「爽やかテイスティ」

男性に対する女々しい、と言う言葉はそれほど悪い意味ではないような気がする。それよりもわたしが最もいやだなーって思うのは「女の腐ったような」で、それを遺憾無く発揮されるとどうしても傷付けたくなる。

どういうのを指すのかといえばそれはわたしの基準でしかないけれど、最近的確に代弁してくれている報道を見たなあ。マライアキャリーがエミネムに対して言った、「彼との喧嘩はまるで女同士のいがみあいみたいだったわ。」

マライア、その言葉すごくよく解る。

「其処に映るもの」

わたしがもう少しヤングだった頃、写真を撮らせて欲しいと何度か頼まれた事があった。物好きな。わたしなど撮ってどうするというのだ。つーかきみ、なにに使うか明確に告げよ。怪訝な貌をしてわたしは断り続けていた。それがなぜ何枚も何度もそれを許す気になったのかは憶えていない。わたしは恋人ではない二人の男性に了解した。

一人は何枚も、それはもう何枚も、色んな場所へ連れて行き、色んなポーズをさせてわたしを撮った。そして現像した大半の写真を気に入らないと彼は棄て、気に入った写真だけを大切に写真立てに飾っていた。わたしもその選ばれた数少ない写真が嫌いではなかった。でもわたしは撮られるのがとっくに厭になっていた。

もう一人は思わぬ瞬間にいきなりカメラを向けて撮る事が好きだった。わたしはこういう撮られ方が嫌いだった。やめてと言うと、じゃあ笑ってと言う。面白くないのに笑えないと返すわたしに、普通にしてていいからと笑った。撮ってもらった数枚の写真を見てわたしはなんて下手なんだと責めた。全部棄てろと言うと彼は怒って全部の写真をそのまま抱え込んだ。わたしは撮られるのがもっと厭になっていた。

綺麗に撮られる事だけを意識した写真と笑った瞬間ばかりの写真。彼らが求めていたものが映り込んだ写真。今のわたしの手元には勿論一枚も無い。

「一本の煙草」

一本の煙草を手にとる自分に、意志の脆弱さをひとつ知る。
これの毒はもうわたしにとって躯に入ってくる異物でなくなっているのが哀しい。

一本の煙草に火を点ける自分を、ひとつ嫌いになる。
摂取した分だけ覚醒に妨げられる睡りを知りながら。
夜の精神が密かに狂い始めるのを知りながら。

泥水が足まで沁みているのは、自分が作った水溜りに嵌ったから。
泥まみれのままで、今度は自分が好きになれる何かをまた作ろう。

「モノクロームの至福、原色の奈落」

この日を毎年、最愛の人の誕生日と呼んでいた。
けれど今まで一度もこの日を傍で祝える事はなかった。

性格的にそんなに目移りしない。
サイトの表紙はよく変えるけどね。
あまり惚れ易い方でもない。
長く続くだろう事とそうじゃない事が時が経つほど剥がれるから。
だからずっと好きでいられるという奇蹟みたいな事実に意味があった。
その人の気持ちが何処にあっても。
離れていても密かにお祝いした。
生きていてくれてありがとう。生まれてきてくれてありがとう。
それがわたしのものじゃなくてもありがとう。

今年からはやめるわ。来年はきっと思い出さない。
今もお互い一人きりで居たならば、何時までもあなたを勝手に好きでいたことでしょうけど。

「世界で一番短いうた」

金八先生の最終回で金八先生が、(最終回しか見ていないのに引用しようという暴挙)名前は両親が付けたこの世で一番短い「うた」なのだと語っておられたのが強く記憶に残っている。わたしは両親に何故その名を付けたのか聞いてみたところ、

「空から降りてきた」 ‥きみらはガクトか。

名前を付ける精神というもの、其処に忍ばせた希いの憧憬。
昭和の時代、両親がまだ若かった頃をふと想像しながら、この一番短いうたを時々解体し、愛でてあげるのです。

「アヴァウトなわたしの顧客」

わたしは内勤事務で主に交渉、打ち合わせ、流れの最終チェックをしています。O型って血液型の特徴を知っていますか。色々あると思いますが何よりも強く出ているのは『アヴァウト』。何せ小学生の通信簿で『几帳面』と書かれた事がありません。絶対にミスの許されない位置で日々辛い思いをしています。A型じゃなかったばっかりに。

