umityanの日記
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2003年05月30日(金) 味噌汁と五月最後の夢


味噌汁と五月最後の夢
at 2003 05/30 10:14 編集

五月もいよいよ明日までだ。早かった。連休に始まり、瞬きしたかと思うと、もう月末。大きな仕事もなく、のほほんと、雑多に追われてきたように思う。

今日のニュースで面白い記事を見つけた。なんと、味噌にガンの増殖を抑える働きがあるというのだ。こりゃあすごいことだ。
味噌汁が好きで良かった。日本人の大半は味噌汁が好きに違いない。もし、味噌汁を飲んでいなかったら、もっと、ガンは増えていたかもしれない。もちろん、味噌のみが、百パーセントの特効薬と言うわけでもないだろうが、日本人でよかったと思う。

そういえば、小さい頃、母が作ってくれた味噌汁のおいしかったこと。具はやはり、豆腐に、ネギに、わかめなんかが最高だ。母はよく、米味噌を使っていた。その味に随分と慣らされた。今は麦味噌のようだ。母の味噌汁にならされていたので、最初、麦味噌の味噌汁をすすったとき、何だか味が違うなあーーーーと違和感があった。今では麦にならされて、時折母のところへ帰省したときにすする米味噌汁をすするくらいである。そうそう、味噌汁に卵なんか落として食べるのもうまい、今日、先ほど食したばかりである。

もう一つ、宇宙に関する新聞記事を見つけた。なんでも、超新星が一度に18個も見つかったそうだ。超新星は40億年から70億年前に生まれた星で、宇宙の膨張を調べる手がかりになるそうだ。宇宙が膨張していることは知られていたが、そのスピードが加速しているのか、減速しているのかが分かることは興味深い。

時々思うのだが、やはり宇宙にも寿命があり、いつかは消滅してしまうのではないかと。もちろん、そうなるまでは途方もない年月がかかる。僕なんか、宇宙の塵になって、消滅の材料として使われているかもしれない。悲しむべきか喜ぶべきか?。複雑な心境である。
願わくば、今の心を持ってもう一度、宇宙のどこかで生まれ変われたらいいのにと思う。もちろん宇宙が消滅する前にだ。さすれば、、宇宙の消滅を食い止める方法を僕が考えだしているかもしれなし。ひょっとすれば味噌汁にそのヒントが隠されているかもしれない。僕はもらうかもしれない。宇宙味噌汁賞を。地球以外の星ですする味噌汁の味はどんな味がするのだろう・・・・・・?。
「そりゃあ決まっているじゃないか。味噌汁の味だよ」って、誰かがいっている。

朝から馬鹿なことを考えてしまった。五月最後の僕の夢でした。
さあ、仕事だ。仕事だーーーー。




2003年05月28日(水) 五月のそよ風は僕に幸をはこんできた?

五月のそよ風は僕に幸をはこんできた?
at 2003 05/28 11:55 編集

五月のそよ風がほほに優しい。今日はまさにグッド天気だ。最近、暇で、何をしようかと朝から迷っていたが、思い出した。車を修理に出さなくてはいけなかった。

名ドライバーと自称していた僕が、なんと、先日の日曜日である。田んぼの中の家の前にある駐車場で、車をバックしながら、後部バンパーを電柱にぶつけてしまったのだ。なんのことはない、バックしながら、前から来た車に目をやったすきに、「ドーン」と鈍い音がした。電柱があるとは気が付いていたが、まだ、大丈夫という安心感がいけなかったのだろう。電柱はびくともせずに、僕の車の右後部バンパーとライトが見事に破損。うんんん、車両保険はなかったか。こういうときに車両保険もかけておけばよかったと後悔する。いまでは後の祭りだ。今日、代車が用意できるとのことで、早速、午前中に行ってきた。代車はなんと、真っ赤なポルシェ、しかも、後ろ羽付き。「わおーーーー」と喜んだが、車種違いだった。僕の車より、ちょっと、落ちる程度の車だ。
そりゃそうだろう。代車が自分の車より良かったら、そのまま交換だ。

てなわけで、恐らく修理代も二十万円程度かかるそうだ。なんということだ。今夏の僕のボーナスはこれで飛んでしまった。おまけに、唯一の楽しみである、ボスや弟や、のりちゃん、安ちゃん、高ちゃんたちとの、親しい飲み会も制限されてしまうかもしれない。「うえーーーーーん。悲しいぜ」といいたいところだが、そこが打たれ強い僕。不幸は明日への幸福につながるかもしれない。いわゆる、僕の好きな言葉で言えば、「塞翁が馬」という故事と同じ心境だ。

車の修理は、再び新しい部品と交換するから」、新品同様になる。ついでに、他の痛んだところも、交換すれば、車がもっと長生きするやも知れぬ。これはいいことではないか。不幸が幸につながったわけだ。「金より命がだいじだからねえーー」と、僕の心は叫んでいる。

うんん、これを強がりと思う人がいるかもしれないが、確かに少しは強がっているのかもしれない。ただ、僕はいつも、いい方に、いい方に物事を解釈しているから、人からはよく、能天気で、おめでたい人と思われている。それは当たっている。したがって、それほどのストレスもない。

