「四季を歩く」

今日は自宅に明るいうちに帰れたので、夕食を作って待ってくれている実家まで歩いて行きたい気分だった。

毎日、移動は原チャーリ一路。会社内でじたばたしている以外は歩く事など殆ど無い。躯がなまって挙句弱る腐る。防腐剤投与の一歩手前で。だいたい徒歩20分くらいの距離を散歩気分で歩く。

てちてち。てちてち。

普段は眼にも止まらない速度で景色をただ流し、会社自宅の往復。何の為に生きてんだとたまにふてくされてみても眼の前のものは何も変わらず。

嗚呼、でも。景色がこんなにあざやかなものだという事を忘れてた。蓮の莟の膨らむ季節。紫陽花がピンク色をしている。名も知らぬ花が咲いている。イマという季節を何も疑わず。哀しまず。無慮数万の美しさの中に生きている事を思い出した。

「千歳の言霊」

人生の中でたった一人への永い想い。
其処までひとを好きになった事がないという人を見ては幸せだとも思う。また可哀相とも思う。
やはり一度、殺される必要があるのだ。十歳の時流に途切れず死に切れずにいた恋慕を。
罪の無いあの眼で見つめられてから、隔てた時に砂となったものをひとつひとつ教えてもらわねばならない。焼けた奈落の底を舐めるようにしてそれを知り尽くさねばならない。永き想いを饒舌に語ろうとする唇を封じなければならない。

そうしなければそのうちわたしはなにもかもを壊す。なにもかもを一色で塗り潰す。また、自分を失う。倫理、道徳、掟、そんなもの何の効力も持たない。例えば、全てを失くしてもという強烈な欲望の前で、人間のこころは哀しいほど脆く愚かで、そしてなんと自由なのだろうか。


「よいこわるいこふつうのこ」

乾かない洗濯物を乾燥機に放り込んだら、街へ繰り出そう。久し振りに気晴らしがしたいから、どうでもいい誘いに一応乗ってみる。

わたしにはイイ友達とワルイ友達が居る。此処での良し悪しの基準は勿論「世間のいうところの」。昔、母親に両極端だと笑われても、わたしにしてみればどっちもどっち。その両極にわたしという人間は映っている。どちらかに染まり切る事も、切り捨てる事もなく。

噫、けれど、
模範解答にドロップキックを食らわしたい。
チャラチャラした小僧に小一時間ほど説教したい。

時々、交錯するようである。

「美しき日々」

止まってしまった時間の切り口に佇んで、死ぬまでの永遠を生きることも出来る。
やがて記憶は形を変え、原型すら無くしてゆくのに輝きは増すばかりで、現在さえ見失わせてゆく。
新しいことを憶えるのをやめてしまった海馬は、たったひとつの記憶を温め続ける。
置き去りにされた海鳥のように、迎えに来てくれる誰かを待っている。
わたしはもうそこには居ないのに。あなたは其処には居ないのに。
そこに居たわたしはもうわたしじゃない。わたしは此処に居る。
そうやって誰もが変わってゆく。置いてゆく。
続いてゆくことを何よりも大切にしながら。

「欠片」

色んなもので埋めたと思っても、
カケラが擦り減るのか隙間が大きくなるのか、
時間が経てばまた空洞となるその部分。
充たされたと思うのは瞬間。余韻でしかない。
どうしても埋まらない隙間がある。
どんなカケラを埋め合わせても埋まる事はない。
方法すらもう解らず欠けたまま生きている。
言いようの無い空漠とした感覚に、そういうものだと言い聞かせる。
獣を飼い慣らすかのように。
それでもずっと探してゆく。空洞のこころを埋められる欠片を。
この世界から見えなくなった貴女も未だ探している事だろう。


「会話」

特に話し好きでも話し嫌いでもないわたしが一対一で会話をしていて、本当に心地好いなと感じる事は少ないような気がする。そこには空気というものがあり、それをどれだけ二人が大切に思い、共有しようとするかによって会話が終わる時の意義は違ってくる。

愉しい、と感じるのは果たして平等か。感じるのではなく、感じさせて貰っているのではないか。

「空白の瞬間の扉」

夢を見ました。酷く懐かしくいとおしい。亡くしたひとの夢を見ました。髪の色まで鮮明に色付いた夢。過去の記述を編集していたせいですね。きっと。

何一つ忘れてはいないけれど思い出す瞬間はどんどん少なくなっている。それを否めない。そういう罪悪が囁いた声だったのだしょうか。
「わたしが居た事をわすれないでね」彼女は最後にそう言って微笑みました。
目覚めて泣きました。久し振りの涙に咽喉と胸の奥がとても熱かった。

なにも変わらない。なにも変わらないでいる。けれど変わってゆく。あの時のままの記憶を擁き続けながら今を生きるわたしに、空白がどんどん拡がってゆく。時折、自分の海馬の中にあるその扉をそっと叩いてみる。血を吐くような慟哭を伴うでもなく、まるで羽毛に触れる手前のあの柔らかな感触をその記憶に感じ取るように。

