HPからご覧になっている方はご存知だと思うのですが、koiは8月いっぱい、HPを開園休業状態にしています。理由は8月なかばに母の実家(四国)に行くのでばたばたしていて気持ちや時間がそちらにとられていることと、暑いので体がだんだん夏についていけなくなっていること、などです。 というわけで、日ごろ<エンピツ>からご覧の皆様、しばらくここ(コラム・ID27222)の更新も、たまーに書くか、あるいは書かないか、になってしまいます。楽しみに読んでくれていた方にはごめんなさい。よろしければ、また、しばらくしたら(完全復帰は9月の予定です)お会いしましょう。ちなみに夢の欠片(夢日記・ID26392)のほうは、夢を見たらupしてます(でないと忘れちゃうから)。よろしければそちらをどうぞ。 皆さんの、健康とご多幸を祈りつつ。ではでは♪
大学生のとき、なぜかそう親しくもない人たちから、暑中見舞いをもらった記憶がある。何かノートをかしたとか、そういうつながりでもあったのかもしれない。挨拶程度でも、たよりがあるのはほのかに嬉しかったが、首をかしげる内容のものが一枚あった。 ごくふつうの、季節のご挨拶のほかに、「koiさんの、サパサパした感じはとてもいいと思います。また、後期も頑張りましょう♪」とかなんとかいう文がありまして。サパサパ..さばさばというのは聞いたことあるけど..わたしってふだんサパサパしてるのか? それともこれは書き間違いなのだろうか? 家人に聞いてみたら、「パサパサよりいーじゃない」と言われたけれど。 なんとなく、暑中見舞い、というと、思い出す言葉はそれになってます。彼女とは、その後も会えば軽く挨拶するぐらいの間柄でしかなかったので、結局真意を問い合わせたり(まあ聞いてもたいして答えようもなさそうだし)しませんでしたが。サパサパ..わたしは自分を、とてもWETなタイプだと思うのだけれど。
わたしはハイツの1階に住んでいる。エアコンで除湿をかけると、水分はホースをつたって外に流れていく。べつにだからどうということもなく、そういう仕組みなのだな、と思っていた。が、最近洗濯物を干したり取り込んだりするさいに気付いてしまった。水のの流れた先に、草が生え、伸び、花までぽつぽつ咲いてる。えーっと..おぼろげな記憶を探るが、除湿をがんがんかける前は、こんなことなかったような..。しかもこの草、コンクリの間から芽を出してる。よく、ここまで成長したよなー。いずれ抜かなければいけないのだろうけれど、なんだか成長の速さと勢いに、しばし茫然としてしまった。 他にも家から離れた場所で、暑くて、水なんてあまりないだろう、というところに、ツタのような植物が生えているのも見た。葉が、茶けていても、必死に柵にからみついていた。なんだか、凄い。何か考えて生きてる、というより、単純にただ生きたいから生きているような..。本能? 生きる強さというか、そういうものを感じた。なんとなく、自分もあまり深く考え込まず、まずはしっかり地に根をはり、水を吸収し、光を受け、養分をたくわえ、という風に、「生きる」ことだけでも懸命になってみたほうがいいのだろうか、と、バテ気味ながら思ったりした。
新聞を片付けているとき、ぱーっと目につく記事を流し読みしていた。そのなかにひとつ、妙に捨てたくない気がした記事があったので、切り取っておいた。 おそらく火曜の夕刊。うまく要約できるかわからないので、特徴的なところだけ抜書きしてみる。『都心の大きな森が深夜に冷気を吹き出し、最大で2・5度周囲を冷やしている。風が吹く昼間は、風化200メートルまで気温を下げている。新宿御苑の気温は夜間、周辺より3度低く、苑内からの冷却効果は、約90メートル先まであった。木の葉の上の気温がまず下がり、その冷気が2〜30分ごとに地上に降りてくる』..等書かれている。 雑誌や新聞で興味のある記事をきりとってはさむ、専用のスクラップブックに入れながら、行きたいな..と思う。しかし、夜の新宿御苑、にひとりで行くのは難しそうだし、深夜に行って帰ってくるのも大変だ。しかしこころの一部だけでも、魂の一部だけでも、そばに行くことができたらな..と思う。眠れない熱帯夜などに。
わたしは自分の配偶者のことを人に話すとき、大抵「夫」という呼称を使う。世の中にはほかに「旦那」とか「主人」とか「うちの」とか「相方」とか色々あるらしいが、わたしは一番「夫」というのがしっくり来る。 「旦那」というと、何かのお店の旦那さんをイメージしてしまうし、「主人」というのは響きが古い気がする。二人の時にふざけて「だんな様」とか「ご主人様」とかいうことはあるのだけれど。あと、「うちの」と思ってはいないし、「相方」という感じでもないので..。ただこれはあくまでわたしがこう思う、というのであって、他の家の女性が配偶者をどう呼んでいても、納得してたり馴染んでいたりしたらそれでいいのだと思ってます。感じ方は人それぞれだから。 ちなみに夫に自分をどう呼んでほしいのか、と考えると、やっぱり「妻」かなぁ、という気がします。「奥さん」では隣の奥さんみたいだし、「かみさん」という雰囲気ではないと思うし。でもこの場合「うちの」と呼ばれてもかまわないかな。