なにはともあれ、今日は五月のそよ風が僕に幸を運んできたのだ。


2003年05月27日(火) ボスの慰労会

ボスの慰労会
at 2003 05/27 14:29 編集

いやああああ、昨夜はすっかり酩酊してしまった。ボスの慰労会ということで、弟を交えて三人。行きつけの小料理屋で、お祝いの「でっかい鯛」を塩焼きにしてもらった。それをつまみに焼酎で舌鼓をうつわけだ。うまくないはずがない。鍬入れではないが、まず、ボスが鯛の肩のあたりに、箸の一撃をいれた。そこが一番うまいのだろうか?。あとはそれいけわんわんで、、瞬く間に鯛は骨だけに。
「たらふくまんま」とはこういう状態をいうのだろうか?僕たちはすっかり満足。おまけに、酩酊ときているから始末におえない。ボスの得意な歌も、すっかり音程はずれ。それを、打ち消すためか、気合だけはすこぶるいい。「いえいっつ、いえいっつ」と歌のインタバルにおらぶのだ。僕たちもボスにあわせて「いえいーーーーーーつ」と叫ぶ。いつものこととはいえ、他のお客さんたちは、びっくりこっくりだ。

そうこうしているうちに、時間がドンドン過ぎた。後はお決まりのコースで、ピチピチギャルちゃんたちがいる、ラウンジへ。ここではたわいもない会話に終始。ドンちゃん騒ぎをするわけにもいかず、もっぱら紳士的に会話だ。時折、女性の手を取って、眺めてみると、「いあやあああ、女性の手って何ときれいなんだろうーー」と思う。やわらかくて白魚のように細くて、思わず食べてしまいたいような。いつまでも握り締めていたいような。おっと、脱線だ。女性の手は握り飯ではないのだ。

女性陣曰く。「なにも苦労していないからよ」と。なるほど。やはり苦労は手に出るものなんだろうか?。そう思いながら、じっと、我が手を見た。節くれだって短い指が異様に太い。「こりゃあーーだめだ。苦労の塊だ」と、つい、おかしくなり笑ってしまった。ボスの手を見ると僕の手よりはやわらかくて上品のようだ。僕は思ったね。「勝ったか?」と。これはくだらないことだった。
弟の手は言うまでもない、きゃしゃだ。それでも、口八丁、手八丁で頑張っているからえらいものだ。

まあ、手のことで、云々やったって仕方がない。僕たちはそれぞれ、女性陣に、勝手な思いのたけをぶちまけながら、焼酎を飲んだ。酔いが回るのが早いぜ。もうボスはグロッキー状態。僕も例外ではない。例外は弟だけだ。多弁になり、アルコールがどこかへ、抜けているのだろう。幸せなやつだ。

そうこうしながら、もう午前零時をまわった。そろそろ、「宇宙船山ノ神号」まで帰還しなければならない。恐らく鋼鉄の扉は固く閉ざされているだろう。「開けゴマ」と、叫んでもびくともすまい。今日は久しぶりにボスが、「玄関の前まで送ってくれ」という。酩酊度がよほど過ぎていたか、母船に帰るのが怖かったのか?。どちらか、定かではないが、善意に解釈すれば前者になるだろう。
僕はふらつくボスを玄関前まで連れ立っていくと、ボスは叫んだ。「おーーーーい。今、帰ったぞーーー」と。なかなか、明かりがともらなかったが、程なく、夜着姿の奥さんが、出てきた。僕の顔をみて、お礼を述べられ、見事チェックインだ。

ところで、この僕は?どうなったのか。今こうやってパソコンのキーをたたいているということは、何の咎めもなく入室できたわけだ。昨夜は既にオープンザドアだった。よかった。よかった。苦虫つぶしたばあやの顔を見なくてすんだだけでも幸いだ。
昨夜は、ボスの慰労会になったのかどうか、よくは分からない。それでも、健康で飲めたことが何よりの収穫だ。これからもそうありたいものだ。


2003年05月26日(月) ボスの再出発


ボスの再出発
at 2003 05/26 11:45 編集

僕のボスが先日の総会を持って会長を退任した。長いようで短かった6年だったに違いない。本当にご苦労様でした。これから、再出発である。さあ、船出だ・・・・。
若造の僕はボスと妙に気が合い、仕事友、旅友、飲み友としてやってきた。

仕事友としては、いろんなお客さんを紹介したり、されたりで、二人三脚で、やってきた。ボスと僕には共通の欠点がある。それは、報酬を高く請求できないことだ。仕事の内容は濃いにもかかわらず、いつも、安く引き受けてしまうのだ。うんんん、我々の仕事は値段があってないようなもの。いつも。このくらいでいいだろうという勘でやっているから、おのずと安くなるのも仕方がない。客にとっては、「ありがたや、ありがたや」である。ほとんど、クレームも付いたことがない。まあ、当たり前とといえば当たり前なんだが。
これからは、役職をはなれて、思い切り仕事に邁進できると言うものだ。やるでー。

