umityanの日記
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六月最後の雨 at 2002 06/30 11:45 編集
六月最後の雨がしとしとと降っている。梅雨の時期とはいえ、僕は六月の雨が好きである。何故なんだろう?と真剣に考えたことはない。ただ、湿気はあるものの、冷たく、ひんやりとした雨は、みずみずしく、新鮮で、他の時期とは違った躍動感や生命力を感じさせてくれるのだ。もし、雨に不純物が含まれていないならば、思い切り、顔や全身を雨に打たせ、体をリフレッシュしたいと思うのだが。悲しいかな。今、そんなことをすると、変人としてのレッテルをはられてしまいかねない。結局、風呂場や海水浴でシャワーを浴びるのが関の山といったところか。「いと、悲し」である。 この時期の田園風景もまた、独特な光景を見せてくれるので楽しい。田んぼにはられた水面を雨がたたき、そのしずくが跳ねる。はねるしずくの姿がとても面白いのだ。小さな水溜りならば、小さな領域のはねだが、田んぼとなると、広大な水面を雨が「バシャバシャ」、また、ある時は、「ピチャピチャ」とたたき、四方八方にしずくが飛ぶ。太陽の光線が当たれば、虹が生まれる。まさに自然が生み出した芸術作品って感じである。コーヒーでもすすりながら、こんな光景を窓越しに眺めていると、時間の経つのも忘れてしまうことがある。今日はそんな日である。雨が上がれば、田園を横目に、昨日買ったナギナタの切れ味をためしてみたい衝動にかられている。どうなることやら。
2002年06月29日(土) |
ナギナタと、かっぽうぎ。 |
ナギナタと、かっぽうぎ。 at 2002 06/29 21:29 編集
うんんん、最近、色んなことがあって、驚かされたり、考えさせられることが多い。要は、自分が食わず嫌いで、無知なだけかもしれないが。今日も買い物に行って、「ほんにまあ、驚きましたばい。ホームセンターには何でもありますばい」で、びっくりこいてしまった。雨模様の今日。とりとめて、何もすることがなかったので、新しいナギナタでも、買うかということで、久しぶりにホームセンターへ足を運んだ。いやはや、商品の多いこと。なんでもござれって感じである。とても、一つ一つを見て回る気にはなれない。圧迫感で、くらくらっと目まいが。そく、ナギナタコーナーへ。あった。六千円ばかりで、見事な大ナギナタが。棚から下ろして、刃先のカバーをはずして一振りしてみた。「いやああ、なかなかいい塩梅だ。雑草もこれで一網打尽だぜ」とほくそえんでいると、そばを通行していた買い物客が、「あぶない」と、眉をしかめながら、足早に遠ざかっていった。「おうおおっつ、悪いことをした」と反省。もともと僕は、買い物が苦手である。特に女性や子供と行くのは最高に苦手。従って、僕の辞書には[ウィンドウショッピング]という言葉はない。こう書くと世の大半の女性から、「あなたって本当に、かわいそうな人ね。人生の楽しみ、喜びを知らないのね」とか言われそうだ。それも仕方がないだろう。人にはそれぞれの、領分ってのがあるわけだし。なにも、「ウィンドウショッピングをしなくても、十分に人生を謳歌できますばい」と言ってやりたい。まてよ。よく考えてみたら、こういう話題で人生を語るにはあまりにも、くだらなさ過ぎるではないか。話を変えよう。最近、頭を悩ましたことが二つばかりあった。一つはその日に見事、解決。それは昨夜のことだ。例によって、僕を愛してしまった?という「のりちゃん先生」からの誘いで、今週二度目のデート。いつもの和服のママさんとこで、小料理に舌鼓を打ちながら、雑多な話に興じていたとき、何を思ったのか、ママさんが着ている「かっぽうぎ」が話題に。「漢字で、どう書くんだったっけ?」と、周りのお客さんを交えて、喧々諤々。だれも正解らしき字を書ける人がいなかった。のりちゃんも僕も、「うんんんんん」と、うなっているばかり。頭で、あれこれ考えているが、それらしき字が出てこない。ママさんが、やおら、「電子辞書をとってきましょう」と言って、わざわざ、三階の自宅まで、階段を「トントントン」と、小気味よく上って行った。息を切らしながら戻ってきて、にっこりしてママさんいわく。「こうよ。しらなかったわ。いい勉強したわ」と。僕達も、我先にと、辞書を覗き込むと、「割烹着」とあった。「なんだーーーーー。そうだったのか。いやああ、難しいぜ」と、僕達は頭を掻き掻き、大笑い。無知とは恐ろしいことだ。同時に食わず嫌いも無知と同様に、こわいことかも知れない。僕を愛しているらしい?、のりちゃん先生もいることだし、たまにはウィンドウショッピングでもして、指輪でも、おねだりしてみようかしらと思う、今日でした。うんんん、これは、きつい冗談だった。ここまで書くと一言、弁解しなくてはならないだろう。決して、のりちゃん先生と僕は、世間が思うような関係ではありません。僕にその趣味は、とんとありません。彼も同様。まあ、気のあった良い友達ってとこですね。いやはや、こういう弁解をするとは、僕も罪つくりな男ですぞ。 最近、頭を悩ました、いや、今も悩ましている、もう一つのことは、紙面の都合上、次回に延ばそう。
2002年06月28日(金) |
マムシ君とエイリアン |
マムシ君とエイリアン at 2002 06/28 09:51 編集