実を言うと、更新が途切れていても、ネタ切れ、にはまだなったことがないです。面白いか上手か、というのはべつですが、エッセイも詩も小説も(これらはHPで書いてます)コラム(ここですね)にしても、2・3個はいつもストックがあって。それは黒いカバーのかかったノート(雑記帳と家では呼んでいます)に大抵メモしていたり、あとメモがない場合でも、頭の中にいくつかイメージがあったり。 書いたらなくなってしまうのかなー? と思うこともあるのですが、だいたい次のがうまれてくれるので、今のところゼロ、になることはないようです。でも、消えてしまったり、変質してしまったりすることはよくあります。思いついたものがそのまま形になってくれる場合と、思いついたイメージを言葉に変換して綴る場合があって、前者の場合そのときに書き留めておかないとどこかに行ってしまうし、後者の場合時間をおくと変質してしまう。 あと、ネタがあっても、時間のないときや、体調・精神状態の悪いときに書くと、微妙にレベルダウン、パワーダウンしてる気がします。基本的に質にはこだわらない(というかこだわっても大差なさそうな)ので、そのままupしていることもありますが。ただ、余裕のないときは本当に何も手につかないので、そのまま放置状態になります。ゴメンナサイ。
仕事の中に、電話連絡がある。セールスではないし、簡単な内容を伝えるだけなので、とくに難しくはない。でも、電話苦手なんです、というひとにとっては、やはり面倒でいやなものであるらしい。 わたしはとくに好きでも嫌いでもないけれど、職場では仕事なので、たいした抵抗もなく電話をとったりかけたりしている。家で、プライベートで、となるとまた話が変ってくるけれど、まあここでは一般家庭に電話をかける場合のお話。 仕事の時間が昼なので、電話に出る方は大人の女性が一番多い。妙に元気な声の人は少々聞いていて疲れるが、妙に陰気な人も多少不安になる。たまに、コドモも出る。話が通じているのかいないのかわからないのでこれはあまり嬉しくない。でも、一番こわいのは、無愛想な男の人かな。 留守番電話は、もとから入ってるのが好きだけれど(ひとのふきかえは、録音状態が悪いと響きがよくない)、苗字が入ってないと、間違っていれてしまってもわからないので困る、かなぁ。コドモのきんきん声で、へんないい方で入ってると、思わずきりたくなってしまうけれど。わからないよりはいいのかも。 要は用件が伝わればいいのだ、といっても、聞いていて気持ちいいのや感じ悪いのはあって、かける側だけでなく、うける側もそういう雰囲気、というのはわかるのだろうから、こちらもなるべく愛想のいい、でも落ち着いた声をめざしているが、うまくいってるかは、ちょっとまだ自信がない。
通販はお好きですか? わたしは好きです。好き、というか..ある意味必要に迫られて使っています。あのですね。靴とかですね。股下丈がですね。通常と、多分少しずれてるんです。靴のサイズは25.5だし、股下丈は76なので..靴はクイーンサイズ、服はトールサイズでないとうまくいかないのです。そういう靴、を売っているお店、ないわけではないのですが、デザインや色違いも少ないし、安く売ってることもあまりないんです。服もあまりトールサイズ展開、というのをしてなくて、というかしていても普通のサイズのコーナーに隠れててわからなかったりする。ので、サイズが豊富で、種類も多く、しかも一覧がある通信販売はとてもありがたいわけです。 インターネットが好きなかたで、通信販売が好きな方、というのはそれなりに多い気がします、今はネットでの注文も受け付けているところも多いし。そういうかたが理由にあげているのは人ごみが苦手であるとか、店員にあれこれ話し掛けられると集中できない、というのがありました(わたしがネットサーフィンする範囲はあまり広くないので、他にも色々あるのかもしれませんが)。少し、羨ましい。 わたしはとりあえずそういうのはないので、現物を見て買い物をするのも好きですが..いかんせん探すのが一苦労なので、どちらかといえば通販に頼る率があがってしまいます。あと、通販の楽しみとしては、まとめると安くなるとか、特別プレゼントがあるとかかなぁ。それから、贈り物が来る、みたいな喜びが。これは自分で自分に、なのですが、なんとなく、開くときにはわくわくします。 もし、気に入らないものであれば、返品もきくし。それに普通に買ってしまったときより、楽な気がします。そんな感じで、時々使っています。
学生の頃、OLの頃、ときどき定期の範囲内の、適当な駅で降りて、行き当たりばったりの観光をしたりした。プチ一人旅..。あるいは終点まで行って帰るとか、無意味に乗り換えてみるとかもしたことがある。 大体そういうことをするのは悩みがあった時とか、ストレスがたまったときなのだけれど、本人は自覚があるときとないときがあった。またもともと家庭が不和で不安定だったので、あまりまっすぐ帰りたい場所でなかった、ということもある。そして心打ち明けられる友人は、遠くにいたり、自分より大変だったりで、あまり頼れなかったこともあるだろう。 わたしはそういうことをしてるとき、ぼんやりといろいろなものを見ていた。ひとや、景色、植物、動物、建物、あれこれと。そうしているうちに、何か思いついたり、癒されたり、立ち直ったりした。心に新しい風を入れるような感じ、というのだろうか。時折それが必要になると、ふらりといつもと違う場所に行っていた。 今でもときどきそういうことはする。収入が減ったので、規模は小さいけれど。多分、そういうことが必要な人間なのだろう、と思う。
