小さい頃社会科が苦手だった。高校で習った倫理は楽しかったし、受験は日本史でなんとかなったけれど、世界地理・日本地理・政治経済は今でも駄目。 たとえば今、日本の白地図渡されて、1都1道2府43県間違いなく埋められるか、ってまるで自信ない。その地の主要都市や、名産物や、気候や、となればもうかなりあやしい。漠然としたイメージしか浮かばない。 ま・それでもいいや、と思ってました。生活に支障ないし、と。最近それじゃ困るかも、と思っています。WEB上の知人が、どういうとこにいるかわからないって、すこし悲しいから。話がわからなかったりして申し訳ないから。 だから、ときどき地図を確認したりします。天気予報で、あのへんにはあのひとがいるんだよねーと思ったりします。こんなことなら、もすこし勉強しとけばよかったのかなぁ。でも当時は本当に嫌いだったので、なかなか頭に入らなかったのだ。やれやれ。
テキストを読みながらノートをまとめる。まとめたノートを読む。例題・問題集を解く。答え合せをして、間違ったものは時間を置いてもう一度といてみる。合っていれば、次へ。この繰り返し。大体いつもこんな感じで勉強していたと思う。 効果的、というより基本的かもしれないけれど、書いて覚え、覚えたかチェックして、反復してみる、というのが一番頭に入ったと思う。唐突に何かいてるんでしょうねぇ。こうしろ、という意味ではないのです。単に書きたかっただけで。 ひとそれぞれ、いちばんいい方法で、いろんな試験をクリアしていってね。無駄なこともあるけど、無駄じゃないこともたくさんある。誰もが何かを得られるように。試験を受けるすべてのひと、Fight!
母とふたりで、箱根へ旅行しているときのことだ。電車が来るのを待ちながら、化粧品やお肌のことについてだらだらと話していたら、すぐ前にいたおばさまが、「一番大事なのは、寝る前ですよ」と、にっこり笑って話し掛けてきた。驚いたが、実際その方は綺麗な肌だったので、ふたりで話を伺った。 その方がおっしゃるには、寝る前に難しいことを考えるのが一番よくないとのこと。悩みがあっても、寝る前には忘れ、ゆったりと楽しいことを思い浮かべて眠るのがいいのだそうだ。泣いたり怒ったりしたあとは、顔を洗ってこころをさましてから眠るべきなのだそうだ。 「もちろん化粧品も大事ですけれどね」と彼女は言った。「しわを防ぐのは、心がけも重要なのよ」と。たしかにいい表情をしているほうが、顔つきもよくなるだろうし、お肌の調子もいいのかもしれない。 普段は忘れているが、ふとしたときに、あのとき話してくれたかたの、チャーミングな表情を思い出す。
今日って、尾崎豊の命日だったんだ..と、WEB上をうろうろしていたら知りました。 大学の頃、地下鉄の護国寺、という駅を使っていたことを思い出す。何年か前のこの日、普通に帰宅しようとしたら、駅の一部出入り口が封鎖されていて、係員が何人かいて、一般客と特別な客を分ける、ロープをはっていて..。 その日も雨だった。皆傘をさしていた。傘と花束と、両方を持つのが大変そうだった。背の低い友人(顔は思い出せるが名前は忘れてしまった)が、ああ、今日は尾崎豊の亡くなった日だったね、と言っていたような気がする。 わたしは彼の曲を数曲しか知らない。いい曲だな、と思った曲もあるけれど、題名が思い出せない程度にしか惹かれなかった。彼の書いた本は幾つか読んだが、実家にあり、今手元にないので、書名がわからない。いいな、と思えた短編があったはずなのだが。 でも、あの顔と声は覚えている。そしてあの日、集っていたひとの表情と、駅の混雑を覚えている。記憶は日々混濁していくけれど、きっかけがあれば多少は掬えるのだなと思う。細かいところは、間違っているかもしれないけれど。
この日実家最寄の、JRの駅周辺を歩いていた。久々に、路上ライブをしている人たちを見た。というか聞いた。わたしはこういう人たちが活動しているそばを通るのが、どことなく苦手だ。 下手だったりすると、なんというか、好きで頑張っている人たちに申し訳ないけれど、非常にいたたまれない気持ちになる。上手ならいいか、というとそういうわけでもない。上手くても、聞いている人がまばらだったり、誰もいなかったり、好奇の目でしか見られなかったりしていると、心が苦しくなってくる。 ゆずとか19とかコブクロとかの音楽にも、好きな曲はあるし、良いと思うのだけれど。プロが路上ライブする場合、というのもそんなに抵抗がないのだけれど。わたしは何が気になっているのだろう。いちいち気になってしまうのはわたしだけなのだろうか。 やめてほしい、というわけではない。好きなことを頑張るのはいいことだ(多分)。ただ、何か落ち着かないのだ。
