「大阪彷徨」

最近、心身共に気分よくないんだけど、地球船主催パネル展を見に大阪へ行った出来事だけは記さねばなるまい。

前日、会社の後輩やユウコさんや家族に、「絶対帰って来れんて。」とか、
「それやのにハービスからなんて無茶しますな。」とか、
「知らない大阪人に話し掛けて来られたら、『ワタシ、ツッコミ、デキマセーン』と言うように」等、散散な言われようでたこやき王国へ旅立ちました。
知り合ってから割と長めのネッ友、聡美。電話で話したり葉書や写真でお互いの顔は知っていても会うのは今日が初めて。ちょっぴりドキドキ。

そして13:15、王国へ到着。まずわたしはその都会の街並に思いました。

ワタシ、ヒトゴミ、キライデース。

それも仕方ない。だって此処はたこやき王国だもの。取り合えずなんか食わせろ、とわたしはなんかよく分からない店でカレー巻き巻き(インド料理だったが名前忘れた)とコーヒーをいただく。ささっと済ませて寝屋川へ行く事にして、梅田駅に再び。

で、此処は何処だ?

なによりも素早く迷うこの性質。我ながら見事です。つか、梅田駅の中で迷うってどうよ。大阪 怖い 大阪 怖い。聡美には14:00頃着くよ〜とメルしてあったのでそれ前後には到着したいという抱負をいだきつつ、歩きまくる歩きまくる。無駄に迷った挙句、なんとか京橋へは辿り着けた。

で、此処は何処だ?

また駅の中で迷いました。大阪 怖い 大阪 怖い。
ああそうさ、田舎者さ。約2時間迷いまくった挙句の決断。色んな部分で開き直ってタクシーで寝屋川まで行く事にします。タクシーの中から見る王国。ごく普通に歩いているあのおばあちゃんやあの子供もみんなみんなDNAにボケとツッコミが組み込まれているのだね。そしてよ!う!や!く!寝屋川市駅に到着〜♪辿り着けただけで嗚呼涙が。初対面だったけどやはり聡美は聡美だった。辿り着くのに(勝手に)苦労したけど、そんなのは顔を見てふっとんだ。

さて、パネル展。聡美のサイトでなんとなくは見ていた実態。けれどやはりこうやって見ると改めて痛覚が。こうやって確認するのは大切な事。一番わたし的にショッキングだったのは保健所で殺される子猫の写真で、その小さな躯をまるで絨毯のように並べられ、始末されていた。

どうなのだろう?生きるという厳しい現実に晒され、生き地獄を味わうくらいなら、こうやって殺された方がましなの?動物達は生きたいという意思以外持っていない筈で。わたしたちはそれこそ彼らの「運」というものを握る存在なわけで。わたしが語るのはただの感情論なだけで、知識すらたぶんかなり足りない。でも、ささやかでもやらないよりはいい。出来る事をやっていく事が大切なんだとわたしは思う。大切に出来るものがもっとある。何事も感じる、という事から始まるのだと思う。

一通り見て、聡美とまぎさんと少し話す。まるで懐かしい友達に会うような感覚でプティオフ会と化す。聡美も言っていたように、「ああ、こういうのがいい」とわたしも感じていた。現実で対面するとまるきり別人な、あんた誰?的なネット人が氾濫する中で『ネットでの人格は虚像である』というトラウマが一つ消えた気がした。本当は「此処から先は入って来ないで、所詮はネットなんだから」という境界線なんぞ引きたくない。そのまま、という事がそれまで当然ではなかった分とても貴重に思えた。

帰る際、来訪者リストに或る人の名前を見つけ、たまらなく嬉しくなってニヤリ。
直接お礼を言いたかったけれどその術がないので此処でありがとう。ホントにありがとう。文字の果てに有る存在に触れられた、そんなあたたかい気持ちの日曜でした。帰途、また迷ったけどね。

「愛して くれてる あなたが 決めるの?」

わたしは本質に忠実であろうとし、その人は理性に忠実であろうとする。わたしたちは互いのその部分を時々褒め合い、時々蔑む。どうしても頑丈にしなければならなかった殻。合わせる事が出来ても、結局は心に入れる事が出来ない。生きてきた道がそういうあなたを作ってしまったのね。可哀想なひと、と思う。それと同じものが自分にもあると知っていながら。