最近某銀行と合併した、ある銀行のATMが、営業停止して、べつの場所を使うようにと張り紙がしてあった。そのうちあれは取り壊すんだろうな、なんになるんだろう、と思っていたが、使えなくなってから、じょじょにその存在を忘れていた。 ある日その場所をとおりがかったら、変な店になっていた。正確に言うと変な店ができたなぁ、前なんだっけ、と思って、あー、ATMだー、と気付いたのだ。 べつにそんなに変でもないのかもしれないけれど..それは、1000円で髪を切ったり洗ったりしてくれる、美容院。安くて早いのがいいといっても、これはちょっとやだなぁ、わたしは。お金がなくても、ふつーのところに行きたい。だって昔ATMだっただけあって、とっても狭いのだ。そこに5台くらい無理やり椅子とかをつめこんである。見た目、コインランドリーみたいだ。楽しくないよー。 ゆったりと、髪を洗ってもらったり、世間話をしながら、髪を切ってもらったり、担当の美容師さんに、髪のアドバイスを受けたり、というほうが気持ちいい気がするのだけれど..それもだんだんぜいたくなことになるのだろうか。
たとえばぶつかったとき。たとえばひとの間や前を通るとき。ほかにもいろんな場面があると思うけれど、ひとこと(すみませんとかありがとうとか)あるのとないのとだとずいぶん感じが違うような気がする。あるいは言葉がなくて、お辞儀するだけでも。目礼するだけでも。 わたしは、必ずしも毎回きちんとうまくできているか、といわれれば自信はない。形だけになっていて、気持ちが伴ってないこともあるかもしれない。でも、できれば、形も気持ちも、うまく伝えられるといいな、と思う。暑いとばててしまうし、態度や動きもおざなりになってしまう人間だけれど。だから、自戒の意味もこめて。気をつけたいな、と、ここに書き留めておきます。
海の日なので、海について書こうかな..と思ったのですが、ぼんやりやーな気分になってしまいました。えーと過去に溺れたことがあるとか、大事な人を海で無くした、とかではなくて。 一番最初に思い出したのが、家族4人(父・母・わたし・弟)ででかけた海なのですね。お弁当を持っていって砂浜で食べたこと、砂が暑かったこと、危ないから、ということで父か母が交代でわたしたちを見ていたこと。波が荒い海で、あまり長時間いられなかったこと、帰りの電車、疲れたけれど、とても込んでいて座れなくて、弱ったわたしたちを見かねた父が、すみっこのほうにわたしたちをよせて、よっかかっていいよと言ってくれたこと。 べつにどうという記憶ではないんですが..後々、わたしの家族は解体してしまったので。どうもそのときの感情、みたいなのがすこんと抜け落ちてて。多分楽しかったんじゃないかなーと思うのですが、実感として思い出せない。 好きな人といった海、とかは、何の苦味もなく、そのときの甘さやせつなさを思い出せるし、痛くもかゆくもないのですが。一番最初に思い浮かぶ、家族といった海が、どーもあんまり感じがよくなくて。海の日、というと、恋人同士より家族連れのイメージが強いせいかな。どことなく、やーな気分になりました。 ちなみに海そのものはとても好きです。音も、色も、形も、手触りも。余計なことを考えず、ただそれだけを思っていれば、べつだん気分が悪くなることもないです。潮風はべたべたするから困るかなー程度で。
ある小さな図書館でのできごとです。女の人が室内を歩いてるとき、携帯に着信がありました。音量はふつうで、メロディが流れ始めました。女の人はあ・いけない、という感じで外に出るドアに向かって移動しようとしました。そのとき。 「○×▼●△×ここで携帯つかっていいと思ってんのかー!!!」 という、おじいさんの罵声が響きました(前半部分は聞き取れなかったので表記不能)。白髪で、肌のつやがいい、眼鏡をかけていて小柄なかたで、どこからそんな大声が出ているのだろう、という感じでしたが。女性が急いで外に出てからも、まだ何か叫んでいました。 声がやんでからも、しばらく室内がしんとなり、雰囲気が凍っていました。じょじょにとけはじめ、数分後にはほぼ元通りとなりましたが..。たしかに図書館では静かにするべきだし、携帯もOFFかバイブにすべきかもしれません。でもあそこまで大声で文句を言うのは..それはそれで間違っていることのように思えました。何か普通でない、異様な感じがありました。 どこから携帯を不快に思うかはひとそれぞれだし、周囲の時間や場所や状況を考えて使うべきなのは勿論なのですが。よくないことを教え、守るべきことを知らせるのも大事なことだと思うのですが。感情的でなく、雰囲気を壊す方法でなく、気持ちよくそういったことを伝えるのは難しいのだろうか、それとも、等々、考えさせられたできごとでした。
