綺麗だったり可愛かったりする女性には弱いので、多少性格悪かったり意地悪だったりしても「しょうがないなー」と許してしまう気はします。美人の場合、性格の悪さや意地悪さって、小悪魔系の魅力にもなりうるし。まあ犯罪者レベルで悪かったりしたら問題があるけれど、美人さんは優しくされたり大事にされたりすることが多いわけだから、そんなにひどくはならないと思うので。 じゃあ男性の場合はどうなのか、と聞かれるとですね。んー……わたしたしかに外見にはこだわるほうらしいですが、一般の美意識と少しずれてるようなので。TVに出てるひととかでも、いいなと思うのは癖のあるひとが多いし。女性誌などでいい、と言われてるひとを見てもぴんとこなかったりするし。でも普通に暮らしていて関わる人に関しては、どーんなに顔がよくっても、性格が悪かったらイヤなひとだー、と思って心を閉ざしてしまう気がします。 見た目が清潔とか爽やかとか誠実そうとかは、確かに大事だと思うけれど。重要なのは中身でしょう、と男性に関しては思ってるようです。勿論内面は外見ににじみ出るし、性格は顔立ちにも影響を与えると思うので、総合的に見るべきなのでしょうけれど……男の人に対しては、理想が高いのかもしれません。点が辛い、というのとは違うと思いますが。
毎日暑いですね。暑いと考える事がだんだん身も蓋もなくなってきます。 あー、どうせ見るならやっぱり醜女より美人だよなー、とか。夏は顔がたいしたことなくても、ナイスバディだったらそれだけで鑑賞にたえうるなー、とか。若い女の子は、存在自体可愛いけど、中身はさらに可愛いんだな、とか。 ……脳もだいぶばててる気がします。あるいはただれてる……? 職場になかなか綺麗な同僚がいて、彼女はメイク雑誌に出てる人で言うと、田中マヤというモデルさんに目が似ていて、全体の顔の雰囲気はあゆを庶民的にしたような風情で、声も話し方も動作も非常に愛らしくて、一緒に仕事をしてると妙に癒されます。オアシス、という非現実的な言葉が浮かぶくらいに。 「うん、なんかわたしあの笑顔で頼まれたら、自分に不都合なことでも引き受けちゃいそうだよー」と夫に言ったら、 「あのう、それって普通男性の感覚なのでは……」と言われましたが。そう? あと、去年度新卒で入った(つまり今年社会人2年目の)子と話してたら、なんだかしみじみと、あー、可愛いなーと思ったり。勿論肌とか髪とか、生物として若いという輝きもさることながら。にじみ出る人柄がとても微笑ましいのです。 自分が汚れてる、とまでは思わないけれど、こんなにピュアなレベルには絶対戻れないなーと感じます。くすんだり濁ったりしてなくて、でも純白ほどに強張ってなくて、気遣いできる柔らかさもあり。うんうん女の子がいるってよいねぇ、と(たしかになんかオヤジっぽいかも……)。 しかしこの、自分を切り離して遠くから女性を眺めてる感覚って、どこかで覚えがあるなー……とぼんやりさかのぼると。高校のとき、いきなり周りがお嬢様だらけになり、そのひとたちの育ちのよさや立ち居振舞いの美しさに唖然としたことや。大学に入って、校内にいる同年代の女性たちが、本当に花のように華やかで、うーんわたしって壁のシミみたいだよなぁ(今よりさらに地味だったので)、とナチュラルに圧倒されていた記憶が甦りました。ひとはそのひとにあった人生を生きるのだから、自分は自分でいいのだとわかってはいても。 まあわたしも道行くひとがふりかえるほど美人ではなくとも、とりあえず道行く人が思わず目を奪われるほど激しく見た目に問題があるわけではないらしいので、それなりに(外に出る礼儀として)頑張っておかなくちゃなーとは思うものの……こう暑いと、もとがたいしたことないのに頑張ってもなぁ、という気分になったり、します(もとがいいひとは何しても素敵だから、力をいれるとさらに魅力的になるのだと思いますが)。 じゃあせめてできるだけ感じのいいひとでいられるよう、愛想よくしたいなとこころがけてはいるのですが、どうも体に力が入らず、「なんかへらへらしたひと」になってるような気がする今日この頃です。
