落ちてきて、「ごつーん」と、まともに食らうわけだ。そりゃあ・・・痛いに違いない。見ている僕らは、「相変わらず馬鹿なことをやっているな・・・・」と思いながらも、その滑稽さに引かれていく。この心理は一体なんだろうか?。

今、振り返って見ると、ドリフのコントには、危険そうな演技も多々あったが、何故か安心して見ていられた。同時に、メンバー一人一人が、極めて強い個性の持ち主ばかり。皆、それぞれに、面白さを持っていたように思う。

数年前だったか、、長介さんが、コマーシャルで、見事な役をやっていたことを思い出す。リズムにのって、歌を口ずさむ・・・・・。なんという宣伝だったか忘れたが、実に表情が豊かだった。
もう、長介さんの姿を見れなくなるのは、実に残念である。心からご冥福を祈ります。

日本では一人の著名人の死。そして、世界では、ハマスの最高指導者、ヤシン師の死。二つの死は、たくさんの人々の心を支えてきたという点では同じだろう。いかなる死も肯定したくはないが、人生は あまりに悲しく切ないものだと思う。

春うラらの今日。この天気とは裏腹に世界はきな臭くなっている。世界がもっと平和にすすめる、最良の手立てはないものか?








2004年03月22日(月) 「さよなら」という歌に僕の心は涙する。

「さよなら」という歌に僕の心は涙する。
at 2004 03/22 13:35 編集

なんやかんやと、せわしい毎日が続いた。そのせいではないが、10日以上も日記を書いていなかった。
世の中を見回すと、相変わらずと、きな臭いことばかりで嫌になってしまう。ふと、こんな時、どこか遠いところへ言ってしまいたいような衝動に駆られる。遠いところとは、まだ、あの世のことではない。それはちょっと早すぎる。とりあえずは、旅がしたい。

風光明媚で、静かなところ。のんびりと温泉に浸かって、人生の垢を落としたいものだ。「田舎に泊まろう」というテレビ番組があるが、ああいうのもいいと思う。初めて触れ合う人たちからのたくさんの親切。これに勝る感謝とご馳走はないだろう。日本の社会に、こんな人情がまだ残っていることが嬉しい。そんな所を旅したいものだ。

振り返れば、ここ10日間、いろんなことがあった。Qちゃんこと、高橋尚子さんの、アテネ五輪選考での落選。残念なことだ。疲れを見せない笑顔の美しい魔女のような印象を持っていたが、如何せん、魔女の体調にも好不調はあるものだ。今は黙って、魔女の復活を願うだけだ。

さらには、とどまることを知らないテロ。連日、世界のあちこちで、勃発している。政治・宗教の違いはあっても、皆、願うことは平和。それが分かっていながら、何故、人間は血で血を染めるのだろうか?。

テレビで報じていた世界各国の子供達のインタブーでの発言が胸を打った。皆、平和を願っている。皆、母国をこよなく愛している。ある若者が言っていた。「政治家になったら、戦争のない国を造りたい」と。
貧しいながら、子供達の目は光り輝いていた。日本の子供にない目を持っているような気がした。
今、人類がやっていることは、後世に大きな「つけ」を残しているだけなんだと言うことに、何故、気がつかないのか?。悲しいことだ。
思うに、最近、人間は、自己の利益や権利の追求のみに奔走し、人を真に思いやる「愛」の」気持ちが欠落しているようだ。
いつも、排他的な愛しか、もてないから、衝突があるわけだ。もっと、ピュアで、相手を思いやる愛がもてないのだろうか?。

愛という言葉で思い出したが、僕は今、小田和正さんの、「さよなら」という歌に痛く執心している。歌詞とメロディーが僕の心をえぐるのだ。「さよなら、さよなら、さよなら、外は白い冬。愛したのは確かに君だけ・・・・そのままの君だけーーー」ー」。たとえ別れても相手を気使う愛って、いいなーーーーーと思う。こういう優しい愛があれば、人間社会はもっと良くなると思うのだが・・・・・。僕ももっと、精進せねばなるまい。


