umityanの日記
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2003年08月31日(日) 八月の終わりに思う


八月の終わりに思う
at 2003 08/31 16:13 編集

厳しい残暑のなかで、八月の末日を迎えた。いよいよ、明日から、長月、9月だ。9月は僕の誕生日と、自動車免許の更新がやってくる。忘れたい誕生日はさておき、前回の自動車免許の更新には苦い思い出がある。更新時の三ヶ月前に、70過ぎのおばあちゃんのバイクと接触事故を起こした。どう、考えても僕に落ち度はないと思ったが、そういかないところが、日ごろの常。それぞれに、自己主張しても、やはり車が強者。バイクとおばあちゃんとくれば、弱者だ。強者が悪くなるのは当然ということで、いくばくかの点数が減点された。したがって、免許証の色はブルーで、更新期間は三年。ゴールド免許の5年とは大違いだ。以来、安全運転に勤め、三年三ヶ月無事故無違反。点数は既に復活したものの、今回まではブルーの免許証である。
うんんん、残念だ。

まああ、嘆いていても始まらない。そういえば、後四ヶ月で正月だ。そろそろ、今年の反省をしなくてはならない。僕はせっかちなので、何でも早めにしないと気が落ち着かない。さあ、反省タイムだ。
「神よ、仏よ、宇宙の絶対神よ、僕の今年の諸々の罪を許したまえ・・・・・洗い清めたまえ・・・。アーメン。南無・・・。合掌・・・・むにゃむにゃ・・・・」。
こう書くと、「この欲張り者、いまなお、お前は、罪深いやつだ・・・・」と一喝されそう。それでも、すったもんだしながら、今日まで、大過なく来れたことは、懺悔の効果が少しはあったのかもしれない。
おっと、これ以上言及することは好ましくないようだ。

この辺で話題を変えて、昨夜は久しぶりに世界陸上競技をテレビで見た。日本選手の活躍には目覚しいものがあった。もって生まれた才能もあるだろうが、やはり、なんといても努力の積み重ねが実を結んだと言っていいだろう。選手の皆さんに、「心からおめでとう」と、言いたい。

オリンピックにせよ、世界のスポーツを見ていて、よく思うことだが、確かにスポーツに、国境はない。愛もそうかもしれない。しかるに、戦争だけは国境があるわけだ。宗教の違いからくる排他性。人口増に伴う食料、資源の奪い合い。民族の生存権を脅かす貧富の差の拡大。神も、仏も宇宙も、これらを想定して人類を地球に送り込んだわけではないはずだ。共存共栄と相互扶助による世界平和の構築。この精神が世界中に充満し、その具体的行動がとられれば、世界はもっと平和になるに違いない。そんな気がする。言葉では誰でもわかっている。が、現実の世界は、そう甘くはない。如何ともしがたい欲を、人類が持っているからなんだろうか?。その欲をちょっとばかり、抑えて生きたらどうなんだろうか?。いろんな思惑が錯綜している。そのもつれた思惑と言う糸をほぐすには、欲をちょっと、抑えることしかないのではないだろうか?。

欲は欲として認めても、スポーツ選手が、一歩、一歩、努力を重ねて果実を実らせているように、各国も、その努力を重ねて、平和と言う実を実らせていくことしか、今は出来ないのかもしれない。せいてはことを仕損じるというから。まずは足元の第一歩からスタートである。
なんだか、自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。この辺で、八月の終わりの締めくくりとしたい。



2003年08月26日(火) 明日の糧を求めて行動。

明日の糧を求めて行動。
at 2003 08/26 12:29 編集

先週、土曜日は無事に同窓会を終えて、日曜日の午前7時に我が家へ帰還。そく、仕事の準備にかかり、寝る暇がなかった。それでも、なんとか、仕事をこなし、その夜は早めに就寝。いやああ、睡眠不足はこたえる。いつまでも、若い、若いと思っていたが、やはり、歳相応か。

