umityanの日記 DiaryINDEX|past|will
やがて師走。時があわただしく過ぎていく月。なんやかんやと言いいながら、けじめをつける月。僕がつけなければならない「けじめ」もたくさんありそうだ。「わおーーーーー。」いやになりそう。そんな中でのちょっとした憩いはクリスマスに違いない。仏教の制度ではないが、日本社会にも浸透しており、肯定できる。昔の映画に「戦場のクリスマス」ってあったと思うが、今、アフガンで戦っている兵士たちにも、ひと時の憩いがあってほしいと同時に、早期の戦争終結を願いたい。タリバンの兵士たちは、最後まで戦うと言っているそうである。彼らの宗教にはクリスマスはない。捕虜としてつかまってしまえば、命が保証されない。しからば、最後まで戦おうということらしい。悲しいことである。そこまで、彼らを駆り立てる心はなんだろうか?愛国心?宗教心?民族主義に根ざした排他性。分かるような気もする。ただ、本当の情報が彼らに伝わっているのかどうか疑問である。情報過多の時代では、正しい情報を、正しく認識しないと判断を誤る。人々が情報操作により偏見をもってしまうことが怖い。テロリズムが正当化される情報や、社会は異常である。そのことを、為政者は民衆に正しく伝えねばならないだろう。いかなる宗教も、戦争やらテロを肯定してはいないだろう。死しても残らない名、あるいは残るかもしれない名なんて何の意味もないように思える。せっかく生を受けたのだから、お迎えが来るまで生をまっとうすることこそ、自然の摂理であり、宗教が望んでいることではないのだろうか。
今日は仕事仲間で後輩の結婚式に参列した。男は180センチをこす大男で、パートナーは160センチ弱の、どちらかといえば小柄な女性である。いやああ、それにしてもお似合いのカップル。後輩は以前、僕がよく行く喫茶店でアルバイトをしていた。なんと、彼女も日曜日だけ、そこでアルバイトをしていたのだ。まさか、付き合っているなんて夢にも思っていなかったが、いざ、披露宴にでてみると、やっぱりそうだったのかと、あらためて確認できたと同時に、何だか嬉しくなった。彼は、結構、無口で、まじめすぎるほどの男である。図体がでかく、「ぬーーーーーっつ」としているから、「ぬー坊」って、ニックネームを命名した。なずけ親はこの僕にしておこう。一方、女性は銀行レディーだったとのことで、テキパキとしていて、見事に、さばけている感じである。きっと、女房の尻に敷かれることは間違いなさそうだ。そのほうが、家庭円満でいいのかもしれない。彼は小さいころ、父親と、兄である長男をなくし、母親ひとつの手で育てられてきた。その彼が、披露宴の最後にしゃべった言葉に、僕は泣かされた。われわれ、来賓者にたいする挨拶は、当たり前ではあるが、母親に感謝の言葉を述べたのだ。じっと、黙って彼を懸命に育ててくれた母親に、ひとこと、「ありがとうございました」と言いたかったのだろう。一般的には女性が、「おとうさん、おかあさん、ありがとう」と言うものだが、女性の言葉は、あまりに日常的で、それほど、心に響かないが、こういうときに述べた男の言葉にはじーーーーんときてしまった。男の涙もまだすてたものではない。最高である。本当に良い結婚披露宴であった。お幸せに。