旅友といえば、なんといっても、、アジア方面を、弟(仕事仲間)と三人で、旅したことが思い出される。見事な珍珍道中。なまなましく、記憶に残っている。
酩酊したボスの、とどみたいに脂肪がからみついた巨体をホテルの部屋まで運び上げるのに、我々は相当苦労したものだ。翌朝、それを告げると、本人は知らぬ存ぜずで、よそ行き顔。これには参ったぜーー。僕たちはすっかり酔いも冷めて青白い顔に逆戻りだ。それぞれ、シングルの部屋でよかったぜ。響き渡る高いびきでもされたら、僕たちはダブルパンチだ。
又、別の旅では、僕たち三人三様、女性の通訳さんを雇うことになった。共通の通訳さんでは、奪い合いになってはいけないと、僕が気を利かして、チャーターしておいたのだ。皆、はやる気持ちをおさえながら、心は既に現地へ飛んでいた。
結論から言えば、「行きはよいよい、帰りは怖い」である。
なんと、なんと、やって来た通訳さんたちの二人は夫もち。おまけに日本語、ほとんどだめ。更に悪いことに、一人は見上げんばかりののっぽさん。もう一人は、シンガーの「いるか」さんみたいなおかっぱの小柄な人。決して「カッパ」に似ていると言うわけでもない。うんんんん、割り振りに頭をいいためたねーーーー。結局、ボスにはのっぽさん。弟にはいるかさんが当たった。喜んだのは僕だけと言えば、二人へあまりにも失礼か。
結局、カラオケを歌い、夕食まで付き合ってもらって、引きあげててもらった。僕は日本へ帰ってから、うらまれたこと、うらまれたこと。弟は、ことあるごとに、その話で、ちくちくと僕をいじめるのだ。
旅の話も書けばきりがない。

次に飲み友。これも、話せば十日物語以上に延々と話題があるが、ほんのさわりだけでも書いておこう。
飲みに出れば、まず午前様。一軒ではすまない。下手なカラオケに興じる。女性好き。飲みのピッチが早い。それぞれ、我がことしか考えていない。金はほぼ割り勘。付けをしない。まああ、こういったところが、ボスや弟との共通点だろう。
歌で言えば、ボスは演歌。それでえええんか?これは冗談。弟はクラブソング。これがうまいんだよなーーー。歌うときポケットに手を突っ込んで、きざっぽく歌うのが特徴。おまけに、体をふりふり。「フラダンスじゃあないんだぜ」と言いたい。僕はと言えば、少ないレパートリーながら、昔馴染みのフォークソングだ。それぞれに競合しないから、やきもちを焼くこともない。
結局は、皆、自分が一番うまいと思っているから始末に悪い。
ボスは以前は音程ははずすし、ど音痴で有名だった。大笑いして、それを魚に飲むことが多かったが、どうしたわけか、だんだん腕を上げて、今では声が大きいのはいいが、音程をはずさなくなったから、ちっとも面白くない。まああ、これも、せっせと通い、歌い続けた賜物だろう。継続は力なりである。弟は、言うに及ばず、ムード曲ばっかり歌い、まさにクラブの帝王というか、クラブ専属歌手みたいな人物である。いつも、一人の世界で酔っている。ママさんからほめられると、「にこっつ」と笑って、当たり前と言わんばかりの顔をしているところが憎らしい。
僕のことはそっとしておこう。歌には正直自信がない。もちろん美声で歌いはするが、ボスや弟に比べたら歌心にやや欠けるか。

話しだしたら切がない。実は今日いつもの小料理屋でボスの慰労会をする予定である。なんでも、ママが鯛を用意しているそうな。そりゃああめでたいぜ。
僕は今書いた日記をボスにプレゼントとして渡そうと思っている。ボスは涙を」流して喜ぶに違いない。こう書く僕も相当にめでたい男かもしれない。




2003年05月25日(日) 書吟を鑑賞して

書吟を鑑賞して
at 2003 05/25 22:46 編集

最近は全国いたるところで総会ばやりだ。
日本人は何故、こんなにも、会議や総会が好きな民族なんだろうと思う。僕は至って、会議などきらいである。出来れば、出たくない。それでも、やむなく行かねばならないときもある。昨日はまさにそんな日だった。

ほとほと、退屈な総会であったが、ただ一つだけ、感動したことがあった。
我々の仕事仲間の悲願であった会館が完成したということで、総会の後、記念式典があった。来賓の挨拶の後、高校の芸術学部の女子生徒10名による、「書吟」の披露があった。書吟というのは、漢詩の朗詠にあわせて、一気にその漢詩を書にしたためるというものらしい。はかま姿の女子生徒達は、皆、きりりっとしていて、すがすがしい。10名の名前が紹介され、皆、緊張していたが立派に一礼して、さあ、いよいよ始まりだ。

彼女達の後ろには、畳一枚はありそうな、和紙がパネルに固定されている。それぞれに椅子が用意されている。上に来る漢字は椅子に上って書かないと届かないのだ。詩の朗読にあわせて、一人ずつ、一気に書いていく。たっぷりと墨を吸った大きな筆が勢いよく、和紙を這う。墨が和紙を滴り落ちる。それでも、あまりに見事な作品だった。

椅子を上り降りすると、がたがたと椅子が揺れる。そのくらい迫力があるのだ。一瞬、大丈夫かなあーーと、心配になるが、なんのその、彼女達は一心不乱に書に向かっている。本来、こんなに大きな書は床に広げて書くものかもしれないので、パネルに貼って書くのは、難しいに違いない。それでも、なんのそのである。
詩の朗詠にあわせて書くわけだから、ゆっくり書く時間とてない。一気に書くわけだ。ただただ、お見事。

僕は、口をポカーンと空けて、腑抜け状態。ふと、会場の後ろの方を見やると、なんと、後輩の生徒達や、その父兄たちが、わんさと押しかけて、じーーーと、見入っていた。  

忘れないように漢詩を記しておきたい。ただ、難しい漢字が一杯で、文字化けしてしまったので、読下し文である。

  祝賀詞    河野天籟

四海波平らかにして瑞煙みなぎり。
五風十桑田を潤す。
福は東海の如くはるかに限りなし。
寿は南山に似て長えにかけず。
鶴は宿る老松千載の色。
亀は潜む紅漢万尋の淵。
芙蓉の雪大えいの水。
神州にほうはくして九天に輝く。