睡眠時間が短くても、人間は生きていられるものらしいですが、わたしは本当に駄目です。小学生まで9時に寝かされ、中学生で10時になり、高校生で11時になったけれど(おかげさまで、身長はこの年齢の女性にしては高めのような..)。大学生になってから、12時になり、レポートや試験のため徹夜も何度かしたけれど。社会人になって、もっと遅くに眠ったこともあるけれど。もう、むちゃくちゃ体の調子悪くなります。睡眠時間足りないと。 お肌のためには10時から2時、というのは絶対寝たほうがいい時間なのだそうですが、この時間に寝る、というのはそれなりに難しいような..わたしが一番体調がいい睡眠は、10時半から6時半までなのですが、うまくその時間に眠れるのって、年に1・2回って気がする。11時−7時、もそんなにない。頑張っても12時−8時。もっと遅く寝てもっと早く起きる日もあり(そういう日は頭がんがんします)。どうもうまくいきません。 寝つきは、そんなにいいほうではないです。音とか光とかあると眠れないし。だから、隣の部屋で夫がTV見てたりすると、床に入ってもなかなか眠りが訪れません(ちなみに夫は音がしようが光があろうが寝ようと思えば眠れてしまうようです、羨ましい)。午後3時過ぎにコーヒー飲んでも眠れなくなるし、あと、ひとりだと妙に恐くて寝付けません。夫が遅い場合やとまりで仕事の場合、極限までおきて(といっても2時近くかな)倒れるように眠るか、お酒飲んでむりやり寝込むしかないです。 夜寝ないと、翌朝起きることはできても、頭痛がすごいです。消化も悪くなるし。しかも朝寝や昼寝ではあまり回復しない。救いとしては、薬やドリンク剤がよく効くことでしょうか。でないと生きるのがあまりにつらい。世の中には夜型の人もたくさんいて、いいなーとも思うのですが、憧れても、体質上ついていけないので悲しいです。テレホーダイの時間なんて絶対活用できない。というわけで、夜の書き込みとか、レスは大抵遅くなってます、ごめんね。わたし寝ないと駄目なのよ。
最近、なんでこんなに夏が嫌いなんだろう、と思って。べつに夏の風物やらなにやらは必ずしも嫌いじゃないよねぇ、と思って。暑さで体調崩しやすいせいかー? とも思ったのですが、べつに他の季節にも体調崩れることはあるなぁ、と思って。 んー・・とつきつめて考えた結果。どうも、「スキンシップが楽しくなくなる」からかもしれない、というところに落ち着きました。わたしは本当は、好きな人とは年がら年中、日がな一日、べたーっとくっついていたいのです。でも、夏ってくっつきたいのにくっつく気になれないし、それに無理やりくっついてもいまいち楽しくないじゃないですか!!! 冬になれば、くっつくのも楽しいし、あったかい。 なんてあほーな理由か、とも思うのですが、どうもこれが一番強力な理由のように思えます。四季折々、いろいろな風情が楽しめるのは、勿論嬉しいし幸せなことだとは思うのですが。わたしはどうしても、夏が好きにはなれない気がします。
喜怒哀楽のうち、喜怒が少なく、哀楽の多い人生です。喜んでる時間より、怒ってる時間より、悲しんでいたり、ぼんやり楽しいなぁ、と思ってる時間のほうが断然長いです。情熱的とか、感情の起伏が激しい、というタイプでもありません。感情の幅や奥行きや深み、というのもとても未分化で、成熟してない人間だと思います。でもまあそれで困るってことも(本人は)とくにないのですが。 わたしはあまり声をあげて笑うことはありませんが、このとしにしてはとてもよく泣きます。悲しくなると、すぐにじわーと浮かんできて、ぼろぼろとこぼれてきます。涙腺がゆるいのでしょう。でも、ずーっとなきつづけるだけのパワーはないので、わりとすぐ泣きやみます。あまり、コントロールがきかないので、泣きたくない、と思っても出てくるときは出てくるし、泣いたほうがいいのかなぁと思ったところで、涙は出てこないです。 現実に何かあった場合でも、泣きますが、本や漫画を読んでいても泣きます。本の場合、とくにノンフィクションに弱いです。ちょっといい話系、一筆啓上とか、最後のひとことなんてのにはもう完敗です。街中だろうが店内だろうが車内だろうがもう駄目です(大体その場合周りなんか見えない)。でも、ドラマや映画ではあまり泣けないです、なぜか。これは役者さんが演じてるのであって、役者さんにはちゃんとべつの人生がある、だから大丈夫、とでも思っているのでしょうか。あと、WEB上で痛い人生の記録なんてあった日には、画面の前でべそべそ泣きながら読みつづけていたりします。だからどーするってわけでもなく..書き込みもせず通り過ぎたりするのですが。 べつに泣きたい、と思って泣くわけでも、泣きたくない、と思って泣くわけでもなくて、涙は勝手に流れてしまうのです。でも、目が痛いーとかなるときもあるので、もうすこしお手柔らかに頼むよ、と思うことはあったりします。また、泣かなくても、こころが痛かったり、しめつけられたりすることもあり、心の働きや、気持ち、感情については、わからないことだらけのまま、日々を過ごしています。