不思議なことってあるものだ。時期はずれのかもめーるが届いた。「あれっつ、暑中見舞いのはがきがあまったのだな」と、思いながら、盆前に来た30枚くらいはがきの抽選番号を確認していないことにきずいた。早速、検索で当たり番号をしらべたら、なんと一枚だけ当たっていた。発信人はクライアントの一人からだった。ところが、その日に、そのクライアントから仕事の依頼。「ええっ、偶然ってあるんだなあー」と二重の喜びにひたった。僕は霊感も超能力もないが、こういう偶然は結構、経験している。いいことばかりの偶然なら良いのだが、悪いことがかさなると、「あああ人生っていやだなーーー」と、二重の苦しみを味わうことになる。さすがに、二重の苦しみは今のところないが、羽目をはずして二重にも、三重にも後悔したことなら、何度もある。その端的な例の一つは、「はしご酒」だろう。予定外の出費に、「あああ、僕って、本当におばかさん」と後悔するまでは、自らまいた種だから、仕方がない。代行車が遅くなり、家への到着が午前1時を回ると、さすがに、鉄の扉には頑丈な錠前がしてあり、おらび、さけべども、ばあやが起きてくる気配なし。耳も遠くなって、寝込んでしまったか、ということで、僕は車のなかで、「やだったら、やだね、」と憤懣たらたらと同時に、反省ひとしきり。そのうちに、船をこぎ、目が覚めたら、お天道様が高く昇っていた。ばあやいわく。「おぼっちゃま、昨夜は、どちらのマドンナさんとお過ごしかしら」とくる。「やきもちを焼くとしでもなかろう」と、僕は一笑して、無言の抵抗。まああ、こういうことって、頻繁にあることではないが決まりが悪く、みっともない。近隣の家が離れているので、人にきずかれないところが、せめもの救いでである。
第一次の忘年会も終わり、平穏な日々が続いている。楽しいことが終わると、虚脱感ばかりが残り、少し淋しくなる。季節が冬に向かうと寒さが増し、おまけに懐も寒くなると、人間は人生に対してむなしさを覚えるのだろうか。懐があったかいと、何があったって、気分的には淋しくない。人間って、本当に現金なものである。春の浮かれた気分、ぎんぎらぎんに輝く夏の太陽と海。生のバイオリズムが上昇する時節が今恋しい。あれほど、嫌悪していた夏が恋しくなるなんて。僕もどうかしているぜ。
夏の猛暑がうそのように、秋晴れが続いている。暑くもなく寒くもない。快適である。こんなとき、人間は幸せ感をもつのだろう。ただ、娑婆世界を見渡すと、さわやかな秋空とは裏腹に、景気低迷、先行き不安という心の曇りが充満している。どうしたら、この曇りを晴らすことができるのだろうか?。今は、断固として小泉内閣が提唱した構造改革を実行していくことでしか、日本丸を救う道はないのかもしれない。暗礁に乗り上げ、沈没しないように、国民一人一人が、舵取りを注意深く見つめていく必要があるだろう。
しし座流星群はすばらしかった。まさに宇宙の神秘。地球の大気圏に宇宙塵が飛び込み、摩擦熱で光を発するわけだ。僕も今日の明け方1時半ごろから、観察するぞと意気ごんで、小さなお目目をぱちくりさせながら東の空を見やった。「スーーッツ」と金色の筋が流れた。しばらくすると又。そして又。いやああ、一度に、こんなにたくさん流れ星が流れたら、願い事もたくさんかなうかしらと、欲張って、あれこれと思いを馳せた。だめでもともとではないかと、打算的な考えが頭をよぎる。
久しぶりに長刀で雑草を刈った。背丈の二倍もあるほど、枯れたセイタカアワダチソウがはびこっていたからだ。冬の走りで、まだ、蛇も冬眠には早いのだろうか?。定かではない。蛇は僕の一番嫌いなもの。その次は雷だろうか。僕は恐る恐る、雑草をなぎ倒しながら奥へ進んでいく。やはりあった。蛇の抜け殻だ。まさか、このあたりに潜んではいないだろうな。おっかなびっくりである。長刀を振るうとき腰が引けている。「ざざっ」と音でもすれば、一目散に逃げ出しかねない。タバコを吸っていたころは、その煙とか臭いを蛇が嫌うらしいとのことで、吸っては前のほうへ「ポン」と投げ捨てて、様子を見ながら藪の中へ進行していた。今は、そうではない。ひざ関節までの長靴と、つばの長い帽子をかぶっている。いつものいでたちだが、妙に慎重であった。「願わくば、つつがなく雑草刈りが終わりますように」。僕の心はそう叫んでいた。
