夫とふたり、買い物から家に帰ってきたときのこと。目の前を、化粧もせず髪をひっつめにした普段着の女の人が、財布片手に凄い勢いで走って通り過ぎた。 「あれって、きっと料理中何か足りないことに気付いた奥さんだよね」 「うん、そんな感じだったね」 「急いで買って賞味期限とか間違わないといいね」 夫は意味ありげに笑う。実はわたし、先月くらいに、そういう失敗したんですよね。あ・ドレッシング切れてる! って急いでコンビニに行ったら、賞味期限切れてるの買ってきちゃって。いやースーパーとかだとちゃんと確認するんですけど、コンビニなら大丈夫だろうって、見もせずに買っちゃって。置いてある店も店だけど、気付かないわたしもわたしだ..。 「急いでるとね..。でもまあ普通大丈夫じゃない?」 そんな会話をしながら家に入った。夫はそういうことを怒る人ではないが、思い出したようにからかうネタにする。でも、世の夫の中にはうるさい人もいるらしいので、あの奥さんが、うまく目的のものを買えるといいな、と思う。
大学生の頃、恋愛関係の情報が載っている雑誌をときどき買っていた。その中に、「こういう女性は幻滅」という男性の声を寄せた記事があった。話に中味がないとか料理ができないとか同性の前では別人だとか、まあどこにでもありそうな話が、エピソードつきでのっている。べつにそれにあてはまらないから恋人ができる、好かれる、というものではないのだろうが、自分を振り返りつつ読んでいた。 そのなかで、ああこれはわたし駄目かも、という例がいくつかあった。鞄の中身がごちゃごちゃだった、とか、電車の切符を買うとき、券売機の前に来てから小銭を出すな、とか妙に細かい話で。そ・そんなこと言われたって〜、と、その男と付き合ってる訳でもないのにわたしは悲しくなった(感情移入しすぎだ)。 大好きになった人と頑張ってつきあってて、そんなくだらん理由で幻滅されたらたまらない、と思った、そのわりに努力はしなかった、そんなわたしでも恋人はできたし、今は結婚もしてますが。そういう細かいタイプと恋愛してしまったらどうしよう、と青くなった日々を、ふと、券売機の前で思い出しました。 そしてもうひとつ。当時は思いつかなかったけれど、幻滅してるのに付き合ってくれてる、としたら、べつの意味で怖いような..
小学生のとき、なぜか文房具屋さんの店先に、10円から買える駄菓子が売られていて(今はどうだかわからない)、ノートや鉛筆を買うついでに、いくつか買って帰ったりした。 普段何を買っていたかは覚えてないのだけれど、寂しいときや、悲しいことがあったときは、きまって10円のチョコを買っていた。種類がいくつかあって、アーモンドが入っていたり、かむと中がキャラメルだったり、プレーンなタイプでもミルク味とか甘味の少ないのとか、いろいろだった。食べるとなんとなく、悲しみが薄れ、寂しさが弱まる気がした(こう書くと、中毒みたいだけれど、そんなにしょっちゅう食べてたわけじゃないよ)。 高校生になるころには、なぜかその役目はフライドポテトになった。とくにお気に入りは、某コンビニの、ふだん120円で売っている(たまに98円になる)、味つけが3種類くらいあるフライドポテト。あたたかく、やわらかい。ぼんやり食べていると、すこしずつ気持ちが上向きになった。 今はそういう感じで食べるもの、というのがとくにおもいだせない。強くなったのか、鈍くなったのか、あるいはべつのものから力を得ているかしているのかもしれないが。
中学生の頃、部活の帰りなどに、よく立ち話をしていた。家の近い子数人と、そこから先は道が分かれる場所で、だらだらと暗くなっても喋りつづけた。内容は、たいしてなかったかもしれない。それでも毎日のように何か話していた。勉強のこと部活のこと委員会のこと教師のことクラスメイトのこと男の子のこと。疲れなかったし、話も尽きなかった。 高校生になり、大学生になり、社会人になり、立ち話なんてほとんどしなくなった。大抵どこかに座って話すようになった。語彙が増え、知識や知恵もつき、内容も深くなったり濃くなったりした。しかし、あのわけのわからないエネルギーは、 すこしづつ外に出なくなっていった気がする。こころのなかに、いまだ燃えてはいても。
