umityanの日記
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2003年04月30日(水) |
「たかちゃん」、有難う。 |
「たかちゃん」、有難う。 at 2003 04/30 14:52 編集
いよいよ、今日で四月も終わりだ。いろんな思いを残して四月にさようなら。 風薫る五月が僕を呼んでいる。 川沿いの山道をドライブすると、吹流しのこいのぼりが、風に吹かれて悠々と泳いでいる季節。何事もなく淡々と時間が流れ、青葉、若葉が僕の心を癒してくれる。平和なのだ。 今、あちこちの都会や田舎では祭りたけなわ。夏の盆踊りもいいが、今の季節の祭りもまたいい。
最近、いいことがあった。ふとした縁で知り合った、グラス職人に、「たかちゃん」という人がいる。僕よりも、随分先輩で、「ちゃん」ずけは失礼かもしれないが、「どらえもん」みたいで、かわいい人だ。頭の毛は真っ黒。どうも、染めているらしい。そのせいか、随分若く見える。
時々、小料理屋で会い、カラオケで、お互いに大騒ぎするわけだ。その場では、「たかちゃん、たかちゃん」と呼んでいる。ママもそう呼んでいるから、怒られることもないだろう。 「たかちゃん」は、この地では、相当に有名な人で、名誉市民みたいな人だ。芸能人のかたも、何人となく彼が行う製作風景を見学に来たことがあるのだそうだ。彼は照れ屋で、あまり口を聞かないそうな。歌では、大はしゃぎする、かわいい、どらちゃんって感じなんだが。仕事ではさすがに超一流。無駄口は叩かないわけだ。
もう五・六年まえになるか、彼の行きつけのスナックで、ボトルグラスを見た。もちろん、彼の手造りの製作だ。両手でボトルを包んでみると、実にあったかいのだ。まるで、母の懐に抱かれているような。僕はそんなグラスがとても欲しくなった。「僕にも、こんなボトルグラスをつくってくれないかなああ?。僕の宝物として床の間に飾っておきたいから」と、物欲しそうな目で彼を見ると、彼いわく。「わかった。俺もあんたが好きだ。気に入ったものができたら、プレゼントするよ」と言ってくれた。「ええっつ、本当?」と僕は大喜び。
その後、彼に会うたびに、耳にたこができるほど、「欲しい、欲しい」と、せがんでいた。その願いが、「やっと」と言っていいのか、かなったのだ。昨日だ。まだ手元に届いていない。早く見たい。 祭りではないが、彼の工場の製品も、祭りや、陶器市に、出品されるのだそうだ。外国にも工場がある。
だが、僕にとっては、なんと言っても、彼の手造りの作品が一番欲しかったのだ。しかも、彼が気に入ったものでなければ人にあげないというから、なおさらである。
僕は、彼に何のお礼したらいいのか分からない。彼は「金なら要らない。そんなものをもらうくらいなら、お前にはやらない」と言う。それならばということで、ささやかなお礼として、この日記をしたためたわけである。 「たかちゃん、どうも有難う。僕の形見にしまっせ」。死ぬときは棺おけに一緒にいれてくれるよう、遺言しておこう。高ちゃんが先かもわからないが・・・・・・・。
2003年04月25日(金) |
風薫る五月まじかのハプニング。 |
風薫る五月まじかのハプニング。 at 2003 04/25 13:30 編集
最近、天気が芳しくないが、いよいよゴールデンウイークに突入だ。よそ様は、青葉若葉を目指して、あっつちこっち、旅をするのかもしれないが、悲しいかな。僕は仕事だ。正月以来の連休も僕には関係なし。毎年のことだから、仕方がない。 父の命日が五月だから、本当は実家へ帰って、おふくろを喜ばせてあげたいと思っても、それもかなわない。まあ、健康で働けることが最高の親孝行かもしれない。とりあえずはそう思うことにしている。
それはそうと、21世紀になって、日々があわただしく、気がやすまらない。その反動で、夜の酒場を俳諧しているわけでもないが、先日、のりちゃんと飲みに言ったとき、なんと、二人で焼酎の五合瓶を空にし、さらに飲むわけだから、酩酊するのは当たり前。すっかり、にんまりしてしまった、彼の口から、思いがけない言葉がとびだして、店内は大うけ。といっても、小料理屋は僕たちの貸切みたいで、久々にご機嫌の「まあるいお目玉」のママさんと、超、超美人の「奈美ちゃんが」お相手だ。 願いましては、2プラス2で、総勢4名である。
