「醉ひざめの月のさやけさよ 」

今まではそれを訊かれる度に鬱陶しく思いながら、男女の友情は成立しない方に頷いていた。そんなものは全て鈍い奇麗事だと。でも現在なら可能だと答える。成立するかどうかは分からないが、それは間違い無く可能であると頷き直す。

様々な瞬間の積み累なり。友達で居るというあいだ、少しずつ削られてゆく意識片。奪おうとする意識は薄れ、執着や独占したいという欲が程好く無くなる。タイミングも運命の輪の内側。

でもよく知っている。どんな人間か。そいつがどんなに素敵にわらうのか。だから時々辻褄の合わない嫉妬をする。逃したタイミングを別々の時間に別々の場面で悔やんだりもする。もう交わらない代わり、こいびと、とは異なる視点から見つめられる理解者となる。男女の友情の成立は、殆ど知らない初めとあらゆるものを通り過ぎた終りにあるような気がする。



「殉ずる」

信じ続けるという事に勝るものは無い。信じる心と殉ずるかのような強さ。そしてその清らかさは何をも介入出来ない。それは恐ろしく強暴。けれど殉ずるというのはその信じ続ける己の心とであり、信じる対象とではない。信じ続けるという事は、思い込み続けるという事と大して変わらないように思える。まるでそこでは真偽など既に無関係であるように。だが、人である以上、何も信じず生きる事は果たして可能か。

「チャイルド」

(知らない方は何日か前の記述をご覧ください)
ふるきよき時代用語使い手として新手の(笑)を提供し続けてくれている60's後輩、女。この人がまた面白い事を言いましたのでお裾分けさせていただきます。

この人のデスクはわたしと向かい合わせ正面。
場面は業者とこの人との電話やりとりにて。
60's後輩 「うん、ええはい。それでその中に乳飲み子がおりましてね。」
一瞬、わたしとユウコさんのなんか書いてた手が止まる。

ちのみご、て。

後輩は、その家族の中にバブーいくらちゃんのような小さなお子様が居るのでこの料金はどうなるのかと訊いていただけだったのだが、爆笑するわたしたちに眼が点で「え?え?わたしなんか変な事いいました?」というあたかも己が尋常であるが如し問い掛けにわたしたちは遐くを見るしかないのだった。

となるとすると乳飲み子シートか。(チャイルドシートね。

「わたしの珈琲」

江國香織の詩で「真実」という詩がある。

  朝、一人でのむコーヒー
  雨の日は雨の日の味がする
  曇りの日は曇りの日の味がする
  晴れた日は晴れた日の味がする

  あの一杯のコーヒーのためだけに
  生きているような気がする



わたしは珈琲派。紅茶は水道水で入れたのは飲めないから殆ど飲まなくなった。ツーという程ではないが、インスタント珈琲は飲めないね。それはわたしにとって珈琲飴とか珈琲ゼリーとか珈琲牛乳とかと同類で、満たされなくてね。

朝、必ず熱い珈琲を飲む。これはわたしのガソリン。飲まないと力が出ない。そして幸福のバロメーター。美味しいと思える日と思えない日があって、美味しいと思えたら無条件にその瞬間はしあわせ。欠かせない飲み物。

「シンプル イズ ビューティー」

最近、柄にもなく二回ほど林檎ケーキなるものを焼いてみた。お菓子作りなど、そんな面倒臭い事をわざわざするよりも買った方が美味しいし安い気がせんでもなく。でも作り方が本に載っているのを見て、これなら直ぐに出来そうだなと。

それがなんというか必要以上にシンプルテイスト。殆どが林檎の甘さで他は甘くない。だが思ったより割と好評だった事におどろき。あまりにシンプル過ぎて色々と頭に浮かぶ。蜂蜜をかけた方が美味しいとか、他の果物ではどうかとか。二回目、作って食べてみた所、今日はもっと足りないもの、或いは付け足した方がいいものが明確に浮かんだ。

Simple is best.そう言い切れない好みがわたしにはある。混沌とした煌めきにも惹かれる。混在する原色にも惹かれる。けれど素となるものをよく識っていなければ構築出来ないものがある。イメージも、シンプルを識ってから拡がる。

