ドラッグストアのそばに、空き地を無理やり駐車場にしたような形の場所がある。気がつくといつのまにか草が生え、ぼうぼうに茂っているのだが、たまに一気に除草され、突然地面が見える。そして時間がたつと、またすこしずつ生え始め、あっというまに緑が覆う。 要するに根元まで処理しないからそうなるのだろう。予算がないのか、そこまでしなくていいと思っているのかはわからないが、いきなり枯草になったのが目にはいると、遠くからでも少し驚く。また、徐々に草が生長し、もとの大きさくらいになると、そばでみて少し感嘆してしまう。強いなー、と。さすが雑草、というか。負けないんだねぇ、みたいな。 同じ地球上に生きている、「生き物」の1種類として、自分にもこういう生命力があるといいな、とも思う。
よく見かける鳥で、すぐ思い浮かぶのは3種類。雀、烏、鳩。 雀は、昔からよく見ていた。小さくて、よく鳴き、近寄ると飛んで逃げる。たいして美味しいえさもなさそうだけれど、毛並みや体格も悪くない。しかし最近、車で近づいても、逃げようとしないものがいて、困る。緊張感がなさすぎでは..ひかれてしまうぞ。とりあえずうちの車は止まるけれど。 烏。昔からいたのだろうけれど、これも昔より強くなってる気がする。ごみ捨て場とかを漁っていたり、ずいぶん近くでとまっていたりする。黒く、大きく、目つきも鋭いので、なんとなく恐い。頭もいいらしいし..。 鳩。平和の象徴、というわりに、よく見るときつい顔だと思う。昔地元の駅で、浮浪者のひとたちがたくさんえさ(パン屑など)をあげたせいで、大量繁殖していたことがある。駅前や、駅近くのバス停がフンだらけになっていた。結婚して引っ越してからはそんなに大量の鳩は見ていない。ただ、公園などで遭うと、どれも人なれしてあまり逃げないので、歩きにくいな、と思ったりする。 ヒッチコックの「鳥」という映画に、鳥に食われてしまう?とかいう場面があるらしいが、見たことがないのでイメージはわかない。小説などの引用で知ったのだが、どういう話なのだろう、と思う。
家に帰って、一番にすることはなんですか? あ、靴を脱ぐとか手を洗うとかではなく。そういうのが終わって、部屋に入って、さて、何をします? わたしの場合、するべき家事があればそれを始めます。なければPCを立ち上げるか、本か雑誌を広げます。何か聞きたいな、と思えば、そのときの気分で選んだCDをかけます。でも、無音のままでも、けして不快ではありません。 あのですね。ここで、偏見っぽいことを言ってもよろしいでしょうか。あのう、男の人って、まず一番にTVつけませんか? いえ、女の人でもまずTV! でもかまわないんですが。そのう、男の人で、TVつけなくても気にしないひとって、少なくないですか? 沢山の知人がいるわけではないので、データもそんなにあるわけではないのですが..。でも、グラフか何かで、男の人がTVつける率と、女の人がTVつける率とを比べたら、後者のほうが低いんじゃないかなぁ。 それにしても、なにはともあれTV、というのは、いったいどうしてなんだろう、と思ったりします。音が欲しい、情報を得たい、なんとなく画面に映像が流れていてほしい、といったところでしょうか? (あ・責めてるわけじゃないです。単に感覚的にわからないのです)
この日、夫の弟さんのお見舞いで、病院へ行った。彼はもうじき退院だということで、調子も悪くなさそうで、よかった、が。夫とわたし、弟さんとその奥さんの4人で話をしているとき、とても変な気分になった。 うーん。わたし、なんか浮いてる、というか。非常に自分が社会に適応していない、浮世離れした存在に思えました。実際そういう部分もあるとはわかってるけれど、一応パートとはいえ働いていて、職場ではそういう風に感じたことはなかったし、友人といてもそこまで強くは感じないんですが。弟さんと奥さんは金融関係にお勤めのせいか、価値観や雰囲気が、堅実で生活感があるからかな..。同じ場所にいても、存在してる世界が違うような感じでした。夫はちゃんと馴染んでいたのですが、彼はもともと血が繋がってるし、それに内的世界も広い人だからなぁ。 弟さんもその奥さんも、ごく普通のよいひとたちなのですが。なんとなく、もしかしたら同じクラスにいても、友達になってなかったんじゃないかなぁという気がします。正確に言えば、なってもらえなかった、というほうが合ってるかな。 兄弟だから、弟さんと夫は、外見とか声とか、似ているところもあります。もっと一緒にいたら、性格の共通点や類似点も見つかるかもしれません。でも、惚れないだろうなぁ。向こうもわたしはごめんだろうし。人間見た目もあるけれど、やっぱり中身と付き合ってるんだよね、と、変なことを悟った日でした。