こどものころ、自分の名前があまり好きではなかった。ただ、名前を好きな人に優しく、愛しさをこめて呼ばれてからは、そんなに悪い響きでもないかな、と思えるようになった。 ものすごく姓を変えたかったわけでもないが、どうしてもこの姓でいたいと思ったわけでもなく、ただ結婚するなら相手の姓になるんだろうな、とぼんやり思っていた。そういうものだと思っていた。 実際結婚して、姓が変って、書類や手紙などに新しい名前を書いたとき、多少の違和感はあったがすぐに慣れた。新姓がとても好きというほどではないが、別段いやということもなく。 しかしはじめは人に新姓を呼ばれても、どうも自分のことという気がしなくて困った。たまに銀行などで旧姓と同じ人が呼ばれていると、思わずハイと返事しそうになった。 今は、新姓に馴染みきったわけでもないのに、旧姓もぴんとこなくなってしまった。名前なんて記号のようなものだから、本人と周囲がわかればいいもの、とも思うが。自分が誰でもないような、どことなく奇妙な感覚が残っている
松屋に時々行く。夫とも行くし、ひとりでも行く(この場合の松屋は、銀座にあるデパートではなく、牛丼とかを売っているお店のほうです。デパートの松屋は2年に一度くらいしか行かないから。あ、話がそれる)。お持ち帰りをすることはほとんどない。大抵空腹にたえきれず入るので、店内で食べることになる。 食券を買ってカウンター席に座る。だいたいどの店も厨房が見えるので、本や雑誌を持っていないときは、なんとなく働いているひとたちを眺めてしまう。先日行ったお店では、若い男の子が、すこし年上の男の子に、あれこれ指示されながら働いていた。動作がぎこちなく、いかにも慣れてません、働きはじめです、という雰囲気が漂っている。 しばらくしてドアのほうから、サラリーマンらしき男性のお客が、「これ。両替してよ」と、若い男の子に500円玉を手渡した。ああ、新硬貨か旧硬貨のどっちかしか使えない自販機なんだな、とわたしはサラダを食べながら思っていた(だいたいサラダが先に出る)。が、若い男の子は、両替?100円に? とでもいいたげに止まっている。そのやりとりに気付いたすこし年上の男の子が、「失礼しました。少々お待ちください」と店の奥に入っていき、「お待たせしました」とかえってきた。その間、若い男の子はぼうっと彼を待っていた。うーん、わかるのかしら、そのままで。でも、日数がたてば自然に身につくかなぁ。わたしはご飯とおかずを食べながら思っていた。お味噌汁は最後に飲む(猫舌なので)。食べ終えて席を立つと、若い男の子とすこし年上らしき男の子の、「ありがとうございました」という声が背に響いた。挨拶は上々。 また数日後、今度は夫と一緒に食べていた。その店では若い子たちに混じって、40代〜50代くらいの女性が働いていた。その女性は背が低く、カウンターのはじにある食器をとるのが大変そうだった。ちょこまかとよく動くのだが、いまいち要領をえていないというのだろうか、テンポがずれている。なかなか味噌汁がこなくて困っているお客がいた。 店を出てから、夫が「ああいうひとってたまにいるよね。仕事の優先順位とかがよくわからないんだろうな」と言っていた。夫は仕事ができるほうだし、人を動かしたりもするので、そういう見かたになるのだろう。責めているのではなく、単純に冷静に事実を言っているのだ。しかしわたしは下っ端として働いているので、そしてお世辞にも仕事ができるとは言いかねるので、「うーんわたしはどっちかというとそういうほうだからね。身につまされるようなところがあるけど。でも、はじめたばっかりなら、そのうち慣れるんじゃない?」と言った。 春って、そういうひとが増えてるんじゃないかな。松屋に限らず、あちこちに春バイトさんがいるような気がする。馴染むまで、最初はどの仕事も大変だよね。でも、慣れたらどうってことなくなるのかもしれないし。それまでお互い頑張りましょー、と思って気づく。時間が経ってもなかなか慣れないわたしって、成長してないというか進歩が遅すぎるかも..と。