資料として配布された通釈を書くと、こうなる。
「四海波平らかで、めでたい雲がみなぎり、平和そのものの姿である。五風十雨も、その時を得て農作も豊かで、幸福は東の海の如く限りない。寿命も南山に似て幾久しく栄えるであろう。鶴は千年の色をたたえた松に宿り、亀は紅漢の深い淵に潜んでいる。芙蓉の雪、すなわち富士山の雪、大えいの水、すべてがおめでたい限りである。このような、瑞祥が、広く九天に輝いて日本国中に広がっている」。

いやああ、実にすばらしい。世の中はいつも、こうあって欲しいものだ。
書を披露してくれた彼女達に心からお礼を言いたい。僕がもっと、若ければ「およめちゃんに欲しいなーーー」と叫ぶところだが、指導の先生は、どうも僕の大学の先輩、しかも同じ学部らしいので、「この、大ばか者」と怒られそうなので、このへんで、止めておこう。
心が洗われたような一日だった。ボスも僕も酒に酔いすぎたのは、勇み足だったが。



2003年05月23日(金) 五月の夢と飯の種

五月の夢と飯の種
at 2003 05/23 10:44 編集

五月も後半を十分に過ぎた。早い。本当に早い。ところで、僕は一体、今まで何をしてきたのだろう?。ただ、時を追いかけ、いや、正確には、時に追いかけられて、雑多に翻弄されてきたように思う。
そして、今、それを嘆いている僕がいる。
正月までは、まだ、半年以上あるさ。「さあ、充実して生きよう」。今、僕の心は、そう叫んでいる。

ところで、「お前には夢はないのか?」と、問われれば、実はある。歳はくっていても、僕にだって夢はある。999に乗って宇宙を旅することである。願わくば、メーテルと一緒だったら言うことはないのだが・・・・・・。「この、あんぽんたんの馬鹿たれが。そんなことを考える暇があったら、飯の種でも拾って来い」と、怒られそうだ。もちろん、僕にだって分かっている。まさに夢、夢なんだ。

そういえば、最近、英文のメールが来た。おぼつかない英語の知識で、読んでみると、なんと、「月の土地を買わないか?」という内容だった。「ええっつ、今誰に所有権があるの?。勝手にそんんなことが出来るの?」と思いながらも、一瞬、触手が動いた。

星野哲郎みたいに、僕に永遠の命が約束されていれば、きっと、買っていたに違いない。月の土地を拠点にして、広大な宇宙を旅する。想像するだけで、胸が高鳴り心が躍る。「ヤホー」叫んで僕は出発するだろう。周りから、「アホー」という声が聞こえるが、もう聞く耳なんて持っていないだろう。

やがて・・・深いため息とともに、僕は知るに違いない。永遠の命なんて、退屈でつまらないと。「あああ早く死にたいなーーー」と、思えど、それもかなわず。

人間の心って、なんと、矛盾だらけなんだろう。いつも、ないものを欲しがるのだ。
綾小路きみまろさんも言っていた。「男も女も、自分にないものを欲しがるんです。それで、愛をかんじあうんです」。
これは、脱線だ。面舵一杯で、999の軌道を修正だ。

子供たちに「将来、何になりたいか?」というアンケートをとったところ、一位が、科学者や研究者だったそうだ。二位、三位がサッカーや野球の選手。田中さんや、小柴さんの。ノーベル科学賞の影響が、この結果につながったと言えるが、すこぶる、健全な気がする。そういう夢を持った子供たちが、将来大きく成長して、僕の夢である、宇宙の旅を実現させてくれるかもしれない。
「少年、少女よ、遊びも大事だが、夢に向かって勉強もして欲しい」と、僕は言いたい。「おっさん、分かったぜ。まかしときな」。そいう力強い声が聞こえたような・・・・。

今、僕の仕事もあがったりだ。朝から、バクみたいなことを書いてしまった。
さああ、飯の種を求めて出陣だあ・・・・・。




2003年05月19日(月) 今日の雑感


今日の雑感
at 2003 05/19 10:47 編集

今日はすばらしく良い天気になった。どんよりと、うす雲ではあるが暑からず寒からずの好日和。女性ではないが、今日何を着て出かけようかと迷っている。長袖にすべきか半そでにすべきか?。うんんんそこが問題だ。結局、汗をかくことは目に見えているので、半そでにすることに決定。

正直、この時節のころ着る衣服を持たない。貧乏性で、いつまでも、冬服。寒くなっても、いつまでも夏服と言った具合で、季節の合間に着れる、程よい衣服をもっていないのだ。まあ、何事も、我慢、我慢で生きれば、そう、不自由なこともなかったから、気にもしていなかったが、「気品の研究」という本を読んだら、やにわに、品の良い着こなしをしたくなったってわけだ。おっと、思い出した。ちょっと失礼な表現になるが、「ダイエット。ぶすがやせてもぶす」だ。喪黒福造が品の良い着こなしをしても、、やはり、喪黒福造だ。何の変わりもないじゃあないか。まったくの単細胞の僕だああああーーーーーー。