当たり前かも知れませんが顧客ってその人によって特色が分かれるものですね。
ユウコさんは当り障りなく平和主義な聞き上手なので、主にビジネスマンや話し好きなおじさんおばさんと同い年くらいのお友達顧客が多いようです。

以前に紹介したふるき善き時代を彷彿とさせるビンテージ後輩はやはりお年寄りに人気。大阪で生まれた女でもないのにボケとツッコミを完全に習得しているこの人はよく顧客ともその掛け合いをやっていらっしゃる。手土産にチオビタとか貰っていたりしてそれはもうお年寄りのカリスマです。

わたしの顧客の方々は何というのでしょうか。一言で言うと怒らせると怖い方ばかりで。「お前の会社、其処で居られなくしちゃうぞ♪」とか平気で言います。少しのミスも許されない業務で、こんなにおとろしい人々に指名されるなんてしあわせ。思わず硬直します。おとろしいと言ってもその殆どはNT●の偉い方とか、なんかの会長とか経営者とかそういう人が多いのですが。クレーム処理は責任者の仕事なんだけど、不在時に電話に出てそれから仲良くなるパターンが多かった所以でしょうな。

面倒な人達かも知れない。実際の娘のように孫のように、とても大事にして下さる。或る程度は大目に見てくれるという信頼。とてもいい人たちなんです。わたしの顧客最高、と密かに思っています。

「饒舌気味な傷痕」

饒舌というほどでもない。
どうにもならないような閉ざされた現実を前にしては厭でも上を向くしかない。
だが、そこから解放され脳が暇になれば余計な所に気が行く。とっくに痛くもない傷痕を見つめ直し、痛かった時を思い出したりして。過去という記憶の中にしか存在しないものは変えようがない。変えようのないものの中で繰り返す。まるきりそれは不毛の行為のようにわたしはきっと今まで同じ傷痕をなぞっていたに違いない。

知らない間に鮮明だったものが薄れ、海馬の昏い引き出しにしまわれてゆくものが多くなってきたこの頃で、忘れて行くという事を受け入れながらも、痛みを未だ感じている。傷、を語るにはもう通り過ぎてしまった。それはきっとわたしの生や笑顔を願ってくれる人たちが居たからこそ。わたしが自分以外に見ていたものはそんなに多くなかった。でもその稀少な存在こそが視線の先を少しずつ変えてくれたりした。

傷に固執し、見つめていれば全ては痛みの世界に。
自分の中の何処を見つめるか。その周りの何を見つめるか。
映すものの限られた眼中の枠、何を被写体に選ぶか。
それを見つめたままで、何を見ないでいるか、省くか。
それらが構成していく「自分」。
それを愛する事が出来るか。
誰のものでもない、自分のこれからの世界について。
傷痕から芽吹くあたらしい花の色などについて。

「真昼の月」

代償の重さを思えば容易く口には出来ない真実があり、けれど密かに望み続けた紛れもない再会が眼の前にあり、どんな記憶も塗り替えられなかった確かな想いが浮き彫りになる。覚悟は何時でも。それが自分にとって事実ならば全てを棄てられる。だから見極める必要があった。本当に望んだのは再開と終焉、どちらだったか。未来を閉ざす再開。未来へ進む終焉と。

思い込みなく確かめたかった。其処にあるもの此処にあるもの。変わったものと変わらないもの。過去のわたしがあれほど強く愛した存在は、今のわたしにはどう映るのか。その差異、それはたぶん現在のわたしと過去のわたしの距離。何よりもそれを確かめたかった。

喉元過ぎれば熱さを忘れるというか、長く触れなければその感触を忘れる。ありのままだと思っていたものが思い込みにより美化されてゆく。わたしは未だその人を求め繋がっていたかったからこそ確実に己に都合良く美化していた事だろう。わたし自身それを知っていて、けれど眼を逸らしていて。