子供の頃、ギャグ漫画や4コマ漫画は好きではなかった。普段読むのは少女漫画の、シリアスなストーリーものが多かった。 変ってきたのは、社会人になってからだ。手を出すきっかけになったのは、文庫版の「OL進化論」。丁度通勤時間に読む本が切れたとき、文庫ならいいか、と買ってみたのだと思う。作者秋月りすの名前と作品は、新聞でも見かけていたので、あまり抵抗も無く。とくに噴出してしまうほど面白いということもなかったけれど、なんとなくほのぼのしていて楽しく読めた。 その後もOLものや、他の女性作家の4コマもよく見るようになった。疲れていてもストーリーものほど読む力がいらないし、多分何より、ほっとしていたのだと思う。当時を思い出すと、かなりの駄目OLだったから。 なんとなく、自分だけじゃないやーとか、こういうのもありかな、とか、いろいろ慰められていたのだろう。癒し?とは、違うかもしれないけれど。あまり硬く考えず、かたくなにならなくてもいいかな..という気がして。
自分がどちらかといえば「おたくっぽい」ほうなので、ゲームのキャラクターやアニメのキャラクターや、漫画や小説のキャラクターに恋する人々には、気持ち悪いというより共感や同感を覚える。 現実の人間より二次元の人間が好き、でもかまわないと思う。それはそういう風に 育ち、のぞみ、選び、性格・嗜好として成り立っているものだから。 ただ、ひとつだけ。現実の人間と、二次元の世界のひとを混同することだけは避けよう。というかしてはいけない。現実のものでないという要素を含めて、二次元の人たちを愛そう。それがルールだと思う。 そして一応もうひとつ。現実の居場所や、帰る時間はできれば作ったほうがいい。面倒でうまくいかなくて痛くて苦しいかもしれないけれど、それが現実で、わたしたちは悲しいことにこちら側の住人なのだ。 向こうに行きすぎると、きっともっと辛くなってしまうよ。
話し掛けやすいほうだとはあまり思われないのですが、街中や駅や電車等でも、どちらかといえば話し掛けられることが多いです。 暇そうに見えるのか、隙があるのか、断らなさそうだからか、物知りに見えるのか、他に理由があるのかわからないけれど、友人知人と比較してもどうやら回数が多いらしいです。 道もよくわからないし、時計を持ってないこともあるし、路線図も頭に入ってないしで、はっきりいってほとんど役に立てないのですが。 あと、昔の同級生だとか、同じ仕事をしているが働いている場所は違い、一度しか会ったことのない人とか。「わたしは覚えていないが、向こうは覚えていて、いろいろ話し掛けてくる」場合もあり。 ときどき、自分の好きな人以外には見ることのできない、透明人間になれたらなーと思います。
コンビニで、レジにいる年配の方に、なぜかよく話し掛けられるほうです。 昔会社で残業帰り、連日のようにお酒を買っていたら、白髪・赤ら顔のご主人に、「ああ、それおいしいですよね。娘も好きでねぇ」とかなんとか話し掛けられ、とても疲れた記憶があります。<いつも酒を買ってく人>として顔を覚えられてしまったのも、恥ずかしかったです。 最近も最寄のコンビニで、栄養調整食品や栄養ドリンクを買っていたら、年配の女性店員にいきなり天気の話とかをふられ、へらへらと相槌を打っていたりしました。同じ店に行っても、夫はそんなこともないらしいのですが.. わたしはそういうのがあまり好きでも得意でもないので、若い人たちの、「愛想のいい無関心」のほうが正直言って居心地がいいです。 物が買えればそれでいいんだよー。コミュニケーションはべつのところでとるよー。内心叫んでますが、どうも面と向かっては言えず、一応会話をしてしまうのがいけないのかもしれません。
衣類。わりと「さむいー」と簡単に思うほうだし、思ったら即着込んでしまうほうなので、いつもどちらかとうと厚着で過ごしている。ので、春物、というのはどのあたりで着るべきかいつも悩む。まだ寒いしなぁ、と厚手のものを着ていて、少し暖かくなったから春物を着てみようか、と思ったときにはこれじゃちょっと暑いしなぁ、という感じになってしまっている。春物の生地や雰囲気は大好きなので、本当はたくさん着たいのだけれど。どうもあまり着られなくて悲しい。 花。最近あちこちで桜が咲いているのを見かけるけれど、なんとなくヘンな感じが..昔、入学式あたり(4月はじめ)で咲いていたような気がするのです。そのうち桜は卒業式(3月後半)に咲いてる、みたいなことになるんでしょうか。なんだか、悲しい。桜自体は大好きなのだけれど、こんなに早く咲かれてしまうと、こちらも生き急がなければいけないような気持ちになってしまう..