のりちゃんが、「言いにくいことを話していいか?」と聞くので、僕たちは「もち、いいよ」と言ったところ、ななななななななななんんんんと・・・・、「彼は僕が好きで、一緒に寝たい」と言う。これには僕もびっくり仰天。真面目な顔をして(といっても、彼は相当、酩酊はしているけど)言うものだから、店内は笑いの渦。僕は「そんな趣味はないよ。とんでもない」と強く打ち消した。 長い人生、やってきて、そう言われたのははじめてである。男性であれ、女性であれ、「好きだ」」と言われることは、悪いきはしないが「寝たい」と言う言葉は余計だった。彼が言う「寝たい」という言葉は、「愛している」という意味なんだろうか?女性に言わせれば、「好き」と「愛している」とは、意味が違うらしい。好きだけど、愛していないことって、あるのだろう。そういう場合は尊敬というのだろうか?。
本来、単細胞の僕は、そういうことを深く考えたことがないので、よく分からない。 僕のスタンスは、いつも、「スカッとさわやかなコカコーラみたいな関係」。これが一番。好きであれ、愛であれ、尊敬であれ、そうである。さらに、もう一つ、「くるものは拒まず、去るものは追わない」。かっこいい表現だが、要するに自分に自信がないから、去られれば、「仕方がないか」とあきらめるほうである。
ママさんは、大きな目を「かーーーーっつ」と見開いて、びっくらこいていた。「えええええっつ、のりちゃん、それどういう意味?マジなの?」と怪訝な様子でやり返していた。のりちゃんは、しどろもどろで、それを打ち消していた。要するに、のりちゃんは、「それほど、僕たちは気が合う」と言いたかったわけだ。それなら、僕も同感だ。ただ、言葉の表現として、辛らつな言葉を選んでしまったことを、彼も後悔したに違いない。
何かの本で読んだことがあるが、本能的に、男性には「ホモセクシャル」的なものがあるのだそうだ。 僕にも若い頃、思い当たることがある。そこいらにはいないような、なかなかの美男子がいた。話していると、その表情が美しく思えたり、連れ立って歩いていると、女性や、おばたりあんの人たちから、「じろじろ」見られ、「それは僕じゃないんだ」と自分に言い聞かせたものだ。自分じゃなくても、悪い気はしなかった。 又、二人きりになると、一種の気まずさというか、照れるというか、妙な気持ちになったものだ。こういう気持ちが、男の「ホモ」的な感覚かもしれない。さすがに、今は、そういう気持ちになることはないが、純粋なのりちゃんは、まだ、そいう気持ちを持ち合わせているのだろう。
風薫る五月まじかのハプニングでした。
嘘つき女と泣き虫男 at 2003 04/18 11:49 編集
いよいよ、風薫る五月もまじかだ。青葉・若葉が目に痛いほど新鮮な季節。この頃は丁度夏と春の境目といってよい。僕の好きな暦月のひとつである。そんなすがすがしい季節を前にして、今読んでいる本が妙に気にかかる。
最近、「嘘つき男と泣き虫女」という本を買った。以前ベストセラーになった「話を聞かない男、地図が読めない女」と言う本の続編みたいなものだ。 本屋でふっと、この題名が目に付き、何気なくめくってみると、いやはや、男と女に関するコントラストというか、比較が実に面白い。心理的、肉体的描写が実に的を得ているように感じた。
今度のこの本も、まだ全部を読んでいないが、結構当てはまるところがあるからおかしい。ただ、「嘘つき男」というレッテルは返上したい。どちらかといえば、女性の方が嘘つきなんじゃあないのだろうか?。 男と女は「きつねとたぬき」というから、どっちもどっちかもしれないが、僕にとっては若い頃の痛ーーーーーーい思い出があるから、そう思っているのかもしれない。
思い出せば学生のころ、合コンでしりあった女性とデートの約束をしたが、待てど暮らせど来ないのだ。僕はバス停の前で待つこと数時間。たまりかねて、電話すると、まだ眠気眼で、今寝ているとのこと。「しばらくしてから来るから」という。僕は更に待ったが来ない。そしてとうとう来なかった。まああこういうことって日常茶飯事かもしれないが、当時の僕は(今もそうだが?)ピュアそのもので、人を信じて疑わなかった。純真な心は、一女性の嘘というか、裏切りによって、一瞬にして傷ついたのだ。僕の心は砂上に建った砂糖菓子のように、がたがたともろくも崩れ去った。 今思えば、約束していながら、その時間にまだ寝ているなんて、よく平気な顔をして言えたものだ。