最近、夕方の一・二時間を雑草刈りに当てている。刈っても刈っても、雑草が縦横無尽に伸びてくるから嫌になってしまう。それにしても、彼らの生命力には感服せざるを得ない。手で根ごと取り、一網打尽にするのが一番良いとわかっているが、それじゃとても追いつかない。ということで、今は新兵器、草刈機を振り回しているわけだ。草刈機を肩から紐でつるして、腰を落として、前後左右に、「バキューン、バキューン」と、草をなぎ倒していく姿は、まるで、映画「エイリアン」に出てきた女性兵士を思い出す。彼女は、がっしりした美人兵士で、火炎放射器みたいな、大型の銃を肩からかけ、腰を落としながら、エイリアンを倒すべく一歩、一歩洞窟の中を進んでいく。時々、火炎を「バオーッ、バオーッツ」とはきながら。僕も、「マムシ君」に注意しながら、まず自分の足元を草刈機で払い、マムシ君の不存在を確認しながら、背丈ほどもある雑草の中を、少しずつ前へ進んでいく。「マムシ君」は、枯れ枝に近い色をしているので、気付かないで、足で踏んでしまうと、「ガブッツ」とかまれてしまう。 人の話によると、痛いのなんのって。しかも、血清が間に合わないと一命を落とすこともあるそうな。丁度、今頃が、田植えが終わり、マムシ君をはじめ、蛇君たちが、雑草の生い茂る川淵に上がってきていると、人が言う。その川淵が実は敷地の境界であり、僕の雑草刈りのテリトリーってわけだ。本来、雷君と蛇君は僕の苦手なナンバーワンとツー。雷は今は大丈夫だが、蛇君が怖いからと言って、雑草君に勝手気ままを許すわけにもいかない。てなわけで、まだ「マムシ君」をじかに見たことのない、怖いもの知らずの僕は、今日も雑草君との悪戦苦闘を試みようと思っているわけである。マムシ君はまさに、僕にとってはエイリアンそのものである。そうそう、「エイリアン」で主人公、リプリーを演じるシガニーウィーバーは、僕の大好きな女優さんの一人である。
2002年06月26日(水) |
サッカーと僕の仕事ーーーどんな関係? |
サッカーと僕の仕事---どんな関係? at 2002 06/26 12:21 編集
サッカーもいよいよ佳境を迎えた。それにしても、昨夜の韓国対ドイツ戦もすごかった。仲間が団結して、ただひたすらゴールを目指しボールを運ぶ。華麗なパスワークや足さばきが見事だ。まるで、ボールとそれを操る人が一体。こういう状態を「何かを極める」というのだろうか?。僕がそう言ったところ、ばあやが、「仕事もそのくらい頑張って、極めてほしんですけどね」ときた。「ええっつ、僕、がんばっていないかなああーーー」と言うと、「お坊ちゃまは、遊びなのか、仕事なのか、良くわかりませんから」と言う。うんんんん、なるほど、そうか。僕はそういう風に見られていたのかと、反省、反省。まだまだ未熟なようだ。もっと、精進せねばと、昨夜は遅くまで机に座っていた次第である。とは言いながら、ノリチャンから夜十時半ごろ電話があった。なんでも、仕事で研究室に残っていたそうな。その後、お気に入りの和服のママさん所へ、ストレス解消のため出てきたと言う。僕も一瞬、「ちょっと出かけようかな」と誘惑に負けそうになったが、思い止まった。、ばあやの言葉が気になり、また、時間も遅かったので、次回に会うことにし、電話を切った。何でも街中はがらんとしていて、飲み屋さんも商売があがったりだったそうだ。皆、自宅のテレビの前で、サッカー観戦に夢中。たまにはこういうこともあっていいと思う。家族皆で、同じ目的になれる機会って、そう滅多にないだろうから、サッカーワールドカップに万歳だ。いよいよ数試合を残すばかり。優勝戦は日本である。その日も日本中が熱気に沸くだろう。願わくば、景気もはやくそうなって欲しいものだ。
やがて一年の半分 at 2002 06/24 11:51 編集
やがて一年の半分が過ぎようとしている。「この半年、僕は一体、何をやってきたかなーーー?」と振り返ってみると、これと言ったことは、何もやっていないように思える。定かに思い出せないのだ。ということは、僕にとって、生活上の大きな変化や転機はなかったことを物語っている。平々凡々とその日暮らしをしてきたようだ。こんな時、日記はとても便利だ。毎日、書いていなくても、「あの頃はこんなことがあったっけ」と、一応、記憶をたどることが出来るからだ。そういえば、僕の日記は、友人達との酒の話が一番多いようで、ついで草刈を含めた仕事の話、時折、社会の出来事なんかについて書いているようだ。日記は交換日記ではなく、公開日記なので、言葉を選んで、時には脚色して書いているが、その時々において、「ああいうことを考えていたんだなあーーー」と自分を再発見できるところが面白い。ただ、自分の日記を見ながら気付いたことがある。それは、毎年、同じ時期には同じ話題がテーマになっていることだ、季節で言えば、六月は梅雨のこと、五月は風に泳ぐ鯉のぼりや、青葉・若葉のこと、四月、三月は桜のこと。季節以外の面でも、同じような傾向が見られる。さらに、ど季節にあっても、いつも友人達との酒盛りが大きな話題を占めている。「あんた、よっぽど、大酒飲みばいな」と言われそうだが、あにはからんや、そうではない。僕は夏でも、冬でも、家で飲酒することはほとんどない。外でばかりである。又、本質的にアルコールが好きと言うわけではなく、付き合いで飲んでいたら、自然と飲めるようになっただけである。要は、付き合いの一手段として、アルコールがあるのだろう。おまけに、キレイどころから、さしつ、さされつで、「ミルンさん、もう一杯いかが?」とかなんとか言われると、それはもう、「断ってはだめ」という気持ちになり、「おいちーーー、もう一杯」と言って、羽目をはずしてしまうのが、いつものパターン。「こういう性格はいったいどうしたもんだろう?」と、正直に考えてみると、要は、「淋しがりやの甘えん坊、とっちゃん坊や」と言うことになるか。暴れん坊ではなく、手におえるから、まだ、救いがあるというものだ。友人が、「そこまで自分を落とさなくてもいいだろう・・・。たまには、ベッカム二世といったらどうだ」と言ったが、「織田無道二世」ならわかるが、そこまで言ったら嘘になってしまうぜ」と、大笑いしたことだ。