表題どおり、しばらくまとまりのない文ばかりupされると思います。もとからまとまっていたとは言いがたい文なのですが、さらにまとまりがなくなるかと……そして暑くなくなったらまとまるかってそれも違う気もしますが……お時間と興味のあるかたのみよろしくお付き合いください。 さて。「日本に関心を持てるのは、スポーツだけですか?」というCMを見るたびに「えっと、わたし、スポーツには興味ないんですけど……」と言いたくなってしまう。スポーツは、見るのもするのも疲れるので苦手なのだ。少し見て面白いと思うこともあるし、勝敗がどうなるのかなと思うこともあるが、長時間付き合いたいとはどうも思えない。べつだんスポーツ好きのひとに文句を言いたいわけではない。好みなんてひとそれぞれだし、わたしだって他の人から見て「なんでそれが好きなの?(悪意はないが理解できない)」という趣味を持っている気がするし。 政治だって好きというほど詳しくないし(社会科の成績は悪かった)、興味津々かといえば違うけれど、とにかく自分の生活に関わってくることなのだから、と一応できるだけの勉強はして選挙に行くようにはしている。スポーツは、職場の人と話が合わないとしても、やはり学ぶ気にはあまりなれない。何度ルールを聞いても忘れてしまうし(お父さん、弟君、旦那様ごめんなさい)、スポーツ選手の顔や名前はいつまでたっても覚えられない。そしてそれでもまあいいや生活に支障はきたさないし、と改める気はまるで起きない。 ……でも野球界がばたばたしてると、どーなるんだろー、程度は思う。お金がなければ運営していくのは大変なのだろうし、儲かるほうが助かるひとは多いのだろうけれど、ファンのひとや選手の気持ちはそう簡単に整理されはしないのだろうし……くらいの知識しかなくても。わたしは球団等に思い入れがある人間ではないけれど、「ファン心理」みたいな部分や、「大きな流れ」にぶつかったときの感覚で気になっているのかもしれない。 話は飛ぶけれども、「想像力を働かせて、他人の身になって考える」というのは、意外と大変で、つらいことなのではと思う。ニュースを見ながら、ひとつひとつ自分に置き換えていたら、痛くてたまらないのではないか。もちろん他人の感覚そのものを受け取るのは無理なので、その立場になった自分を考えると、にすぎないとしても。 ときどきTVやWEBでやたらクレームを入れている人を見かけると、よくそんなに時間があるなぁ、べつのことをしたり考えたりしたほうが楽しいんじゃないかな、と不思議に思っていたが、あれはもしかしてものすごく感情移入の力が高い人なのだろうか。 しかし、世の中に「真に正当な怒り」ってあるのかな。怒ってばかりいるひとを見ると、そのひとが言ってる事が正しいか間違ってるかより、このひと何か嫌なことでもあったのかな? 何か満たされてないのかな? とか余計なことが頭に浮かんでしまうのですが。
6月後半からぼんやり考えていた話なのですが、きわめて私的で抽象的な上、まとまっていないと思われます。お時間と興味のあるかただけよろしくどうぞ。 何かを知った後、というのは、それを知る前の自分には戻れないということなのかな、という発想が頭に浮かびました。ひとと話をしていたとき、かつて自分がどうだったか、というデータがまるで呼び戻せなかったので(例:結婚してしまうと、独身だった頃に何を考えていたのか思い出せない。Hしてからは、処女だった頃に性についてどう思っていたかわからない。人に愛されたら、愛される前の自分の気持ちは追えない、等々)。 子供の頃から、意識は連続していなくて、ということは記憶も途切れがちで、そして感情は断絶されやすかったんですが……普通もう少し覚えてるものなのでは、という気もします。30年自分を生きてるのだから、根っこの部分は変わっていないのだろうし、頭のどこかには蓄積された情報がある、はず……と思うのですが。現実認識や把握力も弱いしな……。 記憶喪失にでもなったら、「素の自分」みたいなものがわかるのでしょうか? でもそのときには以前とどう違うかとか判断できる「現わたし」はいないのだろうし、趣味や嗜好は変わらないでほしいけど、人格交代みたくなってたらまるで届かなくなってしまうのだろうし、うーん。とかなんとか、暑い中うだうだと考えていました。当然答えも出ていないのですが、ひとつだけ。自分が書いていたものを読んで、なるほどこういうひとだったのか、と思ってくれるといいかなぁ、というところへ辿り付きました。 先のわたしが読む気になるかはわからないし、読んで自分だと思えるかどうかもわからないけれど。こういうことを考えて生きていたんだよ、と。何らかの手がかり、ヒント、みたいなものになればかなり嬉しいと思うのです。もともとわたし”まずは自分のために。もしよければ誰かのために”というコンセプトで文やことばを残しているつもりでしたが、本当に心底そうなのだな、とあらためて気づきました。
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