やがて、ボスがやってくる。今日の雑感は一応ここで止めておこう。


2003年05月18日(日) 気品の研究と、ウィングラスのお礼と。

気品の研究と、ウィングラスのお礼と。
at 2003 05/18 19:02 編集

「気品の研究」という本も、昨日から今日にかけて、半分以上のところまで読んだ。読めば読むほどに、我が、いたらなさが目に付き、まさに、唖然とする。もちろん、完璧なほどの気品を持った人達といえば、皇室の人たちぐらいだろう。世間では、そう見当たらないので、悲観することもないかもしれない。

それにしても、気品というのは、ある意味では、当たり前のことを当たり前に自然体ですることであり、と同時に、人に対するちょっとした思いやりがあれば、気品がなお引き立つというものだ。

どうも、僕はいろんな面で粗雑にできているようで、気品からは、程遠いが、この本を読んで、少しは、違った僕に変身するかもしれない。のりちゃんや、高ちゃんが、そんな僕の姿を見て、「どうかしたの?。体でもわるいんじゃない?頭がおかしくなった?」とかなんとか言うだろう。僕は,すかさず答えるだろう。「今までの僕とは違うんだ。気品がただよっているだろう?。見えないかなあ?。気品が?」とね。「おおおっつ、気持ちわるい。物の怪が漂っているぜ」とは恐らく、のりちゃんのセリフになるだろう。

まああ、そういことどうでもいいが、少なくとも、気品高い男として生まれ変わりたいと思っていることは事実だ。いまさら、気品高くなって、若い女性たちにもてようとも思わないが、いや、実は思っているのかもしれない。「ミルンさん、素敵よーーーーー。」と叫ばれれば、日ごろから長い鼻の下が、更に長くなるだろう。気品どころか、「だらーーーつ」となって、もうだめだめである。
こういう自信過剰は、気品さが逃げていく、最大の要因かもしれない。素直に反省だ。

そうそう、先日、高ちゃんとばったり、小料理屋であった。嬉しかったね。ワイングラスのお礼をしこたま、それでも、心をこめて言った。「金箔の星があまたとちりばめられて、とてもすごいものでした。僕は何のお礼も出来なくてすみません。本当にに有難うございました。」と。そう言うと、彼は「そんなに喜んでもらえたことが、一番嬉しいね。飾っておかなくて使わなくちゃーーー。」と。僕は、「おおおっつーーもったいない」と言って、ニコニコ顔で彼と乾杯した。いやああ、これで、めでたく人間関係がうまくいった。お礼は、やはり、心から述べることが大事である。
気品の研究の本にも、「お礼は具体的に言ったがよい」と書いてあった。確かに、抽象的に、「ありがとう」だけでは、心が十分に伝わらない場合がある。そういう意味では短い言葉ではあっても、具体的に感謝の言葉を言ったがいいのかもしれない。

いいことは重なるものだ。僕が本当に欲しかったのはワイングラスではなかった。ボトルグラスだった。さすがに、高ちゃんは、それを覚えていて、今度いつか、ボトルグラスを作ってくれるそうだ。
僕は言ったね。「棺おけに入るときまでにこしらえてくれたら、結構ですよ」と。彼は、「わっはっはーーーー」と豪快に笑っていた。その姿が印象的だった。

今はただ、彼が、仕事に邁進して立派な作品をつくってくれることを、願っている。
密かに僕の作品をもね。うっしっしー。
うんんん、欲はほどほどにだ。この辺に、僕の気品にかけるところがあるのだろう。
さあ、明日からまた、心して生きよう。


2003年05月16日(金) 有事法案と気品。何の関係もないか?


有事法案と気品。何の関係もないか?
at 2003 05/16 10:47 編集

風薫る五月がどんどん過ぎていく。なんでも、沖縄は梅雨にはいったそうだ。季節はながれ、僕たちの生活時間も、流れる。
巷を見回せば、いまだに、あちこちで、テロが起こり、世界情勢は緊迫している。
日本でも、「有事法案」が衆院を通過し、参議院でも即、通過しそうな気配である。

よく考えてみると、有事法案というのは、有事の際の、対処方法というか、慌てふためかないように、あらかじめ、行動基準とか、情報の伝達基準みたいなものを定めておくというものだろう。こういうことを、決めておかねばならい社会というのは、健全ではない。ただ、世界の中に脅威があれば、当然、それを避けるべく手段を講じることはやむをえないことかもしれない。

ただ、有事法案は、国家の存続を第一にすえたものであり、国民の生命や、財産を守る国民保護法案は、まだ、日の目を見ていない。早期成立を願いたいものだ。

話は変わるが、
今、山崎武也という人の書いた「気品の研究」という本を読んでいる。本屋で、ぱらぱらとめくったら、分かりやすく面白そうだった。実は、そのことよりも、一体、僕に、どれほどの気品が備わっているか、知りたい気持ちの方が勝っていた。
読みながら、呆然、唖然である。ことごとく、氏の言っている内容から程遠い自分を発見。いやああ、気付いただけでも収穫だ。飯の食い方は早いし、テーブルマナーは悪いし、話すときのジェスチャーは大げさだし、姿勢も必ずしもよくない。「笑うセールスマン」だから仕方がない。彼も、猫背みたいであり、短い足に大きな靴をはいて、のっしり、のっしりと歩いているではないか。自意識も過剰で、品のよい着こなしには、到底おぼつかない。ほとんどの気品にはずれ、あえて、当たっているところは、先祖あっての自分ということで、先祖に感謝しているくらいだろう。