わたしが小学生のころ、母がしみじみと言った。「どうも最近、動くとき掛け声かけちゃうわー。わたしももうとしってことかしらねー」と。わたしはよくわからないまま、「でもさー、わたしよく言うよー、それ..」と思っていた。 小学生にしてそうだったのだから、いまや推して知るべし。起きるときとか、ものを運ぶときはまだいいが、ドアを開けるときや、姿勢を直すときなど、あまり力のいらないようなときまで言っている。よく考えるとなんだか恥ずかしいが、どうも基本的に、何か動くのがだるいのではないか、と思う。おばさんを通り越して、すでに体力がおばあさんになっているのかもしれない。 そういえば高校生の頃、母に「あんたってなんかおじさんぽいのよねー。若々しくないけど、おばさんのバイタリティみたいなのもないでしょ?」とあきれたように言われたことがある。まあ確かに声は低いし背は高いし。いまだに、あまりバイタリティは備わってないし。このままいくと、おじさんぽいおばあさんになるのかもしれない。
ブラインドタッチ、というかタッチタイピング、はできないです。母音の位置と、大体の子音の位置を覚えてるだけなので、けっこう下を向いてしまう。 でも、HP作るようになってから、タイピングスピードは早くなったらしいです。といっても、こういうだらだらずるずるした文を書いてるだけだから..。 仕事とかで、プログラムとかドキュメントとか、凄い速さでタイピングしてるひと、ああいうのってかっこいいなーって思う。頭もフル回転してて、視線は画面を鋭く追っていて、手は踊るようにキイの上を滑ってく。それがピアノでも弾くように、動きが軽くて優雅だった日には、思わずみとれてしまいます。
昼食時、隣の席のOL風の人たちの会話。 「親戚のおじさんがね、最近メール始めたんだけどね、メールする相手がいないらしくて、わたしにくれるのよー。電話とかでも喋ったことあんまりないのにねー。今もうおじさんがメル友状態?」 「まあでも好きなときに読めて好きなときに書けるし、電話より気軽だからいいよね。じかに会って話すより深い話できたりするんじゃない?」 「そいえば携帯メールでさ、毎日いろんな女の子と話してる男がいるんだってー。電話じゃ実際そんなにたくさんとは話せないから、get率高そうだよね」 へーとかほーとか思いながら聞いていたのですが、わたしは親戚のおじさんとメールは..いやかも..。携帯メールでgetされるのも..ちょっと..もともとが非社交的だからなぁ。話してる人たちは、気さくで外向的な感じだったから、やはり使う人によって差は出るんだなぁ。
朝、仕事に行く前、腕時計をはめようとした。が、なんだか針の雰囲気が変だ。方向間違えたかな、と付け直そうとしたら、合っている。合ってるけど..止まっている。これから家を出ようって時間に、3時40分はないでしょう、うわーん。 夫に「時計が止まったぁー」と愚痴をこぼすと、彼は「えー? 俺のまだ動いてるぞ?」と言う。そういえばこれは、婚約時にふたりがおそろいで買ったものなのだ。「でも、止まってる..」時計を渡すと、夫はすこしいじって調べて、「これは駄目だね。電池切れでしょ」と言う。「うーん。不吉? やっぱりわたしが先に死んじゃうのかな」とぶつぶつ言ってると、夫は呆れたように、「しかし君の時計って、ほかのもすぐ電池が切れるよね。君がいくつか時計を変えてるあいだ、ずっと俺同じ時計だったよ? なんか悪い電波でも流してるんじゃない?」と笑う。いや使い方が悪いだけだと思うけどね。しかし..家電製品とも相性悪いしなぁ(暇なかたは11月2日の日記参照)。何の根拠もないけれど、絶対違うともいいきれないかも。
ある日、デパートのディスプレイをかえてる場所に目が行った。一瞬、裸の女の人を、背広の男の人がだきかかえているように見えたのだ。 なんのことはない、よく見たら精巧なマネキンに服を着せ替えてるところだった。しかし印象的だったのは、どことなくそのマネキンを支えてる男の人が、妙に照れたような嬉しいような、甘い表情をしていたことだ。 隣で服を持ってる女の人は、浮かない顔をしていたというのに。