今日、車で実家最寄駅の近くを通った。このあたりには予備校が2・3軒ある。大学もそばにある。高校生や大学生の姿を見ながら、そういえば昔夏期講習を何度か受けたなぁ..と懐かしく思い出した。 中学生の頃は、模試を受ける程度だったけれど、高校生になってからは、予備校や塾の講習もいくつかとった。ふだんは家で、通信添削等で勉強していたけれど、夏は暑くて生活のリズムが崩れやすいから、ちょうどよかったのだと思う。 テキストが面白かったのと、講師の冗談に笑う男の子達の声に驚いた(中学は共学だったが高校は女子高だったので..岩を転がすような響きでこわかった)ことくらいしか覚えてないけれど。このあたりはあの頃から緑が多くて、帰りに木陰でアイスを食べたり、本屋さんで参考書を見たりしたのはよく覚えてる。 高校で受けられる講習もとっていた。私立文系だったけれど、社会があまり得意ではなくて、日本史をとっていた。授業だけでは1月までに近現代が終わらないかもしれない、ということで受けていた。そのときは「うー今授業で習ってるところとずれてて頭に入りにくいー」と思っていたが、1月にそのあたりを習ったときには、おお!これは覚えてる!と思い出せて嬉しかった。 気の合わない人と遊ぶより、性に合わない仕事をするより、得意科目の勉強をしてるほうがずっと気分がいい、というのは、大人になるまでよくわかってなかった(ちなみにこれはあくまでわたしの場合。気が合わなくても誰かと遊んだり、性に合ってない仕事でも勉強よりまし!というひとも世の中にはいるはず)。 だから当時はきっと、暑いのにいくの面倒くさいなぁと思ってたんだろうなぁ。受験がなければ、そんなに頑張らなかったような気がするし。かといってあのころが今より幸せだったか、というとそうも思わない。今には今の、あのころにはあのころの、いいことと悪いことがあるように思うから。
暑いー暑いーなんでこんなに暑いのーと思ったり口に出したりしていたが、それって全部天気のせいなのかな? 昔はここまで暑くなかったような気がする.. わたしは今エアコンを(除湿だけど)かけてる。他の家でも、ついてる。暑い風が外に流れてる。わたしは車に乗せてもらうのが大好きだけれど、排気ガスが、遠くからゆらゆらと陽炎のように出てるのがわかる。車のエアコンも、燃費悪くなりながら、つけないではいられない。オゾン層破壊するものだって、知らずに使ってるものがたくさんあると思う。 環境破壊とか、自然破壊とか、自分の暮らしが与えてる影響とか。実はそういう問題について、詳しく知らないしわかっていないです。多分、考えすぎると生きていくのがつらくなるし、つきつめていくと生活がなりたたない、たちゆかない、みたいなこともあるから、ふだんはあまりそこまで思いを巡らせないようにしているのだと思います。 できること、できないこと。まだ、はっきりとは見えてこないけれど。暑さや天気に文句をいうの、すこし控えてみようかな..しかしこんなことをエアコン消して考えていたら、またものすごくあつくなってきました。やっぱり、あついものはあつい..うううこれは文句じゃなくて感想。
WEBでの会話と、現実の会話について。現実でも人それぞれ話し好きだったり聞き上手だったり、WEB上でも読むのは好きでも書きこみは苦手だったり、書き込みも好きだったり、色々だろうと思うのですが。 現実と、WEBと、どちらがあなたは饒舌ですか? 無口ですか? 分類するなら 1.現実でも饒舌・WEBでも饒舌。 2.現実では無口・WEBでは饒舌。 3.現実でも無口・WEBでも無口。 4.現実では饒舌・WEBでは無口。 5.現実でもWEBでもほどほど。 6.現実でも話すがWEBではまた別の話ができる とかかな..なんかきりないですね。わたしは多分、これでいくと5かな? 現実でも気が向けばたくさん話すし、あまり人見知りはしないので、初対面のひととでも適当に話をあわせるし。でも、集団で、他に話す人がいて、黙ってて大丈夫そうなら黙ってる。 ただ、ふだんから、実際に口にする言葉より、心で考えてる言葉のほうが多いとは思います。だからこうして文を書いてるのかな。WEBでも、(掲示板とかで)話すことは話すけれど、用がなければ黙って見てるし、気が向けば長くなる、という感じ。 だからどう、ということではないのですが、ふと、皆はどうなのだろう? と思ったのでした。もしよければ、聞かせてくださいね。
月を見ると思い出す人がいます。WEB上のひとなので、会ったことはないのですが、とても綺麗な詩をかくかたでした。そのかたが撮った写真も、とても綺麗でした。そんなに頻繁に会話を交わしたわけではないけれど、そのかたがご自分のHPを凍結されてからも、なんとなく忘れられずにいるのです。 月が出てくる作品があったような気がします。月の話をしたこともあった気がします。記憶はおぼろで、だんだん薄れていくのかもしれません。それでも月を見て、どうしてるかな、と思ったり、同じ月を見てるかな、と思ったりすることは、たとえ回数が減っても、なくならないように思うのです。