約束していた映画を一人で見て、四畳半一間の部屋に戻り、りんご箱でこしらえたベッドに横たわり、おいおいと泣いた。ベッドは涙の海だった。これはちょっと大げさだが、それほど、傷ついたのだ。 それにしても、あのときが最初の失恋だったのかもしれない。こんなにつらく切ないものとは神も仏も知らないだろう。
以後、色々と社会勉強を重ねていくうちに、「男と女の関係って、これくらいのものか?」とか、「知り合った相手が悪かったのか?」とか、開き直りの心が芽生えてきた。それでも、銀河鉄道999の「メーテル」みたいな女性をいまだに、追い求めているから、人間の心って不思議だ。
やはり、まだ、ピュアな心の片鱗をどこかに宿しているのだろう。 あえて、僕にほんの題名をつけさせていただけるなら、こう変えたい。 「嘘つき女と泣き虫男」。こちらの方が、ぴったりのような気がする。 まずは、最後まで読破することが肝心のようだ。
2003年04月16日(水) |
今日の雑草刈は延期だーーー。 |
今日の雑草刈は延期だーーー。 at 2003 04/16 10:49 編集
「こんなに良い天気にゃ、野良仕事だべ。およね、頑張るべ・・・・」ではないが、暇なときにと思い、雑草刈に精を出すことにした。長袖のシャツにジーパン。膝まである長靴を履き、頭にタオルを乗せ、その上から帽子をかぶる。日よけのためである。おっと、忘れていた。サングラス。これをかけなくちゃ、飛び跳ねる草っ子や、石ころよけにならない。
見事。勇壮なパイロットスタイルの出来上がり。悪く言えば、頭が変になって刃物を振り回す中年のおっさん、ということになろうか?。幸い、民家は離れているので、誰も笑う人とていない。時折、車が通り、大きな口をポカーーンと空けて、不思議な目で眺める。そういうことはどうでもいいか。 さあ、いでたちは完了だ。
いよいよ、愛用の草刈機械で、「雑草を一網打尽にしてやるぞ」と、気負ったは良かったが、どうも、最近、腕ではなくて、刃の切れ味が悪い。とりあえず、刃を交換しようと思ったところ、なななななんんと、固定ネジが締まりすぎたのか、腐食しているのか、力持ちの僕の手でも緩めることができない。 「えええっつ、どうして?わい?」。色々と試してみた。ペンチ、ねじ回し、スパナ、挙句の果てに、ローソクに火をつけて、温めたりした。瓶のふたが空かないとき、よくそうするからだ。 「オーーーノーーーー」。すべて失敗。ああ、こんな時、万力でもあったらなーーと思う。ふっと、友人の奥さんを思い出した。万力とハンマー投げが、奇妙にダブって脳裏を支配したからである。
困った困った。草刈機械のネジは逆ネジで、回転方向に締まっていく。僕があまりに無鉄砲に振り回すものだから、ネジがぐんぐん締まったのだろう。おまけに掃除が行き届かなくて、さびが出たのだろう。
こんなときは金物屋さんが一番だ。ネジを緩めてもらおうと思って、乗用車のなかに、取り込み、市内の金物屋さんに運んだ。A店だめ。B店だめ。どこの金物屋さんも、「こりゃだめだ。うちではできないよ。農機具やさんとこへいきな」といわれる。うんんん、農機具屋さんねーーー。どこにあったっけ?。幸い一軒の店を紹介された。僕もあほだ。家から車で5分くらいのところにあった。ちょっと、大手だったので、やってくれるか心配だったが、なんと、そこのお兄ちゃんが、てこの原理か、歯車の原理か知らないが、すぽっつと、スパナの高価なやつを、ネジに差し込んで、まわすと、動いたぜ。もちろん、相当の力がいったようだ。涙が出るくらいに嬉しかったね。「おいくら?」といったが、「いやああいらない」と言う。いたく感動した。そのときの技術者さんよ。「有難う」。あらためて感謝のお礼を述べさせていただきます。
早速、家に戻り、新しい刃に交換したが、もうすっかり日が暮れた。 今日の雑草刈は延期だーーーーー。 それでも、心があたたまった良い一日でした。
ゲノム完全解読 at 2003 04/15 10:49 編集
今日の新聞に、「ヒトゲノム」完全解読と言う記事を見つけた。一・二年前、ほぼ、解読が終わったと報じられてていたので、今回は、要するに完全解読ということになる。