まだ、同窓会の余韻を残しながら、仕事に向かっているが、もうひとつ、気合が入らない。秋近しのせいなんだろうか?。そういえば、ようやく、猛暑から脱し、ひたひたと秋の気配が忍び寄っている。盆過ぎてからは本当に暑かった。「これじゃあ、たまらないぜ」と思っていたが、先日、小雨がぱらついて以来、涼しくなってきた。「よかった」と思っていたが、何故か気合がもう一つ。うんん、これはどうしたことか?。

秋、やはり秋なんだなあーーー。秋といえば、木の葉が色つき、やがては丸裸に変容する。新しい息吹を迎えるための準備である。人間には紅葉はないが、やはり、秋から冬へ向かう季節は、活力みなぎる春を迎えんがための、終息期かもしれない。
僕の気力欠如を季節のせいにしてはいけないが、やはり、今一つだ。

そういえば、面白いことに、春は「けだるく」、夏は「うだるようで」、秋は「物憂くて」、冬は「しばれる」だ。こうなると、年から年中、気合が入らない。
反面、秋は「味覚の愛、馬、太る秋、天高き秋」であり、冬は、「透き通った空気がおいしく、ペチカの火は暖かく、満天の星空は美しく、クリスマスもあるでーで楽しかばんた」であり、春は春で、心がうきうき、その楽しさをあげれば枚挙に暇がない。夏は夏でギンギラギンの夏である。わお^−−−つと叫びたくなる夏である。
こう考えれば、やる気も出てくるわけだ。

本来、僕は楽観的な人間なので、立ち直りは早いので何の心配もない。
ただ、巷を見渡せば、相変わらず。不景気、不景気である。左を向いても、右を向いても、仏頂面の顔ばかり。前を向いても、後ろを向いても、闇ばかり。これじゃあ、身動きがとれない。それでも、やはり、前を向いて歩かなくちゃならない。だから、つらいんだよなーーー。

何か抜本的改革はないんだろうか?皆が幸せになれるような思い切った改革は?。
そう言えば、先日車に乗せていた綾小路君麻呂さんのシーデイーを聞いた。
その中で言っていたが、「おじん法、おばん法」の制定。これなんかは、抜本的改革の一つと言っていいだろう。

70才過ぎのおじんには、年二回、バイアグラの配布。80才以上のおじん、おばんには、年三回の無銭飲食の許可。こりゃああ、すばらしい法律だ。こういう明るい法律なら大歓迎だ。

ただ、昨今の法律は、何かがあった後、あわてて、それを規制しようとする。法で規制する前に、もっと何かすべきことがあるんじゃないだろうか。新しい法律が出来るたびにそう思う。何かすべきこととは、大人がもっと、襟裳を正すことが、その出発点でなければならないような気がする。

えらそうなことを言っているが、「あんたはどうなんだ?」と言われれば、僕もやはり、同じ穴のむじなである。そうであるならば、言わなければ良かったが、いつも、肝に銘じていることなので、あえて言ってしまった。

「気合が入らない」と、言いながら、えらい気合を入れて書いてしまった。「そういうことを書く前に、もっとなにかすべきことがあるんじゃないの」と、おしかりを受けそうだ。「ごもっともです。未熟者でした」。まずは、おまんがが食えるように、汗水流すことが先決のようだ。考える前に明日の糧を求めて行動だ。これが結論だ。


2003年08月25日(月) 恒例の同窓会

恒例の同窓会
at 2003 08/25 00:34 編集

昨日、土曜日は高校の同窓会に出席した。会結成以来100年ということで、500名の老若男女が集った。ホテルの大ホールはまさに、人の波。僕たち、同卒業年度の仲間たちにワンテーブルがあてがわれ、いよいよ、始まり始まりだ。幹事と先輩諸氏の挨拶だ。これが長いと興ざめだが、今回は、それを察知してか、かなり、スピーディーに進行した。やれやれである。

同窓会はいつものことながら、健康を祝して、近況を語り合う。胸中に去来するものは、お互いに未熟だったという思い出の念かもしれない。それを、笑いで語ろうというわけだ。酒がうまいのもうなずける。今は、ポツリ、ポツリと、頭髪に「カシミアの白髪」たくわえ、と言いたいところだが、頭の前半分は風前の灯火だ。ただ、それぞれに、風格らしきものを、貫禄らしきものを備えている。皆、それぞれに、童顔の面影を残しながら、「生きてきたぞーーーー」という、自信にあふれた顔をしている。やはり、伊達に歳をとっていないわけだ。