まあ、それはいいとしても、日本の皇室のかたがたは、確かに気品にあふれている。
ちょっとしたしぐさの中にも、気品と言うか、潤いと言うか、そういうものが、漂っている。それを、自然体でなされているところが、素敵である。
僕なんか、どれほど、つくろっても、「ぼろ」がすぐに出てしまう。「頭かくして尻隠さず」
である。庶民的で良いといえばそれまでだが、やはり、大人になれば、それないり気品は持ちたいものだ。訓練して習慣つけば、おそらく、少しは気品高い男に生まれ変わることも可能だろう。果たして、いつになることやら?。棺おけに足を突っ込んだころ、気品高く、「我が人生は満足だった。さらばだ。苦しゅうない。もっと近うに。」と華南とか言って叫ぶようでは、気品どころか、あまりにもはかないではないか。反省ばかりでは先に進まない。さあああ、のりちゃんではないが、のりやすい僕は今日から気品の研究に磨きをかけて、邁進しよう。「今に見ていよ。僕だって」と意気込んでいる今日の朝である。


2003年05月15日(木) 人間って一体なんだろう?

人間って一体なんだろう?
at 2003 05/15 02:07 編集

時々、人間って何だろうって思うことがある。今日はまさにそんな日かもしれない。

父のいとこがこちらに来た。母から情報はもらっていたが、結局、僕のところへは寄らなかった。もちろん、僕も、来訪を期待していたわけではない。父が従兄弟だから、僕にとっては、従兄弟半である。必ずしも近い親戚というわけでもない。それでも、寄ってもらえば、それなりの接待もできたわけだが、日ごろから電話くらいでしか、話したことがなかったので、先方が遠慮したのかもしれない。

こんな時、思うのだ。やはり、「遠くの親戚より、近くの他人」であると。いざというときは、近くの他人が、よっぽど頼りがいになる。人間の血縁って、こうやって消滅してしまうのかもしれない。従兄弟でも日ごろ付き合いがないと、なんとなく、よそよしくなってしまうし、兄弟だってそうかもしれない。親の遺産相続の時になって、兄弟が集まって話し合うことになっても、結局は、喧嘩になってしまうことが多い。「兄弟は他人の始まり」とはよく言ったものだ。また、人間の欲は兄弟の愛よりも勝っているよういだ。

僕は今日、仕事仲間と、飲んでしまった。そりゃあ、楽しかった。やはり、お互いに持ちつ持たれつの関係なんだろうか?。助け合いの精神なんだろうか?。利害が絡まないから、一番近い人のように思える。

酒を飲んで、言いたい放題のことを言って、あとくされなしで、今日はさようならだ。それぞれに、いいろんなしがらみをかかえているに違いない。それでも、じっと、耐えて、ひたすら生きる。これが男の道なんだろうかと、ふとそう思った。
いやはや、男ってつらい動物なんだよなーーーと、あらためて思う。女にしてみれば、「私たちだってそうよ。甲斐性なしのあんたに、手をやいているのよ」と、反論がくるかもしれないが、僕は女ではないから、良く分からない。

男たるもの、狩にでて、獲物を稼いでこなくてはならない。洞穴の奥では、女房や子供たちがお腹を抱えて、「いまや遅し」と、ご馳走の到来を待っている。男はそのために働いているのだ。狩をする動物。それが男である。

昨今、世の中を見渡せば、女が狩をするようになった。男の野獣性が失われて、最近は女が野獣になってきている。うんんんんん、この現実をいかに、理解したらいいのだろう?。男女機会均等法で、女が世間に出るのもいいが、やはり、女は洞穴で待っている方が、男にとってはいいのではないか?。少なくとも、そう考えている男が多いはずだ。

「あなたさんよ。あなたは、私を暗い洞窟にしばるの。私の自由はどうなるの?。あんた、あんたの給料では、暮らしていけない。だから、私が働いているのよ」。こう叫んでいる女性の声が聞こえる。うんんんん、男にとっては頭の痛ーーーい言葉である。

要は、お互いの役割分担がうまくいって、充実した生が営まれれば、それでよい。
かくして、立派に子供が育つ。ただそれだけでいいのだ。
綾小路きみまろさんではないが、「この人長生きしそう。あああああ、いやだ。」
なんて思って欲しくない。
僕はそう思われる前に、自らこの世を去ろう。なんて、強がりを言っている。

うんんん、今日は支離滅裂なことを書いてしまった。酔いは怖いものだ。思わぬ失言をしてしまう。ただ、ひたすら謝ってペンを置こう。



2003年05月08日(木) いいことは重なるものだ。

いいことは重なるものだ。
at 2003 05/08 17:49 編集

五月の連休が終わり静かな毎日が続いている。特に変わったこともなく、平々凡々と過ごしている。先日、といっても、おとといになるが、念願のワイングラスを手に入れた。いやあ、これは、まさに見事、見事というしかない。すばらしいものだ。透き通るような青のグラスに、金がちりばめられ、まるで、宇宙にちらばる星星のようだ。僕は、その星星に囲まれて、広い心で、ワインが飲めるわけだ。うまくないわけがない。もうひとつは、ワインレッドに、同じように金がちりばめられている。こちらは、女性向なんだろうか?。ペアで、ワインで飲めるなんて最高だ。実に嬉しい限りである。

その二個以外に、普通の小さなグラスが一個あった。これも、かなりするもののようだ。「ありゃ、これは、おまけかなあ?」と思って三個とも持って帰ったところ、なんと、その一個は、のりちゃんへのプレゼントだったそうな。僕もどうも、おかしいなああと思っていたが、やはりそうだったか。
なんでも、のりちゃんも、グラスがほしいらしく、近々、買いたいといっていた.。人にお土産としてやりたいそうな
。高ちゃんが気をきかして、先にプレゼントしてくれたのだろう。

