小さい頃、わたしが絵本で出会った彼女は、miffyではなくうさこちゃんと呼ばれていました。なのでここでは、うさこちゃんと書くことにします。 * * * うさこちゃんが好きで、美術館でディック・ブルーナを扱っているときは、なんとかして見に行っている。たまたまそのひとつに、ブルーナさんが絵を描いているフィルムが流れていた。ぼんやりと字幕を目で追っていたら、とてもあたたかい優しい何かに包まれていくような気がした。 これは読んで聞かせる親のためではなく、読んでいるあなたのための本です…というくだり(表現がそのままではないかもしれないけれど、大体そういう意味のことばだったと思う)で、やっとわかった。それは愛だ。遠くオランダから、ブルーナさんが心をこめて届けてくれた、愛情だ。 母にほしくなかったとか生みたくなかったとか生まなければよかったとか言われ続けながら、<自分は愛されている>と思えるほど強靭な子供ではなかったので、わたしは小さい頃、愛情に恵まれず生きているような気がしていた。でも、うさこちゃんを読んでいるあいだは、ちゃんと愛に包まれていたんだ…。 * * * 見捨てられた子供の部分は、わたしの中に今も消えず残っているけれど。それなりに年はとってきたので、ほかにも気づくことがある。よくよく考えてみれば、他にも愛はそこかしこにあるのかもしれない。 アーティストがファンを思って作った曲。作家が、ファンの要望により書いたサイドストーリィ。芸術作品に限らず、食べ物にせよ着るものにせよ、そこに愛情がこめられていることは少なくないはずだ。 勿論受け手のことをあまり考えず生み出されているものもあるだろうし、それでも喜ばれている場合もあるのだろう。けれどどこかに誰かの想いがこめられていて、それを自分も受け取ってよく、今この瞬間も包まれているなら、やはりとてもありがたく、嬉しいことだと思うのだ。
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