大切に積み重ねたものも、言葉ひとつで簡単に崩せるもの。何時もわたしからなにかを壊そうとするのは、それでも崩せないものが此処にあると今更教えてもらいたいだけ。覚悟もないのに、とか、無駄な、とその度呆れているけれど、わたしはあなたほど大人ではないんです。

時々どうしようもない愛しさを感じさせてくれて、時々どうしようもない孤独を感じさせてくれる。何年経ってもどんな関係になっても、境界線を引き続けるわたしたち。酷似していて、全くの異質。誰よりもたぶん深く解り合えて、誰よりもたぶん激しく憎み合える。それはわたしたちがわたしたち以外のなにものにもなれないからなのね。

「A LIVE」

誰かのせいにして生きても、自分のせいにして生きても、未来には星ひとつ見えない。戻れる場所など無い。過去に赦しを乞う必要はなく、其処に生きることで、誰の赦しを乞う必要もない。

「一つの言葉」

何も聴かないようにした。何も見ないようにした。何も受け入れないようにした。先へ往く為にわざと塞いだ過去。戻れなくするように道や縁を叩き壊してきた自分の不器用さに笑える。

約束も一言で翻される。絆は消えなくても何時か忘れる。全て、記憶の彼方へ消えてゆく。けれど何時かまた思い出す。この先で立ち止まった時に、自ら止めた時間の狭間で止まった言葉を。

それはきっと蹲った自分に手を差し伸べてくれる。言い忘れた一つの言葉を浮き彫りにして。その時、何ひとつ無駄ではなかったと思えるはず。

「根拠の無い自信こそ無敵だ」

4つ下の妹。この人は何時も、誰も何も言っていないのに「可愛いから許す(自分を)」で世の中を渡り切ろうとする。本気で自分を可愛いと思っている面白い人。このアホアホマンに匹敵する妹が北朝鮮を憂うという珍しく賢い話題をふってきた。

妹「あーホントに北朝鮮なんかに生まれんでよかったなー。だって此処に住んどったらちっちゃい頃からおかしなダンスを教え込まされたりしてなんか大変そう」


あなた既に ほほえみぐみ に入る気ですね?


勝手におかしなダンスでもなんでも踊って、敵のHPを吸い取ったりしてください。

「アザヤカナミライ」

教えられずとも形を成し、緑は葉を広げる。花は開落を繰り返す。そんないつもの同じ景色の中で別の景色を探した。夜に死んで、朝、生まれる。そんな幾度もの死を繰り返して。白い空白を埋められず、過去にあるものでそれを飾るものを探した。

「見るべきものがある?」

事も無げに「この先、」と語る無邪気な意味を憎んだ。この先…?この先、なんて本当にあるのかな。密かにリセットボタンをいつも握り締めていた。

精神が仮死する。紙一重で狂い出す世界への畏れは何時もこの胸にあり。かけがえのないものの喪失や、まるで当たり前のように在る領域が崩壊してゆく。睫毛の先から朽ちゆく昏い未来を既に知るからこそ。何時まで何処までわたしは進めるのか。

過去と現在や至福の重さ、様々な事柄、比べるのはやめよう。信じるものがある。微笑える。何時か、今度はわたしがあなたの背中を押せる強さを。

「I MUST LOVE」

運命というものに繋がれた四肢を自覚し呼吸しよう。この先、わたしは信じよう。なにかを信じる自分を。そしてあなたに語ろう。「鮮やかな未来」を。

「俄かですけど」




























男ですねえ、星野監督。暴れん坊だった中日時代から、野球は解らなくてもこの人だけは好きだった。感動やね。此処まで見守ってきた阪神ヴァカのわたしの家族の熱さにつられて何時の間にかわたしも熱く応援しておりましたな。

阪神最高。ダイエー戦もよろしく。

「死への速さのように」

送別会だった。今年から格下げされ、大分から帰って来た前々支店長の。

かつて部下だった、自分より幾年も若い今の支店長に怒鳴られている様子をわたしたちは見ないように聴こえないようにしているしかなかった。やさしいひとだけど、いい加減で物事を甘く見過ぎる傾向あり。何時しか誰しもなく呟いた「自業自得」。でも確かに痛かったよ。そんなあなたの姿を見るのは。

