umityanの日記 DiaryINDEX|past|will
いよいよ大晦日を迎えた。気持ちの良い小春日よりである。できれば明日の元旦も今日のような天気であってほしいものだ。
今年もいよいよ終ろうとしている。毎年のことながら、「早い、早い」と言いつつ、今日になった。「あああ、又ひとつ歳をとるのか」と思うといやになるが、新年は一番ゆっくりできるから好きである。今年の反省は、もう何度もしたが、何といっても、不景気と戦争に明け暮れた年だったように思える。終身雇用制がとっくに崩れ、今はリストラの影におびえながら毎日を過ごすサラリーマン。失業率は5.5パーセントという最悪の状態である。「同情はいらないから仕事をくれ」という、生存への熱い叫びだけがむなしく聞こえる。今の社会では、企業への忠誠心、愛着心なんて、到底もてっこない。人間を切り捨てた企業は遅かれ早かれ、逆に、人間から企業が切り捨てられる運命にあるように思える。こうした世の中は健全ではないと、ふっと考えてしまう。来年もまだ、景気に対する明るい材料がみあたらない。悲しいことだ。逆にデフレがもっと進行し、日本経済が沈没してしまわないかと、心配である。僕も心していかねばと、今から奮い立っている。
あれよ、あれよという間に、クリスマスが終わった。楽しいことって時間がすぐ、過ぎてしまう。24日のイブには、仕事仲間の誘いでクリスマス忘年パーティーに誘われた。いやああ、飲んで、よく歌ったぜ。僕の歌うクリスマスソングは最高。誰も言ってくれないので、自分で言ってしまった。「きよしこの夜」を歌った。三番はイングリッシュソングである。得意のテノールがこだました。サイレンナイト、ホーリナイト、オールイズカム、オールイズブライト、ランドヨン・・・・・・・。「感動して涙がでなかったか?」と、聴衆者に聞いたところ、「ぜーんぜーん。」と首を振るばかり。誰一人、涙を流した人はいなかったそうな。さらに、追い討ちをかけるように、返ってきた言葉がにくいではありませんか。「涙どころか、目が乾燥してしまったわ」とか・・・・・・。オーオー、人生ってこんなものか、と僕も落胆。ということで、クリスマス本番の昨夜は、気を取り直して、弟の会社の忘年会に参列した。というより、押しかけたというほうが当たっているかもしれない。弟が挨拶をした。一年の総決算であり、かつ来年の景気回復への願いを込めていたのだろう。まれに見る真剣な顔だった。「来年も厳しくなるので、気を引き締めてがんばろう。今年は本当に有難う。・・・・・云々」。「甘えん坊の弟ちゃんなのに、結構、いいことをしゃべるなーー」と、思わず感動してしまった。僕のつたない乾杯の音頭で忘年会の幕が切って落とされた。
今日は朝からしとしと雨。たまにはこんな雨もいいものだ。雨があがると、寒さも厳しくなる。まあ、これが普通であって、いつも、こういう時期に温かいと異常気象、異常気象と騒いできた。人間って、なんと面白い動物なんだろうとおもう。ちょっとしたことで、すぐ右往左往するからだ。ただ、そうすることで、文明や科学を発展させてきたのかもしれない。何にでも驚いて、その原因をさぐるのが人間で、放っておくのが猿。先日見た映画、「猿の惑星」を見て、そう思った。