好きな花は何ですか、という質問に答えるのはかなり悩みます。今育てているから、バーベナが一番好きといえば好きなのだけれど、花束を貰う場合、とか樹の花を眺める場合、とか、状況や気分によって全然違ってしまうから。 でも、基本的に花なら何でも好きです。草の花も樹の花も。そのう、食虫植物みないなのを可愛いと思えるかはちょっと自信がないけれど。 自分に似た花、とか、花にたとえるなら、という質問には、カラーかな? と思っています。友人がくれた、わたしのイメージで花やさんに作ってもらった、という花束にたくさん入っていたから。あと、たとえられたことがあるのは、白いシンプルなタイプの百合。種類の名前まではわからないのだけれど..。要するに、丈の高くて白い花に近いみたい。 本当は、小さな、ピンク色の花にたとえられるような人になりたかったかも。ああ、そうすると、やっぱりバーベナのような感じに憧れてたのかな。
昨日弟の住んでいるアパートに行った。行くのは2回目なのだが、道を全然覚えていない。実を言うと、池袋から乗り換えることは覚えていたものの、何線で何駅で降りるのかすら覚えていなかった。うーん。 そういえば小さい頃、友人の家をなかなか覚えることができず苦労した記憶がある。どうして皆は1回で覚えられるのか、かなり不思議だった。どうも「あまり頻繁に使わない場所」とか、「いずれ使わなくなる場所」「忘れても直接生活に困らない場所」と思った時点で、記憶がどんどん後退していくらしい。 ちなみに学校とか職場とか、本屋とか図書館とかは、比較的すんなり覚えるし、そう簡単に忘れない。自分にとって必要度や重要度が高いのだろう。ただし一人で適当に辿りつける場所も、べつの道を歩いて最短ルートを探すとか、人に道を説明するとかは難しい。 目的地に着くまでの目印、といったものがさっぱり頭に入っていないのだ。大体このへんで曲がる、とか、だいたいこのあたりまでまっすぐ、とか、非常にいいかげんな記憶で歩くからだろう。あまりきちんと周りを見ていない。全体が把握できていない。 地図を見ればだいたいの位置はわかるし、地図をたよりに初めての土地を歩くことも不得意ではないが、地元の地図を書け、といわれたら、子どもの落書きよりひどいかもしれない。
肌にはりつく制服。ぎらぎら照りつける太陽と、濃い青い空。 着替えるのが億劫な水泳の授業。泳ぎだすと気持ちのいいプール。 次の授業のときに残る浮遊感と塩素の匂い。 花なら夾竹桃、芙蓉が好き。夕闇に浮かび上がる白、風に揺れる淡い香り。 食べ物だと、あまり好きではないけれどスイカ。かき氷。アイス。 大好きなのは夜の散歩。浴衣を着て花火に行くのも楽しい。 もちろん大好きなひとと一緒に。 真昼なら無人の校庭に水をまいているスプリンクラー。 夏休みの宿題とともに思い出すセミの鳴き声。 日中にあまり鳴らず、夜風によく鳴っていたのは風鈴。 いま、ぱっと思い出せるのはこれくらいかな。
この日ぼんやり夫と歩いていたら、パーッと車のクラクションが鳴った。 どうしたんだろう? と思ったら、現場を見た夫が解説してくれた。 「ああ、あれは信号が黄色になったから、あの銀のベンツはとまろうと したんだね。で、後ろの2トントラックは、自分が行くつもりだったから 怒ってるんだろう」とのこと。 「ねえでもそれってベンツ悪くないんじゃない?」「うん、全然悪くない。 でもあのトラック悪そうな感じだから、このあとあおるんじゃないかな」 でもそれって逆恨みのようなものでは..とぼんやり視線を向けると、 わあ! あおってるよトラック! しかもベンツに乗ってるの、おばさんと ちいさい男の子やん! か・可哀想..。そのまま見ていると、「あ・でも ベンツ逃げたよ。よかったね、よけられて」「あー、しかしあのトラック、本当 は曲がりたかったのに、わざわざ直進してベンツにおどしかけてたな。 へんなところで無理やり戻ったよ」ということらしい。 べつだんこの件に限ったことではないけれど、最近車に乗っていて、少しでも 遅かったりすると、すぐに鳴らす人っていうのも多いんだな、と思ったりは する。あと、合流でもばーっと路肩走って、前のほうで入りたがる人や、 順番に入れているのに、自分だけ車間を詰めて他の車が入れないようにする とか、自分ばかり先に行こうとする人も見かける。なんとなく、せちがらい 世の中だよなぁ..と思ったりする。 事情があって、先を急いでいる人も、勿論いるのだろうとは思うのだけれど。 マナーとか、譲り合いの精神は、やはり大事だと思う。これから暑くなるし、 乱暴な運転をするひとは増えるかもしれないけれど。事故につながらないよう、 スマートに礼儀正しい運転をしてほしいなぁ、とわたしは思う。そのほうが みな気持ちよく走れるのでは、と思うのは誤りだろうか。