人間の生命の設計図ーーゲノム。何も知らないころ、ゲノムって、ゲームの間違いじゃあないの?とか、ゲジゲジ虫みたいで、気持ち悪いなあーーーと思っていたが、とんでもなかった。
十二年半かけて、DNAを構成する四種類の塩基がおりなす、約28億三千万文字の遺伝暗号を、コンピューターが読みきったわけだ。世界六カ国の共同作業が実を結んだわけだ。今後はゲノムに書き込まれた遺伝子がつくるタンパク質の機能の解明が課題らしい。
解明された内容によると、特定、または予測された人の遺伝子の数は約三万二千個。この結果、約三十億個の塩基が連なる人のDNAのうち、約2.6%が遺伝子で、残りはなんでも、タンパク質の種類を指定していない領域ということらしい。
いやはや、素人には何を言っているのかよく分からないが、いずれにしても、未来に向かって明るい材料が提供されたことは間違いない。生命に関する研究がドンドン進むことになるし、患者の遺伝子のなかから、病気の原因となっている遺伝子を見つけ、そこを治療できれば、病気を回復することだってできるのだ。。
こんなに科学が進展するなら、もっと、後から生まれたが良かったのだろうか?」。ふっと、そんな気持ちが頭をよぎった。 うんんん、なんとなく、その方が良かったのかなと思わないでもないが、今を生きているからこそ、そういう考えも持てるわけだし、未来に生まれたからと言って、どれほど幸せかなんて分かりやしない。かえって、不幸を背負っているかもしれないではないか。ということは、そういう価値判断は誤りだということだ。今を精一杯生きる。それが一番だ。
この壮大な生命の設計図を誰が描いたのか分からないが、村上和雄という科学の先生が言っていた。本にも書いていたが「サムスイング・グレイト」という言葉だ。「何か偉大なもの」と訳せるのだろうか?。 何か大きな力によって、我々生命体は生かされ、何かの役を担っているのだろうか?。どういう役を担っているのかは分からないが、僕なりに想像すれば、やはり、遺伝子の進化ではないだろうか?遺伝子がもっと進化して、高度な生命体となる。その進化の担い手として、今、我々は生きている。
うんんん、もっともらしいことを言ったが、本当はまったく分からない。 生があるから死があり、死があるから生がある。まさに、色即是空・空即是色である。
雑感 at 2003 04/14 10:24 編集
あわただしさの中で地方選挙の第一ランドが終わった。混沌とした時代にあって、「いかに舵取りするか?」という大きな使命をを帯びて、地方丸という船が動きだすのだ。 最近の印象は、政党を超えて、若々しいクリーンなイメージの人が選ばれるようだ。いいことだと思う。 「面舵いっぱい・・・・」と、勇気を持って進んで欲しいと」思う。
昨日の日曜日は久しぶりに雑草刈をした。日ごとに伸びていく雑草の生命力の強いこと。「いやはや、たまげたぜ」と思いながら、ここ数年使っている草取り機械を不器用に操りながら、敷地の周囲の雑草を刈った。人一人っ子、いないので、機械をぶんぶん振り回しても大丈夫だ。ほぼ、一時間、オイルが切れるまでやる。その後、しばらく休んで、また小一時間。占めて二時間の実労働。「自給でいくらになるのかなああーーー?」と、すぐ仕事にからめて考えてしまう。
さすがに、久々の労働は疲れた。と言うより、日ごろ使わない筋肉を動かすので、そこが凝るのだ。こんなとき、ご主人様、「おもみしましょう」と、魔法の指をもった、愛犬ロボットでもいれば最高なんだが、まだまだそこまでは無理か。
残念だ。出かけなくてはならない。
そういえば、最近のロボットも精巧になった。人間と簡単な会話もできるし、用事を告げると、実行してくれる。はやく、もみもみロボチャンが登場しないかなああ。
2003年04月11日(金) |
今日はのりちゃんのアッシーになりました。 |
今日はのりちゃんのアッシーになりました。 at 2003 04/11 15:18 編集