2002年06月22日(土) |
長い一日を草刈で過ごしました。 |
長い一日を草刈ですごしました。 at 2002 06/22 12:02 編集
昨日は夏至。「長い一日をどう過ごそうか?」と、思案していたが、結局、夕方から「草刈り」にいそしんだのでありました。まさか、草刈はしないだろうと思っていたが、その「まさか」が、「本当」になってしまった。そこに考えが至るには、大きな理由はいらなかった。仕事が、さばけ過ぎて、時間が出来た。しからば、体力増進のため、草刈りをやるかと、思い立ったことが第一の理由である。こう書くと、ちょっと、きれいごとになってしまうが。日ごろ、動かしていないわき腹の、「ロース」をそぐには、草刈機の回転が最高である。右九十度、左九十度で、百八十度の回転を繰り返す。「うんんん、筋肉が、いや間違いだ。贅肉がピクピク動くぜ」。こうなりゃ、わき腹も否応なく引き締まるというもの。この話を友人にしたら、友人いわく。「おいおい、ますます贅肉が発達してしまうぜ」ときた。「余計なお世話だぜ」と言いたい。二つめは、重労働の後、大好きな野菜と言うべきか、果物と言うべきか、「スイカ」で、十分な水分を補給し、ほてった体を癒しながら、労働の喜びとスイカの美味にひたれることだ。何を隠そう、これも幸せな僕の一時である。実は、先日、遠出したとき、スイカを丸ごと買ってきて、冷蔵庫の中に放り込んでおいた。「頃はよし。早く食べて」と、スイカから催促されていた。まさに、グッドタイミングだ。僕は子供のころから、スイカが大好きだった。ほとんどが水分かもしれないが、水ではない。切れば、真っ赤なイチゴを敷き詰めたような三日月形の実である。「ばくっつ」と食いつくと、甘酸っぱい水分が口からほとばしり出る。これを「快感」って言うのだろうか。誤解を招くといけないので、一言付け加えるが、決して吸血鬼の子孫ではない。スイカがおやつ代わりだった小さい頃、兄弟で競って食べた光景が今でも懐かしく思い出される。草刈りの理由があらぬ方向に展開してしまったが、ばあやが言った、この言葉が憎いじゃありませんか。「お坊ちゃま、草刈にいちいち、理由はいりませんよ。早くしなくちゃ日が暮れますよ」」だって。「ムカッ」ときた僕は心のなかで言ってやりました。「今日は夏至だから、日暮れは遅いんだよ」ってね。
2002年06月21日(金) |
長い昼間ーーどうやって過ごしますか? |
長い昼間ーーどうやって過ごしますか? at 2002 06/21 09:17 編集
今日は夏至。昼間が一番長くなる。そういえば、朝、目が覚めると、やけに周りが明るい。「ありゃ、寝すぎたかな」と、ベッドの時計を見れば、まだ、五時半。「なあんんだ」と言うことで、寝なおすことに。「これがいけないんだよなああ」。深寝してしまい、気付いた時には八時を、ゆうに回っている。「しまった、しまった」と頭をかきながら起きると、ばあやの冷たい視線が「ちくっつ」と背中にささる。「お人さまは、もう野良仕事を終えて、次の仕事にかかっていますよ。そんなに怠惰でどうしますか?。味噌汁もすっかり冷めましたよ」と言っているようだ。もちろん、僕だって十二分に理解済み。子供じゃないんだから。「ごめん、ごめん」と言って、そそくさと、顔を整え、何事もなかったかのように一日が始まるのだ。夜は七時半過ぎまで明るい。冬至のころは夕方五時半には暗くなるから、二時間以上、夕暮れが遅くなるわけだ。夜が明るいのも、一長一短がある。長所といえば、車の運転がしやすいこと。ノンライトでよいからだ。さらに、気分もうきうきする。海水浴に行ったときなんかは、遅くまで波と戯れていることが出来る。海水は昼間の日光を十分に吸収していて、海の中は暖かい。じっと、たたずんでいると、母親の懐に抱かれているような錯覚を覚えたものだ。短所といえば、小料理屋の「暖簾」を」くぐるのに、明るすぎて情緒がないことである。世間の目は、「こんなに明るいときから、酒びたりか」と、冷ややかな目で見る。気にする僕ではないが、外が明るいと、体もまだ、アルコール注入に、抵抗を感じているようだ。「もっと、外の空気を吸いたい。行くならビアガーデンにして」」ってね。それを無理して店の中へはいると、誰もいない。だだっつぴろい空間は、しらじらしくて、アルコール注入には、不向きな雰囲気。かと言って出直す気にはなれない。とりあえずは、「しらけ鳥」と共に乾杯することになる。 夏至にかこつけて、いろいろ書いたが、日本は、こういった四季折々の節目があって、変化にとんだ、恵まれた国だと思う。最近の異常気象とかで、この素晴らしい自然の循環サイクルに変調が来ないことを、切に願いたいものだ。さああああ、長い昼間の今日一日、「どやって過ごすべか」と、今、思案中である。まさか、雑草刈りでもあるまい。
2002年06月19日(水) |
サッカー日本代表選手のみなさん、たくさんの夢を有難う |
サッカー日本代表選手のみなさん、たくさんの夢を有難う at 2002 06/19 10:56 編集