一時期、異常快楽殺人の本を読み漁ったことがある。理由は、よくわからない。フェアでもしていて、書店の特設コーナーに山積みになっていたのだろうか。プロファイルについてや、殺人犯と恋する女達のルポまで読んだ。それらは今も、実家の片隅に積まれている。 しかし普段よほど好みでなければ、ハードカバーを即買うことはないのだが..今も謎だ。そしてある日読むのをやめた。自分の表層の意識は、打撃を受けてないつもりだったが、深層心理では傷を負っていたらしく、非常におそろしい夢を見てしまったのだ。そう、ここには書けないほどの。
昔、素直ないいこだねと言われていた記憶がある。満足そうに言われていたので、長いことそれを誉め言葉だと思っていた。 必ずしもそうではないらしい、と感じたのは就職活動のときだ。素直、というのは批判精神が無い、ということにつながるのだそうだ。言われてみればそんな気もする。全て鵜呑みにして従うのは、怠惰にも通じるかもしれない。と、考えたところで、やはりあまり疑問やら工夫やら解決方法やらは、なかなか頭に思い浮かばない。 そういう人間であるなら、そういう職業なり立場なりを探したほうがいいのかもしれない、と思い、いま(現在パート主婦)にいたる。が、仕事においてだけでなく、生活においても性質が変るわけではないので、周囲には、多大な迷惑をかけているように思う。
わたしはよく立ち読みをします。誉められたことではないので、堂々と書いてはまずいかもしれませんが..本屋さんゴメンナサイ。あんまり、裕福じゃないんです。買うお金も少ないし、置く場所も少ないんです..。図書館もよく利用するんですが、新刊とかはなかなか回って来ないから。ついつい、店頭でさらさらと眺めてしまったり、します。わたしが行く本屋さんは、大きいところが多いので、ほかにも立ち読みしている人はいるし、読むペースは早いほうなので、そんなに目立たないだろうと思っていたのですが。 先日、恥ずかしいことがありました。ええと、以前もどこかで書きましたが、わたしは涙腺が緩いです。人前だろうと店内だろうと路上だろうと、悲しいことを考えたらじわーと涙が浮かんできます。自分の意志とかはあまりききません。本の場合、フィクションだとそんなに強くこころを揺さぶられなくてすむのですが、ノンフィクションとか、投稿ものとかにはむちゃくちゃ弱くて。たとえばいじめで自殺した女の子の手記とか。天国に向けて書かれたラブレター集とか。こころのチキンスープとか。ディスカバー21のI miss youとか。何気ない、ささやかな言葉やエピソードはほんと駄目です。 だから本を見る際には、あまりそういう、悲しみや感動を誘うようなものは読まないようにしてるんですが..。すみません。この日ある場所の本屋さんで、「世界がもし100人の村だったら」を読んで泣いていたのはわたしです。どこがどう悲しかったのかはよくわからないのですが(普通、泣くような本でもない?)、とにかく気がついたら泣いてました。で、あとがきみたいなのを読もうとしたところ、視線を感じまして。若い女性の店員さんと目があってしまいました..。うわあぁああ。い、今思い出しても、はずかしー。勿論急いでその店を出ました。本屋さんにいること、すっかり忘れてた。本屋さんゴメンナサイ。以後、気をつけます。といっても、タイトルだけじゃ、泣くかそうでないかわからないのがつらいとこですよね..。
近所のスーパーに買い物に行っていた帰り。適当な格好をして、あー、ご飯作らなきゃ..とげんなりしながら(くどいようですが料理は苦手です)自転車に乗っていたときのこと。あれ? なんだか見たことのあるような男の人がこっちを見てる。誰だっけ? 思い出せずぼうっと通り過ぎようとしたら、「こんにちはー」と声をかけられた。 「あ!こんにちはー。びっくりしたー」 わかりました。わたしの髪を担当してくれてる、美容師さんです。わたしはお辞儀をして、そのまま急いで帰りました。ひえー、はずかしー。一応、美容院に行くときは、お洒落まではしなくても、もうすこし身なりを整えてるんですが..ううう。でも、すぐにわかっちゃうってことは、気合入れても入れなくても、外見には大差ないのかもしれません(慰めにはならないけれど)。 どちらかというと、服装に気合を入れてるときより入れてないときのほうが多いから、確率的に、知り合いに会うのは適当な格好のときのほうが多いわけで。せめてその適当な格好を、知人に会っても恥ずかしくないレベルにしておけばいいのかもしれませんが..こういうことがあったからといって、即、気をつけられるかはわからないです。しばらくは不運を嘆いて、多少ましな格好をするかもしれませんが。ほとぼりがさめて気を抜いたころに、また会ったりするんですよねぇ..