「高ちゃん、なかなかの大物。技術は、言うにおよばず。歌もうまいが心も広い」。何だか、おべっかを言っているみたいなので、もうこれ以上、言及すまい。とにかく、有難う。
そんなわけで、今、毎日、眺めてはため息をつき、触れてはあったかさを感じている。

綾小路きみまろさんではないが、いいことは重なるものだ。滞っていた集金が入ってくるし、まさに、「うっしししーーーー」である。まあ、金に羽がはえて飛んでいかなければいいのだが?。といいつつ、またまた、いいことは重なるものだ。今来客がきた。僕の後輩だ。彼はまさに、僕のエンジェルみたいな男。この辺で、ちょっと中断だ。


2003年05月05日(月) 子供の日に考えたこと。

子供の日に考えたこと。
at 2003 05/05 22:40 編集

五月の長いようで短い休みが終わった。僕にとっては、単なる日々の流れに過ぎないが、大方の人にとっては、天気に恵まれ、いい休日だったに違いない。

そういえば、今日は子供の日。昔ほどには見かけなくなったが、天高く泳いでいる鯉のぼりは圧巻だ。僕の小さい頃は、鯉のぼりを横目にみながら貧乏を我慢したものだ。そんな母も父も、僕たち男三人兄弟に気使ってか、ちっちゃな棒に吊り下げられた鯉のぼりを買ってくれた。そんな物でも、子供心に嬉しかった。子供だった僕も、今はすっかり中年。「鯉のぼり、すでに遠くになりにけり」である。

父は既に亡く、老いた母が一人で生きているが、離れて暮らしていると、なんとなく心苦しい。一緒に暮らすことが出来ない現状がうらめしい限りである。今はただ、健康で長生きしてもらいいたいと、思うばかりである。

最近、「綾小路きみまろ」と言う人の漫談を聞いた。車のなかで、CDをかけながら走っていると、いやはや、危ないものだ。先日は、のりちゃんが、隣に座っていたが、二人とも笑い転げて、冷や汗をかいた。
彼曰く。「運転はうまいが、これを聞いていたら、命がいくらあってもたりないぜ」と。確かにそうである。涙の流しっぱなしで、前が良く見えなくなる。

きみまろ氏のたくみな話術は見事である。
なかでも、僕が気にいったくだりは、「65才以上の、おじん、おばんには、おじんカード、おばんカードを日本政府が発行し、電車の中では、そのカードを差し出すことによって、そく席を譲らねばならない」とか、「70才以上のおじんには、年2回、バイアグラの配布。80才以上の、おじん。おばんには、年3回、無銭飲食を許す」とか、実に豊かな発想で面白い。
こういう厳しい現実にあっては、それくらいのことは許されてもいいんじゃないかなああと、思ったりもする。

いずれにせよ、おじん、おばんになったら、やはり、健康でいなくちゃ、意味がない。子供の日に老人の日みたいなことを書いてしまったが、いずれ、僕も、その仲間入りするわけだし、早く、水戸黄門の印籠みたいな、おじんカード、おばんカードが出来ることを期待したい。


2003年05月03日(土) 連休谷間の休暇だ。わおーーーつ。

連休谷間の休暇だ。わおーーーつ。

久々に、仕事から解放されて、焼き物の町まで足を運んだ。連休の谷間とあって、車も快適に走った。天気は最高。日ごろ見かけない風景が目に新鮮だ。「歳月人を待たず」というが、人のみならず風景まで様変わり。建物も、植物も、いろんなものが自分を待っていてはくれない。もう、昔のままではないのだ。

新鮮さと同時に、一抹の寂しさを感じながら僕の心はせいた。さて、どんな焼き物が僕を待っているのだろう。こう書くと、さも、僕が焼き物に詳しいかのようであるが、焼き物に関してはまったくの門外漢。ただ、「いいなああーー」と、思うものが欲しくなるだけだ。

それにしても、現場は閑散としていた。一日500円の駐車場に止め、てくてく、歩いた。いやああ、色んな陶器があるものだ。これが土で出来ているなんて、とても信じられない。何キロ店舗が続いているのだろう。100円とか、200円均一の大皿、小皿が所狭しと並んでいる。「掘り出し物は奥にしまってあるのかなああ?」なんて、思いながらまるで、ウィンドウショッピングしているみたいに歩いた。変わったやつがあった。ふっと足を止めて、手に触れてみる。コーヒーカップだった。えーーーと、値段は?。「わおーーーっつ、驚いたぜ。5万円のコーヒーカップだ」。こんなので、飲むと口が腫れるに違いない。本来、僕は貧乏性である。そっと、壊さないようにもとの位置に返した。
うんん、やはり、有名陶芸家の作品は、それだけの値段をつけても価値があるのだろう。それを、買う人がいるわけだから、世の中は金持ちが結構いるんだ。僕も見習いたいぜ。

てなわけで、僕は陶器で出きたマウスパットをかった。これでも、2800円はするから、そう捨てたものではない。実際は2500円で、折り合いをつけた。今、早速、使っているが、うんんん、すべりがいいぜ。滑りすぎて勇み足になりそうだ。