ほぼ二時間ばかりの全体同窓会を終えた。いつものことながら、焼酎で、とぐろを巻いた。ほろ酔い気分のなかで、僕たち同年の者、10名程度、町のとある一角へ繰り出すことになった。中学時代の同級生が経営しているスナックがあるという。僕たちは何の抵抗もなく、その店に陣取った。
ここでもまた、先ほどと同じ会話が始まるわけだが、人数が減ったためか、話も複雑さを呈してきた。あるものは歯医者、画家、政治家の妻、車の修理工場の経営、大学教授、公務員といった具合で、職業もバライティーに富んでいる。だから話していて面白いのかもしれない。それに、なんといっても、打算がないことが、同窓会の一番いいところだろう。

僕たちは延々、明け方三時まで、あれこれとだべっていた。僕は今日の日曜日は仕事があったので、そく、帰還せねばならなかった。本当は、日曜日もゆっくりしていたかったが、やむを得ない。
ただ、楽しい同窓会だったことは収穫である。恐らく、時間が許せば来年も行くことになるだろう。

来年のことを言うと鬼が笑うというから、この辺で止めておこう。


2003年08月22日(金) 仕事に励んだ一日。

仕事に励んだ一日。
at 2003 08/22 18:37 編集

今日も、暑さだけを残して、つつがなく一日が終わろうとしている。こんな暑い日は外出するにあらずで、終日、机に向かって仕事をしていた。こんな日も珍しい。

ちっとも、じっとしていられない僕の性格から言えば、昼過ぎになると、そそくさと、出かけてしまうのがおちである。それに反して今日一日、こもっていたのはどういうわけか?。

実はその理由があるわけだ。翌日、土曜日は、恒例の高校時代の同窓会ということで、多分、終日、家を留守にするだろう。たまった仕事に目途をつけるには、今日、頑張っておかねばならなかったわけだ。一応、けじめはついた。ということで、この日記書きに及んだ次第である。

それにしても、目が疲れる。最近、遠視がでてきたみたいで、近くが見つらくなった。友人たちは、それなりに、眼鏡をはめているが、僕は、まだ、のっぺら顔で頑張っている。まあ、時期が来れば、それなりに対応しなければならないだろう。

それにしても、僕たちの仲間は同窓会が好きである。仲間が寄り合って、むさくるしいところで、わいわいやるのは、日本人の性にあっているのかもしれない。昔、「日本人はウサギ小屋に住んでいる」と、外国人にいわれたことがあったが、まさにそうかもしれない。口角を飛ばしながら、体を寄せ合って、わいわいやっていると、なにかしら安心感があるのだ。広いところでは、なすすべもなく、その利用の仕方にとまどってしまうのだ。

僕も小さい頃は、広い空間のあるところで、のびのびと過ごせたら幸せだと思っていた。兄弟が三人もいると、占める空間を侵略されて、よく喧嘩になったものだ。今はそれなりに満足した空間にいるが、やはり、育った素性は隠せないものだ。一人で、広いところにいると、落ち着かなく、淋しくなってしまう。周りに本があっても、読むきがしない。仕方なく一人でいるとき、思うが、コーヒーが飲みたいときに、「お坊ちゃま、コーヒーでもいれましようか」と、優しい声が聞こえて、目の前においしそうなコーヒーが運ばれてくる。
運び人が絶世の美女と来れば、「いやーーー最高だ」ということになるわけだ。広さなんか関係なく、快適、快適。「もっとちこうに、きしゃれ」とか何とかなるわけだが、現実は、そう甘くはない。猫ですら、「自分でコーヒーいれたら」と、そっぽを向いてしまう。

いやはや、人生って、悲しくて淋しいものだぜ。だからこそ、同窓会であれ、なんであれ、人は寄り集まるのかも知れない。僕もどうやら、人恋しさで飢えているわけだ。

てなわけで、明日は、母の住む故郷へ帰るわけだが、残念ながら母に会う時間がない。9月になると、すぐ、叔母の三回忌があるから、そのときに会うことにしよう。
まずは、仕事の目途がついたことで、気分が良い。さああ、後は明日への、甘い香りを振りまきながら時間が流れるだけだ。