「ワールドサッカー日本代表の皆さん、ご苦労様。索漠とした日本列島に、勇気と夢とロマンを与えてくれて有難う。武器ではなく、たった一つの丸いボールが、人種を超えて、協調と理解と平和を生み出しました。なんと素晴らしいことでしょう。空高く舞い上がった平和のボールが、あまねく、世界を照らし続けんことを。アーメン・・・・。南無ーーーーー。合掌・・・・・・」。万に一つもないと思うが、「今回のワールドサッカーについて、何か祝辞を」と、言われたら上記のようにしゃべってみたい。今まで、サッカーの試合を、これほど、興味深く見たことはなかった。サッカーはまさに、玉を使った格闘技って感じだ。それも、11名の精鋭集団を一塊として、一対一の真剣勝負。神経はすり減り、体力は限界に達し、朦朧とした一瞬に、得点されてしまう。得点したチームは歓喜に酔い、得点されたチームは呆然と立ちすくむ。そこにスポーツの美学があるといえば、あまりにも過酷か?。いずれにせよ、今回の日本代表選手たちの活躍は日本中の人々に感動を与えた。あらためて、「有難う」という感謝の気持ちを捧げたい。
2002年06月18日(火) |
山奥の役場まで一人旅。淋しいぜ。 |
山奥の役場まで一人旅。淋しいぜ。 at 2002 06/18 10:31 編集
仕事で久しぶりに遠出した。山を二つばかり越えた県外の村役場までの出張だ。一人旅は淋しいぜ。まさに、誰かの歌にあった、「いく山川、越えさりゆかば、寂しさのはてなん国ぞ、今日も旅行く」という心境だ。山道はすれ違う車も、人影もない。まあ、仕事だから仕方がないが。ただ、どこまで行っても道が舗装してあるのが、目につく。人間の英知が、こんな山奥にまで、あまねく行き渡っているんだなああと、変に感心してしまった。さらに、山道の両側に立ち並ぶ杉木立は天に向かってまっすぐ伸び、高山独特の草花は目に優しい。雑踏社会のしがらみから心を癒してくれるには十分である。また、見事に蛇行した道は、僕のドライバーテクニックを駆使するにはもってこいの場所。「わおーーーっつ」と言いながら駆け抜けた。ナビゲーターが道を案内してくれるので、迷うことはない。三時間半のドライブで無事に役場に到着。ほんの五分の仕事を終えて、さあ帰還だ。帰りはのんびりと、ゆっくり運転していこうと思った。こんな風に、はしゃいでいられるのも昼間だからである。はたして、夜はどうだろうか?。元来、臆病な僕は、夜、この道を一人では到底、走れないだろう。音楽を「ガンガン」鳴らしていても、闇が背後に迫り、真っ暗な後部座席から、白い骨ばった手が「にゅうーーーー」と、でてきて、僕の首筋に触れるような。「おこんばんは!!・・・」という声が聞こえたような。背中が「ぞーーーーっつ」として、冷たい汗が全身をぬらす。僕は、わき目もふらず、灯りの見える人家まで、一目散に車をぶっ飛ばすにちがいない。そして思うだろう。「いやはや、夜はもう、こりごりでござんす」ってね。とかなんとか考えながら走っていると、携帯のベルが。則ちゃん先生からだった。僕の日記を読んで、いたく感心したそうな。それもそのはず、則ちゃん先生の良いところをあまねく記載していたので、喜ばれないはずがない。これはちょっと言いすぎか?。なんでも、今日は時間がとれたので、一献かたむけてもよいそうな。しからばと言うことで、僕は早速、ここの名物という、馬刺しを二パック買い込み、酒のつまみにと持参した。これがまた、うまかったんだよなーーー。 続はあとにしよう。
2002年06月14日(金) |
再会、再会ずくし。あな、楽しからずや。 |
再会、再会ずくし。あな、楽しからずや。 at 2002 06/14 11:12 編集
今朝、弟(仕事仲間で弟と僕が称している人物)から電話があった。夕方六時より、月に一度、開かれている異業種交流会に出るかどうかの照会だった。ボス(仕事仲間の親分)は北海道に行っているし、今回は止めておこうかと思っていたが、僕が行くなら弟も行くと言う。まだ、体調は本調子ではないが、「よっつしゃああ、行くかあーー」ということで、今日も夜の街を徘徊することになりそうだ。実は、最近、弟とは行き違いばかりで、久しぶりの再会になる。おおむね、彼は、淋しくなったときに、この兄の、ご寵愛に預かりたいと思って電話してくることが多い。「かわいい奴だ。許す」ということで、僕も見事、たがねをはずして、船を漕いでしまうって寸法。やはり、男にもあるんだよなああーー。落ち込むってことが。昔、多感な頃、僕にもよくあったから分かる。人生が、無性に空しくなり、「あああ、俺達は何のために生きているのか?わおーーーーーーん」と真剣に考え、吠えたものだ。最近の僕は人生に諦めがついたのか、人生を悟ったのか、そのいずれでもないのか分からないが、「なるようにしかならないさ」と、開き直っているようだ。ただ、僕の信念らしきものは、いたずらに欲をださず、人生の流れに従って、「ひょうひょう」と生きたいということだ。人間関係のしがらみが、あとからあとからと、押し寄せてくるが、その一つ一つに翻弄されていては、ストレスがたまるばかりで、いかんともしがたい。しからば、ちょっとだけ我慢して、素直になり、欲を抑えると、しがらみは、体の横を過ぎ去っていく。良かった。良かったである。ま、何はともあれ、人間関係は、すかっとさわやかなコーラみたいなのが良い。男女関係にしても、どろどろした、複雑なものよりも、スカッツとさわやかが良い。そういえば、昔、「すかっとさわやか律子さん」とかなんとか言っていたっけ。これは美人ボーラーの「中山律子さん」のことだったっけ。そのころから、「スカッとさわやか」と言う言葉が好きになった。あまり関係なかったか。とりあえず今日は弟と乾杯で、そして、明日は同級生の歯医者と再会だ。最近の僕は、再会、再会ずくし。あな、楽しからずやである。まあ、これも人生の一部と思えば、すかっとさわやかな気分だ。
2002年06月13日(木) |
またもや、則ちゃん先生とのご乱交 |
