「I'm nothing to you」


いまの日常の中のわたしのはきっとこうしてなにも書かず虚ろに画面を眺め、
思考するでもなくただぼんやりしているのと限りなく似ている。

七月に電話で何年かぶりに再会した。
けれど結局は会わなかったし、もう会う必要もないと思った。
プライドが高くて女性に対して冷たいひとだから
例えばわざと無視するとか約束を破るとか素っ気無くあしらうとか、
あの人がわたしに持つ「従順」というイメージを覆すような事をすれば
きっとそれで離れてく。

そして今週、何故、電話して来ないんだ、という第一声。
こちらの気持ちとか都合とかまるで関係無いって感じの強さは変わらずね。
けれどやはりこちらのこころを密かに伺っている。
状況を考えれば当たり前かも知れないけれど昔の強引さが少し欠けている。

名前と誕生日を併せたやる気の無い彼のメールアドレス。
彼と続いていたのはメールが主流になる前だったので、
昔はたくさん手紙を書いて送ったっけ。
思えばわたしたちはメールのやりとりをした事がない。
送るね、と言って慌てて切ったような電話の後、
そしていまも言葉ひとつ送信していない。
なにを文字にして彼に言えばいいのかわからない。

あの人から電話があったよと話した。
わたしの過去と現在と多くを知ってくれている人に。
彼女は彼に対して批判的で彼がなにも言わずアメリカに旅立った時、
「後ろ足で砂をかけるような真似を」とわたしよりも怒っているように見えた。
今度も彼女は「図々しいね」と酷く呆れていたようだった。

うん。でも、全部わかってて好きになったよ。

唯一点、わたしの中から滅えてくれないものだった。
置き去りにされたわたしはどうすればいいのか分からずたくさんの言葉を並べて
現実を飲み込もうと独り自分を納得させようとしていた。
わたしの人生の中にもう、無いものだと。
わたしは彼にとってもう、何の意味も示さない存在なのだと。
でも本当はいまのいままで好きだという事を忘れてはいなかった。
そんな自分への葬送と追悼、その後ろ姿を眺めているところ。

うん。それでも、好きだったよ。

いまでも言える。こころに曇りなく後悔してないって。
けど、好きと大切とは違うという事をいまのわたしは知ってる。
そして、あなたがあの時選んだ女性に
時が経てばあなたが程好く飽きる事を過去のわたしは知っていた。

「日々告白」

時間がある時に少しずつ。
此処に載せてはいない雑多としたこころの記録。
今までずっと書き続けていたものを整理したくなって過去の自分に触れる。
そして現在と過去の意識にだんだんと差異が拡がっているのを見ている。

無意味なものに意味を持たせようとするような、
愉しみを無理矢理見出そうとするような、
でも本当はそれから頑なに眼を逸らしているような、
生まれる先から握り潰すような、
余白の無い、Life。
少しの過去に遡ればそんなじぶんが居る。
酷く怯え、全てから隔離されるのを望むような、
かと思えば見得る全てを抱き締めようとするような、
確信犯的微笑の下で犠牲になるオトナになりきれないPieces。

いまは、ゆっくりと死んでゆくような、
きつく抱き締めていた腕をゆるりとほどくような、
やっと自分になってゆくような、そんな感覚。
後悔は無いんだ、どの瞬間も。

「日々告白」
これは以前、わたしが書いたものを読んでいてくれた人が付けてくれた。
自分が書くモノが何処に分類され何と呼ばれるのか知らなかったので、取り敢えずそれからはそう呼ぶ事にした。

そしていまも変わらず、あなたに告白し続ける。

「縮めようとするのですか、時間を。それとも知ろうとするのですか、わたしを。」

容易くゆられるのは自分で厭というほど知っているのよ。

電話して来ないで。
電話して来ないで。
電話して来ないで。

あなたを冷たく突き放す言葉をわたしは未だ憶えていないんだから。

「奇蹟の欠片」

幾つかの分岐路に旋る自由のアーチを抜ける。
無意識的に、或いは意図的に幾つもの選択をしている。
淘汰の果て、正しさを信じて失ってしまうのだと思う。

(それは失ったのか、棄てたのか)