2003年08月21日(木) 「かあちゃん代行」。怖いやら怖くないやら。

「かあちゃん代行」。怖いやら怖くないやら。
at 2003 08/21 17:29 編集

お盆が終わりいつもと変わらない生活が戻ってきた。秋の気配を思わせるような涼しいお盆であった。しかるに、盆過ぎのこの暑さはなんとしたことか?。連日、30度を越す猛暑である。地球は大丈夫なんだろうか?と、ふと思ってしまう。

そんなことを考えながら、やっと、久々の日記を書いている。書く材料はあまたとあれど、ペンが進まなかったのだ。
やっと、いろんなしがらみから開放されて、自由にひたりつつある今の僕である。

昨夜は、のりちゃんから、10日ぶりに呼び出しがかかり、いつもの小料理屋で舌鼓みを打った。なんでも、彼は、山ノ神の故郷へ同行し、のんびりと温泉なぞに浸かって、リラックスしたのだそうだ。うらやましい限りだぜ。そういえば、どことなく垢抜けたようで、一皮向けていた。
眼鏡の奥からは、相変わらずかわいい、お目目が、にんまりと笑っていた。
ママさんから、色々とほめられると、照れ笑いしながら、顔を赤らめるところが、またかわいいじゃないか。

僕のことは誰もほめてくれないので、やけのやんぱちで、焼酎をしこたま、あおってしまった。こう書くとあまりに、僕は惨めなので、とりあえずは、和気藹々と、よもや話に花を咲かせたことにしておこう。

そうこうしている時、突然、店のドアが開いて、「かあちゃん代行です・・・・」と、車代行の男の人が飛び込んできた。
僕たちは「ええっつ、、はっはっはーーー」と、笑ってしまった。世の男性は、「かあちゃん代行」という言葉を聞くと、一瞬、たじろぐに違いない。「ええっつ、まさか、女房が迎えにきた?」と、驚くに違いない。昨夜はまさに、のりちゃんはそういう表情をしていた。「もう、ごめんだぜ」と彼の顔は言っていた。彼の名誉のために付け加えておくと、僕も同様、同じ穴のむじなである。一瞬の心の動揺は隠せなかった。

その後は、僕たちは冷静さを取りもどし、「言葉のおもしろさ」について、なんだ、かんだとしゃべり始めた。僕が、「うんんん、かちゃん代行か?。山ノ神代行もいいんじゃない?」というと、周りが「しらーーーつ」となった。そもそも、「山ノ神」がなんたる意味なのかを、周りが知らないわけだ。情けないと思ったが、もう、この言葉は死後なんだろうか?。そんなことはないだろう。乗りチャンだけが、「にやっ」と、ニヒルな笑いをしたようだ。

僕は既に食事を済ませていたが、のりちゃんはまだだった。食べること食べること。見事な食欲である。たこ刺しから、ママ推薦の、油の乗った刺身用の秋刀魚を焼いて食べたりしていた。僕や、別のお客さんは、「油の、たっぷりのった・・・ーーー?」というママの言葉に、やや疑義ありと思ったが、本人が「うまい」と思えばそれで、いいわけだ。僕たちは、本当は、「残暑の秋刀魚か」と言いたかったが、さすがに、いえなかった。

笑い笑いのなかで、話がどんどんすすみ、食事が一段落したところで、突然のりちゃん曰く。「何か、かわきものが欲しいなあ・・・・」と。一瞬、僕は何のことか分からなかった。「かわきものねーーー?」。なるほど、スナック菓子のことかと、大笑い。僕は言ってやったね。「あんた、かわきものって、まさか、ばあちゃんのほっぺたにでも、キスをしたいわけじゃないだろうね」と。これはちょっと、失言。
これまた、大笑い。正直、「かわきもの」という言葉が、魚類以外の他のつまみを暗示しているとは知らなかった。僕も無知なことよ。