またもや、則ちゃん先生とのご乱交 at 2002 06/13 16:45 編集
僕と則ちゃん先生はよっぽど気が合うのか、昨夜も七時から、焼き鳥で一献かたむけることに決定。僕は連日のご乱交で、体調はもうひとつだったが、断らないのが、モットー。ばあやいわく。「今日も午前様ではないでしょうね。十二時を過ぎたら、鍵をかけておきますからね」ときた。「わおーーっつ、又脅しか」と、一瞬僕の顔も曇ったが、「分かった、分かったよ」と言って、そそくさとでかけた次第だ。彼と、ほぼ同時に行きつけの焼き鳥屋に到着。さっそく、生ビールを注文し、焼き鳥は、適当に焼いてもらうことにした。すきっ腹だったので、すいすいと、ビールがのどを通過した。「うんんん、こんなに暑いと、さすがにうまいなああーーー」と、おかわりで、それぞれ中ジョッキ二杯ずつ。餃子をたべて、焼き鳥をひとりあたり、十五本位、食べただろうか。ひとしきり、腹ごしらえができたので、「さあああああ、次は和服のママさんのところだ」ということで、歩いて直行。僕達にはすでに暗黙の了解ができていたようだ。いつものパターンである。何の変化もない。あるとすれば、僕の体調がもうひとつと言うことぐらいだ。いつもながら、混んでいた。なんとか席を確保して、今度は焼酎の水割りで、まず乾杯。これが結構うまいんだよなああ。則ちゃん先生と、「今日は早く帰ろう」、ということで合意していたが、その合意もいつのまにか反古に。アルコールの幻覚とママさんの色香にあてられて、二人とも酩酊寸前。焼酎の次は、冷酒を飲み始めた。ママさんも加わった。「私、弱いのよ」といいながら、「ごくん、ごくん」と。さすがである。時折ママさんが後ろ向きになる。目を走らせると、頭はロングヘアーを束ねて、結ってある。ちょうど、後頭部に、りんごが乗っかっている状態だ。こぎれいなかんざしがリンゴに刺さり、見事な美をかもし出している。首筋あたりが、ほんのりと、桜色。「うんんん、男ってこういう姿にあこがれるんだよなーーー」と、ふっと、則ちゃん先生を見ると、考えていることは僕と同じなのか、にんまりとした顔で、目と目が合ってしまった。これが、中年のいやらしさか?と思ったら、「おおおいやだ、いやだ」と言いたくなる。 まああ、そんな風で、すっかり酩酊。 実はこの後、先客とあるテーマについて、バトルが展開することになるのだが、省略して、ひとまず、この店を退散することにした。ここは一応、則ちゃんのおごりみたいだったので、「それじゃ悪い」ということで、もう一軒足を運んだ。ピチピチのレディーがたくさんいて、会話に花を咲かせる店で、楽しかった。則ちゃんは早速、紙と鉛筆を持ってこさせ、自分についた女性の似顔絵を描き始めた。この姿は何度も、みてきたが、すっかり酩酊している証である。はたまた僕はどうかというと、そばにすわった女性に、人生論をぶちまけ、僕のホームページのアドレスなんか教えているではないか。おまけに、ちゃっかりと、彼女の手を握っているではないか。これもすっかり酩酊している証拠。とはいえ、ここまで覚えていることは、しっかりしているともいえる。そうこうしているうちに、シンデレラタイムが刻一刻と近ずいてきた。やおら会計をして、帰宅することに決定。僕の払いで、そく外へ。そこまではよかったが、急に僕のお腹が痛み出した。ゲリークーパー寸前だ。店の洗面所を借りてもよかったが、まさかみっともないということで、則ちゃんに「ごめん」を言ってタクシーを飛ばして我が家へ。危機一髪で難を逃れた。それは良かったが、今朝、七時ごろ則ちゃんから電話がはいり、「めがね」をどこかに忘れたという。確かに店をでるまでは、装着していたように思っていた。「タクシーの中にわすれたのじゃない?」と言って、とりあえず電話を切ったが、一時間ばかりして、めがねが研究室から出てきたそうだ。「おおおおっつ、人騒がせな」と思ったが、僕も同じ穴のむじな。同罪だ。 時々思う。一体、僕達はこういうことばかりやっていて、いいのだろうかと。答えは「いい、いい、一度きりのじんせいじゃないか」と、出てはいるが、やはり、健康を第一義的に考えなくちゃいけないなあーーと反省もしている今日である。
2002年06月12日(水) |
人並みの夜って、どんな夜? |
人並みの夜って、どんな夜? at 2002 06/12 15:08 編集
歯医者をやっている友人が、土曜日にやってくる。高校時代の同級生である。以前、日記にも書いたが、今、山ノ神とは別居中。マンションかアパートかしらないが、そこを、借りて生活を始めた。つい最近、テレビと冷蔵庫と洗濯機がついたそうだ。彼のセリフがいい。「おれもやっと、人並みの夜がすごせるか」ときた。それにしても、おかしな夫婦である。山の神も歯医者だ。彼が院長、山ノ神が副院長。今は彼がマンションから診療所兼自宅に毎朝、通勤しているわけだ。一軒屋で近所とは少し離れているので、まだ、別居しているとは、気ずかれていないのだろう。僕に言わせれば、「結構なご身分で・・・」と、うらやましくさえあるが、本人にとっては、いたって深刻な様子。それはそうと、一体どんな顔をして、二人で診療をやっているのだろうか興味深深である。それぞれに、持分の患者さんがいて、お互いの治療方針に口出しをしない。この原則を守ることが、現状を維持できる秘訣かもしれない。それぞれが干渉しあうと喧嘩になり、患者さんも、歯科衛生士さんも困るだろう。はたして、二人、顔を見合わせてにっこりすることはあるのだろうか?。恋愛初期の頃はそういうこともあっただろうが、今では儀礼的な会話に終始しているかも知れない。お互いに、苦虫をつぶした顔では楽しくないだろう。今のところ、どう解決しようと思っているのか分からないが、男と女、愛がなくなったら、共同生活をやっている意味もないし、別れて暮らすのも、精神衛生上いいことかもしれない。そのうちに、何のはずみか、よりが戻ることもあるかも。夫婦喧嘩なんて犬も喰わないというし。ただ、「覆水盆にかえらず」とも言うし、今回の騒動は並大抵では治まらないだろう。一体、どちらに非があったのか定かではないが、一般的には男のほうが分が悪い。まあ、僕は彼の友人であるので、彼に極端な非がない限りは、彼を援護しなくちゃと、思っている。「あなたも女性の敵か」と、しかられそうだが、極端な非がないかぎりは、喧嘩両成敗が妥当だろう。 彼が持参するという、「地ビール」に、舌鼓を打ちながら、ゆっくり事情を聞いてみたい。