当たり前のように傍に有るもの。
けれど、何一つ当たり前ではなかった軌跡。
少しでも違えていれば廻り合わず此処に無い筈のもの。
周りに有るものはそうやって一つ一つ択んできた希みの結晶。
何の前触れもなく出邂うものが奇蹟なんじゃなくて、そうやって今、当たり前のように傍に有るものこそ奇蹟の欠片なのかも知れない。

(全てはわたしから棄てたのだ)

「ナマモノ」

歳月と共に積んで行く経験。
増えてゆく手垢のついた世界たち。
憶えてしまう妥協と諦め。
人の悪意や色んな事に過敏になり過ぎて疲れてしまっていた時期がある。
何事にも敏感過ぎては生き難い世界ではある。
かといって鈍感になっていくのは幸せか。

んなわけないな。まだ現役ナマモノでいたいから。

「nonsense」

例えば他人が書いた作品に対し、アドバイスもせず片っ端から悪辣な批判だけして後は放っておくという人が居た。わたしはその人と無関係だった自分のコネクションに誇りを持った。人として尊敬出来るようなものを何一つとして持ってなさそうだったナンセンス其の壱。

例えば自分のサイトで自分以外に対し、単なる悪口をわざわざ公にしている人が居た。なにを述べてもよい。公の場でその人が己の魂を汚そうとわたしには関係が無い。だがそういう人に限って直接なにか言われるとびびるんだなあ。他人を求めていないというなら他人の事はいじるなよと思ったナンセンス其の弐。

独白を気取るナンセンス。世界を面白くないものに変えるその言論、かなりつまらない。逆に人の眼を気にし過ぎて自分の姿すらも見えていないのではないか。

気に入らないからとふてくされているだけなのは性に合わないね。拗ねるのはね、子供でも出来る事。その言葉からは何も生まれず、その存在は何も生み出さない。

「旅の効能」

旅というものは勿論、現地の空気に触れて心の洗濯をしたり出来るが、わたしの場合たぶん行き先はどうでもいい。ただ、日常性から離れて心に浮かぶものを見たい。それは過去の記憶の枯葉を集めて焚火をするようなものでもあり、その枯葉の中から宝物を拾い出すようなものであったり。

過去の切り口が反射する現在と未来の眺め。それをゆっくりと見つめられる時間。景色や記憶。新しいものを手に入れるという事で続いていく幸福をわたしは其処で再度確認する。今回の短い時間の中でとても大切なものを自分の中に見つけられたような気がする。

「JOY OF LIFE」

基本を忘れている。愉しみたいならもっと生を使え。後悔する事への畏れを取っ払ってからそれは味わえるものだろうから。時間を往く内側で退行しているなら呼吸する価値すら無い。自分の内から愉しみを生み出せないと、簡単にそれは哀しみへと変わる。

「晩餐」

結構、ダイレクトに色々露呈してしまうのが食事の時。長く繰り返し沁みついた習慣に自身、殆ど気付けない為どのように育ってきたのか、その家庭や過程が想像され易い時間。「食事時だけは王族のように振る舞え」という事をわたしは常に心に置いているつもりでつい忘れてしまう。

昨日、いつもよくして下さるお客様に招いていただいていた家族の晩餐。イタリアンだと聞いていたので勝手に気安いものと思っていた。行ってびっくり。一日一組しか取らないような高級なイタリアンだったとは。前菜が4つも出て、彼の有名なキャビアやフォアグラも惜しげなく(フォアグラは好きではなかったのだけど)。イタメシなので流石にナイフとフォークは一組しか並んでなかったが、実はわたしはこういう雰囲気が嫌いではなく、偶に洋燈の灯るディナーでナイフをきこきこやりたい方で。でもそのご家族はかなりの食通で、ワインの注ぎ方や調理法など全てに於いて完璧であったのでわたしは日頃のドカ喰いがばれないようちょっと苦しかったりして。そんなふうにして結局、結婚式のコースよりも高級なものをいただいてしまった。

同年代の姉妹2人。わたしの家族とほぼ同じ構成。とても素敵なご家族。そんな別の団欒に混じって食事を取るという事で、自分の家族を改めてその環の外から見たような気もした。わたしがちゃんとしていないと家族が笑われるんだな。何時か誰かが言っていた言葉を思い出した。




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