そうこうしていると、門限の0時が迫っていた。この時刻になると、「山ノ神」の存在が気にかかる。僕たちはそそくさと、代行を呼んだ。もちろん「かあちゃん代行」ではない。僕たちは奇声を上げながら、店をあとにした。sどの奇声も、自宅近くになると、悲鳴に変わったが。これは冗談だ。
いやああ、こういう笑いのある飲み方って最高だ。僕たちは再会を約して、岐路の旅を急いだわけだ。


2003年08月11日(月) お盆によせて。

お盆によせて。
at 2003 08/11 23:11 編集

いよいよお盆だ。毎年のことながら、いつも、心新たになる。先に逝った父、叔母、姪、それに、親しかった先輩等を思い出す。今頃、冥土でなにをしているのだろうか?。お盆にあやかって、里帰りの準備をしているのかもしれない。なんでも、お盆には牛馬に乗って帰ってくるという。時々、なすびに足をつけて、供物として置いてあるのをみたことがある。「へーーーおもしろいなーー」と、子供心に思ったものだ。

この時期は、正月と同じく、家族が連れ立って、里帰りをする。仏壇に帰ってきている先祖に近況報告をするためだ。こういう習慣っていいと思う。やはり、故郷は遠くにありて思うもので、時々帰るから、懐かしさもひとしおだろう。

そういえば、僕は盆に故郷に帰ったことがない。まああ、仕事が忙しいから仕方がないことなんだが。それでも、盆が過ぎて、恒例の高校時代の同窓会がある。毎年やっているから、たいしたものだ。僕も時間と金があれば、極力、参加するようにしている。先輩の同窓生はほとんど、顔かたちが変わり、誰か分からない。僕たちはもっぱら同級生たちと歓談する。互いに「老けたなあ」と言う言葉が常套文句だ。もちろん、母の所に寄るわけだが、老いた母の顔をみるのはつらい。いつも、後ろ髪を引かれる思いで、母の所を立つ。

ただ、同じ高校の同窓生ということで、酒が飲めるわけだから、日本って、本当に幸せな国である。桜が咲けば花見。年の暮れになると、忘年会。結婚式では祝い酒。葬式では精進落としで一杯。なんと、酒付きの行事の多いことか。ほんの一例を挙げたが、もうこれは、終止がつかないほどだ。
僕は酒の席はきらいなほうではないので、行事が多いことにはなんの抵抗もない。

お盆の話が同窓会と酒の話になってしまった。いずれにしても、人の死ほど悲しいことはない。生きとし生ける者の宿命ならば、悲しくても仕方がないか。ただ、往々にして人は自分の死に関しては、結構、無頓着である。なぜなら、自分が経験していない死だからである。経験していないことは語りようにも語れないのが当たり前だ。要するに、死が迎えに来るまで待つしまないのかもしれない。

石原裕次郎さんは、「港の見える丘に眠りたい」と言ったそうな。果たして、僕はどういうんだろうか?。まだ、考えていない。いずれ、父や、仲間のところへ逝くに違いないので、やはり、生前に考えておくべきなのだろうか?。うんんん、まだ難しいようだ。


2003年08月05日(火) 猛暑の中の雑感・・・頭がくらむぜ。

猛暑の中の雑感・・・頭がくらむぜ。
at 2003 08/05 21:29 編集

いよいよ夏真っ盛りで、連日30度以上の猛暑が続いている。こんな時、よく思う。昨年はどうだったのかって。温暖化、温暖化で、毎年、暑くなっているみたいだからだ。いまやもう、クーラーなしでは過ごせない。昔は、団扇と扇風機。縁側に陣取り、蚊を団扇で追っ払いながら、スイカや、カキ氷など食べて過ごしたものだ。
暑いには暑いが、何故か自然と一体になっている気がして、心地よかったことを覚えている。今はそういう経験がほとんどない。

最近、蚊もとんと見なくなった。いつも涼しい部屋の中では、蚊も本来の力を発揮できずに、隅っこで、震えているのだろう。
ここで、一句浮かんだ。「蚊もすまぬ部屋で、猫は高いびき」。うんんん、もうひとつか?。