今でもあたため続けるのはあなたを亡くした、という現実ではなく、あなたが生きていた、という事。それに救われている。忘れるはずもないよ。

「わたしの言葉は酷く感覚的で人を傷付けるから」

題名はレベッカの歌詞なんです。

最初の頃に書いてた日記を編集してました。
自分で言うのもナンですが猛烈につっぱしった軌跡が痛い系。凄く頑張ってた頃の自分にこんな事言うのはどうも平和ボケしてるのか根性が腐ってきてるのかどうなのか。
このロックな生き様を見ろとばかりに過去のわたしが熱く語っている。文章全てに感嘆符を打ちつけたかった。そして全ての文章の後に付け加えたかった。

もうやってられねえっす。

でも本当に呟いてしまったら其処で全てが終りのような気がして、あの頃はそのまま武士道を窮めてゆくしかなかった。

詩ーを書く人種であるからには言葉には気をつけねばならなかった。
でもわたし、基本的に鋭利みたいなんです。言葉が。
頭より先にこころで書くから(はーと)
そんな頃によく「難しい漢字を知ってますね」とかゆわれ、漢字検定のまこっちゃんとして名高いわたしだったのですが、氣志團をこのあいだまで正々堂々と「きしけん」と呼んでいたのはやっぱり内緒にしときます。

そういえばネットでも男に言われた事がありましたっけ。「言葉が剛速球だよね」
わたしはすぐさま、受け取るおまえの度量の問題だろうと考えました。
言葉の上っ面だけで美しい理想を象りながら、中身はなんてステキにグロテスク。
そういうおまえよりましではないかしらと思っています。今でも。
人格の一角しか垣間見せる事がないこのネットで。

何に拘っていたのか。その中に何を見いだしていたのか。
何が大切だと思いこんでいただろう。何が本当に大切だっただろう。
此処に有るわたしの一角。再融合を見極めるなら何れはこう考えると知っていた。
わたしが「わたしである」と決めるのはわたしでしかないんだ。

もうやってられねえっす。

「ルーシー・イン・ザ・スカイ」

ネット上に存在するならば覚悟せねばなりません。傍観の淘汰など不完全過ぎると。
しかしながらなにより必要なのはわたしが思い切る、という事のようです。
思い切りました。早。

始まりの空と墜ちた大地。わたしはわたしのまま、でもそれぞれ違う軌跡があります。
空白のあいだに居た大地では色々な愉しみの中、色々なものが知らぬ間に絡みつき、またそれを棄てたつもりでいました。其処に居たわたしは其処に居た人たちに愛されていたかも知れない。けれど、それも度を超すとえらいことになったりします。
そうやってわたしは人知れず水面下で苦痛を噛んでいた事も多かったのです。

あれからわたしは色々な人と出会ったのかも知れないけど、あの頃あの場所に集まっていた人たちのような原色の魂には出会えなかった。だからわたしはずっと憶えていた。みんなの事。

苦しい事が次々に降って来て、こころをいつも尖らせていないと立ってもいられなかったあの頃。そんなわたしを拾ってくれた場所でした。でも、現実でのそうした傷みをネットで排出しようとしていたわたしは一人朱い眼をして、尖った言葉や極端な否定で優しい人に噛み付きました。

頑張ったって何も変わらない現実。そういう強い思い込みのようなものが自分の中に必要な時期でした。

今だったら理解出来る言葉だらけです。
今だったら斜に構えず、受け容れられる情景です。

何でもいいからみんなの言葉が欲しいと思った事が何度あったかわかりません。でも、戻る事がないのだと知っていたから。わたしはずっとみんなに感謝し、貰った言葉を今更ながらに守りつつ、そうやってネット交流を続けました。

わたしは自分の痛みこそ訴えましたがあの時、他の痛みを解ろうとしなかったので、何とか解ろうとそれからは努力しました。大切なのは理解ではない。理解しようとするこころであると、自分に誓いのようなものを立てて。

自分の本当に苦しかった時期にネットで出逢った人たち。わたしは救われていました。その言葉の一つ一つに。
あれからのわたしを支えてくれていたのもあなたの言葉であり、みんなの言葉です。
わたしは多分そうやって憶えているのだと思います。

あの人たちに本当に伝えたかった事、でも最後まで伝えられなかった事。
簡単過ぎるその一言は言葉にはならず、今までずっとわたしにとり付いていました。

ありがとう。
伝えたかったのはただ、それだけでした。

「CRIME OF LOVE」

ある写真を見て、3年ぶりに帰って来たひとを思う。
同じ地で呼吸している。手を伸ばせば届く場所に居るのだと実感する。
その気になれば触れる事は出来る。けれど、それを掴む事は出来ない。
二人が何も変わらなかったふりをするには、余分なものが増え過ぎた。
全て変わってしまったふりをするには、嘘が多過ぎる。