昨夜は「続・猿の惑星」というロードショーを見た。「花の金曜日ではなくて、ゴールデンの土曜日なのに、家で静かに映画鑑賞なんて、晴天の霹靂ではないか」、と友人が言ったが、この僕だって不死身の男ではない。ガラス細工と一緒で、いつ、ぼろぼろと崩れてしまうかもわからない。ここ数日、連夜の乱交で疲れていたのだ。また、月曜日、明日は、都会から画家がやってくる。高校以来の友人で、一人残した母親の面倒を見るために、冬の間だけ、里帰りしている。その前に僕に会って、一献、傾けたいと思っているのだろう。まあ、これも、。いつものパターンである。それはそうと、猿の惑星は面白かった。人間のおろかな過ちにより、地球での支配権、生存権を猿に奪われ、人間が猿以下の生き物として生きているという未来社会。そのことを知らず不時着した宇宙飛行士が、目の当たりに見た現実はあまりにショックだった。そこから、再び、生存をかけて、人間と、地底人と猿の壮絶な戦いが始まる。最終的には猿もおろかだったところが、面白い。「ただいま、宇宙の端にある、きわめて小さな緑の惑星が消滅しました」。ナレーターの最後のメッセージである。
今日は、本年最後の異業種交流会である。ビールをたらふく飲むことになる。例によって、だんご三兄弟の長兄こと、ボスと、少々気の弱い三男の弟も参加する。いやああ、そういえば今年も三人とも良く飲み、よく笑った。だめだめ、過去形ではいけない。まだ、何回か、懇親会というか、忘年会が残っていた。今までは、それぞれに、大過なくやってこれたが、大晦日の除夜の鐘を聞くまでは今年が良かったかどうかは分からない。願わくば、残りの半月が、つつがなく過ぎ去ってほしいものだ。長兄の口癖は「お前が一番悪いやつ」と僕を名指して、焼酎を飲みすぎた理由を僕のせいにすることだ。そう言われながら、僕のほうが早く酩酊してしまうから始末に悪い。弟の口癖はどうかといえば、「僕はもてないなーーー。みるんちゃん、あんたがいちばんいいよ。能天気で」とくる。まあ、こんなことが平気で言えることは、仲がいい証拠なんだろう。思えば、今年も三人三様、健康でこれたことに感謝せねばならない。
「もう、いーーくつ寝るとお正月・・・」昔、こんな歌があって(今もあるだろうが、あまり聞かない)、小学生のころは、冬休みが待ち遠しいと同時に、お正月が来るのが楽しみだった。いわずもがな、お年玉に預かれるからだ。「年初めの収穫はいくらかな?馬年だから、桁もハネハネと跳ねてくれるかな?うんんん、あれっ、!!、袋を開けてみりゃ、ゼロが一桁違うぜ。とほほ・・・」なんて、子供心に思ったり・・・・・。いや、それはなかった。ただ、お年玉が多ければ嬉しかったことは事実。大事に宝箱やら、チョキン箱のなかに入れておいた。今の子供たちとは違って、使いみちも上手ではなかった。母親とデパートに行ったときなんか、、お金が足りない分を親に出してもらい、何かほしいものを買ってもらうのが関の山。それで十分嬉しかった。そして今、あと三週間弱で、楽しい、楽しい正月を迎えようとしている。僕にとっては、今でも正月は楽しくて待ち遠しい。何故って、一年で一番ゆっくりできるからだ。さすがに、おじんになると、お年玉とは縁がない。年末ジャンボでも当たってくれれば、大きなお年玉になるのだが、まだその美酒を味わったことがない。いつも密かに期待はしているのだが、やはり思いが強いと、福は逃げてしまうのだろうか?。「果報は寝て待て」というが、やはり、災難と同なじく、果報も忘れたころやってくるのかもしれない。実は今年もささやかではあるが20枚ほど、調達済み。連続とバラが半々。さああ、今日からそのことをすっかり忘れよう。いやはや、僕も現金な男である。今年の反省第二弾。現金な男であったことを深く反省して、来年からは、筋金いりの鉄筋男でいかねば。鉄筋男って、一体どんなやつ?。