動物虐待とおもわれては、心外だが、どうも、猫は好きになれない。しつけが大事かも知れないが、勝手にテーブルの上や、ソファーの上で、あぐらをかいて、我が物顔をしている姿には、結構腹が立つ。「遠慮と言うものを知らないのか」といってやりたい。まあ、猫をしかっても仕方のないことなんだが。
そのくせ、犬は許せるから不思議だ。なんでも、犬は三日飼うと恩を忘れないと言うし、果たして、猫はどうなんだろう?。つぶらな犬の瞳と目が合ったとき、お互いに信頼関係が見て取れる。その点、猫の丸い瞳には、優しさと言うか、主人を思いやる気持ちが見えないのだ。これは、あくまで、僕の偏見かもしれないが。
それはまったく、あなたの偏見です」と、猫好きの人たちから怒られそうだが、仕方がない。
まああ、猫も生きているわけだから、「よりよく生きよ」と願うしかない。
おっと、今日は犬、猫のことを書くつもりはなかった。

昔、家族で過ごした団欒。夜空を眺めては、星の美しさに感動したものだ。小さい頃は真剣に七夕の短冊に、「お願い文」をしたためていた。やがて、大きくなった僕は、地球も星であることを知り、宇宙に無限の星が存在することを知った。何故、地球だけにしか、生命体がいないのかと、その不思議をずっと、抱えながら、今まで生きてきた。これからも、恐らくそうだろう。

そんな中で、今、火星が地球に大接近する。生命が存在するのではと思われている、まさに、地球の兄弟星。極冠の内部には膨大な氷も存在していると言う。おそらく、火星にも生命体が、その昔の昔には存在していたのかもしれない。これから、もっと、もっと、火星のことが分かってくるだろう。楽しみである。そして、やがては、地球環境を破壊した、人間は火星へ移住することになるかもしれない。あんなに、美しかった地球を廃墟の星に変えて。

そのときは、もう、僕はこの地球に存在せず、エネルギーとなって宇宙空間をさまよっているだろう。果たして、先に逝った父や、先祖たちのエネルギーと、あいまみえることがあるんだろうか?。恐らく「否」に違いない。要するに、生命は子孫を残して死す。ただそれだけかもしれない。願わくば、子孫は、よりよい進化をとげて欲しいものである。

真夏日の悶々とした夕闇の中で、思いついたことを書いてみた。明日も又、今日みたいな日になるんだろうか?。



2003年08月03日(日) 腰振り運動。金魚もびっくり。

腰振り運動。金魚もびっくり。
at 2003 08/03 19:55 編集

いやあ、それにしても今日は暑かった。暑さなんかに、めげてはならずと気負って、小一時間ばかり野良仕事をした。汗が頭から滝のように、なだれ落ちた。最近は、草刈機を使うと、小枝が顔に飛んでくるので、水中眼鏡見たいなものを、顔につけている。美貌に傷がついたら、名誉の勲章と言うわけにもいかない。体裁は悪いが、仕方がない。
メガネは汗で曇るし、知らず知らず水分がたまってくる。だんだん見にくくなるのだ。時々、めがねをはずして、タオルで拭かなくてはならない。そのときが丁度、一服する時間である。

野良仕事は、きついが、実は僕にとっては運動である。今、毎朝、畳の部屋で、金魚の腰振り運動を模写した機械に足を置いて、せっせと、贅肉をこさいでいる。なんと、草刈機械は肩からベルトをかけて、横に振り回すので、丁度、金魚の遊泳運動と同じ効果があるみたいだ。だんだんと、細りゆく、我が腰まわりを眺めてはじっと、ほくそえんでいる次第である。

それにしても、文明は、健康によさそうなものを何でも作り出せるからたいしたものだ。昨今、ダイエットブームみたいである。あの手、この手で、商戦が繰り広げられている。スリムになることって、女性にとっても、男性にとっても重大な関心ごとなんだろう。「他人事みたいに言っている、おまえさんはどうなんだ?」と、言われそうなので、あえて、弁解すれば、僕にとっては、ダイエットはそれほど深刻な問題ではない。以前、母親が言っていたが、「男たるもの、一定の年齢になると、痩せびょうたんでは、恥ずかしいですよ。少しは貫禄をつけなくちゃ」と。うんんん、確かに、一理はある。太りすぎは良くないかもしれないが、それ相応の体格は歓迎すべきだろう。