たまに、地元で声をかけられることがある。中学校のときの下級生だったり、小学校のときの同級生だったりする。わたしは「誰だっけ? 誰だっけ? 誰だっけ?」と思いながら、必死でその場をやり過ごす。ときには冷や汗もので。 自分から、人を見つけることはあまりない。目が悪いせいもあるが、どちらかといえば、記憶がほとんど残っていないからだ。ずっと付き合いの続いてる人の顔や名前なら覚えているが、「なんかこのひと会ったことあるかも」程度では、声のかけようもない。 皆、脳の容量が多いのだろうか、と思う。だから、ほんのすこしのかかわりであっても、思い出すことができるのだろうか。わたしは「今後あまり会わないだろう」「このデータは必要なさそうだ」と思ったら、加速つきで忘れていく。そうでないと、新しく会ったひとの場所がない気がするのだ。理論上、古い記憶もどこかに貯えられているのだとしても、引き出すことができない。必要になったら、新しく覚えなおすしかない。不便な気もするが、そのほうがわたしはわかりやすい。 ほかのひとも、忘れてくれたらいいのになぁ、と思うことがある。思い出せないのは、申し訳なくてつらいから。そしてまた会うかどうかわからないひとを、覚えるのもかなり難しいから。
注意力散漫で、集中力も欠如しているせいだろう、気がつけば服に染みができている。理由がわかることもあるが、わからないことも多い。同系色の染みならばあっても目立たなくてすむのだが、白い服に茶色っぽい染みができていたり、赤い服に白い染みができていたり、「なんでー?」と、自分に呆れてしまうものが多い。前者はコーヒー、後者は日焼け止めが犯人だったが。 性格が今更直らない以上、染みができてもかまわない服を着ればいいのだが、かといって全ての服がそうなるということはなく。家には何種類もの染み消しがある。染みが綺麗に消えたときは大変嬉しくほっとするが、染みができなければそのほうがいいんだろうなぁ、とも思う。気づくのも遅いので(その場合落ちにくいし)、色々な場所で恥をかいていそうだ。
夏休みは、本を読んでいた印象が一番強い。宿題は計画を立てて、できるだけそれを前倒しで片付けていた記憶があるし、部活は休み中でなくてもあったし、友人と遊ぶのは40日中4日くらいだったから。大体家にいて、ぼうっと本を読んで、夜には眼精疲労で頭痛がしていた。どうも話に引き込まれると、目が疲れていても、瞬きや休憩を忘れてしまうのだ。 本、といっても、あまり難しくない、読みやすいものばかり読んでいた。少女小説(モンゴメリとか氷室冴子とか)やファンタジー(エンデとかナルニアとか佐藤さとるとか)を、だらだらと読み返していた(つまり新規開拓でなく再読)。暑いからあまり頭が働かないし、からだもぐったりしているしで、そのあたりがわたしにはちょうどよかったのだと思う。もちろんひとによって何が楽かは違うと思うので、あくまでわたしにとってだけれど。 そういえば、毎年課題図書も真面目に読んでいたなぁ、と思う。読むのも書くのも大好きだったので、読書感想文の宿題は、ほとんど苦労していなかった気がする。けしていいものを書けていたわけではいが、先生だって一クラス分読むのは大変だろうし、中身が多少変でも平気でしょう、と思って楽しく適当に書けていたのだ。 それでも一度、好き勝手書いた文が、全国まで行ってしまったときは驚いた。かなり混沌とした文だったので、学校代表になったときも、都道府県レベルで止まると思っていた。妙な熱気があったというか、今読むとかなり狂った文なのだが。まあいろいろもらえたのは嬉しいし、というわけで、それなりにいい思い出だ。 いまも読書はする。夏でなくても。ただ、書評や読書感想のサイトとかは作れないなぁ、と思う。そういうのを書いてる人のサイトは大好きで、ブックマークしたりして、本を買ったり借りたりする参考にしているのだけれども。自分のHPの日記に、ちょこちょことメモしたりしているけれども。いまでもあくまで「自分用」の文しか書けないのだ。