仕事の帰り、消耗品を買うためドラッグストアに寄った。レジはすこしこんでいた。会社帰りによる人が多いのかな、と思いつつわたしはぼうっと立っていた。わたしの前にいる男の人は、髪が少なくなりかけているサラリーマン風の男の人だった。40後半から50前半くらいの歳かな。わたしより背が低いので、彼がリステリンと、ほかにふたつのこまごましたものを買おうとしているのが見えた。 彼は会計が終わるころ、レジのお兄さんに「あ。正露丸もくれ。ちいさいやつ」と言った。なんか横柄ないいかただな、と後ろのわたしは思ったが、薬局のお兄さんは丁寧に、「こちらとこちら、どちらになさいますか?」とすこしサイズの違うものを手にとって示した。さすが店員。というより、そのお兄さんは気立てがよかったのかな。雰囲気が爽やかだったから。しかし男の人はよっぽど切羽詰っていたのか、「どっちでもいいんだよっ。さっさとくれっ」と怒鳴った。わたしはおじさーん、そういういいかたはないんじゃないですかー? と内心思いながら自分の番を待った。どうしてああ怒りっぽいのだろう。不思議。 買い物をすませて外に出たら、路上駐車している2台の車の、後ろのほうに自転車が軽くぶつかった。自転車に乗っていたおじさんは、そのままよろよろと方向転換しようとしたが、前の車の後ろからおばさん(30代かと思われるが雰囲気がおばさんぽい)が「ちょっとあなた気をつけなさいよ。車が歪むじゃないの」と苛ついた声を出していた。男は気の小さいたちだったのか、「あ。すんません」と弱々しく謝った。女性は「わたしの車じゃないけど。もっと考えて行動したら?」等、ぶちぶちと文句を言って、自分の車に乗り込んでいた。後部座席に小さい子がふたりいた。うーん..。 なんでそんなにいらいらぴりぴりしているのだろう。仕事で疲れてるのか、夕食前でおなかがすいているのか、カルシウムが足りないのか、不況だからか、生活がつらいのか、花粉が飛んでいるからか、そのほかにも理由はあるかもしれないが。そんなにかりかりしなくても..と、思うわたしはぼんやりしすぎているのだろうか(そのきらいもなくはない)。
わたしは既婚者だ。が、ふだん結婚指輪をあまりしない。家事や仕事のときしてると傷だらけになってしうし(がさつなのだ)、いちいちはずしていたら、なくしてしまいそうだから。 でかけるときなどにはめるので、なんとなく気もちがひきしまる。手の動きもこころもちエレガント(?)になる気がする。しばらくはめておくと、はずしてからすうすうする。 女の人が指輪してるのもきれいだな、と思うが、男の人が指輪をしてるのも素敵だな、と思う。大きな手にシンプルな結婚指輪もいいし、筋張った指に妙にごてごてした、ジャンクなのがはまっているのにも色気を感じる。
口紅は、渇いた感じのものより、潤う感じのものが好き。色はピンクベージュがいちばん馴染むかな..単なるベージュは顔色が悪く見えるときがあるし。パープルもそういうときがあるかな。ローズ系はよく選ばないと派手。でもうつりいいものもある。明るめのブラウンは落ち着いた感じ。レッドは、怖くて薄いのしか使ったことないな..オレンジは、あんまり合わない。色によってだいぶ雰囲気が変わるので、面白い。でも、気がつくとどことなく同じ色味のものばかり集まっている。 口笛は、小さいころ、吹いてはいけないといわれていた。でも、時々吹いていた。今でもたまに吹いたりする。ゆっくり唇に乗せると、楽しげな曲も、妙に物悲しく響くところが、また好きだったりする。
好きな色、というのは気分によって変わる。どの色もその色なりのよさがあって、いつもものすごく迷う。 服やメイク、小物ともなると、顔色とのうつりや、全体のトーンも考える。うまくいくと嬉しい。合わないと落ちつかない。 木々や草花、空、海・湖・川・山……自然界の色は、光や時間によってかなり違う。違いに魅せられる。 建物の色。家具の色。乗り物の色。出版物の色。WEBサイトの色。ひとがデザインしたものは、色使いに個性が出る。見ていて飽きない。 日本語や英語で書かれた、色の名前を眺めるだけでも、わくわくしたりする。