11月15日の忘年会が無事に終わった。総勢15名のどんちゃん騒ぎ。いやああ楽しかった。助っ人の女性は7名。店のカウンターレディ2名を加えて9名。見事、見事。なんと、身長170センチ以上のレディが二名もいた。ほかの5名は160センチ代。皆、スタイル抜群、美貌抜群。おまけに歌がうまいとくれば、引っ張りだこ。「わたしや、あんたに、ほれたばい」で、みな、ホクホク顔。先輩諸氏の古ーーーい演歌も見事に花咲いた。「花咲くーーーー乙女たちはーー]。ふっとそんな歌を思い出した。僕はなんと、大林素子さんよりちょっと背が低い175センチのレディーと「白いブランコ」のデュエットだ。これがいいんだよなー。思わずうっとり。観客を眺めてみると、鬼の目にも涙で、今にも、ダイアモンドのしずくがあふれそう。いや、これはちょっと冗談がきつすぎた。僕たちは羨望のまなざしを一身に浴びながら、時折、顔を見合わせてにっこり。おまけに、歌いながら彼女の鼻の中を眺めてしまった。さすがに鼻毛はない。鼻息も荒くなく、心地よいそよ風がほんわか、ほんわかした僕の頭をかすめて行った。こう書くと、僕がえらく小柄に思われてしまいそうだ。僕をアニメでたとえると、あるときは笑うセールスマン、そして又ある時は999のテツロウ。いずれも足が短い。まあ、それはいいとして、小料理屋での和風式一次会を堪能し、男性諸氏の8名は全員そろって洋風式二次会へ。助っ人のレディーたちが今度は畳ではなくて、ソファーで迎えてくれる段取りである。今日の僕たちはビップルームへ。「わおーーー」とめいめい、おらびながら、適当な席に陣取ると、男性の中を割ってヤングレディーたちが横に。うんんんん、畳もいいが、ソファーも又格別。ボスもますます焼酎で勢いずいている。「やれやれ先が思いやられるぞ」と思いつつも、僕も絶好調。さああ、それからどれくらいの時がながれたのだろう。1時を回ったころ無事、代行車で御帰還である。詳細は又の機会に書こう。
さあ、いよいよ今日の6時からカウンター仲間の忘年会である。皆、早く来い、来いと首を長くして待っていたようだ。それもそのはず。約束どおり、若いピチピチのギャル。おっと、こう言ってはいけない。ピチピチのヤングレディイーたちとのマン・ツウ・マンの忘年会だからである。締めて、おじさんタイプの男8名。足長おじさんなら、素敵かも知れないが、うんんんん、なかなかそうもいかない。ヤングレディー8名。今回は僕ははみ出さなくて良かった。昨年なんかはひどかった。僕は階段を上がったり、下りたりでサービスに徹し、酔いも中途半端。情けなかった。僕は迷幹事役。いつも人を喜ばせて、自分は涙に暮れていた。昔は立派な二枚目を演じていたが、齢を重ねていくうちに性格もも丸くなり、体も丸くなり、いまはすっかりの三枚目。まああ、それもいいか。人生、肩肘張って生きていくより、にんまり笑って生きていくほうが楽しいじゃあありませんか。ただし、今年はゆっくり座って、ゴマの焼酎に舌をうとうじゃありませんか。得意の「白いブランコ」をデュエットで歌って舞台で揺れてみようではありませんか。さらには「麦畑2」で、観客の笑いを誘おうではありませんか。