すったもんだしながら、12月も三分の一を過ぎようとしている。本当に早い。そろそろ今年の反省をしてもいいころかな?。今年は自分としては大過なく終わりそうである。ただ、毎年のことながら、いろんな人と出会い、たくさんの別れも経験した。そんな中で、一番つらい別れは叔母の死だったかもしれない。今でも時々思い出す。ホスピス病棟を見舞った時、車椅子に座ったおばを押して廊下を少し散歩した。生簀にたくさんの鯉がおよいでいた。ぼくたちは一瞬立ち止まって赤や、黄色の錦鯉を眺めていた。「きれいね」と叔母がポツリと言った。ぼくは一瞬、驚き、「そうだね」と答えた。叔母は、まるで、その鯉が見納めであるかのように感じていたのだろうか。それとも、もっと生きたいと思ったのだろうか。僕にはどちらか分からなかったが、何故か悲しい気がした。再びベッドに横たわった叔母は、疲れたらしく目を閉じながら、僕にもう帰るように言った。僕も、素直に明日、又来るからと言い残してホテルへ戻った。翌日、朝から会いに行ったが、その日は気分がすぐれないようだった。というより薬の副作用で意識が朦朧としていたのだ。時折、うっすらと目を開けたが、僕を認識できていたかどうかは分からない。僕は、そんな叔母を残して、午後の便で去った。その後、一ヶ月あまりで叔母は、この世を去った。実は明日の日曜日に100ヶ日の法要をすることになっている。僕は行けない。心残りはない。もう僕の心の中では、叔母の供養は済んでいるからだ。ただ、心から「おやすみなさい」と言いたい。今年の反省の第一弾は暗い話になってしまった。次は明るい話の反省にしよう。
12月3日に、今年の新語・流行語大賞が決まった。小泉首相の発した言葉が6っも選ばれたそうだ。いやああ、それにしても小泉首相の言葉は斬新でユニークである。「聖域なき改革」など、言葉で聞いただけなら、なんのことかな?とピントこないが、文字になると、なるほど、聖域がない改革か、いわゆる特別扱いされる場所や部署など、どこにもない。どこも、改革の対象になりえるということである。てな具合に理解できる。それにしても、名言だなあと思う。聖域なき改革もそうだが、骨太の精神、改革の「痛み」など、まさに、人心を揺さぶることばである。小泉流魔術で、国民は骨抜きにされてしまったか。70パーセントを越す支持率がそのことを如実に物語っている。ただ、昨今の不景気を何とかしてもらいたいという願いがこの支持率に込められていることを、政治家もわれわれも忘れてはならない。
生きていて一番うれしいことは、「自分が人に愛されているのだ」という自覚がもてたときではないだろうか。どんなにお金があっても、愛されていなければ、心は満たされない。「愛は金で買うさ」という人がいるかも知れない。うんんん、確かにそれも不可能ではないだろう。人間の心って、欲には負けることが多いからだ。ただ、金で買う愛はやはり、打算的であり、金の切れ目が縁の切れ目になることは間違いない。そこには本当の愛は芽生えにくい。人は口では何やかんやと言いながら、いつも、やさしい、打算のない愛に飢えているように思える。昔、奪う愛やら、捧げる愛とかについて、勉強したことがあった。愛は奪おうとするから苦しいし、捧げる愛なら苦しくないとか、本で読んだ。捧げる愛こそ本当の愛?。そうなんだろうか?。捧げる愛なんて、まず、できっこない。若いころは、そこまで、精神が昇華されていないからだ。愛はいつも奪おうとする。奪って奪いつくそうとする。そして傷つき、それでもまだ奪おうとする。よく考えてみれば残酷である。ただ、齢をとってくると、昔のあの激しい奪う愛が嘘だったみたいに、捧げる愛に転換してくるような錯覚を覚える。いや、これは錯覚ではないのかもしれない。「もう、おまえはずいぶんと齢を重ねたから、捧げる愛の男に転換したのか」と誰かが問うた。僕はすかさず、二本指を相手にかざし、左右に振りながら、「つつつつつつ」と口ずさむだろう。もちろんこれは「ノー」のサインである。「まだまだ、僕だって現役のばりばりだぞ」と言えば、僕を知る人はおそらく大笑いするかもしれない。「あんたって若いねーーー」と。
一足早い大掃除
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