と、よく口にしているが、じつはこの言葉が好きとか気に入ってるとかいうわけではない。が、ほかにうまく言い表す言葉を思いつかないので、やむをえずたびたび使ってしまっている。 勉強にせよ仕事にせよ、最終的に当人が頑張るよりほかにないことをはじめ、人生や恋愛など、当人の力だけではどうにもならないことまで、がんばってね、と。 しかしわたしは昔、この言葉を言われるのはあまり好きではなかった。「頑張れない!」とか「頑張ってるよ!」と思ったこともあるし。でも、そう言わずにはいられなかったり、そう言うしかないのがつらくなったりしてからは、「ああ、このひとは励ましの気持ちをもってくれてるんだなー」的にとることにした。 ありがとう。そしてうまくいえないけれど、がんばってとしかいえなかったひとに、ごめんね。でも、うまくいくことを祈ってるよ。 がんばってね。
実を言うと、冗談はよくわからないほうです。多分、一般常識がない(元ネタがわからない)ことと、暗示に弱い(つまり真に受けて信じてしまう)ことが遠因だと思います。 あと、どうもさほど笑おうと思ってないんじゃないかなーと思っています。TVのお笑い番組とかかなり苦手で、見てもよくわからない。下手するとかわいそうになってしまったり、つらくなったりする。深刻な問題や、真面目な話を茶化されればいやになる。 自分で言うことも、あまりないです。たまに言っても、面白くないらしい。ので、できるだけ狙って喋るのはやめよー、と思うようになりました。人間向き不向きがあるもんね。無理はいけない。ていうか感覚がずれてるってことかも.. でもひとが「にこっ」とか「にやっ」とする文がかける人はいいなぁと思う。そういう文は書こうと思って書けるものでもないだろうけれど、いつかとくに何も意図せず自然に書いたものを、「面白い」と思ってくれる人がいたら、嬉しいだろうなぁと思う。精進あるのみ、かな?
駅で切符を買おうとしていたときのこと。右斜め後ろで、「どうしました?」という暖かい声がした。すこし振り返ると、ちいさなおばあさんが、うろうろと困ったように路線図を眺めていて、その横に少し太めの、健康そうな20代後半か30代前半の男の人がいた。 男の人は「何駅までですか?」とたずね、おばあさんは駅名を答えた。「ああ、○○駅で乗り換えですね。こちらの販売機で×××円ですよ」男の人はさりげなくおばあさんを導き、彼女が券を買うのを見つつ、ふわりと方向転換し、自動改札に定期を滑らせて階段のほうへ消えた。 つまりおばあさんがほっと一息ついてお礼を言おうとしたときには、もう彼はその場にいなかった。背も低かったし、顔は美形というよりは愛嬌があるくらいしかいいようがないようなタイプだったけれど、なんだかかっこいー! と思ってしまった。
かなり前、書店で「なぜ美人ばかりが得をするのか」というタイトルの本を見かけた。思わず「それは美人だからでは」と口に出して言いそうになり、慌てて場所を移動したが。 美人は、いるだけでその場が明るくなる気がする。やはりきれいだと人から優しくされることも多いだろうし、その結果優しさを受け取ったり返したりすることも上手な気がする。性格の悪い美人、というのもこの世にはいるらしいが、わたしが会ったきれいな人たちは、とくに悪くなかったと思う。 人間外見だけではなく中身も重要だろうけれど、美しさというのもひとつの才能だと思うので、得をしてもいいのでは? と思ったりする。不美人だからと不幸せになるのは間違っているが、美人が幸せなのは、自然でいいことではないだろうか。 ちなみにわたしは美人ではないのだけれど(^^;
あなたなら何を省きますか? 食事を抜きますか? 身だしなみを手抜きしますか? あきらめて遅刻しますか? わたしはまず身だしなみを省きます。女捨ててると言われても仕方ないですが、これは学生の頃からそうだったので、なんというかそういう性格の人間なのです。昔母は「どうしてうちの子は男の子の方が鏡の前にいる時間が長いのかしら..」と、首をかしげていました。多分弟のほうが普通だったのでしょう。 あと、なぜか実家では「食べないと頭が働かないよ」と、朝食抜きっていうのをあまりさせてもらえなかったのです。そうしたら本当に「朝食べないとふらふらする」人になりました。調子悪くても「りんごだけでもいいから食べなさい!」だったし。いまでも食事抜いて間に合いそうなら抜くけれど、こっそり途中で食べてしまう..行儀悪くてすみません。 必死になってると、タクシーに乗ったりもしてしまうのですが、運賃と時給のことを考えると、遅刻しても変らないような..でも、損しても遅刻しなさそうなら、やはり使ってしまったり、します。そういえばわたし、中高と大体無遅刻無欠勤でした。なんというか、一度崩れるととめどなく落ちていく気がするのかも。