今の支店長は機械のような人。替わりなど幾らでも居ると言う。時代が選んだような人だ。実力主義。弱肉強食。今更の事。でもみんながみんなそんなに強くはない。けれど世代は変わる。時代は着実に変わってきている。まるで死へ加速するように。

やさしさだけでは生きていけない世の中が完成しつつある。個々、生き延びる事への大義。みんな自分の家族を守る事で精一杯。掃き棄てられたやさしさの残骸。意味も成さず甘さという言葉にすり替えられて。

それならその歪は何処へゆくのか。後戻り出来ない道に佇んで、痛みすら感じなくなって。強く在るというのはそういう事なんだろうか?今、無性にあなたの答えを訊きたい。

その世界を棄てるか、その世界に生きるか。棄てたくてもわたしは既にその選択肢を持っていない。道はもう一本しかない。のどは切り取られ、脱落者への鎮魂歌も忘れてしまった。だからわたしがそうなる時は、誰も歌ってくれなくていい。

お元気で。わたしを雇ってくれたひと。

「丸いもの」

我が頁のコンテンツのRINGをUNIONとしている所をよく見かけるのでUNIONという意味を明確にしたくなって辞書で調べました。(単語の暗記を学生時に怠るとこのような時に後悔するとかしないとか)わたしは以前よりどうも同盟とか団結とかいう言葉が苦手で、意味を調べた上でRINGのままでいいと思った。

其処に存在する機微。捉えようとしているのは「UNION」という意味の中には無い。繋ぐものや共振は欲しいけれど、団体という言葉はどう考えても要らないな。個体として存在したいし。でも「同盟」の存在自体を批判しているわけではないんです。わたしが厭だなーと感じるそれだけですから、やりたい方はどうぞご勝手に。

意識せずとも意識を持つ。ふと感じるここちよい振動のようなもの。そして視野の円か。わたしは環を愛す。

「死んでもいいと思えるほどの景色」

5、6年の時の小学校の担任の先生は新米の熱中時代だった。わたしたちはその先生が大好きで、憎まれ口を叩きながらも先生の色んな其々の断片をこの年になっても強く憶えている。その先生が話していた「死んでもいいと思えるほど綺麗な景色」の話を、何故か憶えている。朝、学校に来る時に先生は車から見たらしい。生まれてきてから今までで最高に美しい景色を。それはまるで誂えたように自分の眼の前で時間と共にゆっくりと展がり完成したという。

「それを見て、もう死んでもいいと思ったね」と興奮気味に話しているのをわたしたちは「は?」という顔でたぶん聴いていた。その頃はまだ人間の本質近くで居たわたしたちにはきっと「死んでもいい」というほどの価値など何処にも無く、死ぬなんてそんなおそろしい事と引き換えに出来る物質以外のものへのそんな感覚など想像も出来なかったのだろう。

それをわたしは見た。たぶん、この感覚だ。

淡い色。やさしい色。どんなに価値有る水彩画よりもノーブルに混ざり合った。それを映した川面は乳白色に似た白銀を風に沿い流している。色彩の配色が神がかっている。言葉になど出来ないな。そもそもこの光景に言葉などあまりに陳腐で。なにもかもが輝いている。見慣れた景色すら今まで見た事もないと思わせる。

夕暮れ。あと少し宵闇が翳を連れてくれば別のものになるだろう。今、この時にしか存在しない最高の情景を固唾を飲んで見つめる。何を持ってしてもあらわせはしない、この輝き。何かが起こるのか。もしかすると、わたしは死んでしまうのかも。あまりのうつくしさを目撃してしまった、怖れに似たある種の異様さすらその時、感じたのだ。

感覚は掴めた気がする。でもわたしは死んでもいいとは思わなかった。感動が与えてくれる涙が、ひとしきり心を濡らし精神をゼロへ還したとしても、死んでもいいと思う瞬間に出逢う事はない。けれどそれより心で涙を流していたい。一瞬の至福に殺される美学、それよりも数え切れない感動を死ぬまで憶えていきたい。




<-- 往 / / -->