2004年03月10日(水) 友人の母親が亡くなった。

友人の母親が亡くなった。
at 2004 03/10 19:35 編集

昨夜は、友人の母親の通夜に参列した。72歳という若さでの旅立ち。彼は親一人子一人の二人暮らしだった。さぞかし無念なことだったろう。

ただ、一つの救いは、母親が亡くなる何日か前に、結婚相手の女性を紹介し、結納を交わしたことだ。母親は病床の中で、フィアンセと、その父親の手を固く握り締めたという。友人にとっては、最高の親孝行をしたわけだ。母親もきっと安心して旅立っことが出来たに違いない。

思えば、友人は同大学、同学部の後輩で、今は僕の飲み友達。彼とは、卒業後10数年を経て、さる小料理屋で知り合った。その店では、彼の方が先輩だった。僕達は会うたびに意気投合した。彼は、芸能人にしてもいいような、なかなかの美男子である。あわよくば、僕の仕事の弟子にしたいなああと、何度も熱いエールを送っていたが、「にこっつ」と笑うだけで、良い返事は返ってこなかった。

それもそのはずだ。なななななんと、昨夜、初めて知ったことだが、フィアンセの父親は僕と同業。しかも、よく知っている先輩の娘さんだった。彼ら二人と何度か飲んだことがあったが、そういう話にならず、全く気がつかなかった。「どうして、早く言ってくれなかったのか?」と、僕としては多少不満である。多分、僕に気をつかって、言い出せなかったのだろう。

僕は、気を取り直して、「精進落としだあ・・・・・・」ということで、帰りに、その小料理屋へ立ち寄った。そこには既に、顔なじみの一見客が一人いた。ママさんを交えて、僕達は「酒」を飲んだ。久しぶりに飲む酒は、なんとも、複雑な味がした。「サヨリ」と言う白身の魚を焼いてもらった。これは実にうまかった。しみじみと雑談をしていると、のりちゃんからの電話。

通夜に行く前に、テルを入れておいたわけだが、彼も飲みたかったのだろう。すぐ来るとの返事。類は類を呼ぶと言うが、まさにしかり。ノンベーに理屈は入らないわけだ。四人で話をしていると、またもや、知り合いのカウンター仲間が夫婦同伴でやって来た。お土産ということで、五合瓶の焼酎をぶら下げていた。僕達もご相伴に預かり、雑談は佳境に・・・・・。

僕達は時の経つのも忘れて、人生のあれこれを語り合った。まあこれも、友人の母親への良い送別になったことだろう。といいながら、飲み過ぎてしまうとは、僕もだらしがないものよ。

友人も、今後は新妻と手を携えて、力強く生きていくに違いない。今はそっと、手を合わせて、静かに見守ってやろう。合掌。


2004年03月07日(日) 人間もビッグバンの落とし子だ。

人間もビッグバンの落とし子だ。
at 2004 03/07 17:56 編集

いやああ、人間の英知って何と素晴らしいんだろうか。ビッグバンから生じたとされる「質量」を生む仕組みを、日本の学者達が解明したのだ。

物質の主要構成要素である、陽子や中性子は、基本粒子であるクォーク三個で出来ているそうだ。このクォーク三個分の質量は陽子や中性子の総質量の2パーセント。しからば、残りの98パーセントの質量は一体何なのか?。この要因として、考えられていたのが「クォーク凝縮」ということらしい。この凝縮の存在は何十年も前に、日本の学者によって予言されていたという。もともと、質量とは物体の運動の変化しにくさをあらわす物理量で、質量の大きなものほど、動かしにくく、止めにくいらしい。相撲で言えば、曙関や、小錦関みたいな人は、動かしにくく、突進を止めにくいようだから、質量も大きいのだろうか。うんんん、こういう言い方はしないなーーー。