朝、目覚ましにTVをつけた。いつもなら、新聞をもとにしたニュース番組が流れるはずなのだが、今日は何かドラマのようなものが流れている。..ドラマ? あれ? これって..仮面ライダーか。 むかーし弟が見たがった、仮面ライダーショウについていったことがある。わたしは「うわーんばったのおばけー」と泣いて恐がったそうだ(覚えていないが両親が話してくれた)。当時もTVはあまり見ていなかったのだが、存在くらいはおぼろげに覚えている。 ふうん、茶髪のお兄ちゃんが仮面ライダーかぁ、時代だなぁとか、特撮が昔より格段に進化しているんだなぁ、と間抜けなことを考えながら画面を眺めていた。が、だんだんヘンな気がしてきた。ええっと..仮面ライダーがたくさんいるの? で、彼らがお互いにたたかうの? モンスターを倒すだけでなく? 昔は悪の集団があって、それとたたかっていたんじゃなかったっけ? からだは改造されても、こころは改造されないとかなんとか.. いや、べつにいいんですけどね。次は見ないと思うし、1回見ただけではきちんと理解できてないだろうし。しかし。あれって子供向けの番組として作られてる、んですよね? 世相とかを反映して難しくなってるのでしょうか? それとも今時の子供は賢いからあれくらい平気なのでしょうか? 単純な勧善懲悪ものとかでは物足りないからああなったのか、今は価値観が多様化してるからなのか、それとも案外よく見ればテーマは変わっていないのか、等々朝から考え込んでしまいました。
ある本を読んで、自分をかえりみた。わたしの心の中は、どういう比率になっているだろう。きれいに分けられるとは限らないけれど、だいたいの数で分けてみた場合、どうなるだろう。 1.女性的な部分:男性的な部分 → 7:3くらいかな..。全体としてはそんなに女っぽい、女らしいタイプではないけれど、男っぽい、男らしい感じでもないから。中性的、というほどではなくても、無性みたいな部分が多い気もする。 2.子供な部分:大人な部分 → 9:1くらいだと思う。1、あるかあやしいけれど、1くらいないとまずいでしょうってことで。いい意味で子供みたい、なわけではなくてね、悪い意味で子供っぽいんです。成長してない、育ちきっていない部分がかなり多いです。大人になりきれていないというか。 3.自分のことを考えてる部分:他人のことを考えてる部分 → 8:2? くらい、かなぁ。他人のこともよくわからないけれど、自分のこともあまりよくわかってないので、自分が今何を考えているか、というのはよく探っています。人のことも考えないわけではないけれど、その人に興味や好意でもないとほとんど気にならないし。 あくまで自分から見た内面の比率であって、他の人から見たら、また違ってくるかもしれないけれど。たまにこういうことを考えるのも好き。
仕事帰り、バスに乗っていた。あー疲れたーお腹すいたー夕飯何にしようかなー等、あれこれ考えながら席に座っていた。そのとき、斜め後ろから携帯の着信音が鳴った。音が消えると、女性の話し声が聞こえてきた。日本語ではなく、英語でもなそうな外国語だ。なんとなく声の方向を見ると、浅黒い肌で、彫りの深い顔だちをした、黒髪で巻き毛の女性だった。年齢は、30代前半くらいだろうか。 その女性は、とても優しい声で、愛しげな表情で、電話の向こうに何か話しかけていた。日本語だと、それがプライベートな電話かそうでないか、友人と話しているか親と話しているかなど、どことなく見当がついてしまうものだが。彼女の場合、雰囲気だけではよくわからなかった。仕事の電話か、子供に対してか、友人に対してか、親に対してか、恋人に対してか。どれでもありそうだし、どれとも特定できない。彼女は短時間で話し終えると、微笑を浮かべて携帯電話を眺めていた。 ..世の中には、優しい声で嫌味をいうひともいるし、職業柄、営業として優しい声で応対する人もいると思う。でも、たぶん、彼女は違うと思う。あの、優しい声の先に、誰がいたかはわからないけれど。でも、ああいう声を出せる人、ああいう声を聞ける人って気持ちいいだろうな..と、ぼんやりわたしは思っていた。