昨日は、あまりにいい天気だったので、旅情に誘われて、のりチャン先生の出張に、アッシーとして着いて行くことにした。港町への旅は、僕にとっては久しぶり。なんでも、2時間ばかり、都市の活性化のための、シンポジウムがあると言うことで、彼は彼なりの意見を述べるのだそうだ。 「へーーーー、結構、彼も偉いんだなあーーー」とあらためて感心した。夜のご乱交とは雲泥の違いだからである。いかにも高そうなネクタイをした彼の姿に、並々ならぬものを僕は感じた。特に緊張がある様子でもない。まああ、場慣れしているからだろう。
その高貴な姿とは裏腹に、一時間ちょっとのドライブで話したことは、「会議が終わった後をどうするか?」と言うことばかりだった。いわゆる、どう遊ぶかということである。能天気の二人が考えることと言えば、大概、想像がつく。 食べるか、飲むか、が主体で、副産物として、見学や買い物がある。
彼の発想は実に面白い。土産に「寿司」買いたいという。「何でまた寿司か?」と問えば、港町だから寿司のネタがあたらしくておいしいだろうという。更に、料理する手間が省けると言う。なるほど。それもそうかと思ったが、地元で食べても、味はそうかわらないのでは?。
まああ、それはいいとして、僕は彼を待つ二時間の間、数キロにわたる松林のなかを車で走った。途中でコーヒーを買い、海辺の砂浜でのんびりと昼寝としゃれ込んだ。 海は青く、風もなく、なんとここちよい昼下がりだろう。僕にこんなすばらしい時間を与えてくれた自然に感謝せねばならない。こんな時、人は本当の幸せを感じるのだろう。
眠りが佳境に差し掛かったとき、二時間ぴしゃりで、彼からの携帯が鳴り響いた。「ええつ、もう終わったの?」と思ったが、今日は彼の助手だから仕方がない。 再び、彼と相まみれた。「さああ、それではどこに行くか?」ということになったが、既に僕の腹の中では行く先が決まっていた。のりちゃんがまだ行ったことがない場所で、おいしい生イカを食べようと言うことだ。い発返事で彼は了承し、ほぼ30分のドライブを楽しむことになった。
たわいもない話をしながら走っていると、あっという間に到着。時間帯が時間帯だけに、漁港は閑散としていた。時折、どこかのアベックが寄り添って歩いている。腕を組んであるいているなんて、憎らしいなあーーーと思いつつ、チラッとのりちゃんに一瞥を投げた。彼も僕と同じように、うらやましそうな表情をしていた。まああいいか。昔は、僕たちも、ああいう時代も合ったのだ。今からだってあるやも知れぬ。そういうことで、慰めておこう。
海には所狭しと、イカ釣り船が見事な風情をかもし出して停泊していた。「うんんん、なかなか趣があるなーーーー。こういうところは飾り気がなくていいなああ」とは、のりちゃんのセリフ。漁民のおばさんたちも日に焼けてたくましそう。おまけにすこぶる親切なのだ。 僕たちは、一軒の料亭に入った。閑散としていたが、食べてもらいたそうに、イカが水槽を泳ぎまわっていた。締めて一匹二千円。二匹で四千円だ。もち、これは」彼のお・ご・り。いやああ、着いてきて良かったぜ。残念ながら酒抜きのイカ食いだったが、我先にと平らげてしまった。 満足満足で、いよいよ帰還のドライブ。市内まで引き返した。
さああ、土産を買おうと言うことになり、彼は「お寿司」、僕はと言えば、なんでも、こちらにおいしい「ざる豆腐」があると聞いていたので、それも買いたかった。 走れど、寿司屋も豆腐屋もみあたらない。 ガソリンが残り少なくなっていたので、スタンドにより、聞いてみた。 ななななんと、ラッキーなことに、すぐ近くに、テレビで紹介されたこともある、おいしい寿司屋があるという。のりちゃんはにこにこ。「僕は--ーーーどうすりゃいいの?」と、少々いらだったが、なななななんんと、寿司屋で聞くと、すぐ近くに、豆腐の卸しやがあるという。歩いて2−3分のところ。僕たちはそれぞれ、分かれて土産を購入することに。
あった、あった。見事に国産大豆100パーセント、遺伝子組み換えなしの、純粋な豆腐が。うれしかったねーーー。ざる豆腐7丁と、あげ豆腐6丁買った。「どうしてそんなにたくさん買ったの?」とのりちゃんが聞いたが、なんと、鈍い男なんだろう。半分は君への、プレゼントだよ。と言えば、彼はにんまりして、うれしいなああ。豆腐大好き。半分金だすからときた。 僕は言ってやった。「当然でしょう」ってね。