変わっていない。この人は何も変わっていない。
いい加減さ。人の扱いの軽さ。守らない言葉の無意味さ。けれどどうしても信じてしまうわたしの浅はかさ。この人を好きでいる限り幸せにはなれないと幾つも忠告を受けた過去。それを何一つ聞かなかった。この人に罪という言葉は無い。無邪気で残酷なイノセントを嫌という程わたしは識っていた筈なのに。

あの時のわたしの中に刻んだ幾つかの理由を思い出していた。痛い部分を忘れかけていて、美しかった事ややさしかった事だけでこの人を記憶の中に再度組み立てようとしていた事も。

わたしはこの人を求めた。その全てを愛した。
「過去」に。

今、わたしが微笑えるのはこの人が居るからじゃない。
それが100%ではなかったとしても笑わせてくれたのはこの人じゃない。
照りつける陽射しを掌で遮って影を作ってくれたのはこの人じゃない。
砂のように乾いた心に絶えず水を注いでくれたのはこの人じゃない。
どんなわたしであってもずっと見ていてくれたのはこの人じゃない。
居なくなってしまうと困るのはこの人じゃない。
わたしを生かしたのはこの人じゃない。
大切なのはこの人じゃない。
この人じゃない。

太陽のように強い存在の残像を瞼が憶え続ける。今でも笑顔に翻弄される。今までもこれからもこれほど強く人を愛せる事はないだろうと感じさせられる。

全ての基準だった。
けれどわたしはこの人の為に泣けない。
わたしと似た真昼の空に浮かぶ月を掌の闇に閉じ込めてからそういう事実に気付く。

「死屍 BEAUTIFUL DEAD」

わたしは今もドライフラワーを飾る趣味が無い。
わたしが小学生で未だ母がオシャレな30代だった頃、美しい花束を何処かからいただく度に造られるそれが飾られていた記憶がある。わたしと母がドライフラワーについての認識が変わったのは何時だったか。或る時、誰かが言った事に変えられた。

──花はそれを幸せだと思えるでしょうか?
──私は悪趣味だと思います。だって花の死体を飾っているんですからね。

花が幸せかどうかなんて分からない。けれどそれがある視点からは悪趣味に見えるというのは解る。わたしと母はその人の視点から見たものに頷いた。

彩を失っても原型は然程壊れず、風化への限界まで花であった事を示すようにそこにある花の死屍。触れるとかさり、という音を立てて崩れる花びらをよく悪戯に握り散らした。

花であった事。塵となる事。わたしが死んで、もしミイラになった躯を生前と同じ場所に飾られていたとしたら哀しいだろうか、嬉しいだろうか。わたしという生命が消えてしまってもこの存在へ執着してくれる人が、もしかしたら愛しいとさえ感じるかも知れない。けれどだんだんと剥がれ落ち、軅て塵となり、棄てられる。それならば生きた時だけを記憶して好きな時に好きなように思い出して欲しいと思う。どれほど記憶が曖昧で不確かなものでも、一度憶えたものはたぶん切れ端くらいは残るだろうから。

わたしが花ならば、醜くとも凋れ尽くし頸が落ちるまで生きたい。
生と死では断然、生の方が美しいと信じるからこそ。

「環」

其処に入れて貰いたいと希い求める環と、其処から逸脱したいと思う環。
頭で考えるより先に決定づけるのは最終的には感覚、だろうか。

其処に立ち並べるには何が足りないかと考える。
其処に入れてくれるな、と拒否反応を示す。

同じラインという立ち位置に感覚が見るもの。所謂、尊敬と侮蔑。

「KYOTO」

今行きたい。初秋頃はもう行ったから今のこの季に是非。
暑いのはわかってるさ。でも今の京都はたぶん詩的に素敵。
去年から狙ってた。勝手に攻めてしまいそうな勢い。バスで2〜3時間。
短い煌めきの潜む朱夏。夏が夏であるうちに。




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