小さい頃、屋根に登って流星を観察したことがあった。器用に塀を伝って屋根に登る。冬の星座は見事に美しい。空気が澄んでいる時は、特にそうである。小林一茶の俳句に「名月を取ってくれろと泣く子かな」とある。僕が俳句を読むと「星空はダイヤモンドみたい。欲しいかな」となる。これって正直だけど、不謹慎であると、怒られそうだ。兄と僕とは、ちゃんちゃんこか何かを着て、屋根瓦にすわり、獲物を待つトラのごときまなざしで、じっと星空を眺めていた。「ほら、今流れたぞ」と兄が言う。「えええっつ、そう」。見逃した僕は、何事もなかったように答える。流星は、あっという間に流れ、消える。集中していないと、見逃すことが多いのだ。僕は当時、兄ほどには天文に興味がなかった。ただ、父が、仕事で都会へ行った時、お土産に天文の本を買ってきた。てっきり兄へのお土産かなと思ったら、なんと僕へのものだった。父も父である。二冊買ってくるなら、喧嘩にもならないのに、一冊だったので、当然、兄と喧嘩になった。父に言わせれば、僕にも兄と同様に宇宙やら天文に興味を持ってもらいたいとの気持ちだったようだ。ちなみに、父が買ってきた本は、兄には程度が低すぎた。
今朝のテレビで、階段を下りることが出来る、歩くロボットが紹介されていた。(階段を昇れれるかどうかは分からない。多分、登れるだろう)。何でも、会社の受け付けの仕事が可能だそうで、もう既に三体の就職先が決まっているらしい。「いらっしゃいませ。どちらに御用でございますか?。ただいま連絡をとりますので、しばらくお待ちくださいませ。ただいま何がしは不在でございます。かわりの者をお呼びいたしましょうか?」とかなんとか。女性ロボットが制服を着て、口紅でもぬって受付に座っていたら、そりゃああ、びっくりするに違いない。田舎から出てきた、おばあちゃんなんかは、「ひゃああ、たまげた。かわいいべべ着たロボットがしゃべっている」と、腰を抜かすに違いない。ちなみに費用は年間で2000万円。一月では200万円だそうだ。うんんん、人間の人件費と比べてどうなんだろう。ロボットはプログラム化されたことを忠実に行う点では優秀かもしれないが、人情を理解し、相手の心を推し測りながらする仕事には向かない。仕事の面白さとは人間関係の駆け引きにある。引いたり押したりしながら、どこかで妥協し手をポンと打つ。ここに仕事の冥利があると言ってよい。今の段階ではそこまで要求したらロボットがかわいそうか?。21世紀はアニメの世界で可能だったことが、どんどん実際になるだろう。人間の夢と英知には計り知れないものがあると驚かざるを得ない。僕がロボットに期待することがあるとすれば、自動車の運転をさせてみたい。ナビゲーターで行き先を指定していたら、ロボットが運転し、目的地まで運んでくれる。僕は車の中で、かわい子ちゃんと盃をかわしながら、「快適、快適」とご満悦だ。僕の悪い癖は、すぐその方面に話を引っ張ることらしい。
何気なしに深夜テレビをつけた。おや「白黒映像のドキュメンタリだ」。懐かしい。小さい頃、白黒の画面を見た記憶がある。とある山のなかの小学校での授業風景を映じていた。子供達は皆、ちゃんちゃんこというのか、どてらというのか、それらをはおっている。女の子はもんぺ姿だ。冬は身も凍るほど寒いのだ。教室にはストーブがあり、なべがかけてある。湯気がほかほかと昇っている。ふっとよからぬ考えがうかんだ。「あのなべで、熱燗をして飲んだらうまいだろうなああーー」。おっといけない。脱線だ。山の小学校にテレビがやって来た。学校を持ち回りで、一月間、授業に使われる。テレビの画面に見入る子供達。その表情が良い。目がいきいきとして、輝きを放っていた。ある者は口をぽかんと開いて驚き、まゆをしかめたり、真っ白い歯をむき出して、笑ったりしながら、画面に見入っている。その表情は汚れをしらない、赤ちゃんの百万ドルの表情に似ていた。また、戦闘地域で、銃を持って笑っている子供兵士や、食糧難にもめげず力強く生きている子供達の目の輝きにも似ているような気がした。