こんな風で、小料理屋のママさんに言わせれば、僕たちは「掛け合い漫才」みたいだって。まああ、それほど仲が良いわけではないが、ただ、馬が合うだけだろう。よく分からない。打算がないことと、歳がほぼ同じということと、酒、女好きという共通点があることが、類は類を呼んでいるのだろう。長々と書きすぎたようだ。 もっと、違った一面を書きたかったが、とりあえずこの辺でお開きにして、さああ出かけるぜーーーーー。
2003年04月09日(水) |
気持ちのよい春のひと時 |
気持ちのよい春のひと時 at 2003 04/09 14:35 編集
すっかり春らしくなった。やや肌寒いが今が一年のなかで一番心地よい気がする。かといって、安穏としていられるわけでもない。結構、雑多な用事に振り回されて、春のひと時をのんびりと過ごすゆとりとてない。どうも、僕は貧乏性の性格のようだ。いつもじっとしていなくて、あっちうろうろ、こっちうろうろで、野鼠みたいだ。 性分だから仕方がないか。
それはそうと、昨夜は久しぶりに、のりちゃん先生と一献傾けた。5−6人くらいしか座れない小さな小料理屋で、ぎゅうぎゅう詰めで、大の男たちが、ママの手料理に舌鼓を打ったわけだ。相変わらず、のりちゃんは、鍋物が好きで、大きな土鉢で、雑炊をこしらえてもらった。僕たちもささやかながら、ご相伴に預かったが、それはそれは結構なお味でした。 なんと、のりちゃんは鍋の汁まで吸ってしまうほどの豪快な食欲。たまげたぜ。単身赴任で、ママの手料理が女房の料理と重なって脳裏に映っているのだろう。結構なことで。
ところで、最近の僕たちは極めて真面目である。昔はこういう場所でひとしきり飲んで、町の中のきれいどころのいる場所まで足を運んだものだが、最近はおとなしく一次会でお開きだ。金がないせいもあるが、一つどころで、たわいもない会話で過ごすのもまたいい。
昨夜は焼酎の後、冷酒の小瓶を三本ばかり空けた。ぐいぐいと、これがまたおいしいんだよなああ。僕たちの眼は次第にうつろになり、挙句の果ては、にんまりとした眼になる。ここいらが僕たちの限界だ。さああ、帰るぜと二人の域が会えば万々歳だ。、もう帰るの?となれば、はしごだ。 幸い、真面目な僕たちは見事にご帰還した。誰もほめてくれないから、「おりこうさん」と自らほめることにしよう。
昨夜の善行が、今日はすがすがしい目覚めを与えてくれた。「さあああ、やるでーーー」と意気込んでいるが、これといった大きな仕事は舞い込んでいない。 ノンビラーとして、今を過ごしている。 田舎だから仕方がない。もう、黄金の菜の花も次のせだいへバトンタッチをしかかっている。自然はめぐり、そして僕たちもめぐって行くのだ。そう考えるとちょっと、感慨深くなる。
世の中を見渡せば、いよいよイラク戦争が佳境を過ぎて収束に向かいつつある。よかった。よかった。ただただ、犠牲になった人たちに心からお悔やみを言いたい。
2003年04月03日(木) |
一人寝か、川の字か? |
一人寝か、川の字か? at 2003 04/03 15:20 編集
今日の新聞に興味深い記事が載っていた。なんでも、妊娠、出産し、子供が小学校に入学するまでの費用が442万円かかるというのだ。これは、子育て世代である30歳の年収に匹敵するほどの費用である。正直なところ、この費用が高いのか安いのかよく分からないが、結構、金がかかるものだ。
そうは言っても、子供は金の尺度ではかるものではないだろう。なんといっても子供は宝だ。最近テレビで見たように思うが、モンゴルの、おばあさんが言っていた言葉が印象深い。「女は子供を生んで育てる。それでいいんだ」と。金がなくとも、子供は立派にそだつのだ。こう書くと、世の女性たちから、怒られそうだ。「それでいいんだとは、何事ぞ。男がだらしないから、女が頑張っているんじゃあないか」と。ごもっともです。ただ僕が言いたかったことは、モンゴルのあばあさんの言葉には、自然のなかで、たくましく子供を育ててきた自信と優しさに満ち満ちしていたという事である。小さな子供が馬を乗りこなし、目は一点の曇りもないように美しく輝いていた。こういう目を本当にピュアな目というのだろう。ピュアな目の中にある力強さはどこから来ているのだろう?。
何かの本でよんだことがあるが、モンゴルとか中国は大陸であり、騎馬民族だ。日本は農耕民族。騎馬民族は大陸続きで、いつも外敵の侵略に脅かされてきた。当然のことながら、自分を守る術を小さい頃から会得しなければならない。そうやって成長し、ひいては家族や民族を守っていくのだ。