2002年06月11日(火) |
田植えで一句浮かびました。 |
田植えで一句浮かびました。 at 2002 06/11 22:40 編集
田植えの時期って好きだ。どうしてなんだろうかと考えてみた。その答えは水だった。ほんの少し前までは麦や、たまねぎの畑だったのに、あっという間にクリークから水がひかれ、畑は田んぼに早変わり。遠くから見ると、広い広いプールだ。真っ青の空や雲が田んぼの水に映えてキラキラと輝く。時折、鳥が低滑空して、水をたたく。まさに田んぼは母なる大地であり、水がしっかりと大地を潤し、生の糧を育ててくれるわけだ。車で田んぼを貫く道を走った。田植え機に苗が積み込まれ、たった一人の人間の作業でグリーンのじゅうたんが出来上がっていく。いやああ、お見事。便利になったものだ。昔は、長いひもを引っ張って、いっせいに並んで自分の受け持ち領域に「イチ・ニイ・の・サン」と植えていたらしい。今はこの光景にお目にかかることはない。ちなみに、生徒たちの体験学習ということで、昔風にひもを引っ張って、田植えを実施している小学校があった。テレビでみたが、田んぼが珍しいのか、泥んこになってはしゃいでいる姿が印象的だった。なんでも、収穫した米は難民の方たちや、被災地域に送られるそうだ。やはり、こういった社会とのつながりをもった教育が子供達をすくすく育てるような気がする。先生だけによる教育ではなくて、教室を飛び出して、社会人をどんどん取り込んだ教育を、もっともっとすべきだと思う。 話があらぬ方向に行ってしまった。ばあやに聞いたのだが、昔の田植えは、近所や親戚や仲間が手伝っていっせいに行ったので、青年達にとっては嫁を探す良い機会だったそうだ。ふと、「麦畑」という歌の、松つあんと、およねさんを思い出した。メロディーもさることながら、この歌の詩がとても好きである。松つあんと、およねさんは日本の理想的夫婦像のような気がする。形もスタイルもどんどんスマートに変わっていくにせよ、松つあんと、およねさんの心というか、気持ちは未来永劫、変わってほしくないと思う。 「差し出した、苗の横には、君の手が」。 一句浮かびました。字あまらず。
2002年06月10日(月) |
ワールドカップサッカー、初勝利、有難う。 |
ワールドカップサッカー、初勝利、有難う。 at 2002 06/10 10:19 編集
まずは昨日のワールドカップ、ロシア戦、「初勝利ありがとう。お疲れ様」と、心から言いたい。すごかった。パスワークからの稲本選手の見事な一蹴りは、吸い込まれるようにボールがネットに突き刺さった。得点だ!!!!。刹那の空白の時間が過ぎて、会場は割れんばかりの歓喜と興奮につつまれた。テレビ観戦をしていた僕も、思わず椅子から立ち上がって「わおーーーーっつ。すごい」と叫んでしまった。あとは、はらはらしながら、後半タイムリミットまで、テレビに釘ずけ。日本は攻撃の手を緩めなかった。このことも勝因の一つだろう。時間にせかされたロシアの攻撃もすさまじかった。怒涛のごとく、巨体が押し寄せてきた。ロングパスで、日本ゴール前にボールを運び、縦横無尽にシュート。日本の固い守りと、キーパーの迫力ある闘志によって、幾度となく、この危機を脱した。やがて、ロスタイムの二分が経過。タイムリミットだ。審判の合図で試合終了。監督も選手達も抱き合って勝利を祝福した。日本中が歓喜に沸いた。まだ、戦いはこれからだが、僕は、今日に至る代表選手たちの、この頑張りに涙を禁じえない。何故か昨今の不景気で索漠とした世相のなかで、日本の未来に明るさがもてるような気がした。同時に、このサッカーというスポーツが、世界中の民族の愛国と世界平和を担っているような気がした。サッカーは一人一人の技術もさることながら、やはり、団体でする競技。チームの結束というか、和というか、その鎖、連携を最後まで維持し、自分の役目をきっちりと果たす。このことが一番大事なことのように思える。勝利の方程式もそこから導かれるように思える。日本選手には、それがあった。画面をみていても、如実にそのことが伝わってきた。日本社会、経済もこうでなくちゃいけないと思う。政治も経済も小手先の我がことしか考えていないから、方向性はばらばら。これじゃああ、行く先真っ暗だ。少しはサッカー代表選手たちを見習って、真に骨のあるところを見せてほしいものだ。今日は愚痴を言うつもりではなかった。まずは、サッカー日本代表、監督と選手たちに、「有難う」と言う感謝の気持ちを捧げたい。
久々の雑草刈り at 2002 06/08 13:33 編集