最近、仕事でミスをしてしまった。「あい、みす、ゆー」は英語で、i miss you. 「あなたがいなくて淋しい」。となるが、仕事のミスは淋しいどころか、つまんでもいただけない。僕の勉強不足ということになるのだろう。飲むのは一人前でも、仕事が半人前では情けない。まああ、ペーパーだけのミスならクライアント迷惑をかけないように、修正、もしくは訂正をすれば済むことであるが、人間相手のミスは、なかなか修正もきかないから厄介だ。先日、役所の年配女性と少々議論になり、気まずい思いをした。ペーパー上のミスがあったことは事実だが、相手のしゃべり方がどうも、僕と肌が合わない。そういう人も世の中にはいるものだと、あらためて感じた。向こうは向こうで、なんと生意気なわかぞうだ、と思っているに違いない。年に一度くらいしか会うこともない。万が一、来年、再会することがあったら、素直で、丁寧な僕で接してみよう。嘘みたいに雪解けになるかもしれない。試してみる価値はありそうだ。まさか、「本当はお慕い申し上げていました」ということにはならないだろう。
師走までには少し時間があるが、どうも、毎日が殺気立っていて、ゆとりがない。何か気ぜわしいのだ。日本人もアメリカ人も世界中の人々が今、とても疲れている。不景気に我慢し、戦争に我慢し、人心の荒廃に我慢し、報復テロにおびえながら日々を生きている。当然ながら、こういう社会は健全ではない。以前、思ったことがある。今、生きている人間は言うに及ばず、動植物のほとんどは100年先には皆、死んでおり、皆、入れ替わってしまっている。ビンラディン氏も、オマル氏も、ブッシュ大統領も、小泉首相も、そしてこの僕も。生命体の寿命なんて、それほど短くはかないのだ。子孫が残るから我々は死んでもいいという考えもあるだろうが、今は、その子孫の生存だって危ぶまれている。どうして今を生きている人間は愚かな戦争やテロに身をささげ、二度と生まれかわることのないだろう、我が命、他人の命を粗末に出来るのだろうか?。人類生存の戦いであっても、地球破壊、自然破壊という大きなつけを子孫に残してバトンタッチすることになる。後を生きる者達がかわいそうである。
昨日は予想通り雨。今朝は雨は上がっている。どんよりした曇り空だ。寒くなった。11月だ。これが当たり前だろう。今月も行事が目白押しだ。結婚式に葬式。忘年会に研修会。つかえた仕事。雑草刈りもしなくてはならない。年内にはすきっとけじめをつけよう。そういえば、昨夜は眠れなかった。夜飲んだお茶がいけなかったのか。頭がさえて、ラジオの深夜放送に聞き入ってしまった。ハンドベルの演奏をやっていた。これがなかなかいい。ますます眠れない。明け方3時過ぎには童謡をやっていたようだ。ソプラノ歌手の美声にうっとり。またまた眠れない。そうこうするうち、脳も疲れたようだ。うとうと。その後はぐっすり。もう記憶にない。
朝からどんよりした曇り空。恐らく今日は雨になるだろう。既に11月に突入。いつも月日の早さを嘆くばかり。昔、小さい頃は早く大人になりたくて仕方がなかった。子供の目から見ると、大人って自由で、何でも好きなことができるんだな^^と目に映っていたからだ。テレビをみても、素敵なシンガーや俳優は皆、自分より大人に見えた。華やかな世界は子供の目に強烈な印象を与えていたのだ。「あああ、僕もあんなになりたい」と。いざ、大人になってみると、なんだか、子供の頃に抱いていた印象が現実とは、大きく違っているんだということにきずいた。大人になるって、なんと不便で、不自由なことばかりか。願わくば、20歳から25歳でとどまっていたい気がする。ちょうど中途半端でいいような気がする?。「君なら許しちゃいそう」って感じだ。今の僕たちなら、「駄目だ。顔を洗って出直して来い」ってところだ。自由に見えたのは表面ばかり。実体は社会のしがらみと悪戦苦闘してもがいている姿だけではないか。ぼくも例外ではないようだ。昔の大きな志はどこへいったのだ。