ということで、僕は、もっぱら腰振り運動には力を入れているが、特にダイエットはやっていない。ここで、一句川柳が浮かんだ。「腰振り運動、歩く姿はマリリンモンロー」。ピンポーーン。うんんん、おしい。鐘二つってところか。

人がよく言う。「野良仕事の後のビールはうまいねーーー」と。「確かにそうですね」と言いたいところだが、僕はほとんど、家ではアルコール類をたしまない。
もっぱら、友人たちと外で飲むだけである。ということで、ひとしきりシャワーを浴びて、うま茶、とか、ウーロン茶とか、シーシーレモン水とかを飲むわけだ。いやああ、労働の後の一杯はおいしい。おかわりってところか。結構、世の中には、そういう人も多いとか。今日、テレビで誰かが言っていたが、「銀行はお金を預けるところで、借りるところではない」と。その論理でいくと、「酒は家で飲むものではない。外で飲むものである」と言うことになる。

うんんん、これは何の説得力もインパクトもなかったか?。ぼろが出ないうちに、今日はこの辺にしておこう。


2003年08月02日(土) 今日は」ちょっと硬い話を。ええつ、まじ?。

今日は」ちょっと硬い話を。ええつ、まじ?。
at 2003 08/02 20:27 編集

早、八月の二日。そういえば、昨年の今日は、大学の後輩の誕生日で、ナイトラウンジで一献傾けたことを思い出した。それぞれに違う仕事を歩んでいるが、妙に気があったというか、以来、頻繁に僕の家に出入りするようになった。「僕の仕事の後継者に丁度お似合いだなあー」と、つねずね思っていたので、そう言うと、「にこっと笑って首を横に振るばかり」。うんんん、やはり、無理か・・・・・?。

彼は母一人、子一人の二人暮らし。今、母親が入院しているとのことで、大変みたいだ。先日、ちらっつと、結婚の話が出た。多分、母親を安心させてあげたいとの、心つもりだろう。二年ばかり付き合っている彼女と、来年、ゴールインするようだ。僕としては、「早く別れてちょうだい」といいたいところだが、そうも行かない。面倒くさいから、二人ずれ、養子縁組でも何でもして、僕の後継者にと思っているが、おそらく、それはかなわない夢に終わることだろう。仕方がない。

時々思うが、人間はやはり、後継者を残して死んでいくべきだ。普通なら子供がそうである。が、必ずしも、血縁は必要ないかもしれない。ただ、共通の目的を持って、それを受け継いでいけばいいわけだ。

昨今、日本社会は少子化に拍車がかかっている。子供の数が少ないのだ。女性がほとんど一人くらいしか、子供を産まないからである。この現象を悲しいというべきか、それでいいんだというべきか、よく分からない。今の時代、子供をたくさん産んで、育てるには、十分に適した環境にないからだ。若い人たちは、それなりに給料も少なく、人並みの生活をおくるには、共稼ぎが必要だ。子供が出来れば、おのずと収入減となり、出費過多となる。どうしても、出産を制限せざるを得なくなる。行政がすずめの涙の援助を差し伸べても、とるに足らない。やはり、何か抜本的な改革が必要かもしれない。

どう考えても、こういう社会は健全ではないように思える。進化を担う担い手、いわゆる後継者がいなくなるからだ。絶対神である、宇宙は決して、そうなることを予測して、人間を地球に送り込んだのではないだろう。賢くなることはいいことだが、人間は「欲」の追求にのみ、天才的な能力を発揮してしまう。もっと、原始人に近く、原始的な生活に戻ってもいいかもしれなし。そう思えど、悲しいかな、もう大昔には戻れないのだ。

やがて、お盆であるが、ふっと、祖父、祖母、父のことを考えた。思うに、偉大な存在だったと、あらためて思える。貧しかったが、団欒の食卓があり、いつも、心が物質に勝っていた。今は物が心をしのいでいる。ここに問題がありそうだ。僕自身、偉そうなことはいえないが、「まず、心ありき」で、日々を生きていきたい。

八月の初頭に際して、たまにはこういう硬い話もいいか。


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