小学校も中学校も、校内の広い場所に大きな竹が置かれて、ひとりひとつ短冊に願いを書けた。いつも適当なことを書いた。かないそうな範囲で、誰に見られても困らないようなことを。本当に願っていることは、書けないことだった。そんなことを願っているなんて、誰かに知られてもどうしようもなかったから。 笹の葉にからむたくさんの短冊を見ながら、神様がこれを全部かなえてくださるなら大変なことだろうなぁ、と思った。でも、このうちどれくらいの願いがかなうのかな、と考えたりもした。わたしが書いたのは、たいして本気でもない(でも嘘ではない程度に真面目には書いた)ことだから、本気の人のために、あとまわしにされてもいいかな、と思ったりもした。 でも、わたしの本当の願いは、もし書いても、きっともっとかなわないのだろうな、とも思った。実際、それは無理だった。もう、駄目になってしまったことを知っている今となっては、やはり願わなくて正しかったのかな、と思う。七夕様を、困らせるだけだものね。
わたしはとても虫によくさされます。蚊に血を吸われます。なのに木や葉っぱを見るのが好きで、そういう場所でぼんやりしてしまったりするので、夏は足の肌がとても汚いです。かかなければいいのですが、どーもかきこわしてしまうのです。かゆくて。かゆいよりは痛いほうがましな気がして。しかも血があまり嫌いじゃないし。かさぶたもかゆいとはがしてしまうし。おまえはいくつだ、といわれてしまいそうですが、はい、もうかなりいいとしです。すみません。冬には大体傷も治るのですが、毎年傷がつく、ということは年とともに跡がきえにくくなるわけで、早く虫もよってこないようなまずい血になりたいなぁ..と思ったりします。そういえばB型はよく虫にさされるという話を聞いたことがあるのですが、どなたか正否をご存知ですか? 虫さされの薬、というのはどうも効かなくて、その場はすーっとするけれど、やっぱり時間がたつとかいてしまいます。かゆみどめのまるいパッチは、毒が吸い出され、かゆくなくなるので、その場合あまりかきこわされなくていいのですが。手元に見当たらないと、はるまでにぼろぼろになってしまったり、します。こんなのかいてる時点でおわかりのように、今もかゆいです。あうあうあう。
鉢植えをひとつ育てている。水をやったり薬をまいたり肥料をやったりしているだけだけれど、成長していくのを見れば嬉しいし、調子が悪そうだと悲しい。世話をしていると、なんとなく気持ちが落ち着く。 ときどき枯れかけている葉や、散りかけの花柄を取り除いたりする。へろっと触れるだけでおちるものもあれば、まだ大丈夫、とばかりに抵抗のあるものもある。わたしは見ただけでわかるほど植物と接していないので、声がきこえたらなぁ、とぼんやり思うことがある。 実際問題声が聞けるとしたら、意外とあーだこーだうるさいのかもしれないが、そうではなく。水の過不足とか、涼しい場所、日当たりの角度など、本人の一番適切な値を知りたいのだ。それぞれの葉や茎の状態が、こまかくきき取れるような人ならいいのにな、という感じで。 人の心や体の動きもよくわからないのに、わかりたい、と思うのは順番が違うのだろうか。でも、人はある程度話してくれるし、雰囲気も読める。それとも植物も、たくさん時間をついやして、よく接していれば、少しずつ彼らの思うところが、わかるようになるのだろうか。
最近少しだけ自転車に乗っていた。職場まで4キロくらいなので、 徒歩はさすがにきつく、バスは1時間に3本くらいしかないから。 その自転車は夫が学生時代から使っていたもので、捨てようかな、 と彼は思っていたのだが、わたしが買おうか迷っていたとき、 ためしに整備してくれたものだ。さびさびのがたがただったが、 これがついこの前パンクするまで、隣の市のファミレスや本屋 さんに行ったり、遠くの郵便局にいったり、短いけれど楽しい 自転車生活を味あわせてくれた。 わたしは小さい頃すこししか自転車に乗っていない。親が危ない からあまり乗らないように、といってるうちに体が大きくなり、 あわなくなってしまったから。というわけで、わたしは十数年 ぶりにふらふらよろよろと自転車に乗っていたわけだ。車に 乗せてもらっているときなど、自転車の人はとても邪魔で 危なっかしく感じられたものだが、わたしはそれに輪をかけて 危なっかしかっただろう、と思う。信号無視とかはしないし、 安全運転をこころがけていたつもりだけれど、何度か右折車 などにひかれそうになった。 あるひの仕事の帰り道、若いカップルを前方に見つけた。ふたり とも小柄で、女の人は長いジャンパースカートを着ていて、髪は 金色、セミロング。男の人は帽子をかぶっていて、ジーンズ。 ふたりはべったりとくっつき、男性が女性をかばうようにのろのろ と歩いていた。わたしは自転車だったので、狭い道を通り抜ける のも難しく、「べたべたするのはかまわないけど、もすこし広い道 で歩いてくれないかな..」と内心思ったが、後ろをゆっくり行く しかないのだろうな、と近づいた。あ。近づいてやっとわかった。 妊婦さんだ。ごめんなさい..わたしは別の道を通ることにした。 自分がいちゃいちゃ歩くのが大好きだからって、自分を基準にして はいけなかったですね。鳴らさなくてよかった。 期間が短かったので、たいした思い出や思い入れはないけれど、 自転車の気持ちのいい季節になったら、また乗りたいな、と思う。 (なんだかこどもの絵日記のような文になってしまったような..)