この日、8年後に死んでしまうという夢を見た。必ずしも正夢になるとは限らないが、かといって絶対そうならないとも言い切れないので、変な気分だ。しかし、もし本当にそうなるとしても、どうしたらよいのかはあまり思いつかない。寿命なら逃げようがないだろうし..現実にそういう宣告をされたら、焦ったり未練が出たりするのかもしれないが、非現実なので、実際どう思うかもいまいちよくわからない。 あと5年、と聞くと短い気もするし、10年、と聞けば何かひとつくらいできそうだが、さて。8年..ずるずると今のままの生活を続けてしまいそうだなぁ。もともと、子孫や遺伝子を残したい、という思いは稀薄だし、何かを成し遂げたい、という気持ちもほとんどない。したいことは大体したし、ほしいものは大体手に入ったし、ものすごくやりたいこと、やり残したくないこと、というのも思い浮かばない。いいのか、そんなんで? とも思うが、そういう生命力の弱い、意志や意欲の薄いタイプであるなら、仕方がないような気もする。 あ! ひとつ思いついた!! 栗本薫「グイン・サーガ」の結末は知りたいです、というか最後まで読みたいです。あと8年で終わるとはあまり思えないし、もし終わっても、後伝や外伝があるなら、もちろんそれも読みたいっ。化けて出ても、透き通った体では、立ち読みもできないだろうし。誰か読んでる人の脳とかに入り込めばいいのかな? でも、それだけのパワーがあるとは思えないしなー。 (発想が変なのは、暑いせいってことで許して下さい)
大学の頃から、雑記帳というのを作っている。教科書サイズの、黒いカバーのかかったノートを使っていて、今のは6冊目になる。基本的には日記だけれど、日記としての役目を果たしているかはわからない。昔のノートを見ていると、○月×日 やなことあり。とだけ書いてあったりする。やなこと、というのが何であったかはわからない。読み返してやな気分になるのをさけるためなのか、わざわざかかなくてもいいと思ったのかはわからないが。似たような記述で、泣いた、という日もある。日付が入っていても、何が起きていたのか、がよくわからないことが多い。今日行った場所は花が綺麗だった、とあっても、一体それがどこで、なんの花であったかもわからない。はあ、そういうことがあったのね、程度しか思えない。 たまに、駅で見かけた綺麗な女の人、というのがイラスト入りで細かく書いてあったりする。詩の一歩手前のようなものがあったりもする。朝みた夢を書き留めたらしいものもある。エッセイのようななときもある。欲しいものリストもある。食べたものや読んだもののメモもある。HPの日記や詩や、ここ(say to myself)のネタになることも多い。 人にみられてもあまり困らないが、字が汚いのと、書き方が乱雑なので、わたし以外の人には判読が面倒だろうと思う。単に個人的に読むのも書くのも楽しいだけなのだが、このノートが廃番にならないといいな、と思う。雑記帳はこれ、と思ってしまっているから。
わたしがたまに使うJR最寄駅の周辺には、駐輪場があまりない。あるにはあるのだが、駅ビルのお客様用だったり、駅から遠かったりする。そのせいか、駅前の広場は、駐輪場のようになっている。数人の管理人さんたちが、毎日整理してくれているのだが、連日あふれるばかりで、一向に片付かない。警告の紙をはって移動させたりもしているようだけれど、あまり量は減っていない。 以前そのあたりを夫と通ったとき、管理の人たちは、自転車のなかに集まって、下を向いて、何か話をしているようだった。「あの後姿とか、ポスターにすればいいんじゃないかな。皆、反省すると思うよ」と彼は言う。確かに、悲哀の漂う背中だった。「うーん。でも、実際不便だから。新しく駐車場を作るとかしたほうが建設的だと思うよ」わたしはたまに自転車を使うので、そうとしか言えない。一応、お客様用の駐輪場にとめているが、急いでいたら、このあたりにとめたくなるのは解かる気もするのだ。 それにしても。この暑い中、自転車は増えているのだろうか。減っているといいが、なくなってはいないだろう。管理の人たちは、大丈夫だろうか。
わたしの住んでいる場所周辺では、路上駐車をしている人が多い。一方通行が多く、道幅も広いので、そうしたくなるのかもしれない。きりがないせいか、取り締まりもあまりない(たまにはある)。いつも同じ位置にある車を見ると、このひと駐車場ないのかなぁ、と首を傾げてしまう。歩いているぶんにはそれくらいの感情しかもたないが、車に乗っていると、位置によっては邪魔なだけでなく危険だなぁ、と思う。ただ、何らかの理由があって仕方のない場合もあるので、全部が全部責められるものでもないんだっけ、とも思う。 よくわからないのは、スーパーやデパートの近くに路上駐車している車だ。駐車場に入れるのが面倒なのかな? 駐車代を払いたくないとか? あるいは何か改造していて入れないのだろうか? 夏場は暑くなってしまうから、外よりは地下にあるほうが楽なんじゃないかな、と思うけれど。無人でも車内に冷房を効かせておくのだろうか。すぐに戻るつもりなのだろうか。落ち着かなくないだろうか。あれこれ考えながら、その側をすり抜けていく。