六月の第二土曜日。机上の仕事は一応、暇である。こんな時こそと、朝から野良仕事(雑草刈り)に精出すことにした。いやああ、ついさっき終了宣言をして、よろよろしながら、家の中に這い上がった。まだまだ僕の敗北だ。もうくたくたで、ゼイゼイ言いながらこの日記を書いている。若い、若いと思っていたが、忍び寄る老化はいかんとも仕方がないか。それはそうと、敷地境の河川敷に縦横無尽にセイタカアワダチソウが立ち誇り、蔓が我が物顔で地面をはって、気持ちよさそうに駐車場を占領しかかっているのだ。「うぬーーーっつ、生意気な奴らだ。ちょっと油断すると勝手しやがって。少しは遠慮というものがないのか」と腹が立ってきたので、格闘に踏み切ったしだいである。今日のいでたちは、田舎風ブランドで勝負だ。頭にタオルをかぶせ、耳元までたらし、(これは日よけと汗吸収の役目)その上から帽子をかぶる。タオルが風で飛ばないようにである。ながそでのシャツにジーパン風のパンツ。さらに、膝頭まである長靴を履いて、さああ、出陣。手には、時代劇ではないが、大ナギナタと小ナギナタの両方を持っている。まさに、武蔵坊弁慶タッチである。近所の農家のおばさんたちや、子供たちは、「いよいよはじまったか。あぶない」ということで、ほとんど寄ってこない。僕もそのほうがやりやすい。万一、手からすっぽりと抜けて、飛んでいったら危ないからである。ナギナタを振り回して、アワダチソウを、「ばっさり、ばっさり」やっていく。取りこぼしを、小ナギナタで払っていく。いい運動になる。腰を入れてというか、腰を回して、ハードな作業をやるので、腰周りがスリムになり、同時にお乳のまわりは、筋肉でピクピクともりあがる。僕の理想のタイプ、シュワちゃん(アーノルド・シュワルツエネーガー)みたいになれたら、最高と、安易な夢を抱いて、この雑草刈りに挑戦しているわけだ。作業後、冷たいシャワーを浴びながら、前後左右をミラーに映して、「うんんんん、もうちょっとか」と若返りつつある、我肉体をしげしげと眺め、さらなる、挑戦の機会をうかがっている今日である。午後二時に仕事がはいった。体力があれば、涼しくなった夕方から、雑草諸君の一網打尽をねらって、更なる挑戦をと思っているが、どうなることやら。ばあや曰く。「たまに野良仕事をしても、シュワちゃんみたいにはなれませんよ」」だって。うんん、余計なお世話である。ということで、今日はお開きだ。
2002年06月07日(金) |
サッカーを見て思ったこと。 |
サッカーを見て思ったこと。 at 2002 06/07 12:21 編集
この時期はどうしてもワールドカップ、サッカーのことに言及しなければいけないだろう。世界の目は、今、会場主である日本と韓国に注がれている。連日、繰り広げられている闘いは実に見ごたえがある。特に、日本とベルギーの闘いはすごかった。闘志と闘志が激しく交錯する。タックルはラグビーだけかと思っていたが、そうではなかった。選手達がぶつかり、宙を舞って転ぶ。ちょっと油断すると、怪我することは必至だ。手入れされたグリーンの芝に男が大の字になる。テレビの画面を見ながら、我々は手に手に汗を握り、一喜一憂する。サッカーは、こんなにも過酷なスポーツだったのかと、あらためて考えさせられた。勝つための執念というだけではなく、それぞれが、自分自身に挑戦しているわけだ。はたから見ていて、いい試合にならないはずがない。。ふっと思ったことがある。自分をぎりぎりまで挑戦させる何かが、最近の僕にあっただろうかと。うんんんんん、否である。恋?仕事?お酒?。どれもこれも中途半端ばかりで、「ごめんなさい」ってところだ。「命をかけろ」とまではいかなくても、すくなくとも、情熱を持って生きなくちゃと、サッカーを見ながら思った。次はロシア戦だ。代表選手たちのますますの活躍に夢を馳せたい。
男と女の友情 at 2002 06/04 12:46 編集
昨夜は則ちゃん先生からの電話で、今週、最初の懇親をもつことになった。それも、六時という早い時間からである。例によって、蒙古斑があるというママさんの店へ行って、ひとしきりだべりたいというのが、則ちゃんの本音に違いない。たまたま、もらい物のお酒、「久保田の百壽」と中国の「和酒」があったので、持ち込んで飲むことにした。もちろん、ママさんの了解のもとである。なにしろ、ママさんも、お酒が好きなかたで、おいしい酒なら大歓迎というわけだ。しばらく冷凍庫でひやして、グイと飲んだが、さすがに美味い。ご自慢の手料理、まずは「こいもの煮っ転がし」と、「さばの煮つけ」を注文。これまた美味い。うまいずくしで、あごはおちるばかり。ここまで、褒めると今日はさぞかし、料金も安かろうと期待していたが、そこはさるもの、ひっかくもの、普通どおりだった。まあ、それはいいとして、今日はひょんなことから、男と女の友情は成り立つかという、難しいテーマが話題になった。ママさんは「成り立つ」に一票を投じた。それは「性」を超越して考えることができるからだそうだ。さてさて、男性諸氏はどうなんだろうか。卑怯な考えかもしれないが、ケースバイケースで成り立つこともあるかもしれない。ただ、一般的には、成り立たないことの方が多いだろう。そもそも、男と女を語るのに友情と言う言葉は相応しくないように思える。僕に言わせれば、愛か憎しみか、はたまた、同情か哀れみか、さらには慈悲、慈しみ、慈愛か。さらにさらに、何も思わないか。これらのどれも、友情ではないだろう。どうも、男と女は友情という言葉では語りにくい。則ちゃん先生は、何も答えなかった。「うんんんんんーー」と、うなるばかり。そもそも、男と女の友情なんて、考えたこともなかったので答えようもないのだ。 ただ、先ほどママさんが言ったように、性を昇華、超越できれば、男、女と言う観点もなくなるだろう。そこに至るには、もっともっと時間が必要かもしれない。僕も則ちゃんも、まだまだ、血気盛んなおじん。 「これからだべーーーおいどんたちは」と、ママに言ってやりました。 いやはや、男と女の友情問題は難しい。どこかに、明解な答えはないものか?。 口角泡を飛ばして、話すべきこともなかったので、しまいには尻切れトンボで終ってしまった。その後は、則ちゃんと僕の、どっぷりと酔った姿があったらしい。僕がこう書くのは、二人とも、以後の行動が定かに思い出せないからである。さすがに、昨夜は酔ったぜ。