何だか難しい話だ。僕も良く分からないが、空間に無数にあるクォークが対となって、目に見えない形で陽子や中性子にまとわりつく。陽子や中性子は身動きが取れなくなり、質量が増えたということらしい。そのことが実験で確かめられたという。かわいい女性からまとわりつかれて、身動きがとれず、質量が増えたら、こりゃあ・・・前後左右に花で、嬉しいわけだが。物理学の世界では、そういう次元とは違う。まずは、原因が実証できた。そのことが何よりも素晴らしいことだ。
超ミクロの世界の話で、ちんぷんかんぷんであるが、とても興味深い。

ただ、われわれ人間もビッグバンの落とし子である。無関心でいられるわけがない。今や、火星にも生命体の存在の有無が確かめられようとしている。万物創生と、その働きの解明への夢はますます膨らむばかりである。

ここで、あさはかな僕の疑問をあげるとすれば、宇宙がビッツグバンによって、生じたとすれば、ビッグバンの前は一体、なんだったのか?ということである。
何にもなかったのか?。無だったのか?。
無から何故、ビッグバンは起こったのか?。
僕に無限の命があるならば、ぜひともその解明にのりだすところだが、如何せん、明日のおまんまのことも、考えなくてはならない。

山の神は言うだろう。「あんた、そんな夢みたいなことばかり言っていないで、明日の、支払いはどうすんのよ」ってね。
「分かっています。分かっています。身を粉にして働きますよ・・・とほほ」。
まあ、これが現実のいきざまですたい。

ただ、身を粉にして、研究にはげんでおられる人たちに、心からエールをおくりたい。願わくば、もっと予算が確保できて、研究しやすい環境が整えばいいと思う。









2004年03月04日(木) 火星に水の痕跡が見つかった。

火星に水の痕跡が見つかった。
at 2004 03/04 12:07 編集

火星に水存在の痕跡が見つかった。以前から予想されていたことだったが、明確な証拠が見つかったからには、もう疑う余地はない。「わおーーーーつ、万歳・・・・」と叫ぼう。きっと、生命体も見つかるだろう。今からわくわくである。

その大昔、火星には大量の水があり、あたかも、地球と同じように、風光明媚な自然環境で、満つ満つしていたに違いない。
如何せん、時は水を干上がらせ、火星の台地を荒野に変えた。時の流れの中で、一体、何があったのだろうか?。今、僕が知りたいのは、そのことである。

まさか、原爆や水爆が落ちたとは考えられない。巨大惑星の衝突。これはありえるかもしれない。あるいは、灼熱で水が蒸発してしまった。これも考えられるだろう。
いずれにせよ、地球の兄弟星の出生の謎を紐解く手がかりがつかめた意義は大きい。

残念ながら、今のところ地表に水はないかもしれない。しからば、地下はどうか?。
「あります。あります。大量の水が」。「ここ掘れ、ワンワン」ではないが、地下深く掘り進んでいくと、僕の顔を映したら、うっとりするような美男子に見える、透き通った水がわんさと。僕の心はその期待で一杯である。地下水脈があり、懇々と水があふれている。その中で、生命体が息を潜めながら生きているに違いない。「最近、地表がうるさいなーーーー。何があっているのだろう?」と、火星の生命体が、眉毛をへの字に結んでいるかもしれない。

宇宙に夢を膨らませると、実に楽しい。
混沌として不確かな娑婆世界にいると、結構疲れてしまう。右を向いても、左を向いても、欲望渦巻く人間達がとぐろを巻いている。おっと、僕もその一人には違いないが。そんな世界では夢なんてもちずらい。その点、宇宙に抱く夢は打算も欲望もない。もともと、宇宙は僕達人間にとっては、父であり、母であるから、当然といえば当然か。

これから、もっと、もっと、新しい発見がなされるだろう。。火星探査機、スピリットと、オポチュニティーの活躍に期待したい。




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