先月、用があって隣駅の町へ行ったときのこと。用事をすませてさて帰るか、と思ったら、階段に長蛇の列ができていた。なんだろう、と思いながらホームに上がると、そちらも人だらけだった。音に注意して放送を聞いたところ、数駅前で人身事故があったらしい。復旧のめどもたってないらしい。ふーん..と思いながらわたしは自販機のそばに行き、ポカリスエットを買った。 片隅で立ったまま飲みながら、あたりを見回す。暑いし、人も多いしで、皆苛々しているようだ。電話で何か話している人もいる。仕事で移動中のひともいるようだ。通勤時間とは違うので、仕事ではなさそうなひとも多いが、皆何かしら用があって使っているのだろうし、予定等もあるのだろう。わたしはとりあえず用はすんでいるし、困ることといえば夕食が遅れるくらいだろうけれど、まあ最終的に家に帰れればいいかな、と思っていた。 目の前を、駅員さんが通った。ずっと待っていて疲れたひとだろう、一体どうなっているのかと駅員さんに詰め寄っている。口調も表情も、ほとんど怒っている。駅員さんに怒っても仕方がないだろう、とは思うが、そうなってしまうのも仕方がないような気もした。でも、駅員さんが悪いわけではもちろんない。 昔、中学校の先生が、自殺するとしても駅で身投げだけはするな、と言っていたことを思い出す。じゃあ他の方法ならいいんかい、とつっこみたくもなったし、大体本当にそうしようと思った場合、後先のことなんて、何も考えられないんじゃないかな、と思った記憶があるが。 どういう事故だったのかわからないのに、そういうことを考えるのもなんだな、と思いながら空き缶をごみ箱に捨てた。何台か電車がホームに入るが、折り返し運転をするらしく、回送車になっていて、わたしたちは乗ることができない。そのたびに、ひとが長い息を吐き肩を落とす。 やがて運転再開の放送が入った。手持ちの本は読み終わっていたので、自分が待っていた時間が短かったか長かったかはよくわからない。事故を起こした人や、事故の処理をしていた人たちはどうだったろう、と思いながら電車に乗り込んだ。乗るのは一駅ぶんだけなのだから、べつな方法をとるべきだったのかもしれないが。こういう場合、ぼんやりとそのまま流れに従ってしまうほうなのだ。
暑いと、食欲が減りますよね。それでも食べたくなるもの、というのを考えていたのですが。うーん。もともと空腹がしのげればいいや、あるいは食べ物でなくても、栄養とれてればいいや、みたいなところがあるので、ぱっと思いつかないです(飲み物は飲みたくなるんですが..)。おすすめとか、あります? わたしが思いつく食べ物では。麺類が食べやすいかな?とか。個人的には、そうめんや冷麦よりはお蕎麦がいいです。でも、ゆでるのが暑いんですよね。用意が億劫なので、実はひとりだとパンを食べることが多いです。ずっとそうだと飽きるから、結局ご飯に戻るのですが。食べたい、というより、食べなくちゃ、という感じかも。 もうすこし食べる意欲が起きるのは、冷たいお菓子や果物かな。でもスイカは、食べにくいのであまり好きじゃないです。ソルダムが大好き。アイスは、ナッツとか、チョコとか、クッキーとかが入ってるのが好き。プレーンなのだと飽きてしまうから。ソフトクリームもキライじゃないけど、後味残るから、食べたい、というのは違うし..あ、シャーベットは好きです。果肉入りだとなお嬉しい。かき氷は、量が多いと途中で降参してしまいます。あの、きーんとなるのが苦手。でも、ファーストフードの、氷シェイクとかは楽しみ。ただ、限定品なので、ときどき食べられないまま、夏が終わってしまうことがあるのだけれど。 これくらいしか思いつかないっていうのも、情けないというか淋しいというか。何か食べ物食べる気分になりたいなーと思ったのですが、根本的に食欲がわかないと駄目なのかも。秋になったら食欲わくのかなぁ。まだ、想像ができないけれど。