一方、農耕民族たる日本人の目は輝きがないと言われる。島国で、歴史的にも外敵に襲われたのは、蒙古襲来くらいではないのか?。もちろん、圧政のなかで、貧困にあえいできたが、それでも、外敵に悩まされることもなかった。目が輝かないのも分かるような気がする。
時はめぐり日本は輝かしい発展を遂げた。だが、まだ目は輝いていない。もちろん、僕の目もそうだ。酒にまみれたどんよりした目で、ものぐさげに世の中を眺めている。これでいいのか?。僕ちゃん。渇!!!だ。
もう一つ、面白い記事がった。子供がいる夫婦の35パーセントが、居住スペースがあれば、寝室を別にしたいのだそうだ。新婚なら一緒の部屋もいのだろうが、夫婦も熟練になると、お互いに自分の空間を持ちたくなるのだろう。そういえば、いつも弟と称している友人も別々に寝ているらしい。習慣になれば、なんの違和感もかんじなくなるのかもしれない。
かといって、昔ながらの川の字になって親子が寝ることの重要性というか、大切さは、かなりの人が心に持ち合わせている。 なんか、矛盾するようだが、まあ、これも、子供が物心つかない時期のことかもしれない。まさか、高校生の女の子がいて、川の字にねることもあるまい。多分、モンゴルあたりの大家族のなかでは、家族皆で寝ることに、何の抵抗もないのかもしれない。
僕は大家族主義は大賛成だが、寝るときは大の字になって一人で寝たいと思う。 ばあやが良く言うが、「お坊ちゃま、今は若いからそう思っていても、歳がましてくると、それは、それは淋しいものですよ」と。そうかなあ?。。僕はその逆だと思っている。年かさが増せば増すほど、我が人生は我が責任をもち、我が始末をしたいと。これはちょっと、一人で寝ることとは関係なかったか?。話が飛躍したようだ。
なんやかんやと強がりを言いながら、ひとりでは何もできない自分の将来が目に見えるようだ。泣き言を言う前にこの辺で筆を置こう。
2003年04月02日(水) |
情けなや、酩酊男よ。 |
情けなや、酩酊男よ。 at 2003 04/02 16:39 編集
昨夜は、久々に飲んでしまった。行きつけの小料理屋へ足を運ぶと、客は誰もいなかった。カウンターには、おなじみの愛ちゃんがせっせと働いていた。彼女に会うのは久しぶりだ。彼女は火・木・土の週三回だけ働いている。だべりながら、いつもの焼酎を飲んだ。まだ、歌う気にはならず、ひたすら僕の独演会だ。愛ちゃんは、「そうね。そうね」と、ビールに舌鼓をうちながら、ひたすら首を立てにふるばかり。なかなか、いい娘ちゃんだ。
そろそろ、ネタも切れてきた。次の客が来ない。痺れを切らした僕は、友人たちのあちこちに電話した。皆、忙しいと見えて、やっと、安さんだけが、「ちょっとだけよ」と言って、来てくれた。
のりちゃんは、高校に入学する娘が来訪しているとのことで、これなかった。きっとにんまりしながら、飯でも食べているんだろう。彼の娘は、どういうわけか、のりちゃんの勤務地の高校に合格してしまった。彼としては、嬉しい反面、複雑な心境だろう。今までみたいに、深酒ができなくなるかもしれない。怖ーーーーい、お目付け役が登場したからだ。
まあ、そういうことはどうでもよいが、安ちゃんは無類のカラオケ好きだ。僕とのデュエット曲も数曲、持ち合わせている。中でも、例の「白いブランコ」と言う曲が最高だ。ビリーバンバンさんの歌だったか、 「君はおぼえているーーかしら?。あの白いブランコ。風にふかれて、二人で揺れた、あの白いブランコ。・・・・・・日暮れはいつも寂しいと、小さな肩を震わせーーーた。君にくちずけした時に、優しく揺れた、白いブランコ・・・・・・」。いやああ、泣けてくるぜーーーー。 歌の途中からお互いに、はもるわけだ。これが実にいいんだよなああ。ちなみに、点数の出るカラオケで歌ったことがあったが、二人ともびっくりするようないい点数。「「いえーーーーい、これなら歌謡界に打って出られるぜ」と、本気か冗談か分からないことを言って笑いあったことだ。