2002年06月03日(月) |
弟からの心あたたるお土産 |
弟からの心あたたるお土産 at 2002 06/03 10:40 編集
先日、弟(親しくしている友人で、僕の日記には、頻繁に登場する仕事仲間である)が、カンボディアに行ってきたといって、お土産を持ってきた。何でも、カンパしていたお金で、カンボディアに学校ができたので、それを見に行ったらしい。行くとは聞いていたが餞別も何もしていなかったので、恐縮したが、「たいしたものではない」というので、気持ちよくもらうことにした。なんと、土産は確かに高価なものではなかった。日本円で買えば五円か十円くらいのものだろう。 「値段ではなく、こういう気持ちがだいじなんだあああ、とほほ」と、僕は半分笑顔、半分驚きでこの品を受け取った。竹で作った珍しい楽器で、子供たちの遊び道具みたいなものという。箸を長くしたような平たい竹の中が三本位に割れていて、唇に当てて、真ん中の竹の端っこを指ではじくと振動で、「ブーーーン、ブーーーン」と音がする。向こうの子供たちは唇の操作で、これを器用に操って、音楽を奏でるそうだ。僕もやってみたが、最初はなかなか音がでなかった。「こうやるんだよ」と、弟が受け取って、ティッシュで、僕が唇をあてたところを丁寧に、丁寧に拭いて、おいしそうに、竹を唇に当てた。僕は、「そこまでしなくても」と思ったが、まああいいか。唇を丸くして、ポン、ポンと竹をはじくと、「ブーーン、ブーーン」と音が出た。「なるほど、お見事」と、僕は感心した。これで、メロディーが弾けたら最高だ。笹笛を思い出した。世の中には、笹の葉を、唇に当てて、器用に音楽を奏でる人がいる。笹のかもしだす、音はなんとなく哀愁を帯びていて、心を打つ。童謡には、笹笛が一番ぴったりのような気がする。 そうそう、昔、兄(これは実兄である)が、詠んだ俳句が脳裏に浮かんだ。兄の作かどうかは分からないが、「麦笛や、わらんべ帰る畑の道」。麦笛もあった。僕も昔、学校の帰り道、友達と麦刈りの後の、麦の茎みたいなものを、口にくわえて、「ぷーーーっつ」とふくと、これがまた、のどかな良い音色をだすんだよなああ。 最近、こういう風景も、とんと見なくなったが、弟の素朴な土産は、結構、僕の心を癒してくれた。ちなみに、カンボディアの学校はまだ、屋根が葺いてなかったそうだ。一日も早く、純真な子供たちが勉強できる環境ができて欲しいと、弟ともども願っている。できれば、死ぬまでの間に、カンボディアにも、行ってみたい気がする。
2002年06月02日(日) |
今度は父の日だ。元気だそうぜ!! |
今度は父の日だ。元気だそうぜ!! at 2002 06/02 00:25 編集
六月になった。旧暦では水無月。異名で、林鐘というらしい。「りんしょう」って、詳しい出所は知らないが、味わいのある言葉に思える。そんな六月の今日は第一土曜日。仕事は午後と夜にそれぞれ入っていた。午前中はのんびりと、田園風景を眺めながら、のんびりしていた。すでに、麦は刈り取られている。例のおいしいビールの原料となるわけだ。そうそう、麦畑と言えば、およねさんとのデュエットの歌は楽しいが、そうではない苦い思い出がある。今でも時々思い出す。夜、車で麦畑に突っ込み、「あらら・・・わおーーーっつ」と言いながら麦踏みをしてしまったことだ。車が大破し、修理代やら麦の損害金を支払うやらで、踏んだりけったりだった。今では、「若気の至りだった」と言うことで済ませているが、脳裏に深く刻まれている。黄金の麦畑を見ると、早く刈り取られて欲しいと、おずおずと眺めるばかりである。やがて、この風景は一変して、水田にはや変わりする。遠くから見ると、広い、広いプールになる。かわいい緑の苗が風にそよぎ、涼しさを演出してくれる。この頃になると、カエルも、「ギャーギャー、ゲロゲロ」と鳴いて、そりゃああうるさかったが、最近は鳴き声もめっきり聞かれない。カエルがいなくなったのか?。何だか淋しい気がする。最近の小さな子供たちは、カエルがどんな鳴き声を出すのか知っているのだろうか?。実際にカエルを触ったことがあるのだろうか?。僕が中学生のころだったか、理科の授業でカエルの解剖の実験があり、いやというほど触れてきた。いまでも、やっているのだろうか?。そりゃああ、おっかなびっくりで、手術用のメスで、お腹に切りを入れたわけだが、思い出すだけで、数日は食事がのどを通らなかった。今の、子供はどういう反応を示すのだろうか?。あるいは、ませて、こう言うかもしれない。「おじさん、古いなあ。すでにパソコンで検索し、内部構造は理解済み。解剖もパソコンでしたよ。見事成功したよ」とかなんとか。ガッツ石松さんではないが、「パソコンがなんだーーーー、」と言ってやりたい。その子供はすかさず言うだろう。「おじさん、時代がかわったのよ」とかね。僕は思うだろう。「うぬううっつ、負けてなるものか」。まだまだ、俺達の時代だ」ってね。何だか、今日は子供に張り合ってしまった。こどもの日はとっくに過ぎたのに。あっ、そうか。やがて父の日だった。このへんで、威厳をみせておかなくちゃと、思ったのかもしれない。
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