早く終わらないかなぁ、オリンピック。オリンピックが終わるまで、更新を楽しみにしている、ある日記作家さんの日記が読めないみたいだから、というのは密かな2番目の理由で。1番の理由は、多分興味がもてないから。そして興味がないというのを、わかってもらうのが難しそうだから。 説明するとすれば、まずわたしはスポーツのルールがほとんどわからない。スポーツ選手の顔や名前もまるで覚えられない(もともと人の顔を判別するのは下手なのですが、スポーツ選手って似たような顔多くないですか?)。また自分でスポーツをするのも苦手なため、見ていても疲れてしまう。人生はおそらく一度きりなのだろうし、使える時間は限られてるのだから。好きなことだけするのは無理だとしても、好きでないことばかりについやすのは虚しいと思うのだ。 べつだんスポーツを見るのが好きな人は好きでいいと思うのだが、好きでないと変みたく言われる風潮はぼんやり悲しい……。世界で一番、というのは凄いことだ、と言われても、やっぱりぴんとこないしなぁ。わたしの見ている、住んでいる「世界」はとてもとてもとても狭いのだ。 それでもなんだかんだいって、野球に関してはだいぶ慣れて抵抗がなくなってきたし、昔アイススケートを見たときは、とても綺麗に滑るひとたちに惹かれ、videoを何度も見たこともあった。ただどちらも、勝敗云々とか記録がどうのこうのという部分はいまいち心にも頭にも残らない。 父や弟や夫と話していると、よくこのひとたちの頭にはそれだけたくさんのデータが保存されるなぁ、と感心してしまうが、わたしはわたしでしかないので、これはもうどうしようもないのだろう。
夏休みは、大抵何か続き物、もくは同じ作者の本を読んでいた。だからイメージは「栗本薫の夏」であったり、「モンゴメリの夏」であったり「氷室冴子の夏」であったり、した。「ナルニア物語な夏」や「源氏物語な夏」や「大草原の小さな家な夏」もあれば、「夏目漱石の夏」、「太宰治の夏」、「外国の推理物の夏」もあった。とにかく何かひとつ、テーマを決めて本を読む癖があったのだ。最近はそうでもなかったのだが、今年はなぜか「よしもとばななの夏」になっている。 話は違うけれど、昔。わたしは学校が特に嫌いでもなかったが、休みは大好きな子供だった。宿題は早めに終わらせ、残りの日は本を読んだり書きものをしたりして、とても幸せに過ごしていた。家族以外の人と会ったり話したりしなくていいのはなんて楽なのだろう、と安らいでいた。が。新学期が始まり、学校から帰ってきた日。 「うわ、姉ちゃん顔が全然違う! そのほうが絶対いい!」 「あらー、ほんとに。やっぱり人間、社会に出て集団行動に参加しなくちゃ駄目なのねぇ」 弟や母に驚かれたり感心されたり。顔は同じなので、顔つきや表情が変わっていたのだろう、と思うが。なんだかとても不本意、というか面白くない気がした。好きなことをして居心地よく暮らしてるんだから、べつにぬーぼーとした顔でかまわないのになぁ、と思ったのだ。気を張って凛々しくなるより、多少ふやけた顔になっても、しあわせな気持ちでいたほうがいいに決まってる。 今も長い休みにはよく思う。このままこうして閉じこもり、好きな人以外誰にも会わずに過ごせたらいいのになぁ、と。そう思いながらも、いつだって休みが明ければ(所属しているうちは)、その社会へ戻って行くのだけれど。
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