わたしは料理が苦手だ。そしてそれを了承のうえで夫はわたしをめとってくれた。というわけで、我が家は外食の割合が、たぶん普通の家庭より多いのではないかと思う。なんというか、現代だからこそなんとかわたしも生きていけるのであって、昔なら到底許されなかったのではないかと思う。さて。そんな二人だけれど、おそらく二度と行かないだろうね、と話しているお店がいくつかある。 ひとつは、あるパスタ店。ここ、お皿がすごく汚くて。食べ物の味はそれほど悪くなかったんですが、どーしても気になるじゃないですか、衛生的に問題がありそうで。チェーン展開しているお店なので、その場所以外のお店は違うかもしれないし、たまたまそのときディッシュウォッシャーが壊れてたとか、人手が足りなかったとかかもしれませんが..それ以来、なんとなく入る気になれません。 もう一つのお店は、牛丼屋やファーストフード店よりは高く、ファミレスよりは安いかな、というお値段設定の定食やさんです。味は..中途半端でした。不味い、とは思わないけれど、美味しい! とは言えないような。そして微妙にメニューと実際の料理の雰囲気も違う。これなら安いお金でファーストフードを食べるか、高くなってももうすこし味の確かなファミレスに行ったほうがいいかも、という感じ。 まあそれだけなら許せたのですが、後がよくなかったんですね。二人して胃がもたれたんです。話はそれますが、夫とわたしの味覚、というのはそんなに合ってない(彼は辛いものも大好き、わたしは辛いものは苦手)んですが、そういうのは合ってまして。学生時代、夫が「胸やけがした」と言っていた某カレー店で食べてみたところ、わたしも胸やけがしましたし。後でつらくなってまで行きたくないよねってことで、そこはもう二度と行かないだろうと思われます。 でも、ドライブ中かなりおなかがすいて、そこしか入るところがなかったりしたら、覚悟決めて食べちゃうのかも..