今日はよく歩いた。日ごろは車ばかりなので、久しぶりに歩くと、結構疲れるものだ。途中、喫茶店によって、めったに食べないアイスクリームを食べた。さすがに、陶器の町。喫茶店の置物やアクセサリーや商売道具は、ほとんど、焼き物。とはいっても、5万円のコーヒーカップはもちろんない。当たり前か。そんな気のきいた店ならば、こわくて、コーヒーを飲む手が震えそうだ。

4時間ばかり、この」陶器の町にいただろうか?。すっかりくたびれて、帰途についた。帰りも車がすいていたのが幸いだった。

そうそう、忘れていた。僕のいでたちを書いておこう。黒のジーンズに、黒の半そでシャツ。その上から黒っぽいブレザーを引っ掛けて、頭には日よけの黒のハットだ。
黒のかばんでももてば、まさに、「笑うセールスマン」スタイル。「おっほっほほほーーー」と、笑えばそっくりかもしれない。ただ一つ違うところは、笑うセールスマンの喪黒服造さんだったっけ。彼ほどには足が短くないことだ。
良く言えば、「チャゲ&飛鳥」のチャゲさんににているかなああ?。これは」ちょっと言いすぎか?。
町を歩けど、おじん、おばんは皆、陶器に夢中。僕にちらっと目を向けても、怪訝そうなそぶりで、あえて、目をあわさないようにしているようだ。怖いイメージに僕が映るんだろうか?。なんとなく悲しいぜ。おっと、今日はファッションショーで来たのではない。我慢。我慢だ。それにしても、おじん、おばんは元気だぜ。驚きだ。

てなわけで、僕の今日の休暇が終わった。明日からは、再び、おまんまを稼ぐべく労働にいそしもう。今日の幸せを与えてくれた神に感謝してペンを置く。




2003年05月02日(金) 連休谷間の休暇だ。わおーーーつ。

連休谷間の休暇だ。わおーーーつ。
at 2003 05/02 21:50 編集

久々に、仕事から解放されて、焼き物の町まで足を運んだ。連休の谷間とあって、車も快適に走った。天気は最高。日ごろ見かけない風景が目に新鮮だ。「歳月人を待たず」というが、人のみならず風景まで様変わり。建物も、植物も、いろんなものが自分を待っていてはくれない。もう、昔のままではないのだ。

新鮮さと同時に、一抹の寂しさを感じながら僕の心はせいた。さて、どんな焼き物が僕を待っているのだろう。こう書くと、さも、僕が焼き物に詳しいかのようであるが、焼き物に関してはまったくの門外漢。ただ、「いいなああーー」と、思うものが欲しくなるだけだ。

それにしても、現場は閑散としていた。一日500円の駐車場に止め、てくてく、歩いた。いやああ、色んな陶器があるものだ。これが土で出来ているなんて、とても信じられない。何キロ店舗が続いているのだろう。100円とか、200円均一の大皿、小皿が所狭しと並んでいる。「掘り出し物は奥にしまってあるのかなああ?」なんて、思いながらまるで、ウィンドウショッピングしているみたいに歩いた。変わったやつがあった。ふっと足を止めて、手に触れてみる。コーヒーカップだった。えーーーと、値段は?。「わおーーーっつ、驚いたぜ。5万円のコーヒーカップだ」。こんなので、飲むと口が腫れるに違いない。本来、僕は貧乏性である。そっと、壊さないようにもとの位置に返した。
うんん、やはり、有名陶芸家の作品は、それだけの値段をつけても価値があるのだろう。それを、買う人がいるわけだから、世の中は金持ちが結構いるんだ。僕も見習いたいぜ。

てなわけで、僕は陶器で出きたマウスパットをかった。これでも、2800円はするから、そう捨てたものではない。実際は2500円で、折り合いをつけた。今、早速、使っているが、うんんん、すべりがいいぜ。滑りすぎて勇み足になりそうだ。

今日はよく歩いた。日ごろは車ばかりなので、久しぶりに歩くと、結構疲れるものだ。途中、喫茶店によって、めったに食べないアイスクリームを食べた。さすがに、陶器の町。喫茶店の置物やアクセサリーや商売道具は、ほとんど、焼き物。とはいっても、5万円のコーヒーカップはもちろんない。当たり前か。そんな気のきいた店ならば、こわくて、コーヒーを飲む手が震えそうだ。

4時間ばかり、この」陶器の町にいただろうか?。すっかりくたびれて、帰途についた。帰りも車がすいていたのが幸いだった。

そうそう、忘れていた。僕のいでたちを書いておこう。黒のジーンズに、黒の半そでシャツ。その上から黒っぽいブレザーを引っ掛けて、頭には日よけの黒のハットだ。
黒のかばんでももてば、まさに、「笑うセールスマン」スタイル。「おっほっほほほーーー」と、笑えばそっくりかもしれない。ただ一つ違うところは、笑うセールスマンの喪黒服造さんだったっけ。彼ほどには足が短くないことだ。
良く言えば、「チャゲ&飛鳥」のチャゲさんににているかなああ?。これは」ちょっと言いすぎか?。
町を歩けど、おじん、おばんは皆、陶器に夢中。僕にちらっと目を向けても、怪訝そうなそぶりで、あえて、目をあわさないようにしているようだ。怖いイメージに僕が映るんだろうか?。なんとなく悲しいぜ。おっと、今日はファッションショーで来たのではない。我慢。我慢だ。それにしても、おじん、おばんは元気だぜ。驚きだ。

てなわけで、僕の今日の休暇が終わった。明日からは、再び、おまんまを稼ぐべく労働にいそしもう。今日の幸せを与えてくれた神に感謝してペンを置く。


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