わたしはドラッグストアが好きです。薬だけでなく、健康食品や、サプリメント、化粧品、洗剤など、幅広く置いてあるお店が好きです。わりと薬のききやすい体(単に暗示に弱いだけかも?)なので、薬に対して、あまり悪い感情や印象がないのです。勿論世の中には恐い薬もたくさんあるので、気をつけなければいけないのですが。ぼうっと見てまわるだけなら、害も多分そんなにはないでしょう。 そんなことを今ぼんやり思っているのは、暑いとついふらりとお店に入ってしまうからだと思います。デパートやスーパーだと、店員さんが寄ってきたり、他の人が懸命に何か探していたりして、ゆっくり涼むなんてできないけれど、ドラッグストアは、呼ばなければ店員もそばに来ないし、買い物に来る人もそうがつがつしてない気がするので。なんとなく入って、消耗品や、日用品できれているものがあったら買い足したりできるし、何も買うものがなくても、化粧品その他の新商品を眺めて、次回買うときの参考にしたりできるし。 いろんなものがあるんだな..と、説明が書いてある札を読んだりするうちに、なんとかまた外に出て、家に帰る気持ちが整います。病気になっても、救いがある気がするからかもしれません。弱ってるのはわたしだけではないのね、と思えるのも嬉しいのかもしれません。よくわからないのですが、なんとなく、ドラッグストアは、好きな場所のひとつです。
友人を無くす覚悟で言います、わたしはスポーツ観戦があまり、いえ全然好きではありません。知り合いには好きな人けっこういるのですが、そういう人を否定してるわけでもないし、趣味が悪いというつもりもないのですが、ただ単純にわたしは駄目。 あのですね..疲れてしまうんです、見てると。感情移入の仕方が変なのか、痛い〜とか苦しい〜とかばっかり思い浮かぶの。マラソンも水泳も体操も駄目だし、格闘技もだめ。あと、野球は細かいルールがわからない、人名が覚えられない。サッカーやバスケ、バレーならルールはわかるけど、なんで勝敗争って一喜一憂してるのかよくわからない。こういうこと考えてる時点で何か間違ってるでしょう、多分。 見て楽しめるのって、フィギュアスケートとかくらいかな.. ふだんは、それでも困らないのですが。OLのころは、やはり少しは知らないと世間話についていけないので、無理やり見ていました。でも、細かい話になると全然駄目でしたからね。それで根本的な興味がないことがばれてしまう、という。 結婚してからは、夫がごく普通にそういうスポーツ番組を見るひとなので、TVがついているとぼんやりわたしも見ることが増えてきました。よくまあルールや人名だけでなく、そのひとたちのスポーツ暦だのなんだのまで覚えていることよ、と、内容よりその知識量に感心してしまいます。 そういう知識があれば、人間関係の駆け引きや、勝負の流れのようなものもわかり、面白かったり楽しかったりするのかなぁとは思うのですが。いまさら土台のないところに知識が定着するはずもなく、相変わらずよくわからないまま、時間がすぎていきます。
えーと恐い漫画、といっても本格的な恐怖漫画のことではなく、少女漫画の月刊誌に夏になるとたまーに載ってる、というレベルの「恐い漫画」の話です。 小学生のころ「りぼん」という漫画雑誌を定期購読してまして。で、これが上に書いたように、夏になるとたまに恐い漫画を掲載していたのです。今はどうだろう、10年以上たっているので、最近の事情はわからないのですが。 とりあえず当時に話を戻すと、これを何人かで回し読みしていたんですね。買ったり買わなかったりしてる子とか、とりあえず読めればいい子とか、1回読めばもういらない子とか、いろいろだったので。 そしてたまたまわたしが買ったとき、その、恐い話ののっている月だったのですが、ある子が「ねえ急いで読んじゃうからそこにいてくれる? 今日もって帰らなくていい?」と、やたらわたしに念を押すんですね。まあ、かまわないけど、と待っていると、「じゃ、またね!」と、急いで帰ってしまい、わたしは「?」と思いつつ漫画雑誌をかたしたのですが。 後日彼女に理由を聞いたところ、「恐い漫画って、絵が、閉じた後も浮き上がってくるような気がするから..」とのこと。うーん..聞かなければよかった。なんだかそういわれるとそんな気がしてくるじゃないですか(泣 今までそんなこと考えたこともなかったのに〜。 なんとなくその日以来、恐いのがのっている号は極力買わないことにしました。しかしその「絵が浮き上がる」を聞いて以来、どうも画像が視界に残ってしまうようになり、しばらくは残像に悩むことになりました。今では多分、多少恐くても平気なように思うのですが。 暑い時期に並んでいる漫画雑誌をみて、ふと思い出したのでした。
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