そんな彼が小一時間ばかりいて、そそくさと次の店へ行くという。「ええっつ、どうして」と聞くと、なんでも、七月に、ある役場のホールでカラオケ大会があるそうで、その練習に行くのだそうだ。300人くらいの愛好家たちが集まり、彼は二曲、歌うという。毎年でているらしいので、もうすっかり落ち着き払ったものだ。僕はまだ、聞きに行ったことがないが、きっと、うまいに違いない。まああ、仕事に励んで、好きな歌を歌えれば、これこそ、人生の幸せというものだ。
振られてしまった僕は、「よし、僕も次の店へ行くか」ということで、また、別の小料理屋へ足を運んだ。タクシーで5−6分のところ。ここでも、また一人ぼっち。和服姿のママさんとだべりながら、僕は珍しく酒を飲んだ。ママさんとさしつさされつで飲むのも、これまた、趣があると、僕に「助平心」がもたげたからである。
ここのママさんは、高校時代、フォークソングクラブの歌姫だったとのことで、無類のフォーク好き。何十枚か何百枚か知らないが、相当数のシーディーを持っている。そういえば以前、河島英吾さんだったっけ、彼のシーディーを借りていたが、僕はなんと間抜けか、空のケースを返してしまったことがあった。
スケベー心は長くは続かないものだ。ほろ酔い気分になりかけた頃、次の客が来た。 神様、仏様は良くお見通しなんだ、と、あらためて、我が心を反省。 と言うことで、再び、最初の店へ逆戻り。なななななんと、安さんが練習を終えて再び来店していた。「わお0000っつ」と喜び会ったが、既に、僕は焼酎と酒とのミックスで、酩酊状態。もう、歌を歌うどころではなかった。いつもは小さくまん丸のかわいいお目目が、ギンギラギンの野獣の目に変わっていたらしい。こんな時は、素直に退散とうことで、失敗もなく見事に帰宅に成功。ただ、今朝は、ぼーーーーつとしていた。ようやく、平常心にもどり、この日記をしたためた次第である。情けなや。この愚か者。懺悔懺悔で、また懺悔だ。
四月初日の雑感 at 2003 04/01 11:27 編集
はや、四月になった。桜も満開だ。本来なら、身も心も浮かれて人生の春を楽しむべきなんだろうが、どうも、心と体がアンバランスだ。ストレスがあるわけではない。なんとなく気せわしく、まるで、今から正月を迎えるような気分だ。「明けましておめでとうございます」という、嬉しい正月ならまだしも、こう世の中がカオスの状態では、いまだに21世紀の方向性を見出せない。こんな時期に正月の話をするなんて、「この、あんぽんたんの馬鹿たれ」と怒られそうだ。
そういえば、四月からいろいろと、経費負担が増える。こういうことでは、景気がよくなるどころか、ますます消費は落ち込むだろう。確かに、時代の流れとともに、それにあった制度への変換が必要である。そのことは理解できても、所得が増えないのに、固定経費が増加していくことは、だれも納得がいかないだろう。おまけに、借金という大きな負の財産だけが残っていく。後世を生きる人間にとっては大きなリスクだ。ただ、じっと耐えることしかないのだろうか?。
周りを見渡すと、アメリカとイラクの戦争が長期化の様相を呈してきた。実に悲しいことだ。人間と人間はどうして、互いに理解しあえないのだろうか?。人間の五欲のなせる業とは思いたくないが、争うことも生きとし生けるものの宿命なのか?。分からない。
確かに科学は競争があって、輝かしい功績を残してきた。しかし、生存競争で、戦争までしなくてもいいだろう。人間は考える動物であるなら、よくよく考えれば、戦争だって回避できるはずだ。それができないのは、人間の宿命ではなくて、単に愚かなだけかもしれない。僕自分もその愚かな範疇に入るのかもしれないが、僕はただひたすら、自然に即して、飄々と生きて行きたい。そんな気持ちで一杯だ。
よく、ばあやから言われる。「お坊ちゃま、自分のことしか考えないのが一番罪深いことなんですよ」と。確かにそうだ。 僕も、人の幸せになることなら、身を惜しまず何かをしなくてはいけないだろう。
僕は今朝からそういうことを考えながら、机に座っている。今日は雨だ。恐らく桜もおおかた散ってしまうだろう。刹那の美とはいえ、目を楽しませてくれたことには感謝せねばならない。桜君、じゃあない。女性なら桜さんだ。今年も有難う。また、来年も同じ気持ちであいたいなあ。僕の心はそう叫んでいる。四月初めの雑感でした。
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