「暖簾ばかりくぐっていてはいけませんよ。少しは勉強もしなくちゃ」。ばあやの口癖である。確かにそうだ。最近、勉強がおろそかになっていたように思う。心せねば。ただ、僕にはこれと言ったストレスがないことが、せめてもの救いだろう。昨今、周りを見回しても、いいことはほとんどない。しがらみとともに毎日をやっと過ごしている感じだろうか。リストラの影におびえ、そして、やがてやってくるだろう死の恐怖におびえ。そう考えたとき、アフガンで死を恐れずに戦っている兵士たちの心はやはり宗教と言う大きな存在を信じていればこそ出来ることなのかもしれない。日本は仏教国といわれるが、真の宗教国とはいえないようだ。大いなる目的をもたない日本人も結局は流浪の旅人と一緒ではないか?。憩いと、温もりと、優しさを求めて男達は今日も暖簾ををくぐるのか?。
昨日は夕方頃、弟から電話があった。弟といっても例の団子三兄弟の末っ子。血縁はない。仕事仲間で友人で、僕が弟と呼んでいるだけのこと。もう一人、長兄の大ボスがいる。僕が真中の次男坊と言うわけだ。現実でもそうである。彼からの電話は決まっている。「今日時間があったら一緒にのどを潤おさないか」ということである。遠慮がちに言う彼の誘いを僕が断るわけもない。「おおおかわいそうに」。一発返事でオッケーである。いつもの焼き鳥屋で会うことにした。まず、やきとりと焼酎で勢いをつけて、「しゃなりしゃなり」の美人ママの店へ行こうというわけだ。少しアルコールがはいらないと、口も饒舌にならない。「僕はママがいちばん好きだなああーー」彼の口癖である。ママいわく。「あなた、誰にもそう言っているんじゃない」と。そこでひとしきり大笑い。実は僕にとっても弟とこの店へ今日、来れたことは良かった。というのは、忘年会の助っ人女性を数名、この店から派遣してもらいたいと思っていたからだ。僕は即、ママに交渉。ママいわく。「うちの店に8時半までに戻れたらいいわよ。自由に交渉して」。わおおおお。さすがにママさん。太っ腹。6時半ごろから始めて2時間程度、小料理屋で過ごし、2次会はこの店にくることになる。ビップルームを予約しておけば、すべてがうまく行く。「わおーーーー」。どんちゃん騒ぎになる光景が目にみえるようである。
今日の新聞を見たら南極と北極でオーロラが同時に観測されたそうだ。オーロラといえば、写真とかテレビでしか見たことがないが、色とりどりの光のカーテンが、空中に浮かび上がり、幻想的な世界をかもし出す。昔、NHKの紅白歌合戦で、シンガーソングライターのジュディーオングさんが純白のドレス(キラキラと宝石みたいなものが輝いていた)を身にまとい、両手を横に広げると、オーロラのカーテンみたいで、見事に美しかったことを思い出す。まだ小さかった僕は「へーーーあのドレスの構造はどうなっているのだろう」と、不思議に思ったものだ。オーロラは太陽の活動と関係があると言われている。いやああ、それにしても、地球の北と南に同時に発生するって偶然なのか、必然なのか、いずれにしても神秘的である。新聞では、「南極と北極で、同時にダンスを踊るように揺れ動いていた。まるでお互いを鏡に映したような形になり、ほぼ同時に明るくなったり、暗くなったりしていた」と表現していた。うまい表現である。大昔の人類はこのオーロラの姿に遭遇した時、恐らく地震や雷と同じように、恐れおののいたに違いない。考えてみると、宇宙にあって、この地球はなんと偉大で、威厳に満ちていて、しかも美しい星なんだろうと、思わざるを得ない。我々人類は母なる地球をもっともっと大事にしなくてはいけないだろう。
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