たまに音楽が流れている場所で、ふと耳に入り、心まで浸透する曲がある。詞に、声に、曲に、どこかにひかれ、頭に残る。歌手名や題名がわからない場合もある。できるだけ探すが、わからないままの曲もある。が、どうにかして答えに辿りつくこともある。 たとえば高校のとき、高野寛の「ベステンダンク」を、弟が知っていて買ってきてくれたとか(これはサビにタイトルが入ってるので楽だったのかもしれない)。たとえば大学のとき、スターダストレビューの「木蘭の涙」という歌を、音楽好きの友人たちにワンフレーズだけで探してもらったこととか。社会人になってから、今井美樹の「Ruby」を、TUTAYAの歌詞カードから見つけたこととか。 それからその人たちの作品を追いかける場合もあるし、追いかけない場合もある。追いかけて面白い場合と、追いかけても求める世界と微妙にずれている場合とがある。でも、探し回って見つけた曲が手に入ったときだけは、なにかパズルがぴたりとはまったかのような快感がある。 最近はWEBで調べるとか、CATVのmusic onlyチャンネルで調べることが多いけれど、相変わらず見つかることもあれば見つからないこともある。でも、短く心に響いた、耳にまだ残るそれらは、ときにいつも聞いているお気に入りの曲たちより、いとしく思えることがあるのだ。
これは必ずしも「好き」だけでまわるわけではない。あちこちで聞くので耳に残っていたとか、何かで思い出したとか、たまたま耳に入ったとかで決まる。つまりよく売れてる曲や、何か印象的な曲だ。 単純作業をしていたり、歩いていたり、ふと気を抜いたりしたときにそれを感じる。わたしはこれを、自力でうまく変えることができないので、一度まわりだすとしばらくはそればかりまわっていることになる。 記憶力がいいわけではないので、サビばかりえんえんと繰り返されるときもある。一通りまわったはずなのにサビからまたはじまることもある。好きな曲がエンドレスな場合はかまわないのだが、格別好きでもない曲や、どちらかといえば嫌いな曲が頭をまわってる場合、あああああ..と思いながらやむのを待つ。 他の人はどうなのだろう、と、今は宇多田ヒカルの曲が頭をまわっているのだが、思う。
ばくち、というか、なんだろう、麻雀パチンコ競馬など、はしたことがないです。やる気もないのでしくみが頭に入らないし、お金が何倍に、とかいうのにも興味がわかない。だから? たからくじも買わない。 かけごとでなくても、勝算が低い場合実行しないし、リスクが高ければやめる。 でも、ちいさいころ、命をはる遊びや賭けはとても好きだった。あの、高揚感は悪くなかった。あのころは、なくしてこわいものがあまりなかったのだろうと思う。あってもわからなかったのかもしれない(そして友人達にこわがられた)。 でも、いまはそんなことはできないと思う。いいような、よくないような。
とりあえずここまで生きてきて、いいことも悪いこともあったが、ものすごく運がいいということもなく、ものすごく運が悪いということもない人生だったと思う。 ついてるときとついてないとき、というのはあったけれど、大体予想できる範囲内のことばかりだった。くじなどで大きな損をしたという記憶もない。とするとラッキーなのかな、と思うが、大きな得をした記憶もない(駄菓子屋さんの10円ガムが5回くらい続けてあたりがでたことくらいしか思い出せない)。ゲームをしても、勝ちすぎず負けすぎず、適当な位置にいつもいた。おそらく全体でもそういう役回りなのだろう。環境的にも、能力的にも、上には上がいて下には下がいた。 でも、わりと周囲のひとには恵まれていたかな、と思う。あまり悪い人はいなかったような気がする。
星占いも、血液型占いも、自分に関しては大体信じています。本や雑誌を見ても、「合っているなー」という気がするし。他人に対しては、一応知っておきたいと思うけれど、それ「だけ」では判断しない、かな。 最近はいろいろな占いがあって、動物占いから寿司占いから家電占いから..一応試してはみたけれど、もう忘れてしまったものもあるかな。なんとなくそれらしくて面白いけれど、ちょっと納得いかなかっったのが源氏物語の占い。紫の上なんてイヤ〜。 そういえば昔ある月の星占いで、「魚座は誘惑に気をつけましょう。不倫のおそれがあります」というのを読んだとき、うーん全国の魚座がいっせいに不倫してたら 凄いことになるよねぇ、とか、今月の不倫人口が9割ぐらい魚座だったら笑えるなぁ、と思ったことがある。 当たるも八卦、当たらないも八卦。でもなんだかあやしげなものも、一応の根拠はあるんですよね、どれも。ときどき血液型なんていい加減じゃん、という声も聞くけれど、そういうかたにはぜひ竹内久美子の「小さな悪魔の背中の窪み」を読んでほしいなーと思ったりする。 でも、もし、すべてが間違っていたとしても、こまかい理屈抜きで、コミュニケーションの一助として楽しんでもいいのでは、と思っています。