「権能」

多面体の一面の合致。心酔するような共鳴を聴く。全く異質の世界への導き。新しい宇宙を見つけたような気持ちになる。

素敵な言葉に触れるとこころの核で音が響る。まるで恋をするように胸がときめいたりもする。其々の場面、其々の感情に乱反射する。そんな権能を持つ言葉。

齎す変化、革命の始まり。窖で眠りこけた、まるで其処に無いとさえ思うものを曳き出す事が出来る。そんな権能を持つひと。

「世界を映すその眼は宝石か」

同じものを見ていても、一人一人見えている様は違う。眼球が映すものを判断する脳に其々のフィルターがあるから。一見して奇麗な人と思っても何となく好きになれない人が居たとして、それからはそのフィルターを通してその人が見えるので、あんまり奇麗でもないかと感じるようになる気がする。勿論、その逆もあり。そのままを映す眼というものをひとは感じ、思った瞬間に失うのだろう。

出来るだけ視界を曇らせないよう、こころを平穏に、清浄にしていたいものです。

「揺れる球体」

ああ、そうだな。

今気に入っているACIDMANの同題の歌を聴いていて思う。あれから日々は流れ、わたしも何時母になってもおかしくない歳になっている。生へのノスタルジア。何時までもとりついて離れなかった消滅への願望は根強い。それもただの驕えであり、護って貰っているという内側でしか懐き得ない妄想。

「命」という柳美里原作の映画で、「子供が出来たら死ねないのよ。」という台詞があって、それはそうかも知れないと思った。今、子供は居ないけれど、ふとシュミレートした。身を呈してどうしても護らなければいけないものを手にした時から人は自分の為だけには死ねない。居なくなってはいけない。

もう、なにもかも遅過ぎる。そう、生きるしかない。

消える事を望んでいた頃よりたくさんのものを諦めて、たくさん背負うものが眼の前にある今だけれど、あらゆる人と関わってゆく日常の中で交わされていく会話やこころ、なんでもない時間となんでもなくない時間を飽きるほど繰り返してゆく。それが時折、笑えるほどいとおしくなるから。

止めるには遅すぎるようだ
青く澄み過ぎてる空

「発光する魂と解体を始める記憶」

大阪へ向かう途中、バスの中から神戸の街並が見えた。
また懐かしい、と感じた。

神戸という街に縁を感じている。理由は、無い。
訪れた事がなかった時からなんとなく親近感を覚えていた。
以前、勤めた会社の本社が在る。それは神戸にあったから選んだわけじゃなくて。
その頃、見つけた恋人とも初めに訪れた。
モザイクの夕暮れ。これからも、という告白を今も憶えている。
だからというわけじゃない。
神戸の街に懐かしさを感じる。自分の記憶のもっと奥の方で。

(帰りたい…。)

その時、こころの中でそう呟いたのはわたしではない。
わたしには此処に帰りたい理由が、無い。
それが誰の呟きなのかは知っていた。
遺伝子がはこぶもの。
それは血統や容姿だけではないという事をご存知だろうか。
人が形成される中と外以外のもの、それは記憶。
デジャヴと思われるものの正体かも知れないし、そうじゃないかも知れない。

今の日本通運よりも大きな運送会社だったという祖父の実家。それが神戸にある。
大金持ちのぼっちゃんだったという祖父は生前までわたしにとって粋で上品な人で。
けれど、様々な出来事があり会社は潰されてしまった。
祖母と結婚してからは四国に移り住んだが、躰が弱く満足に働けなかったらしい。
母は、幼い頃から今では想像も出来ないくらい笑えるほど貧乏だったと冗談雑じりにわたしに話した。でも母の兄弟は集まれば口々に言う。
「それでも今と同じくらい幸せだったよ。」と。

何の苦労もした事のなかった祖父にとって、それからの人生はどのようなものだっただろう。貧しくとも大家族に恵まれ幸福ではなかったか。

(帰りたい…。)

わたしはその時、知った気がした。
祖父は帰りたかったのだろう。
自分が生まれ、一番良い時期を過ごしたこの神戸にずっと帰りたかったのだろう。




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