せめては狭い街で、間違っても偶然などが無いように。
せめては狭い街で、貴方の光にあたらないように。
そうやって生きているという事。
毎日確認するように呼吸しているのだとしても。

一人のひとを想う十年はそれほど永くはなかった。
夢から醒める夢が見たいと思う。
この手をのばそうとしない間に。
十字を切った胸元で、終わらない愛の罪科を歎く。

「ホスピタリティ」

機械的な受け答えではなく、こころのこもったサービスを提供しよう!
その代わり、いただくものはがっぽり頂こう!
向かっていくのはそういう方向な感じな、サービスの見直し、質の向上が急に五月蝿く言われだしている昨今のジャパン経済。
今、わたしが務めている会社でも今年から本格的にそれを掲げるようになりました。でも、買わないお客を買う気にさせなければならない麗しの宝石業界に居て接客の大切さをちょびっと識るわたしにとっては何を今更、という感じです。少なくとも給料が安いからといってお客様に粗悪なサービスなどしていませんでした。えらい!

だってね、お客様にあたるのはおかどちがいなんてもんじゃないでしょう。
実際にわたしは眼をキラキラさせて嬉しそうに期待を語る方々を目の当たりにしてきたわけだし。限られた休みやはたまた老後のおたのしみ、決して多くない年金やお小遣いを使う。それは勿論、期待があっての事で。それをうちとこの会社のサービスを信用して選んで任せてくれるというのはどうあっても粗末に出来るわけがない。

ホスピタリティというのは簡単に言えば「提供するのは業務処理ではなく、こころ」という意味です。例えばそれはこういう事だという事です。会社から読んどけと配られた新聞の切り抜きの一場面にて。

自殺しようとして街を彷徨っていた時に一軒のファミレスに入りました。
そこで受けた店員さんのあたたかい笑顔に感動し、わたしは自殺をやめました。
ありがとさんです。このご恩、一生忘れるものか。


なっ!なななんと大袈裟な!
と呆れ笑いしてしまったのですが、基本はこれなんだなと再確認は出来ました。

誰もが寄りかかれるような確かなものを求めている。
でも人は個体であるから、別の個体が恒久的に完全に救う事など出来ない。けれどそのきっかけを作る事は出来る。たった一言、たったひとつの笑顔、それでその瞬間は救われる。その人にとってのそれからの糧となりうる。難しい事のようで簡単な事なんだと思います。

「黒点」

肌に薄いシミが出来たら殆ど手遅れの状態なのですが、もっと濃くなるのを放っておくか、もっと薄くするかはその発見した後のケア次第。一度表れた斑点は皮下で息を潜め、肌の権能が弱まる時等に表れる時を待っている。気を抜くとすぐに拡がりを見せ、領域を確保しようとする。

白肌を斑点が侵蝕してゆくように、小さな黒点が何時しか太陽をも覆い隠すように、治せるうちに治しておかなければ、癒されるうちに癒しておかなければ、こころもそうやって壊死へ向かいます。

せめては自分という像を憶えているうちに。希えるこころが有るうちに。
自分の存在は何処までも何時までも自分の責任ですので。

「接触の火花」

自分が欲しい言葉というものが明確に有る時は沈黙している。
他に求めてもそれはどうやったって別のものに違いない。
誰かに何らかの言葉を求めようと思う時、それはわたしにとって、
その人の言葉ならなんでもいい時。

正の要素に於いて存在を核が認識しているという事。
あまり色んな事に興味が持てない人間の抱擁しようとする稀少。
それが通り過ぎる風景に浮かぶ、個体という存在。
憶えるのではなく刻まれるかのように、
時間が経ったくらいではきっと褪せたりはしない。
己の内側で散り続けるその接触の火花の美しさを、
忘れようにも忘れられないから。

「永遠なんて一秒で決まる」

題名はイエローマンキーの歌詞なんです。

瞬きで落ちる恋。叶わないと知る瞬間に永遠となる約束。
物事の終わりと始まりに火花のような一閃。その一秒の永遠。
例えばわたしの十年来の不滅の恋。
思えばその始まりも一瞬だった。
「この人、すごく変」そんな一瞬。

落ちた後、勘違いではないか何度も確認してしまう。そんなはずはない。このわたくしがこんな些細な事で恋に落ちるなど。なあ自分。どうよ自分。

元ある顔面やスタイルなどに、というよりも瞬間の表情にぎゅぃんとなる。
その一瞬にこころを切り抜かれてしまう。
自分に向けられたなにか、というよりもふとした時のその人の仕草動作言動等を見て、或いはその人のなにかに深く触れたその一瞬に。

そういうのはかなり無いけどね。無さすぎるけどね。

「魂の眼」

魂の眼で観る。虚偽に翻弄されず、見極めるという事。
本物に触れ続けるという事は眼を養う事でもある。
それを養おうという事は短い生(いのち)の最中で、大切で幸福な事である。
時間の短さを思えばこそ。




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