子供の頃、家で雛祭、というのはごく普通にありました。だから3月3日には、お雛様を出して、白酒を飲んで、さくら餅やひなあられを食べていました。高校くらいになると、お人形はお内裏様とお雛様くらいしか出してなかったような気がするのですが、それでもちゃんとお祝いっぽいことはしていた記憶があります。 いつだったか母が忙しかったとき、出したはいいけれど、お雛様をしまう時間が作れず、1週間くらい飾りっぱなしだったことがありました。母が「ごめんねー早くしまわなきゃいけないのにねー」と言ったので、「なんで? べつに、時間あるときにかたせばいいんじゃないの?」と聞いたところ、「お雛様、ちゃんとかたさないとお嫁にいきおくれるっていうのよー」とかなんとか返されました。当時男嫌いだったわたしは、「いーよそんなの。結婚するかわかんないし」と答えました(のちにわたしは25歳で結婚してしまったので、とりあえず大丈夫だったようですが)。 その雛人形を、父はわたしに女の子でもできたら飾ったらいいんじゃないか、と昔言っていました。でも、どうもわたしは子供を産まない(もしくは産めない)んじゃないかなーという気がするし、母が出て行ってしまってからは、それらが実家のどこにあるか、よくわからないんですよね。飾りっぱなしより、しまいっぱなしのほうがよほど問題がある気がする..。
日々、曖昧な記憶の中を生きているので、ときどき意味がわからなくなることば、というのがたくさんあります。表題のことばもそのなかのひとつ。三日寒くて四日目があたたかいのか、三日寒い日があって四日あたたかい日が続くのか、一週間のうち三日は寒くて四日はあたたかいのか。どれでもいいじゃない、似たような意味だしーと思ったのですが、一応辞書をひいてみました。 えーと手持ちの辞書(岩波 国語辞典第3版)によると、「冬季、三日間ぐらい寒い日が続き次の四日間ぐらいが暖かく、これがくりかえされること。△中国北部、朝鮮などに顕著な現象」だそうです。...わたし、春先の話だとばっかり思ってたなぁ。ちなみに日本の話ではないわけ?? でもこれ1985年のだしなぁ。ほかのも見たほうがいいのかも。 もうひとつ、「春はひと雨ごとにあたたかくなる」というのも気になっているのですが、こういうことを知りたい場合、ことわざ辞典みたいなのより天気の本や気象の本をひもとくべきなのかなぁ。うららかな日には、よく、結論を出すでもなく、そういうことをつらつら考えていたりします。
3月ですね。日の光が明るく、柔かくなってきたような気がします。そうなってくると、着る服も、暗い色や濁った色は重いかなーという気になります。でも、空気はまだ、風があったりすると寒いんですよね。昼はそうでもないけれど、朝や夜はとくに。わたしはそろそろコートよりジャケット、ニットよりシャツやブラウスを着たいなーと思っているのですが、まだ寒い時間もあるしなーと思うと、なかなか前に踏み出せないでいます。 花がたくさん咲くので、春は大好きな季節です。でも、季節のはじめのころはまだ寒いかな? という感じが残っているし、終わりごろはなんだか暑いーとなってしまうので、春を実感、堪能できるのは、本当に短い間であるように思います(秋もそうかな..夏や冬は、長い印象がありますが、その年の気候によっても違うのかも)。大好きな春を、できるだけ長く、少しでも多く感じたいから。光や、風や、空気の感じによく注意して、それにあった装いをしたいな、と思っています。
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