信じますか、といわれれば、はいと答えます。でも、見たり感じたりしたことはほとんどないです。多分ああいうのは、見るべき人、感じるべき人だけがわかるものなんじゃないかな、と思っています。わたしには受けとめるだけの力がないから、 そういったものとは無縁に過ごすのだろう、と。 ただ、話を読んだり聞いたりはするし、そのすべてが嘘・偽りであるとは思えないから。強い思念や波動は、この世に残ることもあると思うから。だから、(完全に、とかではないけど)信じています。 死後の世界は、よくわからないです。天国があればいいと思うし、地獄に行くのは怖いと思う。特定の宗教を持ってるわけではないから、特定のヴィジョンもないし。でも、どんな形かはわからないけれど、あってほしいなとは思っています。 自分に関しては、何も残らず、消えていくほうが楽な気がするけれど、自分以外の人は、どこかにいてほしいような気がして。わかりたいとか、知りたいとかは思わないけれど、たまにぼんやりとそういったことへ思いを巡らせたりします。
ああ、この場面見たことある、とか、ああ、こういうことを前にもしたことがある、とかいうあれです。デジャビュ、というほうがポピュラーなのかな。あなたは感じたことがありますか? 夢や、どこから得たかわからない記憶と一致するヴィジョン。現実に経験したことではないのに、すでに知っていた未来。わたしはそれを、何度か感じたことがあります。 はっきり覚えてるのは、小学校のとき、母の実家に帰って、四万十川に遊びにいったとき。ああ、見たことがある..と。でもこれ、よく考えると母の記憶から形成されてたのかな..。あと、外堀公園とか..やはり水辺の、木とかがまわりにある景色。もともとそういう景色が好きだから、何かで見て、印象が残ってただけなのかな。それから、好きな人と一緒のシーン。これは願望や空想で思い描いていたからかな.. 仕組みはよくわからないけれど、そういう場面にあうと、心が震えるような気がします。
夫はときどき、不動産屋さんの表にはってある、間取り図のようなものを眺めて立ち止まることがある。わたしは間取りだけ見てもイメージがわかないほうなので、早く歩きたいなぁと思うが、彼の頭の中にはきちんと立体化されたイメージができているらしい。そしてここがいいとかこれは駄目だとか、色々判断できるらしい。話しを聞くと、「ふーん、そうなんだー」くらいは思うが、やはりいまいちぴんとこない。 これって男女差なのかな、と思っていたが、そういうわけでもないようだ。職場の女性が「予定がなくても、ついつい見ちゃうのよねー」と、楽しそうに不動産関係のちらしを見ていたことがあった。「それって、イメージわきます?」とわたしが間取り図をさすと、「もちろんよー!」と彼女はあれこれ説明してくれた。が、やはりさっぱりイメージがわかなかった。 基本的に、住居に対する夢とかがないせいかなぁ..。生きていければそれでいいやと思ってるし、慣れたところから動くのは億劫だと思う。そういえば昔、家庭科の宿題で、「理想のおうちの間取りを書いてみましょう」っていうのがあったっけ。どーしてもイメージできずに、結局自分が当時住んでいた実家を、ほとんどそのまま方眼紙に書き写したんだよね。べつに理想としていたわけじゃないけど、ほかの環境が、まるで思い描けなかったので、仕方なく。
わたしはあまり、嘘をつけないほうです。裏もないし。騙すより騙されるほうがいいやって思ってます。だから、冗談も真に受けてしまうし、間違ったことを信じてしまうこともあります。信頼してる人が、「太陽は西からのぼるんだよね」と言ったら、そうか、そうだったかもしれない、と思うと思う。すこしは疑え、と言われることもあります。 と、いうわけで。今日は自分がmy追加してるひとの日記や、IEの「お気に入り」に登録してあるコラム系のページなどに、さんざん翻弄された一日でした。だって、みんなうまいんだもん! 一瞬息をのんでしまうようなタイトルだとか、いつもどおりの雰囲気でとんでもないことを何気なくそれらしく書いた文だとか、いつもと全然雰囲気の違う話を作っている人とか、なんというかうまーく<もしかしたらあるかもしれない>ことを、さも本当であるかのように演出してて、うーん。ネットしてる間中、心臓がどきどきしっぱなしでした。 エイプリルフールなんてキライだっ。1年に1度だから許せるようなもので、こんな日が月1とかだったらたまらない。きっとわたし、嘘つきな人とか、冗談好きなひととは、付き合えないんじゃないかな..というか付き合ってたら身が持たないんじゃないかなぁ。そんなことを思った1日でした。
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