夏の風物の中では、花火が一番好きかもしれない。 子供の頃は、夏休みなどに、家族と庭で花火をしていた。ごく普通の花火セットを買って、母が水をはったばけつを用意して..ねずみ花火とか、危なそうなのは父が担当。わたしが大きく光るのを恐がると、決まって弟が持つのを変わってくれた。おしまいのほうに、線香花火の小さなカタマリは、誰が一番長くもつか競争した。遠いけれど、わたしにしてはわりと鮮やかな記憶。 大きくなってからは、打ち上げ花火を、友人や好きな人と見にいくようになった。その場にいる人と、なんとなく連帯感のようなものがうまれる気がする。華やかなもの、面白いものには、やはり声もあがるし、拍手も出るし。皆でゆかたを着るのも楽しかった(わたしはこういうときでもないと着ないので)。 8:30頃舞浜駅あたりにいれば、年間通してTDLの花火が見られるだろうけれど。それだって綺麗だし、悪くないと知っているけれど。夏の花火は、やはりいいなと思う。終わった後の淋しさも含めて、いいなと思う。ずーっとあがっていてほしいとか、この時間がこのまま続けばいいとかは思わない。見るのが疲れるとか、周囲がうるさいとかいう意味ではなくて。1時間くらいしか、ないからいいのだと思う。そのときにしか、みられないのがいいのだと思う。 たとえ昔一緒にいた人と、見ることができなくなっても。そのとき見た、というだけでもいいのだと思う。今一緒にいる人と、この先見ることができなくなったとしても。見たことがある、というだけでもいいと思うと思う。 そんな花火が大好きです。
最近、少し遠くのスーパー(行くとしたら車かバスを使う)が、閉店時間を30分遅らせていることに気付いた。そういえば実家のほうのスーパーも、夏は1時間閉店時間を遅くしていたなぁ、と微かに苦く思い出した。 社会人3年目の春、母親が家を出て行ってしまったので、会社帰りにその店で食材を買い、料理を作るようにしていたのだ。弟が作ってくれることもあったし、ひとり外食ですますことも多かったけれど、あの頃は辛かったなーと思う。もともと料理も食事もあまり好きでないタイプの人間なので、精神的にも疲れてくるのだ。親が家事をしてくれている同僚が妙に羨ましかったし、兼業主婦にはなれそうにないなぁ、こういうのが苦にならないない人は偉いなぁ、と自分の要領の悪さに悲しくなったりしていた。 話を戻そう。そんな生活の中、夏は余裕をもってスーパーに行けるのがとても嬉しかった。残業があっても、あの店の明かりを見るとほっとした。お惣菜が残っていると、ありがたくて涙が出そうになった。そこに勤めている人たちは大変だったろうと思うし、なんでも遅くすればいいというわけでもないだろうけれど、あの頃は本当に助かっていた。1時間違うだけなのに、気分が全然違っていた。今もあの店は、閉店時間を延ばしているのだろうか。 結婚して住むようになった場所のスーパーは、もとから11時閉店だったので、その頃のことはすっかり忘れていたのだが。
夏の花、と聞いて真っ先に思い浮かぶのが、ひまわり。光に向かって咲くという、太陽を思いおこさせる花。昔学校の花壇にあって、種を収穫した記憶があります。咲いてるとき、夏そのもののイメージがあるせいか、しおれると妙に疲れてみえ、なんとなく「終り」を実感させられました。 次に朝顔。昔宿題にあったので、早起きして観察日記を書かなくてはいけないような気持ちになるけれど、そのせいか比較的すがすがしい印象が残っています。庭にはやまゆりがありました。スケッチの宿題が出ると、画用紙に何枚も書いていました。やまぶきは、残暑見舞いを書かなくちゃ..というときに見ていた記憶があります。 校庭や街中でみかける夾竹桃は、ピンクの花より白い花の方が好き。排気ガスにも強そうで、毒ももっているという木だけれど。どんな毒なのかな、と思います。葉を食べると死んじゃうとかでしょうか? どことなく木の下には、絵的に小さい子が似合う気がします。むくげも好き。誰かを待っている女の人の姿を連想してしまいます。何かを待つような風情があって、優しい感じだから。 夕方目に付くおしろいばな。種をわって、白い粉を見たけれど、実際には使えないんじゃないかな、と思った小さい頃。今見ても、ほのかに懐かしい気がします。いくつか違う色があるのが好きです。こう考えてみると、どれも悪くない感じ。 でももっと思い出すと、夏はよく体を壊していたし、あまり外に出たくもなかったから、花にもそんなに思いいれはなかったはず..。いつも夏が早く終わってほしいと願っているわりに、花に夏の終りを感じると、淋しくなってしまうので。そのせいで、咲いている姿が愛しく思えたのかもしれません。 夏に咲く花は、だいたい来年まで会えないものが多いようです。枯れてしまうと、おいいていかれるような、取り残されるような気持ちになるのは、有意義に過ごしましょう、というあのフレーズが効いてるのでしょうか。宿題はもうないけれど、花はまた同じように咲くけれど、年を経